Masuk真琴の驚きをよそに、信行は何事もなかったかのように部屋の奥へと足を踏み入れた。ベッドのそばまでやってくると、腰をかがめ、すっと手を伸ばして彼女の額に触れる。「俺が入ろうと思えば、どうとでもなるさ」その声音は、驚くほど優しかった。彼の言葉を聞き、真琴は少しだけ警戒を解いた。伏し目がちに視線を落とし、力のない声で呟く。「紗友里から聞いたのね……私が倒れたこと」自分の体調不良を伝えたのは、紗友里ただ一人だ。今日の午後、彼女が医者を連れてきて、山のような薬を置いていってくれたばかりだった。真琴の問いかけに、信行は額に当てていた右手をそのまま滑らせ、彼女の頬をそっと撫でた。「ああ。さっき病院で、紗友里の口から聞いた」だが実際には、紗友里が自らペラペラと喋ったわけではない。今日に限って真琴が病院に顔を出さなかったため、信行が不審に思って紗友里を問い詰めた。そこでようやく、真琴が高熱を出して寝込んでいることを吐かせた。その後、信行は紗友里から強引にマンションのカードキーを奪い取ってきた。最初は紗友里も頑なに渡そうとしなかったが、信行が本気で顔を曇らせて凄み、見かねた祖母まで説得に加わったことで、ついに折れたのである。頬に触れる彼の手の温もりを感じながら、真琴は自分の右手を持ち上げ、その手をそっと引き剥がした。「もう平気よ。熱も下がってきたし、一晩寝ればよくなるから」どこまでも他人行儀な真琴の態度。信行はそれに反論することなく、静かに尋ねた。「今日は一日中、何も口にしてないんじゃないか?何か……」信行が言い終わるよりも早く。ぐぅぅぅ、と。真琴のお腹が、実に情けない音を立てて鳴り響いた。途端に、信行の言葉がピタリと止まる。二人はそのまま、無言で互いの顔を見つめ合った。真琴が気まずさに顔を染め、何か言い訳をしようと口を開きかけた瞬間、信行が先を越した。「冷蔵庫に何があるか見てくる。何か作ろう」真琴が止める隙も与えず、言葉を続ける。「まだ病み上がりだ。少し消化のいいものにしておく」ゆっくりと身を起こす信行を見上げ、真琴は慌てて引き留めようとした。「いいのよ、自分でデリバリーでも……」「いいから」信行は振り返り、真琴を見下ろして短く遮った。「そんなに遠慮するな
あれからずっと考え続け、渚はある結論に達していた。あの時、信行は真琴と一緒にいたはずだ。彼女に対する誠意を示すために、わざと自分へあんな冷酷な態度をとってみせたに違いない。そう思い至ると、渚は真琴の瞳を真っ直ぐに見据え、握り合う手に思わずギュッと力を込めてしまった。突然の強い圧に驚き、真琴は顔を上げて渚を見る。視線がぶつかり合う。渚は引きつったような笑みを浮かべ、慌てて真琴の手を離した。「西脇博士とお近付きになれて、大変光栄ですわ」心にもないお世辞を並べ立てる渚に対し、真琴は軽く微笑んだだけで何も答えなかった。その後、幸子に呼ばれてベッドの傍らに腰を下ろす。しばらく他愛のない会話を交わしてから、真琴は早々に別れの挨拶をして席を立った。渚とその祖父がまだ滞在しており、すぐに帰る気配もなかったからだ。部外者である自分が長居するよりも、彼らに時間と空間を譲るべきだと判断した。……夜の8時過ぎ。真琴が自宅マンションに戻った頃、光雅から一本の電話が入った。急用ができ、浜野へ一度戻らなければならないという。それを聞き、真琴も本来なら一緒に行きたかった。しかし光雅は首を縦に振らない。「お前が今戻れば、おそらく二度とこっちへは帰ってこられない。もう少し待て。この熱狂が冷めるまで辛抱しろ」そこまで言われてしまえば、真琴も食い下がるわけにはいかない。おじい様とおばあ様によろしく伝えてほしいとだけ頼み、同行を諦めた。光雅が浜野市へ発った後、真琴の業務量は普段よりも格段に跳ね上がった。東央システムズでの日常的な決裁や事務処理まで、すべて彼女の肩にのしかかってきた。それに加え、帝都大学での講義も控えている。事前のシラバス作成や教材準備にも追われ、まるで独楽のようにせわしなく回り続ける日々を送ることになった。ある日の朝。スマートフォンのアラーム音が鳴り響く中、真琴は両腕を目の上に乗せたまま、ピクリとも動けなかった。頭は鉛のように重く、手足の力が完全に抜け落ちている。ベッドから起き上がることすらできない。次の瞬間、自分の身体が明らかな異常をきたしていることに気づいた。目の上に乗せていた腕をわずかにずらし、手の甲を額に当てる。しまった……熱がある。ここ最近の過労がたたり、ついに身
