LOGIN救急車のサイレンが、ホテル・グランシエル東京の静寂を切り裂いた。
「レイラ!レイラ、しっかりして!」
母親の悲鳴にも似た声が、レストラン中に響き渡る。
某国財務大臣の娘、8歳のレイラちゃんが、母親に抱きかかえられて担架に乗せられていく。腫れ上がった顔、荒い呼吸。エピペンを打たれた跡が、小さな腕に残っていた。
私──
「どういうことだ!娘は、ナッツアレルギーだと伝えたはずだろう!」
大臣の怒号が、レストラン中に響き渡る。
「申し訳ございません……!」
支配人が深々と頭を下げる横で、私もまた、床に額がつくほど深く謝罪していた。
でも──どうして?私は何度も、何度も確認したはずなのに。
◇
11月10日、午後11時。
ホテル・グランシエル東京、従業員用の会議室。
蛍光灯の冷たい光の下、私は上司の前に立っていた。
「森川さん、あなたには責任を取ってもらいます」
総支配人の冷たい声が、会議室に響く。
「しかし、私は事前に厨房へ3部作成した伝達メモを……」
「あなたが推薦したシェフです。田中くんの管理責任も、あなたにある」
言葉が、喉の奥で詰まった。
田中くん。3ヶ月前、私が「この子は将来有望です」と推薦した、22歳の新人シェフ。
彼が、特製ソースに「アレンジ」としてヘーゼルナッツペーストを加えてしまった。伝達メモを見落として。
「国際問題になりかけたんですよ、分かっていますか?」
上司の言葉が、胸に突き刺さる。
分かっている。分かっているけれど──。
「田中くんは、まだ新人で……私の指導が不足していました。全て、私の責任です」
私は、そう答えるしかなかった。
彼のキャリアを、ここで終わらせたくなかった。
5年前、新人だった私も大きなミスをした。その時、先輩が庇ってくれたから、今がある。
だから──。
「自主退職という形にします。退職金は出ませんが、経歴には傷をつけないよう配慮します」
差し出された退職届に、震える手でサインをした。
インクが紙に滲む。私の名前が、まるで他人のもののように見えた。
その瞬間、私の5年間のキャリアは……夢も、誇りも、全てが──終わった。
◇
11月11日。従業員用ロッカールームで、私は荷物をまとめていた。
予備の制服、お客様からの感謝のカード、同僚との記念写真。それらを段ボール箱に詰めながら、私は奥歯を噛みしめた。
「森川さん……」
背後から声がかかった。振り返ると、清掃スタッフの田宮さんが申し訳なさそうな顔で立っていた。
「本当に、辞めちゃうんですね」
「ええ」
「あの、私……何も力になれなくて、ごめんなさい」
田宮さんの目が潤んでいる。私は、首を横に振った。
「いいんです。田宮さんは悪くない」
笑顔を作ろうとしたけれど、うまくできなかった。
ロッカーの扉を閉める。ばたん、という音が、やけに大きく響いた。
その時、ポケットの中でスマホが振動した。
母からの着信。
嫌な予感がして、廊下の人気のないところまで移動してから、電話に出た。
「もしもし、お母さん?」
『咲希?あのね、ちょっと相談が……』
母の声が、いつもより弱々しい。
『旅館の屋根、業者さんに見てもらったら、すぐ修繕しないと雨漏りがひどくなるって。見積もりが……200万円近くかかるみたいで』
心臓が、ぎゅっと締め付けられた。
「200万円……」
私の実家は、山梨で小さな旅館を営んでいる。父が体調を崩してから、経営は厳しくなる一方だった。母は必死に切り盛りしているけれど、宿泊客は減る一方。設備の老朽化も進んでいた。
『お父さんの薬代もかさんでるし、本当に申し訳ないんだけど……』
「お母さん、大丈夫。私が何とかするから」
そう言いながら、私は自分の通帳残高を思い出していた。
32万円。それが、私の全財産。
家賃7万円、光熱費、食費、実家への仕送り……どう計算しても、2ヶ月が限界だ。
『本当にごめんね……咲希ばっかりに、負担をかけて』
「いいの。家族なんだから」
電話を切って、私は壁に背中を預けた。
天井を見上げる。蛍光灯の光が、滲んで見えた。
「……どうしよう」
呟いた声が、誰もいない廊下に虚しく響いた。
◇
数日後の夜。私は六畳一間のアパートで、ノートパソコンと向き合っていた。
転職サイトを開き、ホテル業界の求人に片っ端から応募する。
コンシェルジュ、フロントスタッフ、レストランサービス──。
でも、返信はどれも同じだった。
