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雨上がりの檻の前

作者: 中岡 始
last update 最終更新日: 2025-07-20 09:43:00

ホテルの廊下は、深い絨毯に足音を吸い込んでいた。

五月の夜、雨上がりの湿った空気が、建物の中にまでじわりと染み込んでいる。

藤並蓮は、都内高級ホテルの最上階、スイートルームの前に立っていた。

壁に寄りかかることも、手をポケットに入れることもできなかった。

指先はスマートフォンを握りしめたまま、冷たい汗で滑りそうになっている。

その手を胸元に引き寄せ、そっと深呼吸をした。

「これは仕事だ」

心の中で何度も繰り返す。

「これは仕事だ。助かるためだ。家のためだ」

それ以外の選択肢は、もうなかった。

父の料亭は資金繰りが限界に達している。

銀行の融資は断られた。親戚も、これ以上は助けられないと言った。

自分が動くしかない。

でも、それが「抱かれる」という形になるとは、思っていなかった。

「俺は…助かるために抱かれるんだ」

唇の内側を噛んだ。

血の味が微かにした。

それでも、心は冷えたままだった。

天井のシャンデリアが、ぼんやりと滲んで見える。

湿度でレンズが曇ったように、視界が揺れていた。

右手を伸ばして、スイートルームのインターホンに触れる。

その瞬間、指先がかすかに震えた。

触れたボタンの感触が、妙に冷たい。

「…」

呼吸が止まりそうになる。

でも、押さなければならなかった。

カチリと、小さな電子音がした。

インターホンの向こうで、応答のチャイムが鳴る。

数秒後、ドアが開いた。

ゆっくりと。まるで、誰かの心の奥に手を差し込むように、静かに。

「待っていたわ、蓮くん」

美沙子が、白いバスローブ姿で立っていた。

髪はゆるくまとめられ、濡れたような艶が光っている。

首筋があらわになっていた。肌は白く、鎖骨のくぼみが、柔らかい影を作っている。

唇は、艶やかな薄紅色だった。

リップグロスの光沢ではなく、生の艶だった。

それが、藤並には恐ろしく見えた。

「どうぞ、入って」

美沙子が手を差し出す。

その指先は細く、爪は短く整えられていた。

けれど、その手のひらが、自分を完全に包み込むものだとわかっていた。

藤並は、無言で頷いた。

足を一歩踏み出す。

スイートルームの中は、アロマの香りが漂っていた。

ラベンダーとサンダルウッド。甘さと苦味が混じり合った香り。

床はカーペットが敷き詰められ、足音が消える。

壁には間接照明が柔らかく光り、窓の外には濡れた東京の夜景が広がっていた。

「お疲れ様、蓮くん。今日は、大事な日よ」

美沙子はそう言いながら、藤並の腕を引いた。

指先が、スーツの袖口に触れる。

その瞬間、藤並の背筋に冷たい汗が流れた。

「お飲み物は?」

「…いえ、大丈夫です」

声が震えていないか、確認する余裕もなかった。

ただ、顔は笑っている。営業スマイルは、もう癖になっている。

「遠慮しないで。緊張してるでしょう?」

美沙子が微笑む。

その目の奥には、光がなかった。

艶やかな唇とは対照的に、瞳は冷たく、何も映していなかった。

「私ね、こういう夜は好きなの」

「…どういう意味ですか」

「大事な人を手に入れる夜。そういう意味」

藤並は息を呑んだ。

けれど、顔には出さなかった。

「私があなたを助ける。だから、あなたは私のものになる。それだけの話よ」

その言葉は、柔らかかった。

まるで、恋人にささやくような声音だった。

だが、その裏には、有無を言わせない圧があった。

「いいでしょう?」

「…はい」

喉が乾いていた。

声が掠れた。

美沙子は、微笑んだまま藤並の手を取った。

冷たい手が、自分の手の甲に重なる。

その指が、指の間をゆっくりと撫でた。

「きれいね、蓮くん。手も、顔も、全部」

「ありがとうございます」

口が勝手に動いた。

もう何度も言ってきた言葉だった。

「さあ、こっちに来て」

美沙子は、ベッドの方へと歩き出した。

白いバスローブが、ふわりと揺れる。

その背中を見ながら、藤並は足を動かした。

心の中では、何度も「仕事だ」と唱えていた。

「家を守るためだ」「助かるためだ」

けれど、心の奥底に、もう一つの声があった。

「本当は…こんなふうに抱かれたかったわけじゃない」

その声を、押し殺した。

舌の裏側を噛んで、言葉を飲み込んだ。

部屋の奥には、檻のような空気が広がっていた。

逃げ場は、どこにもなかった。

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