Share

第5話

Author: フカモリ
真琴は由美が帰国したのを気にして、揺さぶりの手口を変えてきただけだと思っていた。

まさか、本当に離婚の許可を取り付け、秘密保持契約書まで準備し、挙句の果てにはここ数日で役所へ問い合わせまでしたとは。

信行は、この事態が面白くなってきたと感じる。

そして、離婚を口実に、彼女がどんな法外な要求を吹っかけてくるのか、この目で見てみたいとさえ思う。

その言葉を聞き、真琴は目の前の男が信じられなくなる。

信行の心の中で、自分が一体どれほど下劣な人間だと思われているのか、想像もつかない。

話にならない。この人とは、もう話にならない。

彼が自分に抱く偏見は、一生変えられないだろう。

もういい。

もう、どうでもいい。

やがて、真琴は彼を見つめ、力なく告げる。

「そう思うなら、それでいいです。それで、ご都合はいつがよろしいですか。手続きに行きましょう」

真琴があっさりと認めたことに、信行の顔から笑みがすっと消える。

そして、ただ冷ややかに真琴を見つめる。

自分を見て何も言わない彼に、真琴は続ける。

「休んでいてください。時間ができたら、知らせていただければ結構です」

そう言って、真琴は振り返り、ドアへ向かう。

右手を上げてドアを開けようとした瞬間、手首を突然掴まれた。

反応する間もなく、信行にぐいと引き戻され、彼の目の前に投げ出される。

よろめきながらも体勢を立て直し、信行を見上げる。

こうして引き戻され、本来なら腹が立つはずだったが、炎の中から自分を抱き出してくれた時のことを思い出すと、その怒りも霧散してしまう。

掴まれて赤くなった手首をさすりながら、尋ねる。

「まだ何か御用ですか?」

ずっと考えていた。何度も、何度も。

どうしてこうなってしまったのか。信行がどうして自分をこんなにも嫌うのか、真琴には分からなかった。

真琴は平然と佇んでいる。信行は両手をズボンのポケットに戻すと、顔をそむけて呆れたように笑った。

一頻り笑った後、再び顔を戻し、真琴を見下ろして言う。

「どこのどいつだ?俺に恥をかかせるだけの度胸があるやつは」

「……」

真琴は黙り込む。

そう言うなら、自分だって一体いくつ恥をかかされてきたことか。

真琴が何も言わないので、信行はテーブルに近づき、腰をかがめてタバコとライターを手に取り、また一本火をつける。

窓際に立つ。

煙がゆらゆらと彼の周りに広がる。その背中はまっすぐで、脚は長く、後頭部の形さえも人より美しい。

そんな信行に、真琴はなすすべもなかった。

彼の背中を見つめながら、再び口を開く。

「あなたに逆らうような度胸のある人なんていません。あなたも分かっているでしょう。さっきのは、そっちの言葉に合わせただけです。考えすぎないでください。いつ時間があれば、手続きに行きましょう。でないと、お義母様が毎日見張っていて、あなたもストレスでしょうから」