『慎重に検討した結果、今回は見送らせていただきます』
業界内に、もう噂が広まっている。
グランシエル東京で起きたVIP事故。国際問題になりかけた失態。そして、責任を取って退職した森川咲希という名前。
ホテル業界は、思っている以上に狭かった。
午前1時を回った頃、疲れ果ててベッドに倒れ込んだ。
コンビニのバイトでも探すべきだろうか。でも、時給1200円では、実家への仕送りどころか、自分の生活費すら賄えない。
ぼんやりとスマホを眺めていると、広告の通知が表示された。
普段なら即座に消すような、怪しげな求人広告。
だけど──その数字を見た瞬間、私の指が止まった。
『住み込み家政婦急募/月給80万円/経験者優遇/即日勤務可/守秘義務必須』
80万円。その数字が、暗闇の中で光って見えた。
「……80万円」
声に出して読み上げると、余計に現実離れして聞こえる。
怪しい。絶対に怪しい。
でも、この金額があれば……実家の修繕費を3ヶ月で払える。父の薬代も、旅館の借金返済も。
溺れる者が掴む藁。それでも、掴まずにはいられなかった。
震える指で、私は広告をタップした。
詳細ページには、簡潔な情報だけが記載されていた。雇用主の名前も、具体的な仕事内容も書かれていない。
これは、本当に大丈夫なのだろうか。
だけど……私にはもう、選択肢がない。
「……応募してみるだけなら」
そう自分に言い聞かせて、履歴書のファイルを添付する。
件名に『家政婦求人への応募』と入力し、送信ボタンを押した。
メールが送信された瞬間、心臓がドクンと大きく鳴った。そして……
──ピロン。
静かなリビングに、短い電子音が響いた。
2分も経たないうちに、返信が届いたのだ。
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件名:Re:家政婦求人への応募
森川咲希様
ご応募ありがとうございます。
書類を拝見いたしました。 ぜひ、面接にお越しください。日時:明日14時
場所:港区六本木○○タワーマンション最上階
当日は、身分証明書をご持参ください。
守秘義務に関する説明がございますので、ご了承ください。
代理人より
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明日。しかも、場所は──六本木の超高級タワーマンション?
そして、メールの署名欄には名前がなかった。会社名も、担当者名も。
ただ一行。
『代理人より』
私は、その住所をネットで検索した。
画面に表示されたのは、ガラスと鋼鉄で作られた、まるで要塞のような高層ビル。
『セレブ御用達。最上階ペントハウスは推定家賃月200万円以上』
『最上階だけは、住人の情報が一切出てこない』
不安と、それを上回る希望が胸の中で渦を巻く。
怪しい。絶対に怪しい。
だけど、もう引き返せない。
私は、スマホを握りしめた。
明日、14時。
私は、六本木のタワーマンション最上階で、まだ見ぬ雇用主と対面する。
これが、私の人生を変える──最後のチャンスだ。
昨夜は、神崎さんに渡された資料を何度も読み返した。氷室蓮。32歳。好きな食べ物や、趣味、氷室グループの歴史。そして、あの夜に彼が話してくれた猫のユキさんのこと。文字をなぞるたびに、彼の孤独の深さが肌に伝わってくるようで、胸が締め付けられた。気づけば窓の外が白み始めていたけれど、不思議と眠気はなかった。「……よし」1月5日の朝。世間の正月気分が抜け、冷たい空気が本格的な冬の始まりを告げていた。私はいつもより丁寧に、氷室様の朝食を用意した。今日から、本格的な訓練が始まる。家政婦としてキッチンに立つのも、あとどれくらいだろう。そんな一抹の寂しさを振り払うように、私はエプロンの紐を強く結んだ。午前10時。予鈴のチャイムが、静かなリビングに響く。「おはようございます、森川さん。準備はいいですか?」ドアを開けると、昨日と変わらぬプロフェッショナルな微笑みを湛えた神崎さんが立っていた。彼は昨日同様に、大きなバッグを持っている。「はい。よろしくお願いします」神崎さんの後ろを歩きながらリビングに入ると、そこにはすでに氷室様が待っていた。今日は仕事が休みなのか、スーツではなく白いシャツに黒いパンツというラフな装いだ。いつもより少しだけ「一人の男性」としての体温を感じる姿に、私の心臓が小さく跳ねる。「では、始めましょうか」神崎さんは、テーブルに資料を広げた。「今日は、お二人の馴れ初めの設定を決めます」「馴れ初め……ですか?」「はい。どこで出会ったか、いつから付き合っているか。全て、設定を決めておく必要があります」ああ、そうか。私たちは、偽物のカップル。だから、偽物の思い出も必要なんだ。そう思うと、胸がチクリと痛んだ。氷室様が、口を開く。「馴れ初めは……半年前、7月。ホテルのレストランで」
