謁見の間に響いた静かな問いかけは、湖面に投じられた一石のように、その場の空気を揺るがした。婚約破棄が成立したかを問う確認。それは、この断罪劇を締めくくるはずだった誰の言葉とも違う、異質な響きを持っていた。
「ヘンリー王子……!」
最初に我に返ったのは、ジュリアスだった。驚愕と隠しきれない苛立ちを声に滲ませて、彼は声の主を睨みつけた。
「なぜ貴殿が口を出す! これは我が国の内政問題だ。他国のあなたが口を挟むことではない!」
「隣国の王子……?」
「ヘンリー王子が、なぜ……」
ジュリアスの言葉で青年の正体を知り、それまで傍観に徹していた重臣たちの間に激しい動揺が走る。外交問題に発展しかねない、予期せぬ闖入者だった。
だが、ヘンリーはジュリアスの苛立ちなど意にも介さない。彼は学友である王太子を一瞥もせず、ただ困惑する臣下たちに向かって、優雅に一礼してみせた。その所作はどこまでも穏やかで、しかし誰もが逆らえぬ王族の気品に満ちている。
「ご存知ない方々のために。私は隣国より留学中のヘンリーと申します。どうぞ、お見知りおきを」
場の空気を完全に掌握したヘンリーは、穏やかな笑みを浮かべたまま、眼差しだけを氷のように凍らせた。断罪者たちを一人ずつ見据える。
「王太子殿下。同じ学舎で論を交わした仲として忠告しますが、あなたのその浅慮さには心底失望しました」
静かな、しかしよく通る声が響く。
「長年、貴国のためにその身を削ってこられた聖女を、憶測のみで『欠陥品』と罵り、公衆の面前で辱める。これが次期国王の裁定ですか。実に嘆かわしい」
次に、彼の視線がアニエスへと移る。恐怖に引きつる彼女に、ヘンリーは吐き捨てるように言った。
「そしてそちらのご令嬢。実の姉を陥れてまで手に入れたい地位とは、それほど魅力的なものですか。その浅ましさ、見ていて胸が悪くなります」
最後に、彼はガルニエ侯爵へと視線を向けた。まるで路傍の石でも見るかのような、何の感情もこもっていない眼差しだった。
「ご自身の娘がこれほどまでに追い詰められているというのに、父親として庇う言葉一つないとは。侯爵家では、ご令嬢は心をなくした道具か何かと見なされているのですか?」
彼の口調は穏やかで、激しいところは一つもない。だが淡々と事実を突きつける鋭さは、いかなる怒声よりも深く三人のプライドを切り裂いた。彼らは誰一人として有効な反論ができず、ただ屈辱に顔を歪ませるだけである。
ヘンリーは玉座の国王夫妻をちらりと見遣るが、わずかに首を振っただけで何も言わなかった。思うところはあるが、さすがに国王にまで厳しい言葉をかけるのは、問題になってしまう。
三人を沈黙させたヘンリーは、ゆっくりとマリアンヌへと向き直った。
そして騒然とする謁見の間の中心で、彼はマリアンヌの前に恭しく跪いた。その一連の動作は、計算され尽くしたかのようにエレガントで美しく、誰もが息を呑んだ。 それまでの理知的な表情はそのままに、彼の森を思わせる緑の瞳には、マリアンヌだけを映す熱烈な愛情と、深い敬意の光が燃え上がっていた。「マリアンヌ嬢。留学中、神殿で祈りを捧げるあなたの姿を、遠くから拝見しておりました。気高く、あまりにも痛ましい魂の輝きに、私は心を奪われました。ずっと、ずっとお慕いしておりました」
凍てついていたマリアンヌの心が、彼の熱に微かに震える。
(慕う……? この方が、私を?)
