Masuk真琴の気遣わしげな眼差しに、紗友里はふっと笑みをこぼした。「心配しないで。何かあったら、真っ先に真琴に話すから」真琴は紗友里の両肩に手を添え、優しく腕の中から押し戻す。真っ直ぐに瞳を覗き込み、言い含めるように告げた。「自分で言った言葉、ちゃんと覚えておいてよ」射抜くような澄んだ瞳を受け止め、紗友里の胸の奥がチクリと痛む。後ろめたさを誤魔化すように視線を泳がせた。「わかってる、わかってるってば。真琴は心配しなくていいから」慌てて話題を切り替える。「それより何食べたい?どこか美味しいお店に行こう」助手席で背筋を正し、真琴が答えた。「任せるよ。紗友里の好きなものに付き合う」「よし、じゃあ私についてきて」車を発進させながら、紗友里の脳裏にふと、先日光雅と訪れた食事処がよぎった。だが彼と過ごした場所だと意識した瞬間、慌てて頭から追い出す。ここ数日、ようやく心の整理をつけたばかりだ。同じ景色を目にして、いたずらに感傷を呼び覚ましたくはなかった。紗友里はアクセルを踏み込み、以前からよく足を運んでいたガーデンレストランへとハンドルを切った。見晴らしのいいテラス席に案内され、運ばれてきた料理を前に、ふたりは他愛のないお喋りに花を咲かせた。楽しげに笑い合い、場が和んでいたその時、テーブルの上のスマホが唐突に震え始めた。伏し目がちに画面へ目を落とすと、美雲からの着信だった。母はここ数日、旅行に出ていたはずだ。こんな時間に突然どうしたのだろう。紗友里は端末を取り上げ、通話ボタンを押した。「もしもし、お母さん」受話口から、美雲の切羽詰まった甲高い声が矢継ぎ早に飛び込んでくる。「紗友里!いまニュースを見たのよ。信行が現場の視察中に怪我をしたって!すぐに様子を見に行ってちょうだい。どんな状態なのか早く知らせてくれないと、心配で居ても立ってもいられないわ!」尋常ならざる取り乱しように、紗友里も咄嗟に声を張った。「お母さん、落ち着いて!今すぐ武井さんに連絡して現場に向かうから」紗友里の切迫した受け答えに、向かいの席の真琴がハッと顔を上げた。箸を伸ばしかけていた手が、宙でぴたりと止まる。通話が切れるのを待ち、真琴は身を乗り出すように尋ねた。「何かあったの?」その問いかけに、紗友里は唇
30分後、車は東央システムズのビル前へ滑り込んだ。助手席を降りた真琴が伏し目がちに会釈する。信行は両手をハンドルに置いたまま、目を合わせて小さく応じた。「ああ」その眼差しには、隠しようもない寂しさが滲んでいる。部屋で避妊薬を水で流し込んでいた真琴の姿が脳裏をよぎるたび、胸中の翳りはさらに濃くなった。ビルの中へ消えていく真琴の背中を、信行は微動だにせず見つめ続ける。その姿が完全に視界から消え去ってから、ようやく重く息を吐き出し、前を向き直った。そのまま車を静かに発進させ、東央システムズを後にする。興衆実業へ戻る道中も、信行の気分は沈み込んだままだった。真琴の頑なさは承知していたし、長期戦も覚悟していた。それでも、あれほど露骨に警戒して避妊薬を飲む姿を見せつけられれば、胸が痛まないはずがない。コンソールボックスから煙草とライターを取り出し、眉間を寄せて火をつける。窓を少し開け、煙草を挟んだ左手を窓枠に預けた。晴れることのない重苦しさが、心の底に澱のように溜まっていく。*一方、東央システムズ。自室のオフィスに戻るや否や、真琴は一転して仕事へ没頭した。その切り替えの早さと割り切りぶりは、信行よりも遥かに徹底していた。夕方5時を回った頃、ラボでの作業を終えて戻った真琴のスマホが鳴った。紗友里からで、今夜一緒にご飯を食べないかという誘いだった。資料をめくりながら、真琴は肩と頬の間にスマホを挟んで応じる。「今、手空いてる?忙しくないなら、先に東央まで来て合流しない?ついでに車に乗せていってよ」すると電話の向こうで、紗友里が慌てたように捲し立てた。「下で待ってるから!上には行かない」あの日、光雅と差し向かいで話を清算して以来、紗友里の世界から彼の存在は消え去ったようだ。東央の上階へ足を踏み入れる気など微塵もない。光雅と出くわす隙など絶対に作りたくなかった。顔を合わせることすら億劫だった。紗友里の断固とした口調に、真琴は深く勘繰ることもなく頷く。「わかった。じゃあ着いたらメッセージ入れて。すぐ降りるから」「了解」短く約束を交わし、通話を切った。*30分後、フロアの社員がほとんど引き揚げた頃、ビル下に到着したと紗友里から連絡が入った。真琴は手早く支度を済ませて
