ログインその夜、私は自室のベッドで天井を見つめていた。
おせち料理を囲んで笑い合った時間。
氷室様の「変わりたい」という言葉。
そして、『君がいてくれて、よかった』という温かな声。
幸せな一日だった――はずなのに。
午後に盗み聞いてしまった、あの会話がすべてを掻き消していく。
『婚約者を、近々紹介します』
氷室様の声が、何度も頭の中で響く。
無意識に、首元のネックレスに触れた。クリスマスに彼がくれた雪の結晶。
「君に似合うと思って」
あの時、私はこのペンダントが特別なものだと思ってしまった。二人だけの、何か。
……馬鹿みたい。
氷室様には婚約者がいる。それは喜ぶべきことで、当然のこと。
私はただの家政婦。彼の人生という舞台に、立つ資格なんて最初からない。
「っ……」
頭では分かってる。嫌というほど、分かってるのに。
<午前7時。ヘアメイクのスタイリストたちが到着し、私の部屋はあっという間に準備の場へと変わった。ドレッサーの前に腰を下ろすと、スタイリストさんが私の髪にそっと触れた。「綺麗な髪ですね。しっかりとカールがつきますよ」ブラシが髪を通る心地よい刺激を感じながら、私は鏡の中の自分を見つめた。今日──この顔で、蓮さんの前に立つ。鼓動が、じわりと速くなった。一房ずつ、カールアイロンで形を作っていく。時間をかけて、慎重に。その間、メイクアップアーティストさんが私の肌を丁寧に仕上げていく。一つ一つの工程が静かに積み重なり、鏡の中の私が少しずつ変わっていく。「できました」スタイリストさんの声で、私はゆっくりと鏡を見た。「……私?」思わず声が漏れた。鏡の中には、見慣れない女性がいた。間違いなく私なのに、まるで別人のよう。母が、後ろで息を呑んだ。「咲希……本当に綺麗よ」萌花は口元を両手で押さえたまま動かない。「では、ドレスを着ましょう」真っ白なAラインのドレス。繊細なレースが、光を受けて輝いている。背中のファスナーを上げてもらうと、ドレスが私の体にぴったりと沿った。そして──レイラちゃんのお母様からいただいたティアラを、頭にそっと載せる。ずっしりとした銀細工の重みは、あの親子から託された祝福の重さそのものだった。もう一度、鏡の前に立つ。純白のドレスをまとった花嫁が、そこにいた。「咲希……」母の言葉が、途中で途切れた。鏡越しに目が合うと、母の頬を一筋の涙が伝っていた。萌花も、ハンカチを目元に押し当てている。「ちょっと、二人とも泣きすぎ」私が笑うと、萌花がくしゃくしゃの顔で笑い返した。「だって……咲希が綺麗すぎるんだもん」「スタイリストさんたちのおかげだよ」「ありがとうございます。素敵な結婚式になりますように」スタイ
4月12日、土曜日。午前5時。アラームが鳴り響くより数分早く、私は目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の中は青白い静寂に包まれている。それでも、地平線の向こう側が淡い真珠色に染まり始めていた。とうとう、この日が来たのだ。布団から出ると、足の裏に畳の感触が広がった。窓を開けると、春の朝特有の湿り気を帯びた冷たい空気が一気に流れ込む。山の端から溢れた鮮やかなオレンジ色の光が、眠っていた庭を照らし始めていた。何度も見てきたはずの実家の朝。でも、今日だけは世界が新しく生まれ変わったかのように見えた。「咲希?もう起きてるの?」ふすまの向こうから、母の声が聞こえた。「うん、起きてるよ」スッと開いたふすまの向こうに、黒留袖姿の母が立っていた。いつもの割烹着ではない、ハレの日の装い。母がいつもより一回り大きく、凛として見えた。母が、私の隣にそっと腰を下ろす。二人で並んで、窓の外を眺めた。庭の隅にある古びた物干し台。子供の頃、あそこでかくれんぼをしたっけ。シーツを干す母の後ろに隠れて、父に見つかって笑われた。洗い立ての布の匂いと、風に揺れる白い影。あの頃は、ずっとこの家にいられるものだと思っていた。自分がいつか氷室家に嫁ぐなんて、想像もしていなかった。「……綺麗ね」母がポツリと呟いた。その声が少し震えていることに気づき、私は母の肩に寄り添った。「本当に。いいお天気で良かった」「きっと、神様も味方してくれているのよ」母が、私の手を握った。昨夜、温泉の中で触れた時と同じ、温かくて少し小さくなった手。「お母さん、ここまで育ててくれてありがとう。たくさん心配をかけたけれど、お母さんの娘でよかった」言葉にした瞬間、急に視界が潤んだ。母は何も言わず、ただ何度も私の手を叩いた。「こちらこそ。咲希を産めて、お母さん、本当に幸せよ」
