ログイン12月24日。クリスマスイブ。
昨夜、氷室様から『明日、10時にリビングへ。私服で構わない』とメッセージが届いて以来、不安と期待が交錯し、私はほとんど眠れなかった。
◇
朝10時、私はリビングで氷室様を待っていた。
紺色のワンピースに、ベージュのコートを羽織っている。控えめにメイクし、髪は後ろで一つにまとめた。
鏡で何度も確認したが、そのたびに心臓が激しく鳴った。どこに行くのか、何の用事なのか。そして――なぜ、私なんだろう。
廊下から足音が聞こえ、息を呑む。
氷室様が、リビングに現れた。黒いロングコートに、首元をすっきりと見せるダークグレーのタートルネック。
いつもの隙のないスーツ姿とは違う、大人の余裕を感じさせるラフな装い。……心臓に悪いほど、格好いい。
「おはようございます」
私は、慌てて立ち上がった。
「ああ、おはよう」
氷室様は私を一瞥した。その視線に、私の顔はカーッと熱くなる。
4月2日、木曜日。春の柔らかな日差しが差し込む前に、私は目を覚ました。今日──レイラちゃんのお母様に会う日。隣で蓮さんが、静かに寝息を立てていた。私はそっとベッドから抜け出し、キッチンへ向かった。朝食を作りながら、ぼんやりと考える。総支配人から、お母様が私を認めてくださっていると聞いた。でも、直接会うのは別だ。救急車のサイレン。母親の悲鳴。あの事故の夜、倒れた娘を抱きしめていたお母様の顔が、ちらりと過ぎった。ちゃんと、彼女の顔を見て話せるだろうか。手に力が入らず、卵を割り損ねそうになった。「……ふう」深く息を吸って、なんとか気持ちを落ち着ける。「咲希」振り返ると、蓮さんが立っていた。「おはようございます」「おはよう。早いな」蓮さんが私のそばに来る。「眠れなくて……」蓮さんが背後から包み込むように、私の肩を抱いた。「今日は俺がいる。それだけ覚えておいてくれ」その言葉に、少しだけ心が落ち着いた。◇朝食を食べた後、私たちは支度を始めた。鏡の前に立ち、久しぶりに黒のスーツに袖を通す。そして、髪を丁寧にまとめ上げる。かつて、毎日繰り返したルーティンだけれど。ホテルを辞めてからは、いつもエプロン姿だったから。なんだか変な感じ。胸元には、蓮さんから贈られた雪の結晶のネックレス。冷たいシルバーが、今日は不思議と温かく感じられた。鏡の中の私は──あの田中くんたちと会った時よりも、少しだけ顔が違う気がした。怯えていない、とは言えない。でも、逃げようとも思っていなかった。「……よし」小さく呟いて、自分に気合を入れる。「咲希、行こう」蓮さんの呼びかけに、私は静かに頷いた。◇午前10時、車はホテル・グランシエル東京の前に停まった。車を降りると、春風が頬
3月25日、水曜日の夜。カレンダーをめくれば、4月12日の「その日」まで、残された時間はあとわずか。私はリビングのキッチンで、鼻歌を歌いながら夕食の片付けをしていた。今日の献立は、蓮さんの好物である和風ハンバーグ。「美味しいな」と短く、けれど満足げに呟いてくれた彼の声を思い出すだけで、指先の水仕事も全く苦にならない。リビングのソファでは、蓮さんがゆったりと寛ぎながら、仕事の書類に目を通している。時折、ペンを動かす手が止まり、ふと顔を上げた彼と視線がぶつかる。すると蓮さんは、困ったような、けれどこれ以上なく優しい微笑みを私に投げかけてくれた。ああ、幸せだ……。心からそう思った。一時は全てを失い、絶望の淵にいた私が、今こうして愛する人の隣で、穏やかな夜を過ごしている。このまま、この温かな光の中にずっといられたら。名字が変わり、本当の家族として歩んでいく未来を想像するだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。その時だった。幸せの余韻に浸る私の耳に、スマホの無機質な着信音が響いた。液晶画面に表示されたのは、見知らぬ番号。少し迷ったが、私は電話に出た。「もしもし」『……森川さん。夜分に、突然申し訳ありません』聞き覚えのある声に、私の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。ホテル・グランシエル東京の総支配人だった。「総支配人……どうされたんですか、こんな時間に」今さら何の用があるのだろう。田中くんの証言で、私の身の潔白は証明されたはずなのに。『……実は、どうしてもお耳に入れたい相談がありまして。本来なら私が断るべき案件なのですが、お相手が……』「相談……ですか?」『はい。VIPのお客様が、森川さんを指名されているんです』「え?」布巾を持つ手が、止まった。もう私はあのホテルの人間ではない。それなのに、なぜ。『どうしても、直接お会いし
