湯浅の指先が、藤並の背中をゆっくりと撫でた。
その動きは、壊すためのものではなかった。これまで幾度となく触れられてきた手とは違う。所有するための触れ方でも、支配するためのものでもなかった。ただ、そこにいる自分を受け止めるための手だった。藤並は、湯浅の胸元に額を寄せた。
涙がじわりと滲み出て、湯浅のシャツに染み込んだ。けれど、湯浅は何も言わず、そのまま髪を撫で続けた。その温かさに、藤並の心が少しずつ緩んでいった。「好きになってもいいのか」
心の奥で、ふいにその言葉が浮かんだ。
でも、すぐには受け入れられなかった。それを認めたら、また壊れるかもしれない。それでも、胸の奥から、もう止められない何かが滲み出していた。湯浅の唇が、耳元に触れた。
微かな吐息が耳の奥に流れ込む。身体がびくりと反応したが、藤並は逃げなかった。そのまま、ゆっくりと湯浅の手が肩から腕へ、そして腰へと滑る。その動きは、あまりに丁寧で、逆に胸の奥が震えた。欲望だけで動く手ではない。そこには、確かな意図があった。藤並を繋ぎ止めるための手。それが分かってしまったから、逃げられなかった。シャツのボタンが一つずつ外されていく。
肌に触れる指先が、静かに胸元を撫でた。乳首に触れられると、身体がわずかに跳ねた。それは、条件反射だった。けれど、今回は違った。ただ反応しているのではなく、心が追いついてきた。「気持ちいい」と思ってしまった。それが、自分の本当の感情だと、はっきりと分かった。「蓮」
湯浅が名前を呼んだ。
その声は低く、優しかった。その呼び方だけで、胸の奥が熱くなった。名前を呼ばれるだけで、涙が溢れそうになる。誰にもこんなふうに呼ばれたことはなかった。湯浅の手が、ズボンのベルトを外した。
動きはゆっくりで、慎重だった。無理やりではな湯浅の指先が、藤並の背中をゆっくりと撫でた。その動きは、壊すためのものではなかった。これまで幾度となく触れられてきた手とは違う。所有するための触れ方でも、支配するためのものでもなかった。ただ、そこにいる自分を受け止めるための手だった。藤並は、湯浅の胸元に額を寄せた。涙がじわりと滲み出て、湯浅のシャツに染み込んだ。けれど、湯浅は何も言わず、そのまま髪を撫で続けた。その温かさに、藤並の心が少しずつ緩んでいった。「好きになってもいいのか」心の奥で、ふいにその言葉が浮かんだ。でも、すぐには受け入れられなかった。それを認めたら、また壊れるかもしれない。それでも、胸の奥から、もう止められない何かが滲み出していた。湯浅の唇が、耳元に触れた。微かな吐息が耳の奥に流れ込む。身体がびくりと反応したが、藤並は逃げなかった。そのまま、ゆっくりと湯浅の手が肩から腕へ、そして腰へと滑る。その動きは、あまりに丁寧で、逆に胸の奥が震えた。欲望だけで動く手ではない。そこには、確かな意図があった。藤並を繋ぎ止めるための手。それが分かってしまったから、逃げられなかった。シャツのボタンが一つずつ外されていく。肌に触れる指先が、静かに胸元を撫でた。乳首に触れられると、身体がわずかに跳ねた。それは、条件反射だった。けれど、今回は違った。ただ反応しているのではなく、心が追いついてきた。「気持ちいい」と思ってしまった。それが、自分の本当の感情だと、はっきりと分かった。「蓮」湯浅が名前を呼んだ。その声は低く、優しかった。その呼び方だけで、胸の奥が熱くなった。名前を呼ばれるだけで、涙が溢れそうになる。誰にもこんなふうに呼ばれたことはなかった。湯浅の手が、ズボンのベルトを外した。動きはゆっくりで、慎重だった。無理やりではな