部屋に戻った私は畳の上に正座をして、封筒をそっと開いた。便箋を取り出すと、不器用な文字が並んでいる。『咲希へ明日、お前は蓮さんの妻になる。父として、嬉しくもあり、寂しくもある。お前が生まれた日のことを、今でも覚えている。小さくて、か弱くて、一生懸命泣いていた。その時、父さんは誓ったんだ。この子を、絶対に守ると。お前が小学生の頃、父さんと一緒に庭の手入れをしたな。お前はまだ小さいのに、熊手を一生懸命動かして、落ち葉を集めてくれた。「お父さん、旅館のお庭、きれいにしようね」そう言って笑ったお前の顔を、父さんは一生忘れない。あの頃から、お前はもうこの旅館を、自分の場所だと思ってくれていたんだな。でも、父さんは何もできなかった。お前が苦しんでいる時も、助けてやれなかった。情けない父親だ。ホテルで仕事を失った時、お前がどれだけ辛かったか。父さんには、分かっていた。なのに、何も言えなかった。ただ、お前が諦めずに前を向いている姿を見て、父さんは誇りに思った。強い子に育ってくれて、ありがとう。そして──蓮さんと出会ってくれて、ありがとう。蓮さんは、お前を本当に愛している。きっとお前のことを守ってくれる。だから、父さんは安心してお前を託せる。咲希、幸せになれよ。ずっと、ずっと愛してる。父より』手紙を読み終えた時、私はしばらく動けなかった。便箋を胸に抱きしめる。便箋の端に、乾いた波打ちがあった。お父さん、泣きながら書いたんだ。厳格で、自分にも厳しく、甘えることを許さなかった背中。その裏側にあった、痛いほどの後悔と愛情。「……ありがとう、お父さん。私、お父さんの娘でよかった」誰もいない部屋で、その不器用な文字を、そっとなぞった。この手紙は一生、大切にしよう。◇しばらくして、スマホが振動した。蓮さんからのメッセージだった。
4月11日、金曜日。結婚式前日。私は萌花と一緒に、実家の旅館へ向かう車の中にいた。母が『最後に家族でゆっくり過ごしましょう』と言ってくれ、蓮さんも「ご両親と、大切な時間を過ごしてきて」と、背中を押してくれた。窓の外を流れるのは、何度も通ったはずの田舎道。山々、田んぼ、小さな商店街。子供の頃から見慣れた風景。けれど、今日だけは少し違って見えた。「この景色を『森川咲希』として見るのは、これが最後なんだね……」助手席から漏れた私の呟きに、萌花が優しく、だけど力強くハンドルを叩いた。「そうだよ。次に来る時は、かっこいい旦那様の奥様として、だね」萌花の言葉に、口元がゆるんだ。シートベルトの下で、心臓がやけにうるさく鳴り続けている。緊張なのか、期待なのか、もう自分でも分からなかった。やがて、車は実家の旅館に着いた。玄関の前で、両親が待っていてくれた。「咲希、おかえり」「ただいま」私は母の方へ歩み寄った。父も、穏やかな表情で私を見ていた。「ついに明日だな」「うん……楽しみで、ちょっと怖いくらい」父が、静かに笑った。「そりゃそうだ」それだけ言って、父は大きな手を私の頭に乗せた。旅館を切り盛りしてきた、固くて少しざらついた、父の手。「泣くな。明日、もっと泣くんだから」そう言った父の目が、少しだけ赤くなっているのを私は見逃さなかった。◇その夜。私は母と萌花と三人で、旅館の温泉に入った。貸し切りの露天風呂に浸かると、白く立ち上る湯気が夜の冷たい空気と混ざり合い、肩を優しく包み込む。「咲希、明日は思いっきり楽しみなさいね」母が、私の手を取った。お湯の中で触れ合う母の手は、子供の頃から変わらない。「お母さんも、お父さんと結婚した日のこと、今でも覚えてるわ。緊張したけど、幸せだった。きっと咲希も、明日のことを一生忘れないわよ」その言葉が、静かに胸に落ちた。
次にやって来たのは、ダイニングテーブルのコーナー。私は、小ぶりな二人掛けのテーブルの前で立ち止まった。「これで十分ですよね、二人なら」蓮さんが、テーブルを見た。「……いや、こっちにしよう」そう言って蓮さんが指さしたのは、四人掛けのテーブルだった。「え?でも、二人なのに」「今は二人だが」蓮さんが、窓の外の春の空を見た。「将来、賑やかになるかもしれない」「賑やかに……?」蓮さんが、私を見た。その目が、少し遠くを映しているような気がした。「君に似た子が、このテーブルで笑っている姿が……想像できるんだ」頬が、一気に熱くなった。「れ、蓮さん……」「変なことを言ったか?」「変じゃないですけど、急に……」私が言葉を失っていると、蓮さんが軽く咳払いをした。「……まあ、そういうことだ。頼む」私は蓮さんのシャツの袖を、そっと掴んで下を向いた。──四人掛けのテーブル。蓮さんが思い描いた未来の食卓。その景色が、私の胸の中でじわりと広がった。