浮気されたのは彼女の方なのに。傷ついているのは自分なのに。それでも、信行を慰めなければならない。

やはり、先に恋に落ちた方が、負けなのだ。

真琴が再び手続きの話を口にすると、信行は背を向けたまま応えない。その背中が、ひどく冷ややかに見えた。

信行が無視を決め込むのを見て、真琴もそれ以上は何も言わず、黙ってドアを開ける。すると、ちょうど美雲がドアをノックしようとしているところだった。

「お義母様」

驚いて、思わず声が出た。

美雲は部屋の中をちらりと見てから、再び真琴に向き直って尋ねる。

「信行と喧嘩でもしてるの?あの子にいじめられたの?」

真琴は微笑む。

「お義母様、喧嘩なんてしていませんよ」

美雲は疑わしげな顔をする。

「喧嘩してないなら、ドアを開けて何をしようとしてたの?」

真琴は答える。

「お水をいただきに行こうと」

「そうなの。じゃあ、先に行ってきなさい」

義母の許しを得て、真琴は部屋を出て、右に曲がって階下へ降りて行った。

美雲は、険しい顔で部屋に入る。

その時、信行もすでに振り返っており、気だるそうな顔で母を見て言った。

「母さん、いっそのこと、この部屋で寝たらどうだ?24時間、俺とあいつを見張ってろよ」

美雲は手を伸ばし、彼の腕の肉を力一杯つねる。

「信行、ふざけるのもいい加減にしなさい。真琴ちゃんはもう十分に我慢して、あなたに合わせているのよ。少しは感謝の気持ちを持ちなさい。

真琴ちゃんは生身の人間なの。彼女にも考えがあるし、悲しむことだってある。あなたが毎日家に帰らず、彼女に冷たくするなんて、どうしろって言うの?他の人からどう見られると思ってるの?もし本当に真琴ちゃんを追い出してしまったら、後で後悔することになるわよ」

信行はつねられて顔をしかめ、母の手を振り払う。

「人をつねる癖はまだ治らないのか。自分の肉じゃないから、痛くも痒くもないってか?」

美雲は言う。

「痛くないなら、なんであなたをつねる必要があるのよ。警告しておくわ。由美と中途半端な関係でいるのはやめなさい。もしこれ以上真琴ちゃんに恥をかかせたら、内海家ごと路頭に迷わせてやるから」

