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第二章:青い春と早い夏のあいだで②

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-17 18:38:12

 翌朝、登校すると、昇降口の下駄箱の前で陽生は女子に声をかけられた。靴を履き替えながら誰かと背後を振り返ると、そこには茉莉が立っていた。

「おはよう、貴嶋くん」

「……うす」

「昨日は進路調査票の件、ありがとね。貴嶋くんには何かお礼しないと」

「別に礼とかしてほしくてやったんじゃねえし。……けどまあそうだな、どうしてもっていうなら、さっさと朔也に天沢のこと紹介してやってくんねえか。いつ紹介してもらえんの、って朔也のやつ毎日うるせえから」

「わかった」

 何とはなしに二人は並んだまま、階段を上り、教室へと足を踏み入れた。先に登校していたらしい朔也は二人に気づくと目元をにやつかせる。陽生は嘆息すると、じっとりとした視線を朔也へと向けて黙らせた。

「茉莉ぃ、おはよー」

 陽生が座席でリュックの中身を整理していると、髪を頭のてっぺんで大きなお団子に結った女子が教室に入ってきた。ブレザーの下の校則違反のピンク色のニットカーディガン。ネクタイはなぜか他校の臙脂のリボンに変えられている。彼女こそが茉莉の友人で、朔也の想い人――天沢心羽あまさわみう天沢心羽だった。

「心羽、おはよ。ねえ、ちょっといい? 心羽に紹介したい人がいるんだけど……」

「えっ、だれだれ? 彼氏……ではないよね?」

 茉莉は陽生へと視線を向ける。陽生は頷き返すと、「朔也、ちょっと」朔也を伴って、廊下へと出る。

 朝の廊下で、茉莉と陽生、心羽と朔也は顔を合わせた。茉莉は陽生を手で指し示すと、彼のことを心羽へと紹介する。

「えっと、心羽。クラスメイトだから知ってると思うけど、わたしの友達の貴嶋くん」

「どうも、貴嶋です。それで、こっちがおれの友達の」

「氷上朔也でっす! オレ、入学当初から、天沢ちゃんのこといいなーって思ってたんだよね」

 よく言えばフレンドリー、悪く言えば軽い態度の朔也に陽生は内心で溜息をついた。嫌そうな顔で、心羽は茉莉の後ろへと隠れる。

「あっ、天沢ちゃん、そんなに警戒しないで! すぐ付き合おうとかそういう話じゃないから! とりあえず、友達にならない? お近づきの印にまずは連絡先の交換とか」

「……その、天沢ちゃんっていうのやめてくれるなら」

「えっと、じゃあ心羽ちゃん! 心羽ちゃんで!」

「……」

 馴れ馴れしい朔也の態度に心羽は何か言いたそうにしていたが、諦めたように溜息をつくと、ブレザーのポケットからスマホを取り出した。彼女と連絡先を交換するべく、朔也もズボンのポケットからスマホを取り出す。その様子を見ながら、あっさり女子を名前呼びしてしまう朔也に陽生は内心で舌を巻いていた。――自分はまだ茉莉のことを名前で呼んだことなんてないのに。

 登校してきた生徒たちが、廊下で顔を突き合わせている陽生たち四人を怪訝そうに振り返っていく。「おい、朝のホームルーム始めるぞー」担任の岸野の声が廊下の彼方からこちらへと一直線に突き抜ける。

「なあ、今度、この四人で遊びに行ったりとかどうよ?」

 心羽と連絡先が交換できたからか、朔也は声を弾ませてそう提案した。どうやら朔也は自分や茉莉を使って、外堀から固めていくつもりのようだった。

「……四人でなら、まあ」

 朔也に気圧されたように心羽は頷く。彼女と茉莉の自撮りが待ち受けに設定されたスマホの時計は午前八時二十九分を指し示していた。

――一限目が始まる前に、図書室へ行け。

 陽生がそのメッセージに気づいたのは、来月に控えた体育祭の大縄跳びの練習が終わった後のことだった。一応、全員参加ということになっているその練習で、そういえば茉莉の姿を見ていないことを陽生は思い出す。

(あいつ、またサボりか)

 普段、素行の良い優等生を装っているせいで目立ちにくいが、茉莉にはサボりぐせがある。そして、彼女がサボるときは、大概が何かあったときだと陽生はだんだんと気づき始めていた。

「ねえ、貴嶋くん。今日の練習で茉莉見かけた?」

 学年カラーの水色のジャージの後ろでふわふわと靡く白いレースのリボン。喉元まで上げられたジッパーの周りはフリルで彩られ、裾にも幾重にもチュールが施されている。この改造ジャージに身を包んでいるのは心羽だった。

