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3.導く手の温度

Penulis: 中岡 始
last update Terakhir Diperbarui: 2025-09-01 09:51:26

夕暮れが、桂木邸の障子を仄かに染めていた。

庭の向こう、沈みかけた陽が西の空を鈍く焦がし、わずかな橙が白い紙障子ににじんでいる。部屋の中にはもう自然光だけでは足りず、角の行灯に火が入れられていた。芯から立ち上る光はゆらぎ、揺れながら襖の絵柄をぼんやりと浮かび上がらせていた。

静かだった。筆を走らせる音、墨を含んだ紙がわずかにきしむ音、それらすべてが、押し黙った空気のなかに吸い込まれていった。

彰人は、書見台に向かって座っていた。肩に落ちかかる髪を片手で払い、もう片方の手には筆。姿勢はまっすぐだが、手元の筆先は頼りなく揺れていた。

「こうでしょうか」

そう訊く声は、どこか遠慮がちで、だが幼い光を孕んでいた。

直哉は隣に控えたまま、彰人の書いた文字を見下ろしていた。細い筆跡は震え、墨の濃淡もまだ均一ではない。けれど、その一文字一文字には、懸命に何かを掴もうとする意志があった。

「もう少し、筆を立てて。力を抜きすぎず、でも握り込んではいけません」

「…難しいですね。思うように、線が繋がってくれない」

「書は、呼吸と似ています。心を静めれば、筆も自然に動きます」

直哉がそう言いながら、筆を握る彰人の手にそっと自分の手を添えた。言葉の意味を、体で教えるように。

瞬間、空気が一つ、深く沈んだ。

彰人の指がわずかに震えた。触れられた手の甲から、ぬるく確かな熱が染み込んでくる。筆を導くはずのその手は、思っていたよりも厚く、骨ばっていた。けれど、粗雑さはなかった。まるで、柔らかな布の上にそっと置かれた硯のように、静かで、重たくて、逃れられない温度。

「このまま、筆を動かしてみましょう」

直哉の声が低く落ちる。

彰人は頷いたが、まぶたがわずかに震えていた。視線は紙の上にありながら、意識はすでに、その手に囚われていた。

ゆっくりと、筆が進む。

「不」から「可」へ。運筆は滑らかではないが、確実に文字をなぞっていく。

直哉は、彰人の手の動きに合わせてわずかに力を加えた。指と指が重なり、手のひら同士の体温がじわりと混じり合う。その温もりは、静かに彰人の胸に入り込み、鼓動を一つ、強く打たせた。

何かが変わった。

それは、香の混ざり合う瞬間に似ていた。

墨の香、行灯の油、髪に残る椿油の微かな甘さ。それらのなかに、初めて混じる、誰かの体温の匂い。

「…指が、熱いです」

彰人がぽつりと呟いた。

直哉は手を離しかけたが、彰人はそれを止めるように、指をわずかに重ねてきた。

「まだ…慣れませんから。教えてください」

その声は、かすかに喉の奥で滲んでいた。

直哉は言葉を飲み込んだ。何を言っても、この空気を壊してしまう気がした。

彰人の指は細く、柔らかかった。けれど、そのなかには確かに熱があり、それは単なる物理的な温度ではなかった。飢えに似た、渇きのようなもの。誰かの手に導かれることを、どこかずっと望んできたような、痛々しいまでの希求。

「筆を持つのも、教わるのも、初めてなのです」

彰人の横顔は静かだった。だが、その頬にはうっすらと紅が差していた。

「学ぶことが、こんなにも…嬉しいとは、思いませんでした」

その言葉に、直哉の胸の奥で、何かが微かにきしんだ。

彰人は、何も知らない。世の中の仕組みも、人の複雑さも。だが、だからこそ、その言葉はまっすぐだった。疑いも打算もない。心からの歓びだけが、そこにはあった。

「これまで、誰も教えてはくれなかったのですか」

問いかけながら、直哉は自分の声に僅かな棘を感じた。

彰人は、笑った。だが、その笑みはどこか寂しげだった。

「兄は、私を見ません。父は、私が何を知ろうと、何を思おうと…興味がないのです。私はただ、この屋敷に飾られているだけの存在ですから」

「そんなことは…」

言いかけた直哉の言葉を、彰人はそっと遮った。

「いいのです。もう慣れました。だから、今日、こうして誰かと一緒に文字を綴ることができた、それだけで…胸がいっぱいです」

行灯の灯りが、彰人の横顔をやわらかく照らしていた。睫毛の影が頬に落ち、呼吸のたびにその影がわずかに揺れる。

直哉は、自分の手のひらに残る感触を意識していた。

あの細い手、温もり、そして筆のしなり。すべてが、今もそこにあるように感じられた。

この邸の空気は、あまりにも澱んでいる。沈黙が濃く、感情は押し殺され、誰もがそれに慣れてしまっている。

だが、この青年だけは…違った。

与えられることに慣れていない。求めることにさえ、まだ躊躇がある。それでも、ほんの一滴の水に、全身で歓びを示すような、その無垢な渇き。

直哉は筆を置いた。

「今日の課題は、ここまでにしましょう。疲れましたね」

彰人はゆっくりと筆を収め、頷いた。

「…ありがとうございます」

その言葉の中に、言葉ではない何かが混じっていた。感謝以上の、仄かな何か。

ふと、障子の外から風が吹き抜けた。竹の葉が擦れる音が微かに響き、部屋のなかに新しい香が流れ込む。

行灯の火がゆらぎ、彰人の髪がふわりと揺れた。

その瞬間、直哉は彼の中にある危うさを、ほんの少しだけ理解した気がした。

壊れてはいない。けれど、誰かの掌の熱に、容易く形を変えてしまいそうな心。

直哉は立ち上がり、静かに礼をした。

「また明日も、同じ時間に伺います」

彰人は頷いた。その目が、もう一度だけ直哉の手を見た。

そして、ほんの僅かに、唇を緩めた。

「ええ。お待ちしています」

部屋を出ると、冷えた廊下の空気が肌に触れた。

だが直哉の掌には、まだあの熱が残っていた。

それは、墨や紙の記憶ではなかった。

もっと、生々しく、もっと危うい…欲のようなものだった。

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