蓮さんが扉を開けると、厳造様が立っていた。「蓮、咲希さん、邪魔するぞ」「祖父上、どうぞ」厳造様がリビングに入ってこられ、私は立ち上がった。「お茶をお持ちします」「いや、気にしなくていい」厳造様が手を上げて、私を制した。「少しだけ、話がある」厳造様は、ソファに座った。蓮さんと私も、向かいのソファに腰をおろす。厳造様の表情は、穏やかだった。でも、その目の奥に、何か深いものが宿っているように見えた。「咲希さん、ありがとう」突然の言葉に、私は目を丸くした。「え……?私は何も……」「お前さんは、蓮を変えてくれた。そして……この老いぼれに、家族の温もりを思い出させてくれた」厳造様の声が、わずかに震えた。「隆一郎を失って以来、私の中で何かが止まっていた。蓮も心を閉ざして、ただ仕事だけを続けていた。あの子が一度も笑わずに歳を取っていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかった」厳造様は、慈しむような目で蓮さんを見た。「だが、今はどうだ。やっと、家族が増える。隆一郎も、きっと空の上で安堵しているだろう」私の目から、熱いものがこぼれた。厳造様がこれほどまでに蓮さんを、そして私のことを想ってくださっていたなんて。「私こそ、皆さんと家族にしていただいて……本当にありがとうございます」厳造様は静かに頷いた。「4月12日、楽しみにしているぞ」「はい」私は力強く頷いた。厳造様は満足そうに微笑むと、足取り軽くペントハウスを後にされた。扉が閉まった後、しばらく静寂が続いた。蓮さんが、遠くを見つめている。「……祖父が、あんなに話すのは珍しい」「そうなんですか?」「ああ。感情を表に出さない人だから」蓮さんは静かにソファに深く座り直した。何かを思い出しているような、静かな目をしていた。「……そういえば」
「ウェディングプランナーの資格、本気で取ろうと思う」私は驚いて、目を見開いた。「本気なの?」「うん」萌花は力強く頷いた。「さっき、コーディネーターさんが話してくれたこと……ずっと頭から離れなくて」萌花が、紅茶のカップを両手で包む。「一針一針縫われたレースに、作り手の想いが込められてる。それを花嫁さんに届ける仕事って……すごく素敵だと思ったの」萌花の言葉が、熱を帯びている。「咲希の結婚式の準備を一緒にしてて、気づいたんだ。誰かの大切な日のために準備する仕事がしたいって」私は萌花の手を取った。「萌花なら、絶対素敵なプランナーになれるよ」萌花が照れくさそうに微笑んだ。「ありがとう、咲希。……あなたが幸せそうで、私も嬉しくて。ずっと、咲希の幸せを願っていたから」「私こそ、萌花がいてくれて良かった」二人で、しばらく顔を見合わせて笑い合った。◇3月15日、日曜日。今日は蓮さんがタキシードを選ぶ日だった。私と神崎さんが同行している。「氷室社長、こちらがおすすめのタキシードです」紳士服店のスタッフが、黒いタキシードを持ってきた。蓮さんは試着室に入り、しばらくして出てきた。黒のタキシード姿の蓮さんが、立っている。その姿を目の当たりにした瞬間、息が止まった。いつものスーツとはまた違う。より洗練されて、より格式高く見える。「かっこいい……」思わず声が漏れた。蓮さんが私の方を向いて、少し照れくさそうに微笑んだ。「そうか?」神崎さんも頷いている。「完璧です、氷室様」こんなに素敵な人を、私が独占してもいいんだろうか。そんなことを思いながら、私はぼんやりと蓮さんを見つめていた。蓮さんは鏡の前で自分の姿を確認し、静かに言った。「咲希との結婚式……ちゃんとした姿で迎えたいから
3月10日、火曜日。実家への挨拶を終えてから、数日が経っていた。今日は、親友の萌花と一緒に、ウェディングドレスを選びに来ている。「咲希、絶対素敵なドレス見つけようね!」萌花は、朝から張り切っていた。私たちが訪れたのは、青山にある有名なドレスショップ。白を基調とした店内には、無数のドレスが並んでいる。シンプルなもの、豪華なもの、個性的なもの──どれも美しくて、目移りしてしまう。「いらっしゃいませ」ドレスコーディネーターの女性が、優雅に私たちを迎えてくれた。「この度はご結婚、誠におめでとうございます」「ありがとうございます」私が答えると、コーディネーターは微笑んだ。「それでは、まずはお好みのスタイルを教えていただけますか?」「えっと……」私が萌花の方を向くと、萌花が目を輝かせた。「咲希は細身だから、Aラインが絶対似合うと思う!」萌花の言葉に、コーディネーターも頷いた。「そうですね。でも、せっかくですから、いくつか試着してみましょう。