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第1529話

Author: 夏目八月
朝廷では皇太子册立を求める声が絶えることなく、朝議のたびに大臣たちが口々に進言していた。

そしてついに師走十八日、清和天皇は皇太子候補を既に決定したと宣言した。ただし皇太子がまだ幼いことを理由に名前は伏せ、詔勅を皇室の御霊屋の梁に秘匿することにしたのである。

朝廷では天皇ただ一人のみが候補者を知っており、他の誰にも明かしていないと発表された。これで穂村宰相と玄武が周囲から執拗に詮索される煩わしさからも解放された。

とはいえ、大皇子が以前の怠惰で我儘な性格を一変させ、勉学に励み謙虚さも身につけたことは朝野の知るところだった。さらに太政大臣家の若君・上原潤が学友として付き添っている。これらの状況から、誰もが大皇子こそ皇太子候補と推測していた。

嫡長子という血筋に加え、悪癖を改め、太后直々の薫陶を受けている——二皇子も同様に太后の庇護を受けてはいるが、立場は明らかに異なっていた。大皇子は春長殿への帰還を許されず、一方で二皇子は德妃のもとに戻ることができるのだから。

多くの朝臣が斎藤式部卿は内情を知っているはずだと踏んでいた。式部卿邸の門前は参賀と祝賀に訪れる人々で門前市を成し、珍奇な宝物を含む贈り物が山のように届けられた。

しかし斎藤式部卿の心中に喜びはなかった。「出る杭は打たれる、か……」

もし本当に大皇子が立太子されるなら、天皇は次に外戚勢力の削減に着手するだろう。それなのにこれほど派手に訪問を重ねる者たちは、果たして祝儀を持参しているのか——いや、刃を突きつけに来ているのではないか。

全てを門前払いするわけにもいかない。そうすれば朝廷中の恨みを買い、いざ天皇が斎藤家に刃を向けた時、味方は一人もいなくなってしまう。

窮地に立たされた式部卿は、仮病を使って休暇を願い出ることにした。これなら堂々と来客を断れるし、天皇に対しても自らの立場を明確に示すことができる。

休暇願いが提出されると、清和天皇は快く許可を与えた。「ゆっくり療養するがよい。式部の業務は部下に任せておけ。どうせ年末で朝廷も休みに入る」

式部卿はようやく胸を撫で下ろした。休暇中は邸内で悠々自適に過ごし、世間の喧騒など知らぬ存ぜぬを決め込んだ。

ところが斎藤皇后は面白くなかった。大皇子が皇太子に決まったのは確実——今こそ勢いに乗って朝臣たちの支持を集め、民望の高さを誇示すべき時なのに。

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  • 桜華、戦場に舞う   第1528話

    太后は厳しく命令を出した。定子妃の桂蘭殿移住は三皇子の療養のためであり、決して粗末に扱ってはならない、と。太后の庇護があるため、内蔵寮も軽んじるわけにはいかなかった。妃の位に相応しい衣食住は引き続き提供される。ただし家族の面会は全て断られた。やはり三皇子の静養を妨げてはならないという理由だった。定子妃の母である木幡夫人は、さくらに頼み込むしかなかった。宮中に銀子を届けてもらい、定子妃が上下に心づけを配れるよう取り計らって欲しい。子どもたちが辛い思いをしないように。木幡夫人は福妃の流産と娘の関係については知らなかったが、失脚した妃嬪の境遇がいかに厳しいかは理解していた。宮中には権勢に阿る者があまりにも多い。さくらが太后の配慮により皇女と皇子の世話は万全だと説明しても、木幡夫人は涙を流しながら訴えた。「心配せずにいられますものか……あの子は私が十月十日、苦労して産み落とした大切な娘です。掌中の珠として育て、少しの苦労もさせたくないと思って参りました」声が震える。「私たち親にできることなど、もうほとんどありません。これからはあの子が一人で歩んでいかねばならないのです……どうか王妃様、一言だけ伝えていただけませんか。体は親からの授かりもの、何よりも自分を大切にせよ、と」その言葉を聞いた瞬間、さくらの胸に鋭い痛みが走った。ほとんど同じ言葉を、昔聞いたことがある。母が自分を北條守に嫁がせる時、こう言ったのだった。「さくらを身籠った時、私はもう若くありませんでした。十月十日の妊娠から出産まで、命を削る思いでした。この子は父母兄弟に愛され育った娘です。少しの苦労もさせたくない……でもこの子は礼儀を知り、賢い子です。あなたがこの子を裏切らなければ、きっと心を尽くして尽くしてくれるでしょう。だからどうか、大切にしてやってください」どの親も、我が子を思う気持ちは同じなのだろう。さくらは目を伏せた。まぶたが赤く染まっている。「承知いたしました。必ずお届けします」木幡夫人は深々と頭を下げ、涙を流しながら礼を述べた。「王妃様のご恩、決して忘れません……」「そんなに畏まらないでください。当然のことですから」さくらは彼女を支え起こす。銀子の他に、木幡夫人は定子妃の好物である練り菓子を手作りで持参していた。「あの子が幼い頃から大好きで……宮中に入っ

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