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契約のための夜

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-21 09:43:19

美沙子がワインボトルを傾けた。

赤い液体が、薄いグラスに静かに注がれる。

部屋の間接照明が、その表面を艶やかに照らしていた。

「飲めるでしょう?」

藤並は頷いた。

グラスを受け取ると、その薄さに指が少しだけ震えた。

それを隠すように、もう片方の手でグラスの脚を支える。

「緊張してるの?」

「…いえ」

声はかすれていた。

けれど、顔には笑みを浮かべた。

何度も練習してきた営業スマイル。

その表情を貼りつけて、目を細めた。

でも、目は乾いていた。

瞬きをするたび、まぶたの裏がきしむようだった。

「蓮くん。今日から、もう心配しなくていいのよ」

美沙子はグラスを傾けながら、艶やかに囁いた。

唇が赤いワインの縁をなぞる。

その唇が、ついさっきまで藤並の手を撫でていた指先と同じ色に見えた。

「料亭のことも、お父様のことも。これからは、私が支えるわ」

「…ありがとうございます」

その言葉を言うしかなかった。

言葉にした瞬間、胸の奥がひどく重たくなった。

それでも、グラスを口に運ぶ。

ワインが喉を滑る。

苦い。

渋みが舌の奥に広がった。

でも、それを感じる余裕はなかった。

「私ね、恩は忘れない人が好きなの」

美沙子は微笑んだ。

その笑顔は、柔らかいのに、どこか冷たかった。

「私も、蓮くんに恩を与えるわ。助けてあげるの」

「…」

「だから、私のことも、大事にしてね」

言葉の意味は、分かりすぎるほど分かっていた。

けれど、藤並は何も言わなかった。

形式的な契約書はなかった。

交わしたのは、言葉だけ。

けれど、それは何よりも重かった。

「これが、契約なんだ」

心の中で呟いた。

紙に書かれた文字よりも、ずっと逃げられない契約。

それが、この夜だった。

グラスを持つ手が、かすかに震えた。

でも、それを止めることはできなかった。

指先の震えは、まるで身体が勝手に反応しているようだった。

「大丈夫よ、蓮くん」

美沙子が、藤並の肩に手を置いた。

その手は、驚くほど柔らかかった。

でも、藤並の背中には冷たい汗が流れた。

「私がついているわ」

「…はい」

唇だけが動いた。

声は出たけれど、心は別の場所にあった。

「大丈夫、大丈夫」

美沙子は、子どもをあやすように言った。

けれど、その声には、鋭い棘があった。

艶やかな声なのに、芯には冷たい鉄があった。

「じゃあ、蓮くん。おいで」

美沙子が立ち上がった。

白いバスローブの裾が、膝のあたりでふわりと揺れる。

足首が細く、指先まで整えられていた。

藤並は、グラスをそっとテーブルに置いた。

ワインの赤が、ガラスの底に残っていた。

それが、まるで血のように見えた。

「おいで」

もう一度、美沙子が言った。

藤並は立ち上がった。

足が少しだけ震えた。

けれど、その震えを飲み込んで、一歩前に出た。

「これは、仕事だ」

心の中で、また繰り返した。

「家のためだ」

けれど、胸の奥には、別の声があった。

「逃げ道は、もうどこにもない」

その声が、耳の奥で響いていた。

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