信行は母親を見下ろす。

「真琴に化かされているんじゃない?」

「あなたが由美に化かされているのよ!こんなにいい嫁がいるのに、毎日あの由美と遊びほうけて。あなたの頭、どうかしてるんじゃないの?」

息子を罵りながら、美雲は彼の頭を指で突く。

信行が再び母の手を振り払った。その時、水を手に、真琴が階段を上がってくるのが見えた。

その足音に、美雲はさっと表情を変え、満面の笑みで振り返って部屋を出る。

「真琴ちゃん、お水、注ぎ終わったのね。じゃあ、早く部屋に入って寝なさい。明日も仕事があるんだから」

真琴が部屋に入るのを見届けてから、美雲はドアを閉めた。

一瞬にして、部屋にはまた二人だけが残される。信行は、まだつねられた腕をさすっている。

母親の監視が厳しいので、真琴は彼に尋ねるしかない。

「私はソファで寝ます。それでよろしいですか?」

信行は彼女を無視し、パジャマを手に洗面所へ向かう。

その背中を見送り、真琴は心身ともに疲れ果てる。

本来なら二人で向き合うべき問題なのに、彼はいつも部外者のように振る舞う。

信行がシャワーを浴びて出てくると、彼女は服を持って洗面所へ向かう。

シャワーを浴び終え、ついでに洗面所も消毒しておく。彼が夜中に使うかもしれないし、自分が使った後だと嫌がるかもしれないから。

用事を終えて寝室に戻ると、耳栓とアイマスクをつけ、薄い毛布をかぶってソファで眠りについた。

一日中歩き回って、もう彼と張り合う気力は残っていない。

デスクの方で、真琴が黙ってソファにうずくまるのを見て、信行は仕事の手を止め、顔を上げてそちらを見つめる。

「信行、今夜ご飯に帰ってくる?スープ作ったの」

「信行、今日の夕焼け、すごく綺麗だよ」

「信行、私のこと、好き?」

真琴の背中を見つめながら、多くの昔のことが蘇る。

お爺様のあの言葉がなかったら。彼女の秘密に気づかなければ。そして、あの日記帳を見てさえいなければ。信行も彼女の気持ちが本物だと信じたかもしれない。

……

その後の数日間、美雲はずっと帰らず、本当に芦原ヒルズに滞在し続ける。

信行はストレスが溜まり、真琴も精神的に追い詰められていた。

なぜなら、毎晩ソファから何度も転げ落ち、多くの場合、信行も実はその音で目を覚ましていたからだ。

彼女が落ちたことを知っている。

しかし、ただ冷ややかに傍観し、一言も声をかけない。

真琴も、彼の寝たふりを暴くことはしなかった。

ここまで冷え切った夫婦というのも、そうそういないだろう。

紗友里が出張から帰ってきて、食事に誘ってくれるまで、真琴はようやく一息つくことができた。

彼との状況を話すと、紗友里は歯がゆそうに言う。

「だからあの時、信行はダメだって言ったのに!彼と一緒になるなと言ったのに、真琴は聞かなかった。ほら、今、苦労してるでしょ。

あの時、もし克典兄ちゃんと一緒になれてたら、どれだけ良かったか…」

紗友里の言葉に、真琴はかすかに微笑む。

「人は壁にぶつかって初めて痛みが分かり、引き返すことを知るものよ」

あの時、信行は身を挺して彼女を火の海から抱き出してくれただけでなく、授業をさぼったり、壁を乗り越えたり、コンサートやビリヤードにも連れて行ってくれた。

信行は、真琴がこれまでしたくてもできなかった、あるいは考えもしなかった多くのことをさせてくれた。

彼女の若き日の美しく、深い思い出は、すべて信行と繋がっている。

そんな信行を、好きにならないはずがない。

彼も自分のことが好きだと、思っていた。

だからお爺様が、克典と信行のどちらが好きかと尋ねた時、彼女は迷わず信行を選んだ。

そこまで考えて、真琴は続ける。

「それに、私、克典さんが怖いの。小さい頃からずっと。お父さんより厳しいんだもの。会うたびに、遠くに隠れてたわ」

真琴が疲れ果てた様子なのを見て、紗友里は言う。

「信行兄ちゃんも本当に厚顔無恥よね。自分が遊びほうけてるくせに、真琴が外に男がいるなんて疑うなんて。やっぱり、自分がそういう人間だから、他人も同じように見えるのよ。