生まれてこの方、誰からも向けられたことのない感情に、戸惑う。
ヘンリーは言葉を続ける。
「このような形で想いを告げる非礼を、どうかお許しいただきたい。ですが、彼らがあなたを辱めるのを見て、我慢ならなかったのです。 この者たちがあなたを不要と言うのなら、この私が、あなたを奪うことをお許しください……!」
その言葉は、マリアンヌの心の奥深くに眠っていた、最後のひとかけらの願いを揺り覚ました。
魂からの叫びのように、願いは彼女を突き動かした。(ここから私を、連れ出して――!)
白手袋に包まれた手が、静かに目の前に差し出される。
この手を取れば、もう二度とこの国には戻れない。聖女として生きてきた過去も、すべて捨てることになるだろう。だがこのままここにいても、待っているのは虚無と絶望だけだ。 差し伸べられた手は、暗闇の底に差し込んだ、唯一の光のように見えた。 マリアンヌはほとんど無意識に、彼の手を取った。指が震えてしまったが、構わなかった。生きるための最後の蜘蛛の糸を掴むような、か細いけれど確かな決断。ヘンリーはマリアンヌの手を握り返す。焦がれて望んでいたものを手に入れた喜びと、二度と離さない決意を込めて。
そして静かに立ち上がると、愕然とするジュリアスたちに最終宣告を突きつけた。静かな口調だったが、有無を言わせぬ強さがあった。「マリアンヌ嬢は、我が国が賓客として正式にお迎えする。異論はありませんね?」
優しくも美しいエスコート。疲弊して身も心もすり減ってしまったマリアンヌは、縋るように歩いた。
一歩歩くたびに謁見の間が、辛くて苦しい場所が遠ざかる。追いかけてくる者は誰もいなかった。「……温かい」
繋がれた手から伝わる温もりに、マリアンヌは知らずに涙を一滴、こぼした。
穏やかで情熱的で、謎めいた隣国の王子。
彼に導かれた先で、一体どんな運命が彼女を待ち受けているのだろうか。今はまだ、何も分からない。謁見の間に響いた静かな問いかけは、湖面に投じられた一石のように、その場の空気を揺るがした。婚約破棄が成立したかを問う確認。それは、この断罪劇を締めくくるはずだった誰の言葉とも違う、異質な響きを持っていた。「ヘンリー王子……!」 最初に我に返ったのは、ジュリアスだった。驚愕と隠しきれない苛立ちを声に滲ませて、彼は声の主を睨みつけた。「なぜ貴殿が口を出す! これは我が国の内政問題だ。他国のあなたが口を挟むことではない!」「隣国の王子……?」「ヘンリー王子が、なぜ……」 ジュリアスの言葉で青年の正体を知り、それまで傍観に徹していた重臣たちの間に激しい動揺が走る。外交問題に発展しかねない、予期せぬ闖入者だった。 だが、ヘンリーはジュリアスの苛立ちなど意にも介さない。彼は学友である王太子を一瞥もせず、ただ困惑する臣下たちに向かって、優雅に一礼してみせた。その所作はどこまでも穏やかで、しかし誰もが逆らえぬ王族の気品に満ちている。「ご存知ない方々のために。私は隣国より留学中のヘンリーと申します。どうぞ、お見知りおきを」 場の空気を完全に掌握したヘンリーは、穏やかな笑みを浮かべたまま、眼差しだけを氷のように凍らせた。断罪者たちを一人ずつ見据える。「王太子殿下。同じ学舎で論を交わした仲として忠告しますが、あなたのその浅慮さには心底失望しました」 静かな、しかしよく通る声が響く。「長年、貴国のためにその身を削ってこられた聖女を、憶測のみで『欠陥品』と罵り、公衆の面前で辱める。これが次期国王の裁定ですか。実に嘆かわしい」 次に、彼の視線がアニエスへと移る。恐怖に引きつる彼女に、ヘンリーは吐き捨てるように言った。「そしてそちらのご令嬢。実の姉を陥れてまで手に入れたい地位とは、それほど魅力的なものですか。その浅ましさ、見ていて胸が悪くなります」 最後に、彼はガルニエ侯爵へと視線を向けた。まるで路傍の石でも見るかのような、何の感情もこもっていない眼差しだった。
