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第6話

Author: レモン精をフルボッコ
薬を受け取って家に戻ると、窓辺に置かれた小さくとも力強く伸びる草が目に入り、咲良は羨望の色を宿す。

鉢に水をやり、そのまま腰を下ろす。生命力あふれる緑を見つめると、不思議と身体の痛みが和らいでいくように感じた。

その後数日間、狭く薄暗い借家で無言のまま寄り添ってくれたのは、この鉢植えだけだった。

大量の薬を飲む咲良にとって、半瓶の鎮痛剤はすぐに底をつき、残りはただ耐えるしかなかった。

少しずつ過去の持ち物を整理し、ノートパソコンを開いて五年間撮りためた雅人へのビデオメッセージを見返す。かつて雅人は、彼女が生き続ける唯一の支えだった。

いつもの癖でカメラを起動し、語りかけるように一本だけ録画した後――

五百本以上あったビデオをすべて削除した。

もう静かに去るつもりだ。ならば、雅人の目に触れることなど永遠にあってはならない。

そうして力を使い果たした咲良は、寝返りすら打てなくなりベッドに横たわり、一日一日を数えた。十年の約束の日が近づくのを、そして命の残り時間を。

最後の日。薄いカーテン越しに差し込む柔らかな陽光で咲良は目覚めた。

一通のメッセージが届く。

【十年前にお預けになったお手紙が、指定の店舗に到着しました。本日中に朱雀町164号店にてお受け取りください】

十年前、雅人と通りかかった店で二人は十年後の相手に宛てた手紙を送った。

五年前、渡航前にもう一通、雅人宛ての手紙も出した。すべての真実を封じ込めたものだ。

当時は病気をすぐに治して帰れると信じていたが、病状は悪化するばかり――今、あの手紙を取り戻さねばならない。

顔色はひどく、起き上がることも危うかったが身支度を整え、鏡の前に立った。

蒼白でやつれた顔に久しぶりに化粧を施し、鏡の中の自分にわずかな血色が差すのを見て、ようやく薄い笑みを浮かべた。

長い時間をかけて朱雀大路164号にたどり着いた。そこは書店だった。扉を開け受け取り番号を告げると、店員が笑顔で封筒を差し出す。「十年前、お客様とご一緒の方が送られたお二人分のお手紙です」

封筒の名前を見て咲良は首をかしげる。「二通だけですか?」

「はい、そうです」

「五年前にもう一通送ったんですけど……遅れて届くことは……?」スタッフはシステムを確認し、申し訳なさそうに頭を下げる。

「申し訳ございません。五年前に発送された記録はございません。恐らく本部への転送時に紛失した可能性がございます。ご希望でしたら補償申請をいたしますが……」

「いいです」むしろ失われてよかった。これで雅人が真実を知ることは永遠にない。

二通の手紙を手に書店を出たその時――雅人と鉢合わせた。

驚きに見開いた瞳が、冷ややかな黒い瞳と交差する。

心臓がひとつ大きく跳ねた。

雅人は迷わず近づき、咲良の手から封筒を奪い取る。「俺の婚約者がこれを見たら嫌な気分になる」

返す間もなく、二通まとめて容赦なく引き裂いた。

咲良の瞳が大きく見開かれ、胸が締め付けられる。思わず飛びかかろうとしたが、足は地面に縫い付けられたように動かなかった。

唇を噛み、あふれそうな涙を押し込み、かすれた声で言う。「いいの。私もこれを処分するつもりで来たの。彼氏に見られて不快に思われるのも嫌だから」

雅人は彼女を見つめ、怒気を帯びた表情のまま冷ややかに口角を上げる。「じゃあ、お前らの幸せが長く続くことを祈ってるよ。早く結婚しろ」

そう言い捨て背を向けた。

眩しい陽光の中、咲良は必死に目を開け、その背を追いかけて声を張った。「雅人!」

胸がきつく締め付けられ、痛みが全身の神経を貫く。身体は制御を失い、額から冷や汗が滲む。

それでもその背中を目に焼き付け、心の底で願った。――最後にもう一度、その顔を見せて。

雅人の足は止まったが振り返らない。

咲良は儚く笑う。「ご結婚、おめでとう」

心の中でそっと続ける。――長生きして、穏やかに暮らして。

雅人は歩き去った。

これでいい。

彼は彼の人生を歩み、自分は静かに終わりへ向かう。

姿が完全に見えなくなると、咲良は腰を下ろし、散らばった紙片をひとつひとつ拾い集めた。

痛みで腰を伸ばせず、壁に手をついて立ち上がるまで長い時間がかかった。

その足で再び書店へ入り、テープを一本買う。午後いっぱいかけて二通の手紙を元通りにつなぎ合わせた。

雅人からの恋文――その一文一文を胸の奥深くに刻み込む。

砕けた手紙を大事そうに心臓の上に押し当て、こらえていた感情がついに崩れた。

【酒場】

雅人はVIP個室の二階テラスに座り、冷え切ったグラスを手にする。

見上げた夜空にはひときわ輝く星々。その中で永遠の象徴、北極星を凝視し拳を固く握る。胸が裂けるように痛む。

脳裏には咲良の顔が浮かぶ。あれほど自分を惨めな思いにさせた女なのに、まだどこかで期待している自分を情けなく思った。

グラスの酒を一気に飲み干す。

咲良。これが最後の機会だ。十年前の約束に守れるなら、俺はお前の裏切りを許す。

酒場の入口。咲良は一歩一歩近づく。身体の奥から何かが抜けていくようで視界はぼやけ、ネオンが滲み明滅する。

障害物につまずかないよう、盲目のようにふらつきながら前へ進む。

……50メートル。

……20メートル。

……5メートル。

足は鉛のように重く息も苦しい。ほとんど意志の力だけで階段を上った。

意識が遠のく中、咲良のやせ細った指がドアノブに触れる。

笑みも浮かべられぬまま、全身を裂く痛みが襲い、そのまま地面に崩れ落ちた。

生命がこぼれ落ちていく感覚。最後の力でまぶたを開け夜空を仰ぐ。

目に映る北極星は次第に光を失う。――私の望みのない人生はここで終わる。

二十歳の咲良は満天の星の下、十年の誓いを立てた。

三十歳の咲良は骨と皮ばかりの姿で、その扉を開けることができなかった。

そして――十年の約束に間に合わなかった。

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