休憩を挟んで、もう一度みっちり練習を行った。お母さまに“手順で直す”を叩き込まれて、最後に通しでお点前。なんとか形になったところで、時間を見てお母さまが言った。「本日はここまでにいたしましょう」 隣の真白さんも、にっこり(口角だけ)。「初日にしては、まあ及第点、というところですわね。続きはまた明日」「明日は仕事がありますので、会社が終わってからでもいいですか?」「かまいませんわ」 まあ、ダメって言えないもんね。「明日も私が同席します」 お母さまがさらりと言うと、真白さんがきゅっと扇子を握り直した。 よし、見張り継続! ありがたい! 片付けを手伝って玄関へ。外はもう夕方になっていて、茜色に染まっていた。門外にヘッドライトが浮かぶ。スマートフォンにメッセージが入った。〈門の前〉 ひとことすぎるっ…! もうちょっと愛想のあるメッセージ送れないのかしら。仮にもあなたの妻であるために頑張ったというのに!「蓮司が来てくれたみたいね。ひかりさん、行きましょう」 チラ、と真白さんの方を流し見してお母さまは私の背中に手を添え、歩き出した。 振り向けないからわからないけれど、きっと真白さんは悔しそうな顔をしているんだろうな。 その様子を想像するだけで爽快に思ってしまう私、性格悪いかな? 車に近づくと、蓮司が降りてきた。「お疲れ」「なんですかそのひとことは! もう少しねぎらったらどうなの! ひかりさん、大変だったのよ」 私ではなくお母さまがプリプリ怒っている。 それだけで救われるなぁ~。ありがたい。「手、どうしたんだ。赤いじゃないか」「真白さんよ」 お母さまが心底嫌そうな顔で言った。「だからあの子は嫌いなのよ。意地悪で高慢で、ウソばっかり」 そうだ。お母さまは嘘をつく人間が嫌いなんだった。 となれば…私、もしかしてやばい?
「どうしたらこんなに手が赤くなるの! 真白さん、いったいどういうこと?」「あ…あのこれは…」お母さまに叱られた真白さんが、しどろもどろになっている。「指導という名の暴力?」 キラリとお母さまの目が光る。「違います! わたくしはただ、ひかりさんに少しでも早く御門家の一員として、認められるように教育を…」 お母さまはふう、と小さく息を整えてから落ち着いた声で言った。「今までのひかりさんへの様子は報告をもらっているわ。扇子で叩く指導なんて、言語道断。即刻禁止よ。以後、ひかりさんの身体には触れないで。是正は手順の提示か見本の実演でお願いね」 お母さま、最初から知っていたんだ。 だから私を助けるために入ってきてくださったのね…! 感激した。「承知しましたわ。つい、熱が入って行き過ぎました。失礼」 不承不承という形で謝られた。謝る気ゼロよね。 まあいいわ。「真白さん。休憩は五十分ごとに十分取りましょう。水分補給も忘れてはいけませんよ。それから、稽古は私が記録します。ひかりさんにはしっかり蓮司の伴侶に相応しい教育が必要だと思いますから、同席して私も指導員として加わるわね」「いえ、そんな、おばさまの手を煩わせるわけには…」「あら、なぜ? 私が同席しているとなにか不都合でも?」 まるで蛇に睨まれた蛙だ。真白さんは言葉を詰まらせた。「いえ…かしこまりました。どうぞ、同席ください」 さすが御門蓮司母。真白さんが言い負かされた! 笑顔はそのままだけど、目の奥が悔しそうに揺れているのを私は見逃さなかった! うーん、すっきり!「では仕切り直しましょう。まず座位の姿から――」 お母さまのの指導を受けると、背筋が自然に伸びてしんどさが半分になった。え、すごい。「では、今のお作法でもう一度やってみて、ひかりさん」 言われた通りやってみると、さっきとは比べ物にならないくらい
翌朝、蓮司が九条家まで送ってくれた。門構えを見て口が開く。どどーんと大きな武家屋敷みたいな家。 まあ、ほんとにどの家もすごくお金持ち。なんで庶民とこんなに差があるのかな? どうやったらこんな大きな家に住むことができるのだろうと思う。 もちろん、それ相当の苦労もあるだろう。蓮司がマクドナルドを買い食いするような絵は思い浮かばない。やってみたくても、自由にできない苦労は計り知れない。私だったらムリ。「無理するなよ」「大丈夫、なんとかなります。その代わりお手当はずんでくださいね」「ここまでは想定していなかったし、ひかりの苦労を考えたら報酬金を倍にしてもいいくらいだ」「わ~、頑張っちゃいます!」「現金なヤツだな」「当然でしょう。現金もらえますからね」&nb
「真白の言う通りだ。御門家に嫁ぐ女性には、相応の教養が必要だろう」 蓮司が身を乗り出そうとしたが、私は小さく首を振った。ここは自分で答えなければならない。「おっしゃる通りです」私はお祖父さまを真っ直ぐ見つめた。「正直に申し上げますと、まだ御門家にふさわしい教養は身についておりません」「ほう」「ですが、一日も早く身につけたいと思っております。蓮司さんを支え、御門家の一員として恥ずかしくないよう、必死に学ばせていただきたいのです」 彼の鋭い視線が私を見据えた。蓮司は黙って私の行動を見守ってくれている。いざとなれば話を割って入ってくれるつもりだろう。「学びたいと口で言うのは簡単だ。本気か?」「はい。本気です」「では、試してみるか」お祖父さまが立ち上がった。「一か月の猶予をやろう。茶道、華道、そしてこの家の歴史と家訓を覚えよ。一か月後、再び皆の前でその成果を披露してもらう」 一か月? そんな短期間で茶道も華
重厚な扉が開かれるとそこには畳敷きの大広間があった。上座には蓮司のお祖父さまが威厳ある姿で座り、その周りを親族が囲んでいる。着物だから威圧感が半端ない。 そして親族の視線が一斉に私たちに注がれた。 圧巻…! でも、この雰囲気にのまれるわけにはいかない。「蓮司です。妻のひかりを連れてまいりました」「ご紹介いただき、ありがとうございます。ひかりと申します。本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただき恐縮です」 深く頭を下げるとざわめきが起こった。着物姿を見て親族の表情が少し和らいだように見える。「ほう、美しい着物姿だな。かつての娘を思い出す」 お祖父さまの声が響いた。「はい。お母さまが着付けてくださいました」「そうか。あいつが認めたならよい。では皆に挨拶をしてもらおう」 思った通り、お母さまに認めてもらうのは最初の試練だったようだ。 それにしても蓮司ったら…こんな大層な顔合わせやらなんやら、契約するときにちゃんと説明しておいてよね! 普通の人は門前払い
蓮司が部屋に入ってきた瞬間、足が止まった。「ひかり…なのか?」 声が少しかすれている。まるで別人を見ているような顔をしていた。「そうですよ」 私が軽く会釈すると、蓮司は数秒間、言葉を失ったように立ち尽くしていた。「どう? 似合うでしょう」 お母さまが誇らしげに微笑む。「…美しい」 蓮司の声が低く響いた。いつもの冷静な彼からは想像できない、どこか動揺した様子だった。「本当に、美しいな」 もう一度呟くように言って、蓮司は私をじっと見つめた。その視線に、胸がドキッとする。契約結婚だとわかっているのに、まるで本当に愛されているような錯覚を覚えてしまう。