着てみて初めて分かることが、たくさんありますから」こうして、私のドレス選びが始まった。◇最初に試着したのは、シンプルなAラインのドレス。試着室で着替えを手伝ってもらい、鏡の前に立つ。「わあ……」思わず声が漏れた。真っ白なドレスが、私を別人のように見せていた。「咲希、出ておいで!」萌花の呼びかけにカーテンを開けると、彼女が口元を押さえた。「本当に綺麗だよ、咲希」コーディネーターも微笑んでいる。「お似合いです。でも、もう少し他のドレスも見てみましょう」次に試着したのは、マーメイドライン。体のラインにぴったりと沿うデザインで、裾だけが広がっている。鏡の前に立つと、少し恥ずかしくなった。体のラインが強調されすぎている気がして。萌花も首を横に振った。
夜、客室で。使い込まれた畳の香りと、どこか懐かしい実家の匂いに包まれながら、蓮さんと私は並んで布団に入っていた。慣れ親しんだ実家の天井なのに、隣に蓮さんがいるだけで、まるで別の場所に迷い込んだような不思議な感覚だった。「あの……蓮さん。今日は、ありがとうございました」私が囁くと、蓮さんは寝返りを打って私の方を向いた。「何が?」「両親に、ちゃんと向き合ってくれて。……お酒まで、一緒に飲んでくれて」蓮さんは布団の中で、私の指を一本ずつ絡めるように握った。「当然のことだ。君を大切に育ててくれた人たちなんだから」窓の外、大きな満月が輝いている。その青白い光が、障子越しに部屋を優しく照らしていた。「咲希」「はい?」「お父さんには、旅館の借金を完済したことも伝えた。……君には、後で話そうと思っていたんだが」「……実は、なんとなく予感していました。蓮さんなら、そうするって」私がそう言うと、蓮さんは目を見開いた。「驚かないのか?」「もちろん驚きましたよ。でも……蓮さんは、いつも言葉より先に、私の守りたいものを守ってくれるから」蓮さんは愛おしそうに目を細め、私の手を自分の唇に寄せた。「君の大切な場所は、俺の大切な場所でもある。君の重荷は、すべて俺が半分背負う。それだけのことだ」視界が、じんわりと潤む。「蓮さん、ありがとうございます……」「礼を言うのは俺の方だ。君と家族になれること、本当に嬉しい」「私も、です」蓮さんの腕が私の腰に回され、ぐい、と強く抱き寄せられた。布団越しでも伝わる逞しい体温と、かすかに残るお酒の香りに、鼓動が跳ね上がる。蓮さんが私の顎にそっと指先を添え、顔を上向かせた。「咲希……」吸い込まれそうな熱を孕んだ瞳に見つめられ、唇が重なる。最初は、壊れ物に触れるような柔らかい愛撫。けれど、一度唇が離れそうになる
高級ホテル『グランドパレス東京』タクシーを降りると、目の前には荘厳な建物が聳えていた。赤い絨毯の両脇に報道陣とカメラの列。フラッシュの光が、夜の闇を白く切り裂く。「っ……」私は、思わず立ち止まってしまった。カメラのフラッシュが、眩しい。「大丈夫。俺を見てくれ」見上げると、氷室様──いえ、蓮さんが微笑んでいる。その笑顔に、足元の頼りなさが消えていくのを感じた。「行こう」蓮さんの優しい声に導
私の手が止まる。『違法なことはさせない。だが、俺の言うことは絶対だ。それが嫌なら、今すぐ帰れ』と、氷室様は言った。……これでいいのか?私は今、ここにサインをして、本当にいいの?この理不尽な条項は、間違いなく私の人生を大きく変えることになる。私は、目を閉じた。母の弱々しい声。旅館の屋根。父の薬代。通帳の残高32万円。選択肢は……ない。私は、ペン先を契約書に当てる。そして、『森川咲希』とサインをした。「契約成立だな」ふっと口角を上げた
私は、息を呑んだ。死──?「死ぬって、そんな大袈裟な……」「いいえ、大げさじゃないんです」神崎さんは、真剣な目で続けた。「過労死、という言葉をご存知ですか?」「はい……」「氷室様は、その一歩手前です」私は、胸がぎゅっと締め付けられた。「氷室様は仕事ばかりで、自分の健康を顧みない。朝は7時に家を出て、夜は0時を過ぎることもある。食事は全てコンビニか外食です」「……そんな」「なので、どうか氷室様を救ってあげてください。
12月上旬。冬の朝は、まだ暗い。あの運命の応募から、数週間。早朝6時。私は、スカイレジデンス東京の前に立っていた。大きなスーツケースを転がし、もう一つのバッグを肩にかける。全財産が、この二つに収まっている。吐く息が白い。冷たい空気が、頬を刺す。警備員に挨拶をして、エレベーターに乗り込む。神崎さんから渡されたカードキーをかざし、最上階のボタンを押した。上昇していくエレベーター。窓から見える景色はまだ薄暗いけれど、遠くに朝焼けの気配が感じられる。今日から、ここが私の