あいつのどこがいいのよ?結婚してからこうなったわけじゃないのに、どうしてそんなに一途なの?」

真琴は責められて、穴があったら入りたい気持ちになる。

最後に、笑いながら言う。

「若すぎて、世間知らずだったの。あの男を変えられるって、本気で信じてたから」

紗友里は言う。

「思い知ったでしょ。現実にこっぴどく教えられたってわけね」

真琴は笑って何も言わない。

実は、信行は昔からあんな人だったわけじゃない。彼女と結婚してから、ああなってしまったんだ。

たぶん、自分が彼を満足させてあげられなかった。彼の幸せの邪魔をしていたのだろう。

真琴が黙って微笑んでいると、紗友里は彼女を慰める。

「まあ、あまり考えすぎないで。後で、外に連れて行って気分転換させてあげるから」

……

そして食事が終わると、紗友里は真琴をバーに連れて行った。

紗友里が賑やかに友人と挨拶するのを見て、真琴は疑わしげに尋ねる。

「これがあなたの言う方法?これが気分転換?」

紗友里は眉を上げる。

「そうよ。信行兄ちゃんは遊ぶのが好きで、家に帰らないんでしょ?なら、真琴も遊んで、家に帰らなければいいの。彼が冷静でいられるか、見てみましょうよ」

「……」

真琴は乾いた笑いを漏らす。

「彼の心の中での私の価値を、買いかぶりすぎよ」

紗友里は真琴を引っぱって座らせ、ジュースを一杯注ぐ。

「ごちゃごちゃ考えすぎないの。兄ちゃんのことは一旦忘れなきゃ。このままじゃ、あなたが鬱になっちゃうか心配よ」

紗友里が差し出したジュースを受け取り、真琴は何も言わない。

それに、紗友里が気晴らしに連れてきてくれた。あまり興を削ぐわけにもいかない。

だから、遊びたくなくても、真琴はずっと彼女に合わせていた。紗友里が何人かの男子大学生に彼女とジャンケンをするように言うと、真琴も試してみた。

不思議なもので、本当にあの嫌なことを一時的に忘れさせてくれた。

少し離れた場所で、別のグループが盛り上がっていると、突然誰かが真琴を見て言う。

「あれ、真琴と紗友里じゃないか?」

その一言で、すぐに他の者もそちらを見る。

「本当に真琴だ。彼女もバーに来るのか?良妻はもうやめたのか?」

「紗友里が連れてきたんだろうな」

「おいおい、まだ行くなよ。何枚か写真とビデオを撮らせてくれ」

男はそう言うと、スマートフォンを取り出して真琴に向けて撮影を始める。

「これぞ信行の奥さんだぜ。ついに反旗を翻して、演技はやめたってことか?」

「これは信行に見せてやらないとな」

そして、写真とビデオを撮り終えると、その男は一瞬のためらいもなく、すぐに信行に送信した。

……

芦原ヒルズ。

美雲の監視の下、信行は七時に帰宅していた。

書斎のデスクの前で、残業に追われている。

スマートフォンのLINE通知が連続で数回鳴るのを聞き、手を伸ばしてスマートフォンを手に取る。

相手から立て続けに十数件のメッセージが送られてきている。上の数枚の写真を開くと、その顔から一瞬で血の気が引いた。

こっちは日が暮れる前に帰ってきたというのに、あいつは外で羽を伸ばしているとはな。

写真が不鮮明だとでも思ったのか、相手は真琴のビデオまでいくつか送ってきた。彼女が男子大学生とジャンケンをしているビデオだ。

ぎこちなく、気まずそうに、しかし輝くような笑顔でいるのを見て、信行の顔色は想像に難くない。

男子大学生と遊ぶとは、真琴もなかなかいい度胸だ。

LINEを閉じ、直接真琴の電話番号にダイヤルする。

しかし、電話の向こうからは「申し訳ありません。おかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります。しばらくしてからおかけ直しください」というアナウンスが聞こえるだけだ。

その後、さらに二度かけたが、同じアナウンスが繰り返される。

「申し訳ありません。おかけになった電話は電源が入っていないか……」

アナウンスが終わる前に、信行はスマートフォンをデスクに叩きつけた。

一瞬にして、苛立ちがこみ上げ、仕事をする気も失せる。

立ち上がって窓際へ歩み寄る。庭の外は静まり返り、車が帰ってくる気配はない。

ポケットからタバコを探り出し、箱から一本抜き出して口にくわえ、俯いて火をつける。

深く吸い込み、重々しく煙を吐き出す。その吐息もまた重い。

どれくらいの時間、窓の前に立っていたのだろうか。あの白いセダンが庭に入ってくるのを見て、ようやく振り返ってその場を離れた。

階下。

真琴は車を降りると、服の匂いを嗅ぎ、バーの匂いがすることに気づくと、数回はたいてから家に入る。

早く帰りたかったのだが、紗友里が楽しそうに遊んでいたので、少し長居してしまった。

家に入ると、中は静まり返り、皆すでに休んでいるようだ。

真琴はそっと階段を上がり、ちょうど客室のドアを開けた時、信行の声がゆったりと聞こえてくる。

「どこに行っていた?なぜ電話に出なかった?」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める   第762話

    深夜の通りは、しんと静まり返っている。見渡す限り、アスファルトの上を滑る自分たちの車以外、走る影すらない。車内のアンビエントライトが温かみのある光を灯すなか、紗友里は今夜の騒動を思い返していた。我ながら呆れるほど馬鹿げた一晩だ。長い沈黙のあと、ふと思い出したように助手席から声をかけた。「……今夜のこと、助かったわ。ありがとう」光雅は前を向いたまま、素っ気なく返す。「礼を言われるほどのことじゃない」言葉が途切れると、再び静寂が車内を満たした。互いに、あの夜の過ちや、肌を重ねた関係については一言も触れようとしない。ルームミラーに映る顔と乱れた服を見下ろし、紗友里はぽつりと告げた。「この格好で実家に戻るわけにはいかないの。ヴァンクラッセまで送ってくれる?あそこに部屋があるから」「わかった。ヴァンクラッセだな」光雅は頷き、カーナビの画面をタップして目的地を再設定した。東都市に拠点を構えて数か月になるが、まだ土地勘があるとは言えない。どこへ行くにもナビに頼る必要があった。車が高層タワーマンション、ヴァンクラッセの車寄せに着いたのは、午前3時を回った頃だった。紗友里がドアを開けて降りると、光雅もエンジンを止めて外へ出た。見送るつもりのようだ。見上げたタワーの上層階は、まばらに灯りがともるばかりで、大半の住人は深い眠りについている。視線を戻すと、ちょうど光雅と目が合った。「今日は本当にありがとう。じゃあ、部屋に戻るわね」紗友里の挨拶に、光雅は両手をスラックスのポケットへ突っ込んだまま、さらりと言った。「上がってお茶でも飲ませてくれないのか?」その問いかけに、引き戻したばかりの視線を跳ね上げ、紗友里は思わず彼を見上げた。まさか光雅がそんなことを言い出すとは思いもしなかった。道中の2人の会話は、至って真面目なものだったのだから。冬の冷気が肌を刺す。街灯と月明かりが路面を白く照らし、吐き出す息が白く尾を引いた。しばらく彼の顔を見つめていた紗友里は、思案の末、静かに息を吸った。「……温かいお茶くらいなら、淹れられるけど」深夜の心細さか、それとも今夜の窮地を救われた恩義か。目の前の男に対して、わずかに心が揺らいだのは事実だった。結局、彼の誘い水に乗る形で折れた。少し照