翌朝、信行が目を覚ました時、真琴はすでに起きていた。パジャマ姿の彼女は、グラスを片手に薬を口へ含んでいるところだった。目覚め一番に薬を飲む姿を視界に捉え、信行の全身に咄嗟の緊張が走る。慌ててベッドから上体を起こし、真っ直ぐ見据えて問いかけた。「どこか具合でも悪いのか」唐突な問いかけに、真琴は一瞬驚いたように身じろぎした。だが、すぐに平静を取り戻す。信行の言葉には答えず、柔らかく口元を綻ばせた。「起きた?」その何気ない様子に、信行は小さく胸を撫で下ろした。乱れた前髪を無造作にかき上げながら、改めて真琴を見つめる。「どうしたんだよ。朝っぱらから薬なんて……どこか痛むのか」矢継ぎ早に繰り出される心配に、真琴は手にしたグラスを置いた。穏やかな声で淡々と応じる。「昨日の夜、ゴムなかったでしょ。万が一に備えて、念のため」他愛のないことのように告げられた一言に、信行の眼差しがぴたりと凍りついた。言葉を失い、信じがたいものを見るように真琴を凝視する。体調を崩したのかと焦っていた。だが、まさか避妊薬を飲んでいたとは夢にも思わなかった。剥き出しの衝撃を受け止め、真琴の胸の奥にも微かな後ろめたさがよぎる。射るような視線からすっと目をそらし、弁解するように言い添えた。「思いがけず妊娠するのも困るし、子供のことなんて考えてないから」その言葉を聞いた瞬間、信行の心はさらに冷え切っていった。子供のことなんて考えてない、だと?結婚したばかりの頃、真琴はあれほど子供を欲しがっていたはずだ。幼い頃の一番の夢だって、お母さんになることだった。子供のことなど考えていない――反芻するほど、胸の内に苦々しい自嘲が込み上げてくる。子供を考えていないわけではない。ただ、自分との子供を産みたくないだけだ。微動だにせず見つめ続けた後、信行は隠しきれない寂しさを滲ませ、低く掠れた声で呟いた。「どうしても、そうしなきゃいけないのか?そこまで警戒しなきゃならないのか?俺はそこまで信用に値しないか?」責め立てるような問いに、真琴もわずかに眉間を寄せる。一度視線を伏せてから見つめ返し、静かに告げた。「わかってるでしょ。成瀬さんに薬を盛られでもしなきゃ、こんな関係になるはずなかった。前にもはっきり伝えたはず
浴室から上がると、紗友里はベッドにうつ伏せになって真琴へ電話をかけた。他愛のないお喋りに興じながら、週末に遊ぶ約束を取り付ける。*電話の向こうの真琴も、同じように風呂から上がったばかりだった。ベッドに身を横たえて電話に応じる。その間、信行はバスルームでシャワーを浴びていた。ほどなくして、腰にバスタオルを巻いた信行が浴室から出てくる。ベッドの上で楽しげに通話する真琴の姿に、思わず口元を綻ばせた。普段なら時間を惜しむ真琴が、こうして誰かと気ままな長電話を楽しむ余裕がある。最近のふたりの関係は順調で、真琴の機嫌も心のコンディションもすこぶる良いらしい。濡れた髪を拭きながらベッドサイドへ歩み寄り、タオルを脇へ放り出す。身をかがめて真琴の顔を覗き込むと、指先でその顎をちょんとつまんだ。意地悪そうに問いかける。「誰とそんなに盛り上がってるんだ?普段は俺とろくに話してくれないくせに」紗友里からの電話だと百も承知で、わざと軽口を叩いている。不意に顔を近づけて囁かれ、真琴は咄嗟にスマホの送話口を手で覆った。信行を見上げ、声を潜めて窘める。「紗友里よ」続けて、真剣な口調で言い含めた。「声を出さないで。紗友里にはまだ私たちのこと話してないんだから」信行は顎をつまんでいた指を離し、どこか拗ねたような皮肉混じりの声を返す。「へえ、まだ俺の存在を隠しておきたいわけだ。はいはい、ごゆっくりどうぞ」口先では身を引く素振りを見せつつ、そのままベッドの上へ滑り込んだ。すぐさま背後から真琴を抱き込み、悪戯っぽくちょっかいを出し始める。覆いかぶさるようにじゃれついてくる彼に、真琴は再び送話口を押さえた。振り返ってその顔を睨みつける。「ちょっと、悪ふざけはやめて」牽制するように言葉を重ねた。「これ以上邪魔するなら、部屋の鍵の暗証番号変えるから」だが信行は真琴をすっぽりと腕の中に閉じ込め、耳元へ唇を寄せて甘くねだる。「そろそろ寝よう。紗友里との電話、切ってくれ」熱い舌先が柔らかな耳たぶをかすめた瞬間、真琴の全身に痺れるような電流が走った。たちまち両脚から力が抜けていく。渚に薬を盛られて以来、真琴の身体は信行の愛撫に対してひどく敏感になっていた。少し煽られるだけで、抗う間もなく快感に引きずり込まれ
