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第二章:青い春と早い夏のあいだで③

last update Veröffentlichungsdatum: 18.08.2026 07:41:30

――檸檬バタフライピーソーダを持って、体育倉庫裏へ行け

 体育祭の当日、開会式の後にメッセージを受信した陽生は深々と溜息を吐いた。一人になるなとこの前念押ししたにもかかわらず、彼女にはどうやらいまいち響いていないようだ。

 それにこの謎の飲み物指定は一体何なのだろう。茉莉の飲み物の嗜好を熟知している辺り、未来の自分は本当に彼女とどういう関係なんだ。

(謎ドリンクは大体美術室の前の自販機って相場が決まってるよな)

 自分が出る競技まではまだ時間がある。陽生は一度、校舎内に戻ると、美術室へと向かった。

 体育祭で全員が出払っていることもあって、校舎内は驚くほど静まり返っていた。くるぶしソックスの裏がリノリウムの廊下に触れる音がやけに大きく聞こえる気がする。

(うっわ……マジであった。っていうか、あいつ、こんなまずそうな色の飲み物マジで飲むの?)

 美術室前の自動販売機前で青紫色のドリンクを見つけると、陽生は思わず顔を顰めた。どんな味がするのか見当もつかないし、そもそも美味しそうに見えない。女心はわからないなあと思いながら、陽生は自動販売機のボタンを押すと、スマホで決済をする。

 不可思議な色をしたドリンクのペットボトルを手に、陽生は踵を返した。昇降口まで戻ると、下駄箱で靴を履き替え、陽生は体育倉庫裏へと足を向けた。

 グラウンドからは百メートル走で盛り上がる声が聞こえてくる。競技の邪魔をしないように、トラックを大きく回り込んで、体育倉庫へと行くと屋根の影になる場所に体操服姿の茉莉が座り込んでいた。

「おい、芦屋、どうした? また、何か佐倉とあったのか?」

「あ、貴嶋くん……」

 そう言って茉莉は顔を上げる。彼女の顔からは血の気が引き、真っ青だった。赤色のハチマキで前髪を上げた額には冷や汗が伝い、声が震えている。

「どうした、お前もしかして、体調悪いのか?」

「うーん、何か眩暈がして、ちょっと気分悪いかも……」

「熱中症か? とりあえず、これ飲んどけ。……っていうかスポドリのほうが良かったな」

 陽生は檸檬バタフライピーソーダなる謎のドリンクのペットボトルを茉莉に渡してやる。ありがと、と彼女は青白い顔で儚げに微笑んだ。

「大丈夫、わたしこれ好きだから。貴嶋くんって、よくわたしの好みわかるよね」

「まあ、普段何飲んでるか見てたら、普通にわかるだろ。そんなことより、救護テント行くぞ」

「え……でも、わたし、次の次にスウェーデンリレーが……」

「救急車乗りたくなかったら、大人しく棄権しとけ。それにあの競技、アンカーおれだから、三走のお前の分もまとめて走っておいてやるよ」

 そう言うと、陽生は背と膝の裏に手を回して、有無を言わさずに茉莉を抱き上げた。右手の手のひらにごりっとした感触が当たり、陽生はどぎまぎとする。体育着越しに感じるブラの金具の感触に、嫌でも茉莉は女子なのだと意識させられる。

「お前、軽いな。ちゃんと三食食ってるか? いっつも弁当もうさぎの餌かってくらい野菜ばっかだし」

 右手から意識を逸らそうと、どうでもいい話題を口にしながら、陽生は歩き出す。うさぎの餌って、と茉莉は吹き出した。

「そんなに野菜ばっかりじゃないよ。ちゃんとお豆腐のハンバーグとか、ひじき入りのお豆腐のつくねとかそういうのも入ってるよ」

「もっと肉を食え、肉を」

「お豆腐でたんぱく質はちゃんと摂れてるよ? それにしても、貴嶋くんのお弁当は毎日気合い入ってるよね。将来いい旦那さんになりそう」

 じゃあ嫁に来るか、と陽生は軽口を叩きかけて、やめた。仮にも彼氏のいる相手に言うことじゃないし、これでは自分が茉莉を異性として好きみたいではないか。

 救護テントに茉莉を連れて行くと、陽生は彼女を保健教諭の高田たかだに預けた。「プログラムナンバー五番、スウェーデンリレーに出場する方は集まってください」隣のテントで放送委員がアナウンスする声が聞こえてくる。

