ログインその理由までは、誰にも分からない。彰人はまだ気が落ち着かず、フェイのことまで深く考える気にはなれない。「そういう天才は案外気にしないのかもな。名誉にも金にも興味のない奴だっているだろ」そう言われてみればそうかもしれないと紗耶は思った。あれほど充実したデータベースを一人で作れるのだから、さすがはフェイだ。業界でもトップクラスの機密とされる処方までいくつも収められている。新しい処方を簡単に考え出せるのなら、そのうちのいくつかにこだわるはずもない。それだけ価値のある内容だからこそ、使用料もここまで高いのだ。そう思うと、紗耶はいくつか腑に落ち、グラスを傾けている征司に顔を向けて微笑んだ。「征司、母さんが今度一緒に食事でもどうかって。プロジェクトが順調なのも、最初からあなたがいろいろ力を貸してくれたおかげだから」プロジェクトがまもなくいいスタートを切れそうで、蓮はすっかり上機嫌だ。グラスを持ち上げ、二人をからかった。「親への挨拶ってことか?いいじゃない」征司は淡々としていて、笑っているのかどうかも分からなかった。紗耶は思わず口元を押さえて小さく笑い、恥ずかしそうに言った。「ただ一緒に食事するだけよ」彰人も二人を見て、同じようにグラスを上げた。「おめでとう」ー藤堂家から戻って数日、澪は忙しく、あの日のことを思い返す暇もほとんどない。仕事はすべていつもどおりに進んでいる。千鶴子も澪に対して悪意を抱いているわけではないらしい。報復とまではされなくても、仕事で多少の嫌がらせは受けるかもしれないと覚悟していたが、そんなことは何も起こらなかった。むしろ澪のほうが、千鶴子を思うと胸が痛んだ。結局、孫娘が恋しくてたまらないのだろう。穂積家との婚約を守り続けることで、孫娘は必ず帰ってくると自分に言い聞かせてきたのだ。今は、その心のよりどころさえ失うのだろう。とはいえ、皆それぞれに事情がある。宇一がいつまでも待てないのも、藤堂家が諦めきれないのも分かる。どちらかが悪いと割り切れる話ではない。澪のプロジェクトはまだ初期段階にある。技術面で乗り越えなければならない課題が多く、自分で確認すべきことも山ほどある。別の医療用AI機器を開発するのなら、ここまで時間もお金もかからないのだが。昼休みになり、同僚た
澪はかすかに眉を動かした。まさか、自分が紗耶の面接を担当するなんて。目を伏せて何か考えている澪を見て、紗耶はひそかに笑った。自分との差を思い知って、すっかり自信をなくしたのだろう。ちょうどそこへ、スマホが鳴った。征司からの着信だと分かると、紗耶の口元がふと甘く緩んだ。急いで帰る気は失せたらしく、その場で電話に出た。「征司?迎えに来てくれたの?」夫を奪った女と元夫が仲よく話すところなど聞きたくもない。澪は紗耶の横を通り過ぎ、廊下へ出た。だが、紗耶の甘ったるい声が背後から追いかけてきた。「わざわざ来なくてもいいのに。忙しいんでしょう?すぐ下りるね」澪がエレベーターの前まで来たところで、紗耶が先に割り込んだ。「ごめんなさい。彼氏が迎えに来てるから、先に下りるわ。隣のエレベーターを待ってもらえる?」紗耶は澪の肩を軽く押しのけてエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押した。「……」それまで保っていた冷静な気持ちが、一瞬でかき乱された。しかも、あの「彼氏」という言い方に、澪は冷ややかに笑った。征司にそこまで大事にされているのか?堂々と会社まで迎えに来て、紗耶も恋人だと隠そうともしない。七年も一緒にいた自分は、あんなふうに大切にされたことなどなかった。それなのに、別れるとなった途端、ほかの女を大切にする姿を見せつけられるなんて。澪はこわばった首を揉み、黙って息を整えた。職場まで来て仲のよさを見せつけられては、避けようもない。報告書を届けてから研究室に向かうつもりだったが、もうあの二人と顔を合わせたくなくて、その気がすっかり失せた。ー征司と紗耶は、予約しておいたレストランに着いた。今日は、WAKANナビのデータベースを正式に使えるようになった記念の日だ。紗耶のプロジェクトに出資している蓮がその祝いに食事の席を設けた。紗耶が店に入るなり、蓮は拍手で迎えた。「おめでとう。これで成功はもうすぐそこだな」蓮としても、うれしいに決まっている。この投資でしっかり儲ければ、じいちゃんも自分を見直すはずで、いつも何をやっても駄目だと言われずに済むのだ。紗耶は少し照れたような顔で、後ろにいる征司を振り返った。「征司がアカリ製薬と交渉してくれたおかげよ。そうでなければ、データベースを使わせてもらえな