そう思えば、彼と向き合う時もずっと気が楽になる。リビングの中央に立ち、真琴は振り返って玄関の扉をじっと見つめ続けた。やがて、ゆっくりと視線を外す。ドアの向こう側。信行もまたその場にしばらく立ち尽くし、物思いに耽ってから、踵を返してマンションを下りていった。すぐに車を出そうとはせず、運転席に深く座り込む。真琴の部屋がある階を長いこと見上げながら、過去の記憶をいくつも反芻していた。……それからの数日間。真琴は仕事終わりに時間が空けば、紗友里と一緒に病院へ足を運び、幸子の話し相手になった。帝都大学の方でも、シラバスを受け取った真琴は正式に教壇に立ち始めた。学生たちの反響は凄まじかった。巨大な多目的講義室が超満員になるだけでなく、他大学からも多くの学生が潜りで聴講に訪れるほどの熱狂ぶりだ。一方、浜野側は相変わらず光雅に圧力をかけ続けていた。一刻も早く真琴を送り返せ。上層部はすでに新規プロジェクトを立ち上げ、真琴が戻って責任者に就くのを待っている状態だ、と。光雅は一切取り合わなかった。浜野市の幹部たちが直接真琴に電話をかけてきた時など、光雅は烈火の如く怒り狂った。西脇家と東央システムズの決定権はすべて自分にある。真琴に直接連絡してきても無駄だ、と一喝して退けた。そんな光雅の絶対的な庇護を目の当たりにし、真琴はますます研究開発に没頭した。西脇家のため、そして東央システムズのために、もっと巨大な利益を創出したかった。ある日の夕方。迎えに来た紗友里と連れ立って、真琴は幸子の病室へ向かった。ドアを押し開ける。するとそこには、渚と成瀬家当主の耕太郎が面会に来ていた。由紀夫も同席しており、耕太郎と談笑しているところだった。室内の顔ぶれを見た瞬間、紗友里の顔色は一気に曇り、あからさまにうんざりしたように天を仰いだ。この二人が来てるって分かってたら、今日は真琴を連れてこなかったのに。ベッドの上の幸子は、真琴と紗友里が顔を出したのを見るなり、先ほどまでの仏頂面が嘘のように花が咲いたような笑顔になった。「真琴ちゃん、よく来てくれたね。さあさあ、こっちへ座りなさい」幸子のあまりにも熱烈な歓迎ぶりに、顔を上げた渚の表情からすっと笑みが消え失せた。さっきからかなりの時間、ここで幸子の話し相手
信行が部屋の前まで送っていくと言って譲らないため、真琴はとくに抵抗することなく彼に従った。結局のところ、そんなことにもはや意味などないからだ。やがてエレベーターを降りる。真琴はすぐに鍵を取り出すことはせず、振り返って信行と向き合った。「着いたから、もう帰って」そして、静かに言葉を付け足す。「お婆様のことは心配しなくていいわ。きっと大丈夫だから」真琴の慰めを聞き、信行は伏し目がちに彼女を見つめた。無意識に右手がポケットから抜け出し、彼女の頭へと伸びていく。ただ、撫でたかった。触れたかった。それだけだった。信行の手が伸びてきた瞬間、ふと顔を上げた真琴の視線が、彼の左手薬指でぴたりと止まった。意図したわけではない。かつて何度も見つめていた場所に、無意識に目が向いてしまっただけだ。真琴の視線に気づき、彼女へと向かっていた信行の右手が空中でぴたりと静止する。そのまま、彼自身も自分の薬指へ視線を落とした。指輪のことだ。彼がこの指輪をはめていた頃、由美もまた、成美が遺したもう一つの指輪を身につけていた。聞くまでもない。真琴は間違いなく、由美の指輪を見たことがあるはずだ。そして十中八九、自分と由美がペアリングをつけていると誤解していたに違いない。自身の薬指をしばらく見つめた後、信行は真琴の瞳の奥に明確な距離感を見た。空中に浮いていた右手は、行き場を失ったようにゆっくりと下ろされていく。今の信行は、真琴に静かに見つめ返されるだけで、説明のつかない後ろめたさに苛まれてしまう。かつてあれほど彼女の感情を踏みにじっていたくせに、今になって誰よりも彼女の心を気にしている。右手をゆっくりとポケットに戻しながらも、信行の視線は真琴の顔から外れなかった。真琴は何事もなかったかのように、真っ直ぐに彼を見返している。視線が交差する。真琴が何かを口にしようとしたその時、信行が先に沈黙を破った。「あの指輪は、由美とのペアリングじゃない」信行の唐突な釈明に、真琴は小さく頷いた。「知ってるわ」知っている。すべて知っている。あの指輪が成美から由美へと遺されたもので、彼と成美のペアリングだったということを。そこには、彼と成美の名前が刻まれているということも。ただ、そんなことは
