Masukあの頃の真琴は、信行に対して本当に心の底から絶望していたのだろう。「真琴を大切にしないと、後で絶対に後悔するぞ」と、以前から何度も忠告してきたはずだ。結局、そのツケがそっくりそのまま自分に回ってきたというわけだ。二人が復縁できるかどうかについては、拓真は何も口にしなかったし、その手の慰めも一切言わなかった。あまりにも現実味がなさすぎるからだ。結婚していたあの数年間、信行は修復の余地など残さないほど彼女を追い詰めていたのだから。拓真の言葉に信行は黙ったままだったが、脳裏には三年以上前の出来事ばかりが次々と浮かんでいた。自分が真琴にどれほど酷いことをしてきたか。彼女が以前、どれほど自分を好きでいてくれたか。あの日記帳に綴られていた、切実な言葉の数々を。しばらく黙り込んだ後、拓真を見て言った。「もう遅い時間だ。帰って休め」だが、拓真は心配そうに尋ねる。「本当に残らなくていいのか?お前、一人で大丈夫か?」信行はふっと笑い、少し力のない声で言った。「お前が思っているほどヤワじゃないさ。それに、まだそこまで追い詰められたわけじゃない。五十嵐に負けるとは限らないだろう」その言葉を聞いて、拓真はようやく安心したように言った。「そうか、その意気があるなら大丈夫だな。じゃあ、俺は先に帰る」そう言って、ソファにかけてあった自分の上着を手に取り、病室を出て行った。拓真が去ると、元から静かだった病室は、さらにシンと静まり返った。一人ベッドに座り込んでいても、信行に眠気は一向に訪れない。頭の中は真琴のことでいっぱいだった。「信行……私、これからお父さんがいなくなっちゃうの」「信行、私、ずっとあなたとお友達でいていい?ずっと一緒に遊んでくれる?」「信行……」過去のあれこれを思い返せば返すほど、真琴が以前どれほど自分や片桐家に依存していたか、自分がどれほど彼女を誤解していたかを思い知らされ、信行の胸は強い罪悪感で締め付けられた。窓の外へ目を向けると、まん丸な月が浮かんでいる。その光の中に真琴の顔が見えた気がしたが、もう二度と、彼女といたあの頃には戻れない。……翌日の午前中。真琴がホテルのレストランで朝食をとっていると、紗友里がやって来た。椅子を引いて向かいに座るなり、紗友里は空気が抜けた風船
ドアの前に歩み寄り、真琴は声を潜めて尋ねた。「……どなた?」すると、扉の向こうから穏やかな男の声が返ってきた。「俺だ」光雅の声だと分かり、真琴はドアのロックを外した。そして尋ねる。「東都に戻るのは二日後じゃなかったの?どうしてこんなに早く?」その柔らかな問いかけに、光雅は答える。「用事が片付いたから、戻ってきた」真琴が扉を大きく開けると、光雅が中へと入ってきた。真琴もドアを閉め、彼の後を追って部屋の奥へと進む。デスクの前に立ち止まった光雅は、ふと振り返り、真琴に向かって言った。「中原(なかはら)さんが言っていたぞ。十時過ぎに、ホテルの前で五十嵐と片桐が顔を合わせていたと」真琴が口を開く前に、彼は言葉を続ける。「片桐の奴、おそらくお前の正体に感づいているな」それを聞いても、真琴は驚く様子もなく、感情を波立たせることもなく、ただふっと笑った。「知ろうと知るまいと、大した問題じゃないわ。辻本真琴はもう死んで、戸籍も抹消されているのよ。私が認めない限り、彼がいくら真実を知っていても意味がない。仮に今さら認めたとしても、もう何の意味もないしね」いかなる時も感情を乱さない彼女の姿を、光雅は高く評価していた。どれほど重大な局面でも決して取り乱すことなく、どっしりと構えている。これほど肝の据わった女性は、そういるものではない。ポケットに両手を突っ込み、彼は言う。「お前が気にならず、ペースを乱されないなら、それが一番だ」その後、二人は少しだけ言葉を交わし、光雅は「夜も遅いから休め」と促した。これ以上、夜中まで仕事などするなと念も押す。こんな深夜に押しかけて邪魔をするつもりはなかったが、下から見上げた時に彼女の部屋の明かりが点いているのが見え、思わずノックしてしまった。光雅を見送り、真琴はドアを閉めた。ベッドに戻り、薄い掛け布団を引き寄せて背もたれに寄りかかると、サイドテーブルの本を手に取る。しばらくページをめくり、やがて心地よい眠気が訪れたところで、ようやく明かりを消して眠りについた。……一方その頃、病院。信行は処置室から出てきたばかりだった。度を超えたペースで酒をあおりすぎたせいで、急性胃炎を引き起こしたのだ。胃洗浄を終え、まだ少し熱も残っている。他に