  • 暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める   第761話

    聞き覚えのある低い声に、紗友里は弾かれたように顔を上げた。開いたドアの隙間から、見知った長身の男が入ってくる。光雅だ。こんな時間、こんな場所で鉢合わせるなど想像すらしていなかった。紗友里は目を丸くしたまま固まる。数秒間、瞬きも忘れて凝視したあと、ようやく我に返って口を開いた。「……どうしてここに?」光雅はその問いにすぐには答えなかった。調書を取っていた警察官へと視線を移し、スーツの内ポケットから名刺を取り出して差し出す。「彼女の身元引受人です。手続きに来ました。サインする書類はどれですか」警察官は名刺を受け取り、記載された肩書を確かめる。東央システムズ社長。東都市でいくつもの投資案件を抱え、興衆実業との共同事業も手がける大物実業家だ。これだけの人物が身元保証人に立つなら、何一つ申し分ない。手続きは滞りなく進み、ほどなくして紗友里は署の外へと連れ出された。*取調室のドアを出てから階段を下りるまで、光雅は一言も発しなかった。彼が無言を貫く以上、紗友里から口を開く気にもなれない。見栄を捨てきれないプライドが、まだ胸の奥にくすぶっていた。助手席に押し込まれ、車が静かに走り出したところで、ようやく光雅が横目で視線を向けてきた。気のない口調で、皮肉っぽく呟く。「最近、ずいぶん血の気が多いな。行く先々で喧嘩でも売ってるのか?」前回の衝突を引き合いに出した当てこすりだと、すぐに察しがついた。だが、紗友里は言い訳などしない。理解してくれる相手に弁解は要らないし、理解する気のない相手になら、言葉を尽くすだけ無駄だ。その皮肉を受け流し、感情を乱すこともなく、紗友里は涼しい顔で訊ねた。「こんな夜更けに、警察署に何の用だったの?」自分がここにいた理由より、彼が居合わせたことのほうがよほど不可解だった。ハンドルに両手を添えたまま、光雅は淡々と返す。「野暮用を片付けに来ただけだ。まさかお前と出くわすとは思わなかったがね」光雅の言葉に偽りはなかった。実際、私用を片付けに来ただけであり、こんなところで彼女に出くわすとは思いも寄らなかった。それ以上踏み込んだ説明がないため、紗友里も追及はしなかった。「ふうん」と短く相槌を打ち、再び前方の闇へ視線を戻す。横目で彼女を盗み

  • 暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める   第760話

    紗友里の表情に険が走ったのを見て、女は慌てて2、3歩後ずさりした。「やましいことがないなら、何を怖がる必要があるわけ?きっちり1000万円振り込んでくれさえすれば、この話は丸く収まるのよ」揃いも揃って開口一番に1000万を要求してくる図々しさに、紗友里は思わず呆れ笑いをこぼした。相手の車に目を向ける。せいぜい2、300万の車で、しかもリアに軽く接触した程度だ。平然と1000万円を吹っかけてくるなど、誰が見ても明らかな言いがかりだった。「1000万円ね」紗友里は鼻先で笑い、ポケットからスマートフォンを取り出した。「警察を呼んで……」言い終わらないうちに、女の手が伸びてスマートフォンをパシッと払い落とした。さらにつま先で思い切り蹴飛ばし、はるか遠くへ転がしてしまう。「何よ!権力を使って揉み消そうってわけ?言っとくけど、1000万払わない限り絶対に許さないからね!」端末を乱暴に払われ、蹴り飛ばされた上に、なおも強欲に1000万円を要求してくる相手に、紗友里の堪忍袋の緒は完全に切れた。そもそも、普段から我慢強い性格などしていない。身勝手な女を冷ややかに見据え、紗友里は右腕を勢いよく振るって相手の手首を激しく払い除けた。物心ついてからこの年になるまで、こんな無礼な扱いを受けたことなど1度もない。自分に手を出してくる人間など皆無だった。紗友里の勝気な本性が、一気に弾け飛んだ。酒の入った女は、一瞬あっけにとられて目を白黒させた。だがすぐに頭へ血が上ったのか、爪を立て、紗友里へつかみかかってきた。すかさず、運転席の女も加勢に入る。元はただの物損事故にすぎなかったはずが、気づけば3人の女が激しくもみ合う乱闘劇へと発展していた。*それから間もなくして、現場に駆けつけた警察官によって、3人は警察署へと連行された。署内に通されると、まずアルコール検査が行われた。紗友里の呼気からは何も検出されなかったが、相手の女2人はどちらも酒気帯びだった。運転手のほうが多少控えめだったというだけの話だ。だが、紗友里が追突したこと、そして3人で取っ組み合いの喧嘩をしたのは紛れもない事実だった。ドライブレコーダーには相手が紗友里をゆすろうとしていた音声がしっかり残っていたものの、紗友里が激しく応戦した記録も

