LOGIN売り場には、ウール、カシミア、シルク、様々なマフラーが並んでいた。
氷室様は、一つ一つ手に取って見ている。その真剣な横顔に、私は胸が温かくなった。
不器用な人だ。でも、ちゃんと気持ちがある。
「これは、どうだ?」
氷室様が、グレーのカシミアのマフラーを手に取った。シンプルだけれど、上質な生地。触れると、柔らかい。
「素敵ですね。落ち着いた色で、どんなスーツにも合いそうです」
「そうか」
氷室様は、マフラーを見つめた。
「祖父は、派手なものは好まない。これくらいがちょうどいいかもしれない」
「きっと、喜ばれますよ」
私がそう言うと、氷室様は少しだけ微笑んだ。
「……そうだといいが」
氷室様は、店員を呼んだ。
「これを包んでください。ギフト用で」
「かしこまりました」
私はその様子を、少し離れたところから見ていた。
いつもの冷たい社長で
次にやって来たのは、ダイニングテーブルのコーナー。私は、小ぶりな二人掛けのテーブルの前で立ち止まった。「これで十分ですよね、二人なら」蓮さんが、テーブルを見た。「……いや、こっちにしよう」そう言って蓮さんが指さしたのは、四人掛けのテーブルだった。「え?でも、二人なのに」「今は二人だが」蓮さんが、窓の外の春の空を見た。「将来、賑やかになるかもしれない」「賑やかに……?」蓮さんが、私を見た。その目が、少し遠くを映しているような気がした。「君に似た子が、このテーブルで笑っている姿が……想像できるんだ」頬が、一気に熱くなった。「れ、蓮さん……」「変なことを言ったか?」「変じゃないですけど、急に……」私が言葉を失っていると、蓮さんが軽く咳払いをした。「……まあ、そういうことだ。頼む」私は蓮さんのシャツの袖を、そっと掴んで下を向いた。──四人掛けのテーブル。蓮さんが思い描いた未来の食卓。その景色が、私の胸の中でじわりと広がった。私も、同じ未来を見たいと思った。◇食器のコーナーで、私はあるカップの前で立ち止まった。シンプルで素朴な佇まいの、ペアのマグカップ。手に取った瞬間、しっくりきた。「これ……すごく持ちやすいです。蓮さんの大きな手でも、持ちやすそうで」蓮さんが、もう一方を手に取った。しばらく、黙って手の中で確かめていた。「ああ、いいな」「明日からのコーヒーが楽しみになります」「俺もだ」「蓮さんはブラックですよね。私は少しだけミルクを入れて……このカップが並んでいるところを想像すると、なんだか不思議な気持ちになります」「不思議?」「こんなに当たり前の毎日が、私には夢みたいで」蓮さんが、私を見た。何かを言いかけて、やめた。代わりに、カップを静かにトレーに置いた。
4月4日、土曜日。結婚式まで、あと7日。朝食を片付けていると、蓮さんのスマートフォンが鳴った。画面を確認した彼は、短く「祖父上からだ」と告げて通話ボタンを押した。「はい」しばらく聞いていた蓮さんの眉が、わずかに上がった。「……言われなくても、そのつもりです」また聞いている。「分かりました。では、そのように」電話を切った蓮さんが、少し呆れた顔で私を見た。「祖父上から指令が出た」「指令?」「今日、買い物に付き合ってくれ。新居……いや、今の部屋を、君が使いやすいように整えたい」「私が選んでいいんですか?」「それが指令だ」蓮さんが、少し間を置いてから付け加えた。「俺も、そうしたいと思っていた」それだけだった。多くを語らない。でも、その一言の重さを、私はちゃんと受け取った。◇青山にある家具店は、ショールームというより美術館のようだった。吹き抜けの天井、柔らかい照明、どこを見ても洗練されたものばかり。入った瞬間、足がすくんだ。「どうした」「少し、圧倒されてしまって」蓮さんが、私の隣に並んだ。「値段は見なくていい。君の心が動くものを選んでくれ。これから一生使うものだから」その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。スタッフの方に案内されながら、広い店内を歩く。洗練された家具が並ぶ中、リビングコーナーの一角に、ひときわ目を引く大きなソファがあった。チャコールグレーの落ち着いた色味に、ふかふかとした厚みのあるクッション。蓮さんが、その前で立ち止まった。「座ってみよう」五人は掛けられそうな、ゆったりとしたサイズ。私が端に座ろうとした、その時だった。「咲希、こっちだ」蓮さんが、自分のすぐ隣をぽんぽんと叩いた。広いソフ