ジュリアスの放った「偽りの聖女」という言葉が、刃となって謁見の間の空気を切り裂いた。 マリアンヌへの疑念はもはや確定された事実として、その場にいるすべての者に受け入れられたようだった。重臣たちは侮蔑と憐れみの入り混じった視線をマリアンヌに向け、王と王妃はただ冷ややかに玉座からこの茶番を見下ろしている。(偽り……) マリアンヌの心の中で、その言葉が木霊する。この身を削り、魂をすり減らして捧げてきた祈りの日々。そのすべてが、偽りだったと断じられたのだ。 この好機を、妹のアニエスが見逃すはずもなかった。 これまでの悲劇のヒロイン然とした仮面をかなぐり捨て、隠しきれない優越感に唇を歪ませながら一歩前に出た。その瞳は、もはや姉を憐れむ色さえ浮かべてはいなかった。勝者が敗者を見下ろす、残酷な喜びに満ちている。「ああ、お姉様……! やはり、こうなる運命でしたのね」 その声は蜜のように甘いが、明らかな毒を含んでいた。「傍流の、しがない伯爵家の血を引くお姉様には、聖女の務めは荷が重かったのですわ。この国の未来を護る大任は、本流たる侯爵家の血を受け継ぐわたくしこそが担うべきだったのです!」 それは、アニエスがずっと抱き続けてきた歪んだ渇望の叫びだった。聖女の血が母方に宿っているかもしれないとは、露ほども考えない。彼女にとって重要なのは、自分が本流で、姉が傍流であるという事実だけ。それこそが、自らの正当性を証明する唯一の根拠なのだ。 アニエスの勝利宣言に、場の空気は完全に固まった。皆の視線が、最後に残された裁定者――一家の長であるガルニエ侯爵へと注がれる。彼が娘を庇うのか、それとも見捨てるのか。マリアンヌの心の片隅に、針の先ほどの淡い期待が生まれたが、それは父の次の一言で無残に砕け散った。 侯爵は、初めてまともにマリアンヌの顔を見た。だが、その目に親子の情など欠片も宿ってはいない。価値が暴落した資産を前に、どう処分すべきか思案するような、冷え切った眼差しだ。「……フン。お前の母親の血も、この代で終わりか」 吐き捨てるような声だった。「我がガルニエ家に何の益ももたらさぬとは、期待外れも甚だしい」 ああ、やはり。 マリアンヌの心に、最後のひびが入った。 私はただ、聖女の力をこの家に繋ぎ止めるための「資産」でしかなかったのだ。その価値がなくなった今、父親に
翌朝、マリアンヌは重い身体を起こした。 その瞬間、世界の空気が昨夜とは決定的に違うことを感じ取る。陽光はいつもと同じように窓から差し込んでいるはずなのに、まとわりつく空気がひどく澱んでいた。まるで、世界から色彩が一つ失われてしまったかのようだ。 昨夜の亀裂は、気のせいなどではなかった。 その確信は、王命の使者が彼女を召喚しに来たことで、より一層強固なものとなる。 父と妹と共に通されたのは、神殿に併設された王族専用の謁見の間。磨き上げられた大理石の床が、居並ぶ人々の姿を冷たく映し出している。 玉座には国王と王妃、その傍らには婚約者であるジュリアス王太子が、腕を組んで苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。ずらりと並んだ重臣たちの視線が、値踏みするように責め立てるように、マリアンヌ一人に突き刺さる。(これは、私を裁くための場なのだ) そう理解するのに、時間はかからなかった。 重々しい沈黙を破ったのは、妹のアニエスだった。彼女は一歩前に進み出ると、その美しい顔を悲痛に歪め、今にも泣き出しそうな声で訴え始めた。