「では次に、氷室グループについて説明します」神崎さんの事務的な、けれどどこか重みのある声がリビングに響いた。ふっと魔法が解けたように、氷室様との間に流れていた温かな空気が、ピンと張り詰めたビジネスの緊張感に取って代わる。氷室様もまた、一瞬で「社長」の顔に戻り、資料を真っ直ぐに見据えた。私だけが、まだ少しだけ高鳴る鼓動を抑えられずに、机の下で指先を握りしめている。「咲希さんは、婚約者として会社の人間とも接する機会があります。基本的な知識は必要です」「……はい」私は深く息を吐き、神崎さんが広げた資料に目を落とす。そこには、氷室様個人の「温もり」とは正反対の、巨大で、冷徹なまでの数字と実績の世界が広がっていた。氷室グループは、祖父の厳造様が創業した。不動産、ホテル、リゾート開発を手がける、日本を代表する大企業。氷室様は、5年前に社長に就任。若くして経営を任され、業績を伸ばしてきた。資料を読み進めるほどに、私の指先は緊張で冷たくなっていく。目の前に座っているこの人は、私が思っていた以上に、果てしなく遠く、高い場所にいる人なのだ。「すごい……」思わず呟いた。これだけの規模の会社を、氷室様はたった一人で、この若さで背負ってきたなんて。「氷室様」私は、思わず彼を見た。「一つ、聞いてもいいですか」「何だ?」「どうして、社長になろうと思ったんですか」氷室様は、少し考えてから答えた。「……祖父のためだ」窓の外に目をやる氷室様。「父が亡くなった時、祖父は深く傷ついた。一人息子を失ったんだからな」「……」「だから、俺が祖父を支えなければと思った。氷室家を継ぎ、会社を守る。それが、俺にできる恩返しだと」その言葉に、胸が熱くなった。
翌朝、1月4日。10時前にインターホンが鳴った。ドアが開くと、神崎さんが立っていた。「失礼します」神崎さんが、大きなバッグを両手に抱えて入ってきた。「森川さん、氷室様から聞きました。決心されたんですね」「はい」「素晴らしい。では、早速始めましょう」神崎さんは、リビングのテーブルにバッグを置いた。中から、たくさんの資料を取り出す。氷室様のプロフィール、氷室グループの情報、想定質問集……。テーブルが、紙で埋め尽くされた。「まずは、氷室様のプロフィールから覚えていただきます」神崎さんは、一枚の紙を私に渡した。そこには、氷室様の詳しい情報が書かれていた。***氷室蓮プロフィール年齢:32歳職業:氷室グループ社長好きな食べ物:和食(特に焼き魚)嫌いなもの:甘いもの(ただしコーヒーには砂糖を入れる)趣味:美術鑑賞、読書、ピアノ隠れた趣味:猫動画鑑賞家族:祖父・厳造のみ。両親は17年前に他界***私は資料を読みながら、一つ一つ確認していく。好きな食べ物は和食。だから、毎朝の焼き魚を喜んで食べてくれるんだ。「嫌いなものは、甘いもの。……あれ?でも、コーヒーには砂糖を入れるって書いてあります」「……仕事中はブラックだが、家では少し入れる。……疲れている時だけだ」氷室様がバツが悪そうに視線を逸らす。もしかしたら、私が淹れる甘めのコーヒーを気に入ってくれているのかもしれない。趣味は美術鑑賞と、読書。そして、ピアノ。あの長い指で、どんな曲を弾くんだろう。いつか、聴かせてもらいたいな。それから──。「猫動画……」思わず声に出していた。
