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暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める
暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める
Author: フカモリ

第1話

Author: フカモリ
「今、どのメディアも信行の話題で持ちきりよ。記者たちがホテルの入り口をびっしり取り囲んでるわ。今回も、真琴ちゃんには苦労をかけるわね」

深夜十時。

デスクの前で、片桐真琴(かたぎり まこと)は義母からの電話に耳を傾けながら、力なく額に手をあてて、しばらく黙っている。

結婚して三年、夫・片桐信行(かたぎり のぶゆき)のスキャンダルと彼の浮気相手は後を絶たず、次から次へと現れて、終わりが見えない毎日。

たまに夫に会えるのは、いつも彼の火遊びの後始末をする時だけ。

真琴が黙っていると、義母・片桐美雲(かたぎり みくも)は諭すように続ける。

「今回は会社の評判や株価だけの問題じゃないわ。由美が帰ってきたの。他の女とは違うのよ。信行との結婚を絶対に守り抜かなきゃダメよ」

内海由美(うつみ よしみ)が帰ってきた?

真琴は眉をひそめ、どっと疲れが押し寄せる。

しばらく黙ってから、穏やかな声で答える。

「わかりました。今から向かいます」

電話を切り、真琴は疲れた様子でスマートフォンを見つめていたが、やがて車の鍵を手に立ち上がった。

……

三十分後。

真琴がホテルの裏口から上がると、執事・江口健三(えぐち けんぞう)と秘書・金田美智子(かねだ みちこ)がすでにドアの前で待っている。

美智子は高級ブランドの紙袋を手に歩み寄る。

「副社長、お洋服の準備ができました」

今夜の由美と同じ服。信行の芝居に合わせるためのものだ。

健三は部屋のドアをノックした。

「信行様、真琴様がお見えになりました」

「入れ」

信行の淡々とした声が聞こえてくる。その口調と態度は、まるで何も特別なことがないかのように。

健三が真琴のためにドアを開けると、ちょうど信行がバスルームから出てきた。ゆったりとしたグレーのルームウェアを身にまとい、胸や腹の筋肉の輪郭がはっきりと見て取れる。濡れた髪を無造作にタオルで拭く姿は、気だるくもセクシーな雰囲気を自然と醸し出している。

真琴を見ても、信行には浮気の現場を押さえられたという気まずさやうろたえは一切ない。

三年という月日が、二人をこの状況に慣れさせていた。

身をかがめてテーブルの上のタバコとライターを手に取ると、信行は一本抜き出して口にくわえ、火をつけた。

薄い煙が彼の口から吐き出される。何事もなかったかのように真琴に声をかける。

「来たのか」

「ええ」

真琴は頷き、事務的に返事する。

「先に着替えてきます」

そう言って、美智子から服を受け取ると寝室へ向かった。

ドアの前に立った時、中から由美が耳元の髪をかきあげながら出てきた。

真琴は思わず足を止めた。

由美……本当に帰ってきてたんだ。

彼女の姿を見て、由美も一瞬驚いたようだったが、すぐに落ち着きを取り戻し、笑顔で話しかける。

「来たのね」

そして、子供をあやすように真琴の頭を軽く叩いた。

「お疲れ様、真琴ちゃん」

無意識に服を抱く腕に力がこもり、真琴はなんとか笑顔を作って言う。

「いえ、由美さん、お気遣いなく」

かつては知らなかった。由美が信行の初恋の相手であることも、信行が今も由美を愛していることも。

でなければ、信行の祖父に孫のことが好きかと聞かれた時、頷くことはなかっただろう。信行もプレッシャーで自分と結婚させられることもなかったはず。

そうすれば、今、自分もこんな辛い思いをすることもなかった。

信行という男は、仕事ぶりは常に迅速で徹底しており、非の打ち所がない。興衆実業を率いるようになってからは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだ。

年上の重役たちでさえ、彼には一目置き、頭が上がらない。

そんな慎重な人間が、こと私生活になると、これほどまでに隙だらけになる。

きっと、この結婚がよほど不満なのだろう。だからこんな方法で真琴を辱め、お爺様への当てつけにしている。

由美は手を下ろし、彼女の横を通り過ぎていく。真琴は無意識に振り返る。

出てきた由美を見て、信行はジャケットを手に取り、優しく言う。

「これを着ていけ。風邪をひくなよ」

「心配しすぎよ、信行」

由美は幸せそうに微笑んでいる。

二人を見つめながら、真琴の胸に様々な感情が入り混じる。

あの時、火事の中から自分を抱き出してくれたのに。昔はあんなに優しくて、気遣ってくれたのに。

信行とは、どうしてこうなってしまったのだろう?