幸子のあからさまな誘導に、真琴は苦笑いを浮かべて頷くほかなかった。「分かりました、お婆様」祖母の思惑など手にとるように分かる。だが、いくら二人きりの状況を作られたところで、自分と信行の関係が今さら変わるはずもない。真琴が大人しく従うのを見て、幸子は真顔で信行の方を向いた。「何をぼんやりしているんだい。早く真琴ちゃんを送っておやり」その言葉を合図に、信行はすかさず真琴のバッグを手に取り、彼女を促して病室を後にした。つい先ほどまで病室に満ちていた賑やかな空気が、ドアを閉めた瞬間にスッと消え去る。今夜の信行は、ほとんど口を開かなかった。ただ黙って、真琴と紗友里が祖母と談笑するのを静かに聞いていた。エレベーターホールに到着し、到着音が鳴る。ドアが開いた瞬間、中から足早に降りてきた見知らぬ客が真琴にぶつかりそうになった。スッ、と信行が腕を伸ばす。そのまま真琴の肩を抱き寄せ、流れるような動作で客を避けた。信行の胸元に軽くぶつかった真琴は、すぐに身を引いて小さく口を開く。「ありがとう」「気にするな」降りる客をすべて見送ってから、二人はエレベーターに乗り込んだ。箱の中は彼ら二人だけ。重苦しいほどの静寂の中、換気扇の低い駆動音だけが単調に響き続けている。1階に降り立つと、信行は車を回してくると言い残して小走りで向かった。真琴はその間に彼から自分のバッグを受け取り、エントランスで待つ。やがて、滑るように近づいてきた黒のマイバッハが目の前に停まった。真琴は助手席のドアを開け、身を屈めてシートに収まる。車が走り出しても、車内は静まり返っていた。結婚前、あれほど尽きることなく語り合っていた二人が、今では嘘のように押し黙っている。しばらく走っていると、信行がしきりに横目でこちらを窺っていることに気づいた。真琴は視線を前へ向けたまま尋ねる。「お医者様はなんて?手術の予定は決まったの」両手でハンドルを握りしめ、信行がちらりと真琴に顔を向ける。「医師からは手術を勧められている。来週の火曜に決まった」「そう。それならお医者様の指示に従えば大丈夫よ。今の医学は進歩しているから、お婆様もきっと良くなるわ」真琴の慰めに、信行は不意に話題を切り替えた。「お前の方はどうなんだ。浜野との話は
入り口の物音に反応して、信行と祖母が同時に顔を上げた。そこに真琴の姿を認めた瞬間、二人の目がパッと輝きを放つ。驚きのあまりしばらく真琴を見つめていた幸子だったが、やがて我に返ったように顔をほころばせた。「おお、真琴ちゃん、来てくれたのかい。さあさあ、早くこっちへおいで」熱烈な歓迎を受け、真琴はお見舞いの品と花束をサイドテーブルに置いた。微笑みながらベッドに近づき、しわがれたその手を両手でそっと包み込む。「お婆様、お加減はいかがですか?どこか苦しいところはありませんか」真琴の柔らかい手の温もりを感じながら、幸子は感慨深げに目を細めた。「大した病気じゃないんだよ。歳をとれば、誰だってどこかしらガタがくるものさ」そう言って、空いているベッドの端をポンポンと叩く。「ほら、ここにお座り」その言葉に従おうとして、真琴はふと視線を上げて信行を見た。信行は穏やかな声で短く挨拶してくる。「来てくれたんだな」「ええ」特に感情を交えることなく淡々と応じ、そのまま祖母の隣に腰を下ろした。真琴が来てくれたことで、幸子の病は瞬時に半分ほど治ってしまったかのようだった。彼女の手をしっかりと握りしめ、弾むような声で語りかける。「おじいさんから聞いたよ。今度の論文はものすごく素晴らしい出来で、技術的にもずば抜けているんだってね。誰も思いつかないようなことを証明して見せたって、今じゃ一番すごい科学者だって大絶賛だったよ」真琴が口を開くより早く、幸子は言葉を続ける。「ついさっき、信行からも聞いたばかりなんだよ。帝都大学の准教授として迎え入れられて、毎週学生たちに講義をするそうじゃないか。一番若い先生だなんて、本当にすごいことだよ」真琴の快挙を語る祖母の顔は、これ以上ないほど誇らしげだった。大喜びする幸子の手を優しく揉みほぐしながら、真琴は穏やかな声で返す。「これもただの仕事の一つに過ぎませんよ」世間から見れば大騒ぎするような偉業でも、真琴自身はごく当たり前の日常として受け止めている。その果てしなく謙虚で落ち着き払った横顔を、信行は深い感嘆と優しい眼差しで見つめていた。今の真琴は、眩しいほどに輝いている。真琴の言葉を受け、幸子はさらに身を乗り出して尋ねた。「ねえ真琴ちゃん、帝都大学で教鞭をとるという