澪の手がぴたりと止まり、胸がどきりとした。振り向くと、宇一がじっとこちらを見つめている。澪の戸惑いを察したのだろう。普段はあまり笑わない宇一の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。彼は澪にバッグを差し出しながら、静かな声で言った。「返事はいつでもいいから、ゆっくり考えて」その一言で、気まずくなりかけた空気がすっと和らいだ。同時に、澪がとっさに断ろうとするのを、先回りして止めたようでもある。そして短く「またな」と言い、答えをせがむこともなく、宇一はそこで話を切り上げた。踏み込むべきところと、引くべきところをよくわきまえているらしい。澪は会社の入り口に立ち、目まぐるしく考えを巡らせたが、自分の気持ちをうまく言葉にできなかった。前にプロポーズされたときは、お互いその話に深く踏み込まなかった。澪もその場の勢いで言っただけだと思い、いつしか気に留めなくなっていた。だが、宇一は改めてその話を持ち出した。冗談ではないと、はっきり伝えてきたのだ。澪は困り果てて、髪をくしゃりと掻き上げた。普段なら冗談で流したり、なかったことにすることもできる。しかし、こうなってもうごまかせないと悟ると、どう対処すればいいのか、途方に暮れてしまう。自分が経験した、たった一度の恋愛は散々なものだった。男にも恋愛にも、失望していないと言えば嘘になる。もう一度誰かと向き合おうと考えるだけでも、正直、気が重い。宇一は、ただ藤堂家との縁を切りたいだけなのかもしれない。これまで互いに恋愛感情を抱いていたわけでもない。今は本当に自分を好きだとしても、その気持ちがいつまで続くか分からない。自分が現実的な人間だという自覚はある。明日より先のことまで考えたくはない。そう思って、澪はため息をついた。オフィスに入ると、聡祐からメッセージが届いた。【澪、穂積社長とはいったいどういう関係なんだ?彼は藤堂家の婿になる人だぞ。少し冷静になれ。向こうが勝手に期待しないよう、早く断ったほうがいい。欲張るのもいい加減にしろ。恋人のいる森宮社長に相手にされないからって、何人もの男をその気にさせてどうするんだ】澪は眉間を押さえた。もう一度、さっさとブロックしてやりたいが、聡祐は出資者だ。それができないのが厄介だ。返信はせず、通知をオフにして、ようやく仕事に集
征司は表情一つ変えず、気にしている様子など少しもない。紗耶は胸をなで下ろし、ほっとしたように微笑んだ。――澪も本当に愚かだ。こんなやり方じゃ、結局どちらにも見放されるだけだというのに。森宮家からは追い出される。そして穂積家も、森宮家に捨てられた女など受け入れるはずがない。あまりにも浅はかだわ。だが征司はその話には乗らず、代わりに彰人に視線を向けた。「宇一の娘の母親は、いまだに分からないのか?」彰人の眉がわずかに動いた。「ああ。あいつがうまく見つからないようにしてるんじゃないか」紗耶は大したことではないというように軽い調子で言った。「そんなに落ち込まなくてもいいんじゃない?まだ互いにきちんと話し合ったわけでもないんでしょ。それに、穂積社長が澪さんを本気で好きなのか、ただ利用しているだけなのかなんて、見ればわかるわ。澪を藤堂先生の怒りの的にして、両家の関係まで悪化させたんだから、穂積家の人だって黙ってはいないはずよ。どうせ二人は、そのうち揉めて終わるんじゃない」もちろん、宇一が一方的に澪を切り捨てる側だ。宇一ほどの男なら、これまでにも魅力的な女性と大勢出会ってきたはずだ。それに、宇一は自分のこともよく知っている。自分と比べれば、澪には何ひとつ魅力も取り柄もない。宇一もビジネスの世界で生きる人間だ。どちらを取るべきか、誰よりもよく分かっているはずだ。彰人は鼻筋を指でつまんだが、苛立ちは収まらなかった。「宇一はたぶん、今日わざとああいう話をしたんだ。ばあちゃんもプライドが高いから、あそこまではっきり言われたら、無理に引き止めはしないだろう。だが、すべてを奴の思いのままにさせて、こちらが黙って引き下がるなんて、俺には到底できない」宇一が澪を本気で好きであろうと、利用しているだけであろうと、そんなことは関係ない。ただそう簡単に、思い通りにさせるわけにはいかない。このままいけば、一月も経たずに婚約は解消されるだろう。だが、その前に一度くらい、宇一に嫌な思いをさせてやらなければ、気が済まない。彼の娘の母親を探し出し、表沙汰にして結婚を迫らせればいい。そうすれば彼の計画も思惑も、すべて台無しにできる。向こうもしばらくはその対応に追われ、澪との話も自然と立ち消えになるはずだ。「元気を出してよ。そんなことでいつまでも