彼が何度も真琴を失望させ、幾度となくその心を傷つけてきた時点で、二人の関係はとうの昔に終わっていた。信行にチャンスなど残されていなかった。貴博をじっと見据えたまま、信行は口元に皮肉な笑みを浮かべ、冷たい声で問う。「いつから真琴の正体を知ったんですか?」その問いで、貴博はすべてを悟った。信行はすでに真琴の正体を突き止めたのだ。おそらく、DNA鑑定でも仕掛けたのだろう。だが、茉琴が真琴であろうとなかろうと、もはやどうでもいいことだ。静かに信行を見つめ返し、貴博は薄く笑った。「初めて再会した時からだよ。彼女は、最初から私に隠すつもりなんてなかった」「……」その言葉に、信行は言葉を失い、ただ相手を見つめることしかできなかった。しばらく貴博を睨みつけていたが、やがてポケットに両手を突っ込んだまま横を向き、視線を逸らした。真琴は貴博に対して一切の警戒心を解いていた。戻ってきて初めて顔を合わせた日から、正体を隠そうともしなかった。押し黙り、自嘲する信行の肩に手を置き、貴博は軽く揉むようにして言った。「信行。一度は手にしたんだ、今さら後悔するのはよせ。それに、今のこの結末は……少なくとも半分はお前自身の責任だろう」その言い方は、貴博なりの最大限の配慮だった。その言葉に、信行は振り返り、冷ややかに笑って言った。「まだ最後まで行ったわけじゃありません。誰が勝つか、勝負はこれからです」だが貴博は、ただ一言だけ告げた。「彼女を困らせるな」無表情のまま肩の上の手をどけ、信行は背を向けて車のドアを開けた。乗り込むなりアクセルを踏み込み、ホテルを後にする。帰りの道中、信行の心はやり場のない苦しさで塞ぎ込んでいた。真琴と話がしたかった。謝りたかった。すべてをきちんと伝えたかった。しかし、彼女は誰にチャンスを与えようと、自分にだけは決して与えようとしない。開け放たれた窓から、夜風が耳元を吹き抜けていく。かつて自分にだけ見せていた親しげな姿と、先ほど貴博に寄り添っていた笑顔が重なった。信行の胸の奥が、ぎりぎりと締め付けられた。拓真を呼び出してバーに向かったが、信行は一言も発することなく、ただ黙々とグラスをあおり続けた。その尋常ではない様子に肝を冷やし、拓真が慌てて腕を掴む。「おい、い
ホテルのエントランス。真琴は両手でバッグを持ち、貴博を見上げて言った。「今日はありがとうございました。わざわざ送っていただいて」その遠慮がちな言葉に、貴博は笑って返す。「そんなに気を使わなくてもいいんだよ」そして、ふと思い出したように言葉を継いだ。「そうだ、博士。明日から二日間、県外へ出張に行ってくる。週末に戻ったら、一緒に食事でもどう?」常に細やかな気配りを見せ、先の予定まできちんと伝えてくれる彼に、真琴はこくりと頷いた。「ええ、喜んで」その後、入り口で少しだけ言葉を交わし、真琴は背を向けてホテルの中へと入っていった。貴博はその場に留まり、彼女の背中を静かに見送っていた。背を向けて歩き出した瞬間、実は真琴も横の駐車場に停まっているマイバッハの存在に気づいていた。信行の車は目立つし、あんな外れた場所に停めていれば、かえって目を引く。だが、彼女は視線を留めることもなく、気にする素振りすら一切見せなかった。先ほどの貴博とのやり取りも、誰かに見せつけるためなどではなく、ただ純粋に彼と向き合っていただけだ。貴博は一緒にいて心安らぐ相手だ。普段はこれといった連絡を取り合わなくても、何の気兼ねもいらない。エレベーターホールに着き、ボタンを押して中へと乗り込む。信行に未練を持たせるつもりもないし、これ以上彼と関わりを持つ気などさらさらない。