 それじゃ、と踵を返しかけた陽生の腕を引き止めるように茉莉の指が掴んだ。

「貴嶋くん、迷惑かけてごめんね」

「別に迷惑とか思ってねえよ。さくっと終わらせて、また後で様子見にくるよ」

「さくっとって、貴嶋くんがそんなに体育得意なイメージないんだけど……氷上くんじゃあるまいし」

「言ってくれるなあ、お前。まあ見とけって」

 じゃあな、と今後こそ陽生は救護テントを後にする。頑張って、という茉莉の声が追いかけてきた。

 陽生はスウェーデンリレーの集合場所へ向かうと、クラスメイトに茉莉が出られなくなったことと、彼女の代走を自分が務めることを伝えた。一つ前の障害物競争が終わると、陽生は他の参加者たちとともにスタート位置へと向かう。陽生は第三走のスタート位置に着くと、開始のホイッスルが鳴るのを待った。

 ピーっとホイッスルの高い音が昊を劈いた。同時に第一走の選手たちが、弾かれたようにスタートラインを飛び出した。

(うちのクラスは……三位か)

 若干出遅れたクラスメイトがコーナーを曲がり、第二走へとバトンを受け渡す。第二走のクラスメイトが走り出すと、次は自分の番だと陽生は気を引き締めた。

 だんだんと第二走のクラスメイトが近づいてくる。助走をつけて、陽生は最下位でバトンを受け取ると走り出した。

(芦屋にああ言った手前……たまには本気を出すか)

 ギアが入ったかのように、陽生は徐々に加速していく。視界の隅に、一人、二人と追い抜かした他の組の選手の顔が残像のように映る。

「A組、ここに来ての巻き返しか! だが、まだアンカーが控えている! さあ、この勝負、どこのクラスが勝つかわからなくなってきました!」

 ハイテンションな放送委員のアナウンスが遠くに聞こえた気がした。しかし、陽生はそれを無視して、全速力で走り続ける。右足が本来自分がスタートするはずだった、アンカーのスタートラインを踏む。まだまだ勝負はここからだと、陽生は数メートル先を走るB組のアンカーを追いかける。

――貴嶋くん、頑張って!

 ふいに茉莉の声が聞こえた気がした。ふっと陽生の口元が無意識に緩む。そして、陽生の脚は自身の限界を超え、前を走る選手に肉薄する。

(悪いけど、負けてやるわけにはいかない)

 陽生はB組のアンカーを追い越すと、徐々に距離を離していく。残るはトラック半周だ。

「おお、A組、遂にB組を追い越したー! 三走から走り続けるA組の選手は陸上部のエースか!? えっ、陸上部どころかどこの運動部でもない!? これは体育祭後に運動部からのスカウトが殺到しそうですねー!」

 残り百メートル。五十メートル。背後から近づいてくる足音を聞きながら、陽生は走り続ける。走るのは得意な部類ではあったが、七百メートルもぶっ通しで全力疾走し続けたこともあってはあはあと息は上がっていた。

 ゆらゆらと視界に陽炎が揺れる。負けてやらない。――自分自身には、絶対に。

 視界にゴールテープが映る。陽生は最後の気力を振り絞る。残り三十メートル。二十、十。

 陽生の身体がゴールテープを切った。トラックの中に入ると、陽生ははあはあと肩で息をしながら地面に膝をつく。

 ふいに救護テントにいる茉莉と視線が交錯した気がした。陽生は彼女へと向かって、親指を立ててみせた。――だから言っただろ、と。

 他のクラスのアンカーたちも続々とゴールラインを踏む。屋上から吊るされた得点板の数字が得点係の生徒によって変えられ始めていた。

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