応接室には、二人の姿があった。エレガントなスーツを着た女性──レイラちゃんのお母様。そして、その隣で。「咲希さん!」小さな女の子が、私の方を向いて笑顔になった。あの時より少し大きくなったレイラちゃんが、そこにいた。流暢な日本語で、私の名を呼んでくれた。「レイラちゃん……!」「咲希さん、会いたかった!」レイラちゃんが駆け寄ってきて、私に抱きついた。温かくて、柔らかくて──生きている。この子が生きている。それだけで、もう十分だった。「大きくなったね」「うん、もう9歳だよ!」レイラちゃんは、誇らしげに笑った。お母様が、優雅に立ち上がった。「森川さん、お久しぶりです」流暢な日本語だった。「お久しぶりです。本日は、お時間をいただきありがとうございます」私は深く頭を下げた。「こちらこそ。どうぞ、お座りください」ソファに腰をおろすと、レイラちゃんが私の隣にぴたりとくっついた。「森川さん、あの時は本当にありがとうございました」お母様の言葉に、私は顔を上げた。怒っていない。責めてもいない。その目は、穏やかだった。「あなたが何度も確認してくださったこと、すべて見ていました。伝達メモを3部作成して、口頭でも何度も確認してくださった」「でも……私が、もっとちゃんと……」「いいえ」お母様が、首を横に振った。「あなたの細やかな配慮があったおかげで、厨房の他のスタッフがすぐに気づき、エピペンも用意できていた。あなたがいてくれたから、レイラは助かったんです」鼻の奥が、ツンとした。「実は……退院した後のレイラが、毎晩あなたの話をしていたんです」お母様の表情が、柔らかくなる。
4月2日、木曜日。春の柔らかな日差しが差し込む前に、私は目を覚ました。今日──レイラちゃんのお母様に会う日。隣で蓮さんが、静かに寝息を立てていた。私はそっとベッドから抜け出し、キッチンへ向かった。朝食を作りながら、ぼんやりと考える。総支配人から、お母様が私を認めてくださっていると聞いた。でも、直接会うのは別だ。救急車のサイレン。母親の悲鳴。あの事故の夜、倒れた娘を抱きしめていたお母様の顔が、ちらりと過ぎった。ちゃんと、彼女の顔を見て話せるだろうか。手に力が入らず、卵を割り損ねそうになった。「……ふう」深く息を吸って、なんとか気持ちを落ち着ける。「咲希」振り返ると、蓮さんが立っていた。「おはようございます」「おはよう。早いな」蓮さんが私のそばに来る。「眠れなくて……」蓮さんが背後から包み込むように、私の肩を抱いた。「今日は俺がいる。それだけ覚えておいてくれ」その言葉に、少しだけ心が落ち着いた。◇朝食を食べた後、私たちは支度を始めた。鏡の前に立ち、久しぶりに黒のスーツに袖を通す。そして、髪を丁寧にまとめ上げる。かつて、毎日繰り返したルーティンだけれど。ホテルを辞めてからは、いつもエプロン姿だったから。なんだか変な感じ。胸元には、蓮さんから贈られた雪の結晶のネックレス。冷たいシルバーが、今日は不思議と温かく感じられた。鏡の中の私は──あの田中くんたちと会った時よりも、少しだけ顔が違う気がした。怯えていない、とは言えない。でも、逃げようとも思っていなかった。「……よし」小さく呟いて、自分に気合を入れる。「咲希、行こう」蓮さんの呼びかけに、私は静かに頷いた。◇午前10時、車はホテル・グランシエル東京の前に停まった。車を降りると、春風が頬
3月25日、水曜日の夜。カレンダーをめくれば、4月12日の「その日」まで、残された時間はあとわずか。私はリビングのキッチンで、鼻歌を歌いながら夕食の片付けをしていた。今日の献立は、蓮さんの好物である和風ハンバーグ。「美味しいな」と短く、けれど満足げに呟いてくれた彼の声を思い出すだけで、指先の水仕事も全く苦にならない。リビングのソファでは、蓮さんがゆったりと寛ぎながら、仕事の書類に目を通している。時折、ペンを動かす手が止まり、ふと顔を上げた彼と視線がぶつかる。すると蓮さんは、困ったような、けれどこれ以上なく優しい微笑みを私に投げかけてくれた。ああ、幸せだ……。心からそう思った。一時は全てを失い、絶望の淵にいた私が、今こうして愛する人の隣で、穏やかな夜を過ごしている。このまま、この温かな光の中にずっといられたら。名字が変わり、本当の家族として歩んでいく未来を想像するだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。その時だった。幸せの余韻に浸る私の耳に、スマホの無機質な着信音が響いた。液晶画面に表示されたのは、見知らぬ番号。少し迷ったが、私は電話に出た。「もしもし」『……森川さん。夜分に、突然申し訳ありません』聞き覚えのある声に、私の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。ホテル・グランシエル東京の総支配人だった。「総支配人……どうされたんですか、こんな時間に」今さら何の用があるのだろう。田中くんの証言で、私の身の潔白は証明されたはずなのに。『……実は、どうしてもお耳に入れたい相談がありまして。本来なら私が断るべき案件なのですが、お相手が……』「相談……ですか?」『はい。VIPのお客様が、森川さんを指名されているんです』「え?」布巾を持つ手が、止まった。もう私はあのホテルの人間ではない。それなのに、なぜ。『どうしても、直接お会いし