「いや、おれも見てねえ。天沢も見かけてねえんなら、どっかでサボってんじゃねえか?」

「そっか……」

 心羽はどこか浮かない顔をしている。茉莉から何か連絡が来ていないかと陽生がジャージのズボンのポケットからスマホを取り出すと、通知が一件来ていた。

 図書室。おそらく、茉莉はそこにいる。スマホをしまい直すと、陽生は心羽に声をかけた。

「天沢、おれ、芦屋の居場所に心当たりあるかもしんねえ。探してくる」

「心当たりあるって、貴嶋くん、どういうこと?」

「ただの勘。だけど、何か知らねえけど、おれの勘はよく当たるんだ」

 そう嘯くと、陽生はその場を後にした。他のクラスメイトをよそにそそくさと校舎の中へと戻ると、昇降口で陽生は靴を履き替える。そして、そのまま図書室を目指した。

 図書室のドアを開けると、古い紙とインクの香りがうっすらと満ちていた。生成りのカーテンが緑風でふわりと揺れ、カビの臭いが陽生の鼻腔をつく。

「――芦屋。そこにいるんだろ」

 陽生がそう声をかけると、外国文学の書架の向こうから、うん、と返事が聞こえた。

「貴嶋くんには、いつも見つかっちゃうね」

「サボりやすい場所なんて、ある程度絞られるだろ。――で、今日はどうしたんだ?」

「あのね……全部、わたしが悪いんだけど……今日、登校途中に瑠音と口論になっちゃって……」

 全部、わたしが悪い。茉莉の口癖になっているそれに陽生は内心で溜息をつく。しかし、陽生はそれを指摘することなく、話を続ける。――そんなことをすれば、彼女を泣かせてしまいそうな気がして。

「それで、へこんでここに逃げ込んできたってわけか。大縄跳びの練習サボって」

「……うん。もしかして、練習サボって誰か怒ってた?」

「それは大丈夫だけど……天沢が心配してた。あとで謝っておけよ」

 わかった、と茉莉は頷いた。そして、彼女は陽生のジャージの胴を掴むと、胸元に頭をつけた。ヘアミストの香りなのか、かすかに清らかな花びらの匂いがした。

「おい、芦屋……離れろ、おれ、今汗かいてるから。汚ねえぞ」

「大丈夫。それより……ちょっとだけこのままでいさせて」

 一体何が大丈夫なんだ。恋愛経験ゼロの陽生は茉莉に密着されているという事実に動揺する。しかし、懇願するようなその声を聞いてしまうと、無理に彼女を引き剥がす気にはなれなかった。

「まったく、臭くなっても知らねえからな」

 陽生はくっついてくる茉莉の髪を仕方なくぽんぽんと撫でる。朝の始業前の喧騒から隔絶された世界で、二人はそのままでいた。――瑠音の元に彼女を戻したくないな、などと思いながら。

 陽生の視界に海外文学の分厚い背表紙の群れが映る。ここに静かに佇む外国の物語たちは茉莉の心の内を映す鏡のようだ。紙の上に記された恋に迷い、愛に悩む数え切れない声たち――それらは茉莉を苦しめる彼女自身の心にひどく似ていた。

「おい、お前、確か茉莉の友達だよな? ちょっと茉莉呼んでこいよ」

「え、と……茉莉は今、職員室に行ってて……」

 六月を目前にして、いよいよ夏の気配が濃くなってきた昼休み。トイレから戻ってきた心羽は、制服をひどく着崩した金の長髪の男子――瑠音に声をかけられた。人をひどく見下したふうの、酷薄な視線に心羽は自分の身を掻き抱く。

「ふうん、茉莉の奴、逃げたんだ」

「逃げたとかそんなんじゃなくて、日直の仕事で茉莉は先生に呼ばれてて……!」

「へえ、あのビッチ、俺よりもそんな下らねーこと優先すんだ」

「茉莉はビッチなんかじゃない!!」

 思わず心羽の声が高くなる。ふうん、と気分を害したように瑠音は彼女のピンクのニットカーディガンの胸元を掴み上げる。

「お前なんかに茉莉の何がわかる。それにあいつ、最近男二人も侍らせてるじゃねえかよ」

「貴嶋くんと氷上くんはそういうんじゃない! 友達だよ!」

「貴嶋か、俺あいつ嫌いなんだよな。……それはそうと、お前は氷上が茉莉に取られても同じ台詞を吐けるのか?」

「っ、それは……」

 心羽は思わずたじろいだ。朔也が自分に気があって、日頃から何かと構ってくるのを鬱陶しく思ってはいる。しかし、あの明るい眼差しが、心羽ちゃんと呼ぶあの声が自分に向けられなくなるのはほんの少し寂しいような気がした。