氷室様はふっと表情を引き締め、繋いでいた手を静かに離した。先ほどまでの柔らかな空気は一瞬で消え去り、そこには「氷室グループの若き首領」としての冷徹な眼差しが戻っていた。「咲希。感傷に浸るのは、ここまでだ。明日から、本格的な訓練を始める」「え……?あ、はい。覚悟はしているつもりですけど」急な態度の変化に、私は瞬きを繰り返した。さっきまでの優しい空気から一変して、彼が仕事モードの『氷室社長』に戻ってしまったことに戸惑う。「神崎にも協力してもらう。氷室家の婚約者として、誰の目から見ても隙のない振る舞いを身につけてもらう必要があるからな」氷室様は立ち上がり、書斎のデスクから一冊のスケジュール帳を取り出した。その指先は、ビジネスの商談を進める時のように冷厳で、迷いがない。「まずは基本動作。エスコートの受け方、社交場での微笑み方。そして――」氷室様は、私を射抜くような鋭い視線で言葉を継いだ。「恋人同士としての、身体接触(スキンシップ)だ。人前で自然に手を繋ぎ、腕を組む。さらには、周囲に仲睦まじさをアピールするための……」彼は一度言葉を切り、私のすぐ目の前まで歩み寄った。ふわりと、彼がいつも纏っている洗練された香水の匂いが鼻をくすぐる。高い背から見下ろされる圧倒的な圧迫感に、心臓が激しく跳ねた。「……必要なら、キスの練習も行う」「っ!」私の頬が、一瞬で火が出たように熱くなる。キス。その単語が頭の中で何度も反響し、目の前がクラクラとした。演技だと、これは契約のための「特訓」だとわかっている。けれど、至近距離にある氷室様の美しく整った唇を見つめると、喉の奥がカラカラに渇いた。もし、本当にこの唇が重なったら……。想像しただけで、立っていられなくなりそうだった。「できるか?躊躇すれば、周囲に偽物だと見破られるぞ。パーティーの場
「まず、君に俺のことを知ってもらう」氷室様は、ソファに座った。「好きなもの、嫌いなもの、趣味、過去」そして、私を見た。「本物のカップルなら、相手のことを知っていて当然だ」私も、氷室様の向かいに座った。「はい、そうですね」氷室様は、少し考えてから口を開いた。「まず、好きな食べ物」「……はい」「和食が好きだ。特に、君が作る卵焼き」その言葉に、胸が温かくなった。私の卵焼きを、気に入ってくれていたんだ。「嫌いなものは、採用面接で君が当てた通り、甘いものだ。特に、和菓子の餡は昔から苦手で……」氷室様は、少し困ったように眉を下げた。「ケーキなら付き合いで一口は食べられるが、それも君の観察通り、自ら進んで選ぶことはない」氷室様は、淡々と語る。「趣味は読書。ジャンルは問わないが、ミステリーが好きだ」「ピアノは……弾かれないんですか?面接の時、指を見て当てたはずですが」氷室様は少し驚いたように、自分の指先を見つめた。「……よく覚えていたな。最近は忙しくて触れていないが、気が向いた時にだけ弾くことがある。今度、君が希望するなら……聴かせてやってもいい」「はい、ぜひ!楽しみです」私が身を乗り出すと、氷室様は不意に視線を逸らした。耳たぶが、ほんの少し赤くなっているように見えた。私は、メモを取り始める。婚約者として、知っておくべきこと。「休日は?」「ほとんど仕事だ。だが、時々美術館に行く」「美術館……」「人が少ない平日の午前中に。静かに絵を見るのが好きだ」氷室様の意外な一面。私は、もっと彼のことを知りたくなった。「ご家族は…&helli
『契約書を作り直そう』そう言って、氷室様は書斎へ向かった。私は、その背中を見つめた。氷室様の肩が、少し震えているように見えた。3年前のことを思い出して、苦しんでいる。私は、拳を握りしめた。大丈夫。私がそばにいる。氷室様は、一人じゃない。◇しばらくして、氷室様が新しい契約書を持って戻ってきた。それをテーブルに置く。「読んでくれ」私は、契約書を手に取った。***【婚約者契約書】期間:本日より1年間報酬:・月給80万円(家政婦業務)・追加報酬月20万円(婚約者役)・契約終了時ボーナス500万円業務内容:・氷室蓮の婚約者として外部に対して振る舞うこと・氷室家の行事、会食、パーティー等への同行・メディア対応(必要に応じて)条件:・誠実に役割を演じること・どちらかが辛くなった場合、即座に契約解除可能・守秘義務厳守特記事項:・契約終了後、森川咲希の実家旅館修繕費200万円を氷室蓮が負担・父親の医療費を契約期間中、氷室蓮が負担***私は、息を呑んだ。追加報酬月20万円。ボーナス500万円。そして──旅館の修繕費と、父の医療費。全て、氷室様が負担してくれる。「これは……」「君が『ただの飾りではない』と言ったからな。報酬で釣るような真似はもうしない」「氷室様……」「だが、家族のことは心配しなくていい。君の『誠実な仕事』に対する、正当な対価だと思ってくれ」その言葉に、胸が熱くなった。彼は、私の言葉をちゃんと聞いて、私の尊厳を守ろうとしてくれている。「ありがとうございます」私は、ペンを手に取った。手が震える。これ