芝居がかった動きだが、誰も気づいた様子はない。「陛下、並びに皆様。まことに、まことに申し上げにくいのですが……昨夜、お姉様は祈りの最中に、お倒れになりました」 場がざわつく。 アニエスは濡れた瞳でマリアンヌを振り返り、慈しむような眼差しを向けた。一見すれば優しげな目だったが、マリアンヌにはわかる。優しさとは程遠い、蔑みと嘲笑の色がちらついている。「そして、その直後……聖女の血を引くわたくしには、確かに感じられたのです。我が国を守る大結界が、か細い悲鳴を上げるのを!」 待っていましたとばかりに、ジュリアスが床を靴音高く踏み鳴らした。「聖女ともあろう者が祈りの最中に倒れるなど、前代未聞! これは聖務に対する怠慢であり、国家への裏切りに等しい!」 怒りと侮蔑を込めて、彼はマリアンヌを指差した。「結界の揺らぎは、マリアンヌ、お前の力不足が原因ではないのか! この期に及んで、何か弁明はあるか!」 高圧的な声が、広い謁見の間に響き渡る。 マリアンヌは顔を上げることができなかった。俯いた視線の先には、自分のつま先が見えるだけだ。 意識を失ったのは、事実。 結界に異常が生じたのも、事実。 だが、その原因が長年の奉仕による疲弊であると、今ここ
しんと静まり返った神殿の最奥、至聖所。 高い天井から差し込む月光が、床に刻まれた巨大な魔法陣を白銀に照らし出している。その中央で、マリアンヌは独り跪いていた。 月光を集めて編んだような、緩いウェーブのかかった銀髪。その輝きは今や色褪せ、痩せた肩にかかる様はひどく頼りない。祈りのために固く組まれた指は、骨が浮くほどに細い。伏せられた睫毛の奥にある、冬の空を思わせる青い瞳は虚ろで、何の感情も映してはいなかった。(また、今日が始まる) 唇から紡がれるのは、神への賛美でも民への慈愛でもない。ただ、古の契約に従い、自らの生命力を捧げるための詠唱。足元の魔法陣が淡い光を放ち、マリアンヌの体から魔力と生命力――マナをゆっくりと、しかし確実に吸い上げていく。全身の血を少しずつ抜き取られるような、鈍い苦痛を伴う儀式だった。 吸い上げられたマナは、目に見えない奔流となって天蓋へと注がれる。王都全体を覆い、かの「古代の厄災」を封じる大結界。その封印の「蓋」を維持することこそ、聖女である彼女に課せられた唯一の使命である。 もう何年、こうしているだろうか。 聖女として見出されたあの日から、マリアンヌの世界はこの至聖所だけになった。かつて抱いていた民を思う心や、聖女としての誇りは、終わりの見えない奉仕の中でとっくに摩耗しきっていた。 ――私は、国という器にマナを注ぎ続けるだけの、ただの道具だ。反抗する気力など、もうどこにも残ってはいない。 諦めだけが心を支配している。 長い祈りが終わりを告げ、魔法陣の光が収まる。ぐらりと傾いだ身体を、控えていた侍女が慌てて支えた。「マリアンヌ様、お疲れ様でございます」 その声すら、どこか遠くに聞こえる。侍女の肩に体重を預け、鉛のように重い足を引きずって回廊を進む。その先に、見慣れた二つの影が待ち構えていた。「マリアンヌ」 父であるガルニエ侯爵の、氷のように冷たい声だった。娘の体調を気遣う言葉はない。ただ値踏みするように、その全身を一瞥するだけだ。「今日の祈りはどうだった。近頃、結界の輝きに揺らぎが見られるとの報告だが、お前の力が衰えたわけではあるまいな?」「……問題、ありません。お父様」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにか細かった。「本当ですの? お姉様、お顔の色が優れませんこと」 父の隣で、妹のアニエスが