彼との繋がりは、二年前に既に断ち切っていた。あの時、ちゃんと機会を与えたはずだった。過去を振り返ることなど久しくなかったが、それでもふと二年前の記憶が蘇る。あの夜、「どうしても行くのね?」と尋ねた自分を振り切り、彼は出て行った。「すぐ戻る」と言い残したまま、戻らなかった。あの大火事が起きても、彼が戻ってくることはなかった。エレベーターが到着し、中へ乗り込む。真琴は淡々と前方を見つめたまま、ふうっと長く息を吐き出した。あのような日々に逆戻りするのはもう御免だ。二度と「辻本真琴」に戻る気はないし、信行と関わる気も一切ない。彼への情も、かつての恩義も、とうの昔に手放している。……同じ頃、ホテルのエントランス。真琴を見送った貴博は、振り返りざまに、無意識に信行のいる方へ視線を遣った。少し離れた場所に停まっている彼の車など、とっくに気づ
無言のまま見つめ返す信行に対し、智昭も先ほどのような刺々しさは消え、静かな声で言葉を継いだ。「当時の彼女のうつ病は極めて深刻でした。東都を離れると決意した頃には、すでに物忘れがひどくなり、言葉もうまく出てこなくなっていたんです。これ以上発作が起きるのを恐れ、精神的にも限界でした。それに、もうあなたと揉め続けるのにも疲れ果てていたから、ここを去ることを選んだんですよ。辻本が本当に自ら命を絶たなかっただけ、運が良かったと思うべきです。もしそうなっていたら、あなたは一生その重荷を背負って生きる羽目になっていました」普段の智昭は口数の少ない男だが、今日ばかりはよく喋った。過去の自分の行いを言い訳したいわけではない。ただ、部外者から見ても、真琴のあの結婚生活はあまりにも見ていられなかった。物忘れがひどく、言葉に詰まるようになっていたという事実を聞き、信行の顔色が変わった。その様子を見て、智昭は言う。「辻本の正体を暴くか暴かないか、それはあなたが決めることです。俺が口出しすることではありません」全てを明かした智昭に対し、信行はふっと笑みを浮かべた。「……礼を言うよ、高瀬社長」そう言って立ち上がり、短い挨拶だけを残してオフィスを立ち去った。車に戻った信行はタバコに火をつけ、煙をゆっくりと吐き出しながら、眉間を限界まで険しくひそめた。智昭は真琴の正体を知っていた。貴博も知っていた。しかし、自分に関わる人間、自分の味方である人間は、誰一人として知らされていなかった。真琴は、本当に心の底から自分を嫌悪し、徹底的に避けようとしているのだ。苦い煙を吸い込みながら、智昭の言葉を思い返す。そして二年前のあの夜、深夜に家を出ようとした自分を引き止め、「どうしても行くの?」と問いかけた彼女の声を思い出した。あの時、自分は「後で戻る」と答えた。だが、あの日家を出てから、二度とあの場所には戻らなかった。再び戻った時、真琴はすでに跡形もなく姿を消していた。茉琴は、間違いなく真琴だ。自分の手で真実を突き止め、彼女が生きていると分かったというのに、信行の心は少しも軽くならず、むしろさらに重く沈み込んでいた。何も知らないままだった頃の方が、よほど気が楽だった。死んででも自分から離れたかった。そこまで思い至り、信行は
……午後二時。会食はお開きとなった。車に戻った信行は、深くシートを倒し、頭を後ろに預けて再び目を閉じた。右手を上げ、指で目頭を揉む。胸の奥に、どうしようもない重苦しさが広がっていた。目を閉じたまま、先ほどの二通のDNA鑑定書を思い出すと、眉間の皺はさらに深くなる。信行が放つただならぬ空気を察し、ルームミラー越しに様子をうかがう運転手は、エンジンをかけることも、声をかけることもできずにいた。しばらくして、他の参加者の車がすべて出払ったのを見計らい、運転手はようやく恐る恐る尋ねた。「社長、会社へお戻りになりますか?」その問いに、信行は目頭を押さえたまま、ぽつりと言った。「お前はタクシーで帰れ。車はここに置いていくんだ」今この瞬間だけは、誰の目も気にせず、一人きりになりたかった。「はい、承知いたしました」言われるが早いか、運転手はそそくさと車を降り、その場を後にした。