  • 暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める   第759話

    真琴の思いがけないスキンシップに、信行は背中に回した腕に力を込め、いっそう強く抱きしめた。口元に浮かぶ笑みが、さらに深くなった。*その頃、都心の川沿いを通る大通り。紗友里は前を走る車に追突していた。真琴と信行が復縁してからというもの、真琴の仕事も私生活も慌ただしくなり、最近の紗友里はどこへ行くにも1人だった。気を利かせて真琴を誘うのを控えていた。何日もおとなしく家で過ごしていたのに、久しぶりに外へ出た途端にこれだ。エンジンを切り、ドアを開けて外へ出ると、前方の車からも運転手が降りてきた。すさまじい剣幕で詰め寄ってくる相手を前にしても、紗友里はひるむことなく、落ち着き払って声をかけた。「おけがはありませんか?救急車を呼びましょうか」信号の手前だったため、紗友里の車のスピードもそれほど出ていなかった。相手が唐突に急ブレーキを踏みさえしなければ、十分に防げた事故だ。そんな気遣いの言葉など耳に入らないとばかりに、運転席から大股で歩み寄ってきた女は、鼻先へ指を突きつけ、激高した声を張り上げた。「どんな運転してんのよ!納車されたばかりの新車なのよ。いきなりぶつけるなんて、わざとに決まってるじゃない!」紗友里は半歩身を引いて間合いを取り、服の裾を軽く整えながら冷ややかに言い放った。「起きてしまったことは仕方がありませんし、車が接触したのも事実です。そんなふうに取り乱しても、何の解決にもなりませんよ」そして相手のリアバンパーをちらりと見やり、泰然と言葉を継いだ。「車が壊れたなら直せばいいですし、おけががあるなら病院へ行けばいい。こうして車を降りて確認している以上、責任から逃げるつもりはありません。ですから、そうカリカリしないでください。どう解決したいのか、話してください」紗友里の動じない態度に、女はますます逆上した。再び食ってかかってわめき散らす。「何よその態度!ぶつけておいて開き直る気?文句の1つも言わせないつもり?そんなに偉そうにするなら新車ごと弁償しなさいよ。大物ぶってんじゃないわよ!どうせ飲酒運転でしょ。いいわ、今すぐ警察に通報してやる。それでも同じ口が利けるかしらね!」まくしたてる相手に、紗友里は胸の前で腕を組み、冷淡に返した。「どうぞ。呼んでください」紗友里の淡白な反応に

