LOGIN亜由美に家まで送ってもらい、マンション前で降車し、通り慣れてきたロビーを抜け、エレベーターに乗り込み部屋に入る。ドアが静かに閉まった瞬間、世界の音量が一段下がった。ヒールを脱いで指をほぐす。冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、ひと口。喉を滑る水の冷たさが、背骨の一番下まで降りていく。 私が来たばかりの頃は、冷蔵庫には水しか入っていなかったっけ。 ロクなものが入ってなかった。 週末、たこ焼きパーティーをしようと約束したのに、できなくなったから…。 たこ焼きの材料を少しだけ買ってしまったから、冷凍しておこう。 粉は持つからいいとして…って、なに考えてんだろ。もうこうなった以上、そんな約束を果たせる日はきっと来ない。 ソファに腰を下ろしてしまうと、もう立てなくなるのはわかっている。だから、まずは帰宅の儀。髪をゆるくまとめ直し、メイクを軽く落とし、膝に冷却シートを貼る。鏡の前に立ち、稽古で教わったとおり、肩甲骨を寄せて、顎の角度を一度だけ正す。たったそれだけなのに、胸のあたりが空いて、呼吸がまっすぐ出ていった。 でも、自分でも思う。頑張ってもせいぜい綺麗に姿勢を正して歩くのが関の山だろう。 正座にも不慣れで、やるからには頑張りたいけれど、この期間じゃ短すぎる。 だったらもっと別角度で切り込むしかないんじゃないかな。 正攻法で行っても、多分、真白さんには勝てないし、無様な姿を見せて終わりだ。
稽古場を出ると、玄関の戸の向こうに夜の匂いが溜まっていた。水気を含んだ土。知らない間に少し雨が降っていたみたい。最近雨が多いな。 ふう、とため息をついた瞬間、膝が遅れて震える。そこでようやく、私は自分の体重がちゃんと戻ってきたことを知った。体バキバキ、背中超痛い。ついでに足が死んだ。暫く動けなくて10分くらい余分に時間もらって隅でじっとしていたのよね。さっきまで。 門を出ると、亜由美がポストにもたれて待っていた。街灯に照らされて、彼女の目尻がきらりと笑う。「よく頑張ったね。正直言うと、あの母親の厳しさについていけなくて、音を上げて帰ると思ってた」「やるって決めた以上は頑張るしかないよ。できていないんだし、時間もないからそれでいいよ。できない私が悪いんだから」「あの人に初回から付いていけるなんて、やっぱひかりは根性あるわ。だから好き」 やんちゃな亜由美らしいな。まあでも、だからこそ気が合う。「諦めたくないんだけど、どうにも向いてないよね。どうしたらいいかな」「どうしようもないね。で、向いてないのわかる」「だよね…」
心の中でゴッと炎が燃え上がる。現実が追いかけてきた。(……でも、私、茶道ぜんっぜんやってこなかったからなぁ…) 茶碗に茶筅(ちゃせん)くらいはわかる。 この前お点前をお母さまに教えていただいて、なんとなくはわかる。 でも、着物着て披露するなんて…しかも1か月もないのにできるのかな…いやいや弱気になっちゃだめ! ゴゴっと燃え上がったまま、勢いでなんでもやりこなす勢いでやろう! ヨーチュブーにアップされている動画でも見ながら練習しようと思っていた時、亜由美から連絡があった。《今日のざまぁ、最高だったね。おつかれさま》(亜由美)(……そうだ!) 私は早速亜由美に連絡を取った。「ねえ亜由美、お母さまって確か茶道——」『ああうん。茶道の師範。言っとくけど超厳格だよ。私がグレた原因の八割があの人のせい』 超厳格…! しかも亜由美がグレた原因って…。 でもそれくらいじゃないと、間に合わない
「亜由美、今日はありがとね」 「どういたしまして~。あいつらの顔、最高にすっとしたね!」 「うん。亜由美のおかげだよ。ありがとう」 「そんなことない。ひかりが勇気を出して頑張ったからだよ。私はちょっと手伝っただけ」 亜由美の言葉にじんとくる。 「ううん。ひとりじゃ取り返せなかったかもしれないし、亜由美がいてくれて心強かった。ありがとう!」 「よーし、じゃあ夕飯おごれ♡」 「もちろん! おごりますとも!」 私たちは笑いあって歩いた。 カツカツと地面を鳴るヒールの音がやけに誇らしく聴こえた。 亜由美と居酒屋で食事をした。別れて家に帰ると、スマートフォンが震えた。新着通知——“@ena_baby 投稿がありました”。《だぁりんにもらった腕輪なくなっちゃったよ~》 《ぴえん(泣)》 ぴえんってなに(怒) こっちがぴえんって言いたいわ! 《そんでぇ~赤ちゃんがお空に帰ってしまいました泣泣》 いやいや、はなからあなたの元には赤ちゃん来てなかったよ? しかもノリ軽すぎない? どれだけ世の中に不妊で苦しんで、辛い思いをしている人がいると思ってんのよ! 冗談でもこんな投稿しちゃだめでしょーがっ!! 私だって…子供欲しかったのに…、辛い記憶
沈黙のあと、私が淡々と告げる。「演出はもう結構。返して。——今ここで。私が旦那に初めてもらったプレゼントなの!」 球児が舌打ち。「だから知らねぇって言ってんだろ!」「言い訳は不要。『返却する/しない』の二択だけよ」 亜由美が、卓上に小型レコーダーを置いた。「録音・録画、継続中です。虚偽の妊娠で“業務妨害”を重ねた件も併せて整理します」 愛人の顔色がさっと悪くなる。「……返せばいいんでしょ」 彼女はふてくされたように立ち上がり、部屋の奥へ。失くしたと思っていたブレスレットがその手に握られていた。 私は手袋をはめ、直接触れずに薄紙へそっと置く。丸カンの脇、“457”。——間違いない。「返還、確認」 胸の奥で、固く縛っていた紐がふっとほどけた。「……これで満足?」愛人が挑むように言う。「まだよ。念書にサインして」 敬語を使うのもばからしくなったので、命令口調で言った。私は短文の紙をテーブルに滑らせる。 以後、御門ひかりへの接触不可、勤務先への来社不可、SNSでの言及等を行わない。違反時は法的措置に異議なく応じる――まあ、
「偶然よ!」と愛人は言い張る。 「じゃあどう偶然なのか、合理的に説明していただけますか?」と私。 静かに、でも逃げ道は塞ぐ。 その時、亜由美がかけていた電話をスピーカーにした。「BSDコンシェルジュですね。そちらの新商品のブレスレットについてお伺いしたいのですが」『はい、どうぞ』「シリアルナンバーから購入者の照会もできるのですか?」『はい、もちろんでございます。但しご本人様と確認できるものが必要でございます』「実はそちらで購入したブレスレットが盗難に遭ってしまったのです…転売されたらすぐわかるようになっているのですか?」 受話口から落ち着いた声がする。『もちろんでございます。シリアルキーやチャームのロット番号をお伝えいただければ手配いたします』 もう覚えた。Serial:LG-K01457とロット番号:457。鍵のチャーム。 蓮司が私にくれた、大事なブレスレットだもん。 一点ものだということがこれで明確になっただろう。いよいよまずいと思った