澪がそう考えるのも無理はない。見ていた誰もが、そう受け取っただろう。征司がそう言った途端、先ほど彼が澪をかばい、しかも体に触れたことに露骨な不快感を見せている紗耶の表情が、たちまち和らいだ。そして、どこか嘲るような視線を澪に向けた。その目元には、満足げな笑みさえ浮かんでいる。要するに、征司が気にかけていたのは最初から自分だけだ。彰人が勢いに任せて余計なことを口走るのを止め、自分の名誉を守ってくれたのだ。澪のことなど、最初から眼中になかったのだ。「そうだよ。相手の思うつぼになるな。お前から都合のいいことを聞き出そうとしてるだけなんだから」蓮もようやく我に返ったらしく、そう言いながら澪をちらりと見た。宇一が澪を好きだと口にしたことは、蓮にとっても相当な衝撃だった。澪がいつの間にか宇一にまで近づいていたのではないかと、つい勘ぐってしまう。そのせいか、彼が澪を見る目にはますます嫌悪がにじむ。「自分のことすらまともに片づけられないくせに、すぐもっと頼れそうな男にすがろうとする奴もいるもんだ」何様のつもりだ。まだ離婚も済んでいないくせに、さっさと次の相手を探す。しかも狙う相手は宇一とは、ずいぶん高望みだ。征司を裏切っているのと同じではないか。入り口でそれを聞いて、伊織がすかさず皮肉を浴びせた。「ふざけんなよ。少しは頭使ったら?その女こそ人の夫に手を出してるじゃない。澪には偉そうに説教するくせに、その女が同じことをしてもかばうのか?都合がいいにも程がある。そこまで媚びて、いつか自分の女にでもするつもり?こんなクズに本気で惚れてるの?」もともと気の強い伊織は、歯に衣着せずに蓮を罵った。ここまで面と向かって罵られたことのない蓮は、たちまち顔を険しくした。紗耶にも、自分まで一緒に罵倒されたことは分かっている。ただ、澪に非があるのは明らかで、皆の前で恥までかいたから、伊織も澪をかばおうと無茶な言いがかりをつけているのだろう。彼女は冷たい目で伊織を見た。「穂積さん、蓮にまで当たらないでください。そんなつもりで言ったんじゃありません」澪もようやく我に返った。体勢を立て直すと、征司に触れられるのも嫌だというように、さっと腕を引いた。宇一は澪がそうするより先に手を離した。澪を不快にさせることなく、自然
征司がふと千鶴子に目を向けた。次の瞬間、千鶴子は一語一語はっきりと言った。「仕事が落ち着いたら、ご家族と改めて話をする。婚約はそこで解消させてもらうわ」彰人の顔色が変わった。「ばあちゃん?」宇一の目にもわずかな揺らぎが走った。紗耶までも、この意外な展開に目を見開いた。つまり、宇一と澪のことを認めるということ?澪を責めるどころか、宇一の妻になることまで許すつもりなの?そんなことをしたら、澪がますます図に乗るだけじゃない。千鶴子は手を上げ、これ以上言わせまいと制した。「もう何も言わなくていい。孫娘が望むものなら、できる限り叶えてやりたい。心から納得できない結婚など、させるつもりもない」足元は少しおぼつかないように見えたが、彼女は誰かの手を借りようとはせず、それだけ言い残すと、迷いなく部屋を出ていった。廊下には、まだ客が何人かいる。何か聞きつけようとしているのか、皆、部屋の中をうかがっている。澪は千鶴子の言葉に心をひどく揺さぶられている。孫娘が行方不明なままだというのに、千鶴子たちは今も、彼女を守り、支えようとしている。強くて頼れる家族がいるというのは、きっとこういうことなのだろう。自分には、そんなものは一度もない。だからこそ森宮家の人間に振り回され続けてきた。紗耶は表情が曇った。思い描いていた展開とはまるで違う。千鶴子は澪に甘すぎる。千鶴子が出ていくと、彰人は冷たい顔で宇一に詰め寄り、襟元をつかんだ。「お前、わざとでしょう?こんなタイミングでばあちゃんに打ち明けて、澪を利用して自分の目的を通そうとしたんじゃないですか?」宇一は視線を落とした。「無理に婚約を続けろと言うつもりですか?」彰人は表情が険しくなり、拳を振り上げて殴りかかろうとした。澪はすぐそばで見ていて、二人が今にもぶつかりそうになり、慌てて立ち上がって止めに入ろうとした。何しろ、今日の騒ぎは自分が発端だ。黙って見ているわけにはいかない。澪は二人に歩み寄った。「彰人さん、落ち着い――」「澪、結婚しているのに他の男に手を出して、こんな騒ぎを起こして――自分は無実だと思ってるのか?」彰人は振り返り、遠慮なく言い放った。宇一ともみ合う中、彰人はそばにいる澪をとっさに振り払った。力が入りすぎたのか、澪の体
若い看護師ははっと口をつぐみ、気まずそうな顔