私も、同じ未来を見たいと思った。◇食器のコーナーで、私はあるカップの前で立ち止まった。シンプルで素朴な佇まいの、ペアのマグカップ。手に取った瞬間、しっくりきた。「これ……すごく持ちやすいです。蓮さんの大きな手でも、持ちやすそうで」蓮さんが、もう一方を手に取った。しばらく、黙って手の中で確かめていた。「ああ、いいな」「明日からのコーヒーが楽しみになります」「俺もだ」「蓮さんはブラックですよね。私は少しだけミルクを入れて……このカップが並んでいるところを想像すると、なんだか不思議な気持ちになります」「不思議?」「こんなに当たり前の毎日が、私には夢みたいで」蓮さんが、私を見た。何かを言いかけて、やめた。代わりに、カップを静かにトレーに置いた。
4月4日、土曜日。結婚式まで、あと7日。朝食を片付けていると、蓮さんのスマートフォンが鳴った。画面を確認した彼は、短く「祖父上からだ」と告げて通話ボタンを押した。「はい」しばらく聞いていた蓮さんの眉が、わずかに上がった。「……言われなくても、そのつもりです」また聞いている。「分かりました。では、そのように」電話を切った蓮さんが、少し呆れた顔で私を見た。「祖父上から指令が出た」「指令?」「今日、買い物に付き合ってくれ。新居……いや、今の部屋を、君が使いやすいように整えたい」「私が選んでいいんですか?」「それが指令だ」蓮さんが、少し間を置いてから付け加えた。「俺も、そうしたいと思っていた」それだけだった。多くを語らない。でも、その一言の重さを、私はちゃんと受け取った。◇青山にある家具店は、ショールームというより美術館のようだった。吹き抜けの天井、柔らかい照明、どこを見ても洗練されたものばかり。入った瞬間、足がすくんだ。「どうした」「少し、圧倒されてしまって」蓮さんが、私の隣に並んだ。「値段は見なくていい。君の心が動くものを選んでくれ。これから一生使うものだから」その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。スタッフの方に案内されながら、広い店内を歩く。洗練された家具が並ぶ中、リビングコーナーの一角に、ひときわ目を引く大きなソファがあった。チャコールグレーの落ち着いた色味に、ふかふかとした厚みのあるクッション。蓮さんが、その前で立ち止まった。「座ってみよう」五人は掛けられそうな、ゆったりとしたサイズ。私が端に座ろうとした、その時だった。「咲希、こっちだ」蓮さんが、自分のすぐ隣をぽんぽんと叩いた。広いソフ
『氷室様より緊急の指示です』緊急の指示……なんだろう?神崎さんの声は、電話越しでもいつもの落ち着きを欠き、微かな緊張を孕んでいた。「リビングの革のトランクを、あなたの部屋のクローゼットの奥に保管してください」「トランク……ですか?」私は、リビングを見回した。ソファの横には、今朝はなかったはずの黒い革のトランクが、静かに鎮座していた。いつの間に、ここに置かれたのだろう?「トランクの内容は、私にも不明です。ただ氷室様からは『誰
──目が覚めた。私は、ベッドの上で激しく息を切らしていた。心臓が、警鐘のようにドクドクと鳴り響いている。夢……だった。トランクを開けた、悪夢のような夢。中には、何が入っていたんだろう。見た、はずなのに。目が覚めた瞬間、あの光景は霧のように消えてしまった。思い出せない。ただ──恐怖だけが、胸に残っている。私は、クローゼットをじっと見つめた。あの中に、トランクがある。本当に開けてしまいそうで、何よりもそれが怖かった。時計を見ると、午前
私の手が止まる。『違法なことはさせない。だが、俺の言うことは絶対だ。それが嫌なら、今すぐ帰れ』と、氷室様は言った。……これでいいのか?私は今、ここにサインをして、本当にいいの?この理不尽な条項は、間違いなく私の人生を大きく変えることになる。私は、目を閉じた。母の弱々しい声。旅館の屋根。父の薬代。通帳の残高32万円。選択肢は……ない。私は、ペン先を契約書に当てる。そして、『森川咲希』とサインをした。「契約成立だな」ふっと口角を上げた
私は、息を呑んだ。死──?「死ぬって、そんな大袈裟な……」「いいえ、大げさじゃないんです」神崎さんは、真剣な目で続けた。「過労死、という言葉をご存知ですか?」「はい……」「氷室様は、その一歩手前です」私は、胸がぎゅっと締め付けられた。「氷室様は仕事ばかりで、自分の健康を顧みない。朝は7時に家を出て、夜は0時を過ぎることもある。食事は全てコンビニか外食です」「……そんな」「なので、どうか氷室様を救ってあげてください。