「ほら見ろよ。さて、茉莉がいねえなら別にお前でもいいや。あっちで茉莉の被害者同士、仲良くお話しようぜえ?」

「やだ! やめて!」

 心羽は叫んだ。その目元には涙が浮かんでいる。しかし、心羽の声に耳を貸すことなく、瑠音は心羽の胸倉を掴んだまま、彼女をどこかへ引きずって行こうとする。

「やだってば! 助けて! ――氷上くん!」

 心羽は無意識に朔也の名を叫んでいた。刹那、誰かが何かを殴る音が聞こえた。ぐふっと、誰かの口から呻き声が漏れる。瑠音の手が心羽の胸倉から離れていく。思わず心羽は廊下に尻餅をつき、放心したようにその人の名を呟いた。

「氷上くん……」

 朔也の腰の入った右アッパーが瑠音の顎を打つ。そして、そのまま今度は左の腰を捻り、左フックで瑠音のこめかみを捉える。そのまま、すっと左右の足を入れ替えると、右手を払いながら流れるように左ミドルを放つ。

 再び足を入れ替えると、朔也は仕上げと言わんばかりに前蹴りを瑠音に見舞った。いつもの明るく陽気な様子は鳴りをひそめ、怒りのままに暴力を振るう朔也は何だか心羽の知らない人のようだった。

「天沢、大丈夫か?」

 教室から出てきた陽生は廊下に座り込む心羽へと声をかけた。陽生は彼女の横に腰を下ろすと、タオルハンカチを渡してやる。

「朔也さ、昔から許せないことがあるとああなるんだ。朔也のこと、怖いって思うかもしれねえけど、できれば嫌ったり避けたりしないでやってほしい。普段はあんなんだけど――朔也は天沢が大事なんだよ。それだけは理解してやって」

「……うん」

 隣のクラスの前まで瑠音が吹っ飛んでいくと、朔也から殺気が消える。すると、血相を変えて、朔也がこちらへと駆けてきた。

「心羽ちゃん! 大丈夫か!? 怪我とかしてない!?」

「だいじょう……って、氷上くん?」

 心羽が困惑したような声を上げる。朔也は有無を言わさずに彼女の体をぎゅっと抱きしめた。

「呼んでくれて嬉しかった。……けど、呼ぶなら呼ぶで、もっと早く呼べ」

「……うん」

「オレのせいで逆恨みして、またあいつが心羽ちゃんに絡んでこないとも限らない。なるべく一人で行動するな。せめて、芦屋と一緒にいろ。芦屋がいないときは、オレか陽生から離れないようにしろ。……いや、陽生と一緒はオレが妬くから、オレと一緒にいるようにしてくれ」

 なにそれ、と心羽は小さく笑った。友達二人のやりとりが見ていられなくて、陽生は視線を逸らした。何だかこれは見ていてはいけない気がする。

 廊下の角を曲がって、茉莉が戻ってくるのが見えた。陽生は立ち上がり、彼女のほうへ向かうと、手に持っていたノートの山を半分引き受けてやる。

「ええと……心羽と氷上くんは一体どうしたの?」

 廊下で抱き合う二人を目にすると、茉莉は怪訝そうに傍らの陽生に問うた。それが、と陽生は茉莉に事情を説明する。

「天沢が佐倉に絡まれて、どこかに連れて行かれそうになっていたのを朔也がぼこぼこにしたんだよ」

 そう、と得心したように茉莉は朔也にぶっ飛ばされたまま隣のクラスの前で動かない瑠音へと視線をやる。自分の彼氏と友達が喧嘩したとあっては茉莉はさぞ複雑だろう。

「悪いな、朔也を止められなくて。だけど、天沢があれ以上何かされるのも見てられなかったからさ。お前には悪いけど、天沢は友達でも、佐倉は……他人だから」

「うん……」

「そうだ、朔也が天沢に言ってたけど、おれからもお前に言っておく。あんまり一人でうろうろすんなよ。せめて、天沢と一緒にいろ。何かで天沢が一緒にいられないときは、おれを呼べよ。特にお前は一人でどっか行く癖があるから心配なんだよ。佐倉に呼び出されたときもなるべく一人で行くな。せめて、校内にいるときくらいは、おれらでお前を守る」

「守る……?」

 不思議そうに茉莉の目が見開かれる。今はまだわからなくていい、と陽生は首を横に振った。彼女の場合、己の自己肯定感の低さに気づかせるのはゆっくりやっていったほうがいい。歪んだ依存関係に関しても。

「さて、あそこでいちゃついてる二人は放っておいて、昼休みが終わる前にノート返しちゃおうぜ。どうせ、先生にこれ返しとけって言われてんだろ?」

 うん、と茉莉は頷く。陽生は彼女とともに教室の入り口をくぐる。そして、彼は出席番号が半分から後ろのクラスメイトのノートを返し始めた。

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