湯浅はコーヒーカップをテーブルに置くと、ゆっくりとソファの隣に座った。距離は近かったが、藤並は身を引かなかった。肩と肩が、わずかに触れそうな距離。その緊張が、藤並の背中に微細な震えを走らせた。けれど、それは不快なものではなかった。むしろ、心の奥で安堵している自分に気づいた。湯浅の手が、静かに肩に触れた。その手のひらは、思ったよりも温かかった。藤並は、呼吸を止めた。この手が自分をどうするのか、知っている。だけど、今回は違うかもしれないと、どこかで思っていた。だから、逃げなかった。「お前は、もう誰のものでもなくなっていい」湯浅の声が耳元に落ちてきた。その言葉が、胸の奥にじんと染みた。だけど、藤並はすぐに反射的に首を横に振った。「そんな…簡単に言わないでください」声はかすれていた。目の奥が熱くなるのを、必死で抑えた。何年もかけて染み込んだ「商品」という意識が、簡単に拭えるはずがなかった。身体を差し出してきた過去も、美沙子との倒錯も、全部ここに残っている。なのに、「誰のものでもなくなっていい」なんて、そんな言葉を受け取れるはずがなかった。湯浅は、無理に肩を引き寄せることはしなかった。ただ、その手を置いたまま、もう一度呟いた。「嫌なら、やめる」その声が、藤並の胸を締め付けた。「やめる」その選択肢があること自体が、藤並には怖かった。いつもなら、命令されれば動けばよかった。何も考えず、身体だけを差し出せばよかった。だけど、今は違う。「嫌なら、やめていい」と言われることが、何よりも怖かった。自分で選べと言われることが、怖かった。「俺…」藤並は喉の奥で言葉を詰まらせた。視線は下を向いたまま、膝の上で拳を握った。手のひらがじっとりと汗ばんでいる。だけど、その震えを止めることはで
店を出ると、夜風が頬を撫でた。昼間の湿気を含んだ空気が、夜になってわずかに冷えていた。藤並はネクタイを少しだけ緩め、胸の奥に溜まった息を静かに吐き出した。足元のアスファルトに、ネオンが滲んで映っている。雨は降っていないはずなのに、足元が濡れて見えるのは酔いのせいかもしれなかった。「もう一軒、行くか」湯浅の声が、隣から聞こえた。いつもの穏やかな口調だった。それは命令でも誘いでもない、ただの提案のように聞こえた。けれど、藤並の心は小さく跳ねた。「このまま終わるわけにはいかない」そんな思いが、胸の奥に浮かんだ。自分でも、その理由は分かっていた。美沙子の部屋で感じる虚無と、今のこの夜は違っていた。湯浅とこうして歩いているだけで、どこか身体の芯が熱を持っている気がした。それを、どう処理すればいいのか分からなかった。「はい」藤並は小さく返事をした。その声が少しだけ掠れていることに、自分で気づいた。二人は並んで歩いた。繁華街の雑踏を抜け、少し裏通りに入る。ネオンの光が遠のき、足音だけが夜の中に響いた。歩きながら、藤並は胸の奥にある感情を押し殺していた。「こんなこと、していいのか」その疑問が、何度も頭の中を巡る。けれど、足は止まらなかった。むしろ、自分から歩幅を合わせていた。この夜が終わらないことを、どこかで望んでいた。「タクシー、捕まえるか」湯浅がそう言って、手を上げた。ちょうど一台の車が止まった。藤並は何も言わず、助手席のドアを開ける湯浅を見ていた。後部座席に滑り込むとき、心臓が少しだけ早く脈打った。どこに行くのか、もう分かっていた。でも、拒む気持ちはなかった。むしろ、自分から檻に入るように、足を動かしていた。タクシーの中は、静かだった。運転手が行き先を聞くと、湯浅は自宅マンションの住所を答えた。
「飲もう」湯浅の声は、いつもと同じ調子だった。電話越しでも、その声色は変わらない。命令でもなく、懇願でもない。ただ、穏やかに言われた一言だった。それなのに、藤並の胸は、微かにざわついた。断る理由は、いくらでもあった。美沙子に呼ばれるかもしれないとか、仕事が溜まっているとか、明日も早いとか。けれど、どれも言い訳にならなかった。「はい」短く返事をして、通話を切ると、すぐにスマホの画面が暗くなった。画面に映る自分の顔が、少しだけ笑っている気がして、藤並はすぐに目を逸らした。待ち合わせの場所は、いつもの居酒屋だった。店の奥にある個室の引き戸を開けると、すでに湯浅が座っていた。ジャケットを脱いで、ネクタイを緩めた湯浅は、ビールのグラスを片手にしていた。その姿は、ただの上司だった。けれど、藤並の胸の奥は、妙に落ち着かなかった。この席に座ること自体が、どこか異様に感じられた。「遅かったな」湯浅は笑いながら、もう一つのグラスにビールを注いだ。藤並は黙って座り、そのグラスを受け取った。泡が静かに消えていくのを見つめながら、息を吐いた。「お疲れ様です」そう言うと、湯浅は「おう」とだけ返した。