片桐家の令嬢という立場を笠に着て、何かしら条件を突きつけてくるのではないか。その強大な影響力を考えれば、光雅はそう身構えていた。だが紗友里はその件に爪の先ほども触れず、あっさりと「心配しないで」と言い切った。光雅は少しばかり虚を突かれた。万が一のことがあれば自分が責任を取る――本当なら、そう口にするつもりだった。訝しむようにじっと注がれる光雅の視線を受け止め、紗友里は無理に口元を綻ばせた。「心配しないで。それくらいの分別なら、私にだってちゃんとあるから」――この一件にかこつけて付きまとったり、困らせたりするつもりはない。紗友里の言葉には、そうした明確な一線が引かれていた。言い終えると、紗友里は俯いて再び食事へと意識を戻す。向かいの席で、光雅はしばらく彼女を見つめていた。やがて静かに視線を落とし、押し黙ったまま箸を動かし始める。だが、紗友里に一切の関与を拒まれ、ひたすら安心しろ、分別はあると繰り返されるほど、光雅の胸の内には少なからぬ罪悪感が芽生えていた。何と言っても、あれは彼女にとって人生で初めての経験だった。*夜7時過ぎ。食事を終えて店を出ると、終始口数の少なかった紗友里を気に留め、光雅が声をかけた。「まだ時間はある。少し歩こうか」唐突な誘いに、紗友里は光雅を見上げて首を横に振った。「今日はあんまり調子がよくなくて……歩くのは遠慮しておく」光雅に会えたことが嫌だったわけではない。ただ、自分からあんな行動に出てしまったことや、ふたりに先などあるはずもない現実を思い出すたび、これ以上距離を縮めたくなかった。これ以上、深みにはまるわけにはいかない。断られた光雅は、しばらく無言で紗友里を見据えていたが、やがて静かに頷いた。「わかった。じゃあ送っていく」そう言って車へと歩み寄り、助手席のドアを開けてみせる。紗友里は小さくお礼を口にして乗り込んだ。車が走り出してからも、紗友里は顔を背け、窓の外の暗がりをじっと眺め続けた。どこか上の空のまま、冷めた静けさに身を浸す。*夜8時、車は片桐本家の門前に滑り込んだ。助手席を降りた紗友里は、ふと運転席の光雅を見下ろし、穏やかな声で口を開いた。「あんまり難しく考えないでね。お互いもう大人なんだし、ちゃんとわきまえてるから」
光雅からの誘いに、紗友里は驚いて顔を上げた。彼の方から夕食を持ちかけてくるなど、夢にも思っていなかった。これまでの彼といえば、ろくに相手すらしてくれなかったのだから。虚を突かれて固まる紗友里は、とっさに断る口実を探す。「あの、友達と約束が……」だが最後まで言い切る前に、光雅の冷ややかな視線がすっと向けられた。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、紗友里は眉を寄せて小さく頷く。「……わかった。行きましょう」紗友里が承諾すると、光雅はそれ以上何も言わず、傍らに佇んでいた。その無言の圧力に促され、我に返る。紗友里はパソコンの電源を落とし、車のキーとスマホをひったくるように掴んで席を立った。ふたりで駐車場まで降りると、紗友里は自分の車へ向かおうとした。だが、光雅が振り返って見下ろしてくる。「車を2台出す必要はないだろ。1台で十分だ」有無を言わせぬ物言いに、紗友里は開けかけたドアをそっと閉めた。好きだからこそ逆らえない。何を言われても、条件反射のように従ってしまう。車が走り出すと、紗友里はあの夜のことを思い出し、押し黙ったまま窓の外へ目を向けた。ガラスにうっすら映り込むふたりの影をぼんやり見つめる。ふと、信行が真琴にしてきた数々の仕打ちへの報いが、今こうして自分に降りかかっているのではないかと思えてきた。真琴が味わってきた苦しみを、今度は自分がそのままなぞっている。ふたりとも、愛しながら決して報われない。しかも光雅は、真琴の兄だ。――因果応報ね。信行の実の妹に生まれたのだから、仕方がないのかもしれない。*しばらく走り、食事処の前に車が停まった。紗友里は光雅の後に続いて降りる。店員に案内されて席に着くと、光雅は手早く2品ほど注文を済ませ、メニューを渡してきた。「好きなものを頼んでいい」物思いに沈んでいた紗友里はハッと顔を上げ、慌てて受け取ると好物を2品頼んだ。実のところ、食欲などほとんどない。まして光雅と差し向かいの食事では、余計に心ここにあらずになってしまう。運ばれてきた小鉢をつまみながら、光雅は適当に話題を拾い、ぽつりぽつりと紗友里に言葉を投げかける。紗友里も薄く微笑んで相槌を打つものの、以前彼に向けていたような屈託のない明るさは消え失せていた。