蓮さんが扉を開けると、厳造様が立っていた。「蓮、咲希さん、邪魔するぞ」「祖父上、どうぞ」厳造様がリビングに入ってこられ、私は立ち上がった。「お茶をお持ちします」「いや、気にしなくていい」厳造様が手を上げて、私を制した。「少しだけ、話がある」厳造様は、ソファに座った。蓮さんと私も、向かいのソファに腰をおろす。厳造様の表情は、穏やかだった。でも、その目の奥に、何か深いものが宿っているように見えた。「咲希さん、ありがとう」突然の言葉に、私は目を丸くした。「え……?私は何も……」「お前さんは、蓮を変えてくれた。そして……この老いぼれに、家族の温もりを思い出させてくれた」厳造様の声が、わずかに震えた。「隆一郎を失って以来、私の中で何かが止まっていた。蓮も心を閉ざして、ただ仕事だけを続けていた。あの子が一度も笑わずに歳を取っていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかった」厳造様は、慈しむような目で蓮さんを見た。「だが、今はどうだ。やっと、家族が増える。隆一郎も、きっと空の上で安堵しているだろう」私の目から、熱いものがこぼれた。厳造様がこれほどまでに蓮さんを、そして私のことを想ってくださっていたなんて。「私こそ、皆さんと家族にしていただいて……本当にありがとうございます」厳造様は静かに頷いた。「4月12日、楽しみにしているぞ」「はい」私は力強く頷いた。厳造様は満足そうに微笑むと、足取り軽くペントハウスを後にされた。扉が閉まった後、しばらく静寂が続いた。蓮さんが、遠くを見つめている。「……祖父が、あんなに話すのは珍しい」「そうなんですか?」「ああ。感情を表に出さない人だから」蓮さんは静かにソファに深く座り直した。何かを思い出しているような、静かな目をしていた。「……そういえば」
1月11日。パーティー当日の朝。私は、いつもより早く目を覚ました。時計を見ると、午前6時前。今日──ついに、この日が来た。氷室グループの新年パーティー。200名の前で、氷室様の婚約者として立つ。深呼吸をしたけれど、緊張は収まらない。私は、ベッドから起き上がった。◇朝食の準備をしていると、氷室様がリビングに現れた。「おはよう、咲希」「おはようございます」いつもの挨拶。でも、今日はいつもと違う。
私の手が止まる。『違法なことはさせない。だが、俺の言うことは絶対だ。それが嫌なら、今すぐ帰れ』と、氷室様は言った。……これでいいのか?私は今、ここにサインをして、本当にいいの?この理不尽な条項は、間違いなく私の人生を大きく変えることになる。私は、目を閉じた。母の弱々しい声。旅館の屋根。父の薬代。通帳の残高32万円。選択肢は……ない。私は、ペン先を契約書に当てる。そして、『森川咲希』とサインをした。「契約成立だな」ふっと口角を上げた
私は、息を呑んだ。死──?「死ぬって、そんな大袈裟な……」「いいえ、大げさじゃないんです」神崎さんは、真剣な目で続けた。「過労死、という言葉をご存知ですか?」「はい……」「氷室様は、その一歩手前です」私は、胸がぎゅっと締め付けられた。「氷室様は仕事ばかりで、自分の健康を顧みない。朝は7時に家を出て、夜は0時を過ぎることもある。食事は全てコンビニか外食です」「……そんな」「なので、どうか氷室様を救ってあげてください。
12月上旬。冬の朝は、まだ暗い。あの運命の応募から、数週間。早朝6時。私は、スカイレジデンス東京の前に立っていた。大きなスーツケースを転がし、もう一つのバッグを肩にかける。全財産が、この二つに収まっている。吐く息が白い。冷たい空気が、頬を刺す。警備員に挨拶をして、エレベーターに乗り込む。神崎さんから渡されたカードキーをかざし、最上階のボタンを押した。上昇していくエレベーター。窓から見える景色はまだ薄暗いけれど、遠くに朝焼けの気配が感じられる。今日から、ここが私の