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第1話

last update Last Updated: 2025-11-30 15:31:13

救急車のサイレンが、ホテル・グランシエル東京の静寂を切り裂いた。

「レイラ!レイラ、しっかりして!」

母親の悲鳴にも似た声が、レストラン中に響き渡る。

某国財務大臣の娘、8歳のレイラちゃんが、母親に抱きかかえられて担架に乗せられていく。腫れ上がった顔、荒い呼吸。エピペンを打たれた跡が、小さな腕に残っていた。

私── 森川もりかわ咲希さき・26歳は、その光景を呆然と見つめることしかできなかった。

「どういうことだ!娘は、ナッツアレルギーだと伝えたはずだろう!」

大臣の怒号が、レストラン中に響き渡る。

「申し訳ございません……!」

支配人が深々と頭を下げる横で、私もまた、床に額がつくほど深く謝罪していた。

でも──どうして?私は何度も、何度も確認したはずなのに。

11月10日、午後11時。

ホテル・グランシエル東京、従業員用の会議室。

蛍光灯の冷たい光の下、私は上司の前に立っていた。

「森川さん、あなたには責任を取ってもらいます」

総支配人の冷たい声が、会議室に響く。

「しかし、私は事前に厨房へ3部作成した伝達メモを……」

「あなたが推薦したシェフです。田中くんの管理責任も、あなたにある」

言葉が、喉の奥で詰まった。

田中くん。3ヶ月前、私が「この子は将来有望です」と推薦した、22歳の新人シェフ。

彼が、特製ソースに「アレンジ」としてヘーゼルナッツペーストを加えてしまった。伝達メモを見落として。

「国際問題になりかけたんですよ、分かっていますか?」

上司の言葉が、胸に突き刺さる。

分かっている。分かっているけれど──。

「田中くんは、まだ新人で……私の指導が不足していました。全て、私の責任です」

私は、そう答えるしかなかった。

彼のキャリアを、ここで終わらせたくなかった。

5年前、新人だった私も大きなミスをした。その時、先輩が庇ってくれたから、今がある。

だから──。

「自主退職という形にします。退職金は出ませんが、経歴には傷をつけないよう配慮します」

差し出された退職届に、震える手でサインをした。

インクが紙に滲む。私の名前が、まるで他人のもののように見えた。

その瞬間、私の5年間のキャリアは……夢も、誇りも、全てが──終わった。

11月11日。従業員用ロッカールームで、私は荷物をまとめていた。

予備の制服、お客様からの感謝のカード、同僚との記念写真。それらを段ボール箱に詰めながら、私は奥歯を噛みしめた。

「森川さん……」

背後から声がかかった。振り返ると、清掃スタッフの田宮さんが申し訳なさそうな顔で立っていた。

「本当に、辞めちゃうんですね」

「ええ」

「あの、私……何も力になれなくて、ごめんなさい」

田宮さんの目が潤んでいる。私は、首を横に振った。

「いいんです。田宮さんは悪くない」

笑顔を作ろうとしたけれど、うまくできなかった。

ロッカーの扉を閉める。ばたん、という音が、やけに大きく響いた。

その時、ポケットの中でスマホが振動した。

母からの着信。

嫌な予感がして、廊下の人気のないところまで移動してから、電話に出た。

「もしもし、お母さん?」

『咲希?あのね、ちょっと相談が……』

母の声が、いつもより弱々しい。

『旅館の屋根、業者さんに見てもらったら、すぐ修繕しないと雨漏りがひどくなるって。見積もりが……200万円近くかかるみたいで』

心臓が、ぎゅっと締め付けられた。

「200万円……」

私の実家は、山梨で小さな旅館を営んでいる。父が体調を崩してから、経営は厳しくなる一方だった。母は必死に切り盛りしているけれど、宿泊客は減る一方。設備の老朽化も進んでいた。

『お父さんの薬代もかさんでるし、本当に申し訳ないんだけど……』

「お母さん、大丈夫。私が何とかするから」

そう言いながら、私は自分の通帳残高を思い出していた。

32万円。それが、私の全財産。

家賃7万円、光熱費、食費、実家への仕送り……どう計算しても、2ヶ月が限界だ。

『本当にごめんね……咲希ばっかりに、負担をかけて』

「いいの。家族なんだから」

電話を切って、私は壁に背中を預けた。

天井を見上げる。蛍光灯の光が、滲んで見えた。

「……どうしよう」

呟いた声が、誰もいない廊下に虚しく響いた。

数日後の夜。私は六畳一間のアパートで、ノートパソコンと向き合っていた。

転職サイトを開き、ホテル業界の求人に片っ端から応募する。

コンシェルジュ、フロントスタッフ、レストランサービス──。

でも、返信はどれも同じだった。

『慎重に検討した結果、今回は見送らせていただきます』

業界内に、もう噂が広まっている。

グランシエル東京で起きたVIP事故。国際問題になりかけた失態。そして、責任を取って退職した森川咲希という名前。

ホテル業界は、思っている以上に狭かった。

午前1時を回った頃、疲れ果ててベッドに倒れ込んだ。

コンビニのバイトでも探すべきだろうか。でも、時給1200円では、実家への仕送りどころか、自分の生活費すら賄えない。

ぼんやりとスマホを眺めていると、広告の通知が表示された。

普段なら即座に消すような、怪しげな求人広告。

だけど──その数字を見た瞬間、私の指が止まった。

『住み込み家政婦急募/月給80万円/経験者優遇/即日勤務可/守秘義務必須』

80万円。その数字が、暗闇の中で光って見えた。

「……80万円」

声に出して読み上げると、余計に現実離れして聞こえる。

怪しい。絶対に怪しい。

でも、この金額があれば……実家の修繕費を3ヶ月で払える。父の薬代も、旅館の借金返済も。

溺れる者が掴む藁。それでも、掴まずにはいられなかった。

震える指で、私は広告をタップした。

詳細ページには、簡潔な情報だけが記載されていた。雇用主の名前も、具体的な仕事内容も書かれていない。

これは、本当に大丈夫なのだろうか。

だけど……私にはもう、選択肢がない。

「……応募してみるだけなら」

そう自分に言い聞かせて、履歴書のファイルを添付する。

件名に『家政婦求人への応募』と入力し、送信ボタンを押した。

メールが送信された瞬間、心臓がドクンと大きく鳴った。そして……

──ピロン。

静かなリビングに、短い電子音が響いた。

2分も経たないうちに、返信が届いたのだ。

-----

件名:Re:家政婦求人への応募

森川咲希様

ご応募ありがとうございます。  

書類を拝見いたしました。  

ぜひ、面接にお越しください。

日時:明日14時

場所:港区六本木○○タワーマンション最上階

当日は、身分証明書をご持参ください。  

守秘義務に関する説明がございますので、ご了承ください。

代理人より

-----

明日。しかも、場所は──六本木の超高級タワーマンション?

そして、メールの署名欄には名前がなかった。会社名も、担当者名も。

ただ一行。

『代理人より』

私は、その住所をネットで検索した。

画面に表示されたのは、ガラスと鋼鉄で作られた、まるで要塞のような高層ビル。

『セレブ御用達。最上階ペントハウスは推定家賃月200万円以上』

『最上階だけは、住人の情報が一切出てこない』

不安と、それを上回る希望が胸の中で渦を巻く。

怪しい。絶対に怪しい。

だけど、もう引き返せない。

私は、スマホを握りしめた。

明日、14時。

私は、六本木のタワーマンション最上階で、まだ見ぬ雇用主と対面する。

これが、私の人生を変える──最後のチャンスだ。

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