乾杯の音もなく、二人はグラスを口に運んだ。しばらくは他愛もない話だった。仕事のこと、営業の数字、最近のクライアントの愚痴。湯浅は、いつも通りの口調で話していた。けれど、そのうち話題が変わった。グラスが半分空になった頃、湯浅はふいに視線を上げた。「社長のこと、少しだけ話す」その言葉に、藤並は手を止めた。視線はグラスの中の泡を見ていたが、耳は湯浅の言葉を拾っていた。「料亭の名義、もうすぐ動くぞ」声は低かったが、明らかに確信を持った口ぶりだった。藤並は顔を上げた。けれど、表情は変えなかった。無表情のまま、次の言葉を待った。「裏帳簿も手に入った。鷲尾と黒瀬が
美沙子のシャワーの音が、遠くで続いていた。水が肌を打つ音が、藤並の耳の奥に小さく響く。けれど、その音は現実味を持たなかった。どこか別の世界の出来事のように感じた。藤並はベッドの上で、湿ったシーツに手のひらを押し付けた。掌がじんわりと汗ばみ、指先が湿っている。それでも、離せなかった。何かを繋ぎ止めるように、手のひらでシーツを掴んでいた。視線は、相変わらず天井を見つめている。染みの輪郭が、だんだんと滲んでいく。それは、目が乾いているせいなのか、心のせいなのか分からなかった。唇が少しだけ開いた。呼吸が浅くなる。喉の奥で、かすかな呼吸音が漏れるが、声にはならなかった。湯浅の顔が浮かんだ。あの夜、背中を撫でられた感触が、皮膚の奥にまだ残っている。手のひらの温度、吐息の熱さ、耳元で囁かれた声。全部、身体の中に残っている。思い出すだけで、胸の奥が軋んだ。触れたいと思った。本当は、もっと触れてほしいと思った。けれど、その気持ちはすぐに封じた。「好きになっちゃいけない」その言葉が、心の奥に湧き上がった。声に出しかけて、喉の奥で止めた。好きになる資格なんか、自分にはない。そうやって、これまで生きてきた。商品は、誰かに好かれることも、誰かを好きになることも許されない。愛情は、商品には必要ないものだった。身体を差し出して、相手の欲望を満たす。それが、役割だ。「好きになるな」また、あの声が蘇った。先輩の声が、過去から現在に貼り付いてくる。あの夜、煙草の煙と一緒に言われた言葉。「遊びだろ」と笑われた声が、耳の奥でこだました。その言葉は、五年経っても消えなかった。自分は商品だ。それが、俺の価値だ。心は要らない。好きになるなんて、許されない。藤並は、心の中で繰り返した。
夜の部屋には、まだ汗と煙草の匂いが残っていた。薄暗い間接照明の下、藤並はシーツを腰までかけたまま、壁にもたれていた。先輩は隣で煙草を吸っている。窓は少しだけ開いていて、夜風がカーテンを揺らしていた。四月の終わり。遠くで桜が散る音が聞こえた気がした。もちろん、そんな音はしないはずだ。けれど、その夜は本当に聞こえた。はらはらと、花びらが落ちる音が、部屋の奥から響いてきたように感じた。先輩の吐いた煙が、ゆっくりと天井に広がる。灰皿には、すでに何本かの吸い殻が溜まっていた。先輩は煙草を口にくわえたまま、片手でシーツをかき寄せた。無造作に、けれどどこか優雅な手つきだった。その仕草を、藤並はぼんやりと見ていた。「蓮」先輩が、煙を吐きながら名前を呼んだ。その声は、柔らかかった。だが、その柔らかさの奥には、冷たい何かが潜んでいた。「好きになるなよ。遊びだからな」その言葉が、天井に溶けていく煙と一緒に、部屋中に染み込んだ。藤並は、瞬間的に表情を硬直させた。けれど、すぐに笑顔を作った。それが自分の役割だと思ったからだ。「分かってますよ」そう答えた自分の声は、妙に明るかった。軽い冗談みたいに言えたことに、どこかでほっとしていた。先輩も笑った。「だよな」と言って、もう一度煙を吐いた。けれど、藤並の目は笑っていなかった。視線の先には、天井の染みがあった。その染みは、今見ている美沙子の部屋の天井と重なった。あの夜から、ずっと同じように天井を見上げている気がした。「遊びだからな」その言葉が、胸の奥で鈍い鉄球のように転がっていた。軽い声で言われたその一言が、藤並の心にずっと残っている。誰かを好きになることは、許されない。それが、自分に刷り込まれたルールになった。「分かってますよ」あの夜、自分は確か