しばらく二人を見つめた後、真琴は服を抱えたまま、一言も発さずに寝室へ入った。

由美と同じ白いワンピースに着替えて出てくると、彼女はもういなかった。

健三と美智子の姿もない。

しかし、外からまた激しくドアをノックする音が響く。

「片桐社長、離婚されるというのは本当ですか?」

「片桐社長は、内海由美さんとご一緒だったのですか?」

もしさっき、信行と由美の決定的な写真が撮られていたら、明日の興衆実業の株価は大混乱に陥っていただろう。

組んでいた足を下ろし、持っていたスマホを放り投げると、信行はバスローブ姿のまま、気だるげに立ち上がってドアを開ける。

「片桐副社長は離婚後も会社に在籍されるのでしょうか?副社長は離婚でどれくらいの財産分与を受けられるのですか?」

「片桐社長、今最も注目しているのは、お二人様の離婚協議です。興衆実業の株は副社長に譲渡されるのでしょうか?」

寝室のドアの前で、真琴は思わず乾いた笑いを漏らす。離婚するだなんて、メディアは随分と先見の明があることだ。

ドアの前に群がる人々を見て、真琴は気持ちを切り替え、しなやかな足取りで信行の後ろに歩み寄る。

細く白い腕をそっと彼の腰に回し、その肩に顎を乗せ、真琴は甘い声で尋ねる。

「あなた、どうしたの?」

その優しい腕と親しげな呼び声に、信行は背後を振り返る。

「片桐……副社長?」

「副社長?」

「内海由美じゃない、片桐副社長だ!」

真琴の登場に、記者たちは必死にシャッターを切るが、その表情は失望に満ちている。信行の大スキャンダルを掴んだと思ったのに。

結局、また真琴だった。

真琴が腰に回した手を離さないまま、信行は記者たちに向き直り、気だるげに尋ねる。

「まだ何か?」

「申し訳ありません、片桐社長、副社長。お邪魔いたしました」

「申し訳ありません。お休み中を失礼しました」

慌ただしく謝罪の言葉を述べると、記者たちはぞろぞろと立ち去っていく。

ドアが閉められ、信行が振り返ると、真琴はさっと彼から手を離し、説明しようとする。

「記者たちへの対応をしただけ」

その態度はよそよそしく、丁寧だった。

信行は気にも留めず、コートハンガーに向かうと、真琴に背を向けたままバスローブを脱いだ。

広い肩に引き締まった腰。肌は白い。

日頃から鍛えているため、余分な贅肉は一切ない。

真琴は顔を赤らめ、それ以上見る勇気もなく、小声で言う。

「じゃあ、会社へ戻ります」

信行が振り返ると、真琴はすでにドアを開けて去っていくところだ。

しばらくの間、じっとドアの方向を見つめていた。

そして、服を着替え続けた。

*

帰り道、真琴は両手でハンドルを握りながら、心身ともに疲れ果てていた。

胸が締め付けられるように苦しい。

先月の健康診断で、医者から小さな結節があると言われた。気持ちを穏やかに保ち、定期的に検査を受けるように、と。

結婚前は、こんなものなかったのに。

ちらりと助手席に置いた離婚協議書に目をやり、真琴はまたどうしようもない気持ちになった。

さっきホテルまで持っていったのに。

また持ち帰ってきてしまった。

この三年間、数え切れないほど離婚を考えた。でも、その度に信行が火の中から自分を抱きかかえて飛び出してくれた時のことを思い出し、踏みとどまってしまう。

この協議書を突きつけて、信行があっさり同意してしまったら、もう後戻りはできない。それが怖い。

だから、この協議書はずっと手元に置いたまま。

……

スキャンダルが片付くと、すべてはまた日常に戻った。

いつも通りに。

その日の午前、真琴が会議室の前を通りかかると、中で会議が開かれている。

「また計算し直しかよ?信行、もう六回もやったぜ」

「やっぱり真琴は運がいいわよね。結婚しただけでトントン拍子に出世して。企画書も作らずに、クライアントの書類にサインするだけなんだから」

「羨ましい?私たちには彼女みたいな腕利きでもないし、人心掌握術もないし、それに何より、あんなに我慢できる人間でもない。一昨日の夜のトレンド見た?また信行の尻拭いに行ったんでしょ。本当にできた奥さんだね」