  • 暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める   第758話

    信行の真剣に諭すような口調に、真琴はふと学生時代を思い出した。あの頃も信行は、たまにこうして筋道を立てて言い聞かせ、あれこれと世話を焼いてくれたものだ。体を案じてくれているのが痛いほど伝わってくるからこそ、真琴も余計な言い訳をせず、素直にうなずいた。「分かってる。ちゃんと気をつけるから、安心して」ここ最近は生活リズムも整い、真琴がしっかり耳を傾けてくれているのを確かめると、信行はそれ以上小言を重ねず、前方の道路に視線を戻した。まもなく車が東央のビルの前に滑り込んだ。信行は真琴のうなじにそっと手を添え、名残惜しそうに深く口づけてから、ようやくその体を離した。真琴は信行の頬を優しくつまみ、柔らかく微笑んだ。「心配しないで。大丈夫だから」そっと口づけを返すと、真琴はドアを開けて車を降りていった。ところが、そこから数日は仕事に追われ、息をつく暇もない忙しさが続いた。幸い、あの胃のむかつきはきれいさっぱり消え去っていた。だが、代わりに残ったのは激しい眠気だった。1日8時間の睡眠ではまるで足りず、どうしても10時間は眠らなければ体がもたない。オフィスでしっかり昼寝を挟んでいるのに、夜に部屋へ戻ると、あっという間に眠くなってしまう。この耐えがたい眠気に合わせるため、真琴は仕事の量すら大幅に削ったほどだった。*その日の夜も同じだった。帰宅して夕食を済ませ、シャワーを浴び終えるなり、真琴は枕を抱きかかえてベッドへ倒れ込んだ。枕に顔を埋める真琴を見下ろし、信行はあっけにとられて苦笑した。身をかがめて顔を近づけると、真琴の髪を軽くかき上げた。「これでもう何日放ったらかしにされてると思う?今夜くらい少しは起きてろよ」腕の中に枕をしっかりと抱え込み、うつ伏せのまま右足を布団へ潜り込ませながら、真琴はとろんとした眠たげな目でつぶやいた。「眠いの。目が開かない……明日、明日いっぱい構ってあげるから」その見え透いた約束に、信行は顔を寄せて真琴の頬へ唇を落とした。「その明日ってやつ、もう何日目だ?」真琴が言い返す隙も与えず、信行は言葉を継いだ。「最近のお前、やっぱりどこか様子がおかしいぞ。時間を作って病院で診てもらおう。このまま引き延ばすな」薄く目を開けて信行を見つめ、真琴は応じた。「

  • 暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める   第757話

    真琴はとっさに顔を背け、信行の唇を避けた。その異変を察し、信行はすぐさま表情を引き締めた。そっと右手を真琴の頬へ添える。「どうした?どこか具合でも悪いのか」真琴は信行を見つめ、首を横に振った。「大丈夫、なんともないわ。ただ、急に少し胃がムカムカして」心配をかけまいと、真琴は言葉を足した。「前にもこういうことがあったの。時間を見つけて病院で診てもらえば済む話だから」かつてうつの身体化症状に苦しんでいた頃、最初に現れた兆候が胃の不快感だった。今の感覚は、あの時の鈍い違和感とよく似ている。真琴がその病名を口にしなくても、信行には大体の事情が察せられた。頬に添えた親指で柔らかな肌を優しくなぞり、信行は言った。「いつ行きたい?俺も一緒についていく」話すうちに吐き気もずいぶん治まり、真琴は信行の手首にそっと手を重ねた。「月曜か火曜あたりに行ってみるわ。昔からの持病みたいなものだし、あまり気にしないで」信行は手のひらに少し力を込め、真琴の頬を包み直した。「分かった。その時は一緒に行くからな」そう言って、信行は再び真琴を腕の中へ引き寄せた。手の届く場所にいて、目の前にいるというのに、まだ真琴が恋しくてたまらない。どれほど抱きしめても抱き足りず、いくら触れても満たされなかった。今夜はやけに甘えたがる信行を、真琴も拒まなかった。両手を腰へ回し、肩にそっと顎を預けて強く抱きしめ合う。真琴の体調が優れないこともあり、信行はそれ以上求めようとはしなかった。就寝の支度を整えてベッドに入ると、真琴は信行を抱き寄せ、背中を優しくトントンとたたきながら眠りへと誘った。*翌日。真琴が仕事の段取りを済ませて病院へ向かうタイミングに合わせ、信行が車で迎えにやってきた。真琴は信行に頼み、かつての主治医のもとへ案内してもらった。診察室の扉が開き、並んで入ってきた2人の姿を認めた医師は、目を丸くして息をのんだ。2年前、芦原ヒルズを襲った大火災のニュースは医師も耳にしていた。その後、信行が1人で訪ねてきて真琴の病状を詳しく聞いていったこともある。まさか2年もの月日を経て、再び2人揃って目の前に現れようとは夢にも思わなかった。無事に生きてさえいれば、どんな奇跡も起こり得るということか。胃の

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status