朝からずっと、社長の機嫌がすこぶる悪いことくらい、彼にも分かっていたのだ。完全に一人きりの空間になり、ようやく幾分か気が休まった。そのまましばらく身動き一つしなかった信行だが、やがて再び手を伸ばし、あの鑑定書を取り出して穴の開くように見つめ直した。食い入るように文字を追った後、書類を元に戻す。そして後部座席から降りて運転席へと乗り込むと、自らエンジンをかけて車を発進させた。向かった先は会社でもなく、真琴の元でもない。アークライトだった。「片桐社長」「片桐社長」アークライトとの提携案件は多く、今や彼がここへ出入りするのは自社に戻るようなものだ。すれ違うスタッフも皆、彼に挨拶をしてくる。無表情のまま軽く頷き返し、信行は片手をポケットに突っ込み、もう片手にあの書類を握りしめたまま、大股で二階にある智昭のオフィスへと直行した。ドアをノックして押し開けると、顔を上げた智昭が、何事もなかったかのように尋ねてきた。「片桐社長、今日はどういったご用件で?」その悪びれない態度を前にしても、信行は回りくどい真似はしなかった。無言のまま、手にしていた鑑定書を智昭のデスクに差し出し、向かいの椅子を引いてどっかりと腰を下ろす。渡されたDNA鑑定書を受け取り、智昭はまず信行の顔をじっと見つめ、それからゆっくりとページを開いた。茉琴
幸子を見下ろし、真琴は気まずそうに表情を曇らせる。信行が我関せずと立ち去っていくのを見て、再び幸子に向き直り、困ったように言う。「お婆様、まだないんです」真琴のお腹に何の兆候もないと聞き、幸子は一気にがっかりした表情になる。すっと立ち上がると、眉をひそめ、まっすぐに信行を見て問い詰める。「どうして結婚してこんなに経つのに、真琴ちゃんのお腹はまだ何の反応もないんだい?お前の体に何か問題があるんじゃないのかい。もし問題があるなら、早く病院へ行って診てもらいなさい。もしないなら、さっさと私にひ孫の顔を見せておくれ!」真琴が愚痴をこぼさなくても、この結婚の問題が全て信行にあ
口では「分かっています」と言ったものの、本家を出て帰る道中、真琴はすっかり元気をなくしていた。無力にシートにもたれかかり、両腕をそっと抱き、頭をヘッドレストに預ける。その視線は、ぼんやりと窓の外を彷徨っている。その目に光はない。とても疲れた。心がひどく疲れた。時折、バックミラーで真琴の様子を窺うが、彼女が黙って窓の外を見つめているのを見て、信行の方から話しかけることはしない。先ほどのは、確かに言い争いの勢いだった……運転席の方で、信行の電話が数回鳴り、彼はその都度応答している。真琴は全く気づかず、ずっと窓の外を見つめている。車が庭に停まり、信行が彼女のためにドア
真琴は答える。「はい。紗友里は先ほどお酒を飲みましたので、後で私が運転します」エレベーターホールで鉢合わせしたのは、真琴にとって意外ではなかった。だが、信行が先に話しかけてきたことには、やはり少し驚かされる。以前なら、彼は見ても見ないふりをするだけで、話しかけてくることなどなかったからだ。「真琴、真琴、どこにいるの?」話し終えたところで、前方から紗友里が彼女を探す声がする。「今行くわ」紗友里に応え、再び信行に向き直って言う。「紗友里が呼んでいますので、先に行きますね」そう言って、信行の返事を待たずに歩き出す。彼に対して、もはや何の未練もない。
……しばらくして。二人が病室に戻ると、哲男は杖をついて立ち上がり、信行の祖父母に挨拶した。「旦那様、奥様。では、わしはこれで失礼します。また改めて、お屋敷の方へ伺いますので」由紀夫は立ち上がり、見送ろうとした。「ああ、もういい時間だ。辻本、気をつけて帰れよ」幸子も重い体を起こし、ベッドから降りようとした。「辻本さん、真琴ちゃん、気をつけてね」幸子が言い終わると、由紀夫は信行に向かって命じた。「信行。辻本と真琴を送ってやんなさい」真琴はすぐに断った。「いいえ、お爺様。車で来ていますから、大丈夫です」それを聞いて、由紀夫は無理にとは言わず、信行と並ん