二人の女性が話し終えると、今度は男性の声が聞こえる。

「ねえ、一昨日の夜、真琴がホテルに行った時、お前と由美は真っ最中だったって聞いたぜ。マジで酷いことするよな。真琴、泣かなかったのか?」

彼らの話を聞きながら、信行は笑って問い返す。

「どこで聞いたゴシップだ?面白いじゃないか」

あの夜、由美と食事をしていただけで、ウェイターがジュースをこぼしたから、上の階で着替えただけだ。

だが、信行は説明しなかった。他人がどう言おうと気にしないし、ましてや真琴が喜ぶかどうかなんて、どうでもよかった。

「信行、真琴じゃ家柄が釣り合わないんだから、さっさと離婚しなよ。他の人にもチャンスをちょうだい」

ドアの外。

満面の笑みを浮かべ、まるで他人事のように自分の浮気話を語る信行。

真琴はただ、彼をじっと見つめている。

信行が今進めているのは政府系のプロジェクトで、仲間内の数人が担当している。

こういうプロジェクトに、信行は決して真琴を関わらせようとはしない。

結婚してから、彼の生活や友人関係に、彼女は一切足を踏み入れることができない。結婚前よりも、関係は希薄になっていた。

その時、篠井拓真(ささい たくま)が気だるげに椅子に寄りかかり、信行を見ながら言う。

「おい、信行。こいつらの言うことなんて聞くなよ。会社じゃ真琴ちゃんがお前のために切り盛りして、家じゃ真琴ちゃんもお前の面倒を見てる。

お前が外で遊び呆けてる間、真琴ちゃんは文句も言わずに後始末までしてくれる。こんな妻、他にいるか?

二百年前に生まれてたら、あの献身ぶりは『妻の鑑』として表彰ものだぞ。そんな嫁さんを大事にしないで、バチが当たるぞ」

拓真の言葉に、納得しない者もいる。

「見て見ぬふりをするだけじゃない。信行、そんなことなら私の方が真琴よりうまくやれるわ。もし本当に離婚するなら、私が相手になってあげる。私の持参金、真琴なんかよりずっと多いわよ」

「詩織、お前の出番はないさ。まだ由美がいるんだから」

上座に座る信行は、小林詩織(こばやし しおり)に向かい、笑いながら言う。

「じゃ、じいさんによろしくな。持参金の準備をしておけってさ」

会議室は笑い声に包まれている。真琴は静かに背を向けて、黙ってオフィスへ戻った。

彼女の家柄は、確かにごく普通だ。

母は教師で、真琴が八歳の時に病気で亡くなった。父は警察官、数年前に出動中に殉職した。

祖父は元自衛官だったが、高級幹部でもなく、信行の祖父の運転手を務めていた。

だから彼女と信行は、幼い頃からの知り合いだ。

結婚した後、信行の祖父は真琴を会社の副社長に据え、孫の仕事を補佐させる。

補佐というと聞こえはいいが、実際は信行を見張らせるため。

残念ながら、彼女は見張ることができなかった。

引き出しから離婚協議書を取り出し、真琴はそれを長い間見つめている。

本当はとっくに自分を騙すのはやめるべきだ。とっくに分かっているはず。信行を待っていても無駄だということを。

ふと、もう頑張るのはやめようと思う。

彼が幸せを追求する上での足手まといになりたくない。

そして、信行が会議を終えるのを待って、彼の元へ向かった。

社長オフィスのドアの前に着くと、ちょうど中から信行がドアを開けて出てきた。

真琴を見て、少し驚いた。

「何か用か?」

真琴は答える。

「いくつかサインしてほしい書類があるんですが」

信行は振り返ってデスクの前に座り、サインペンを手に取る。

いくつかの仕事の書類にサインしてもらった後、真琴は二通の離婚協議書を差し出し、淡々と言う。

「都合のいい時でいいわ、離婚しましょう」

ペンを握った右手が宙で止まり、信行はただ真琴を見つめている。
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岡田由美子
正解¡ こんな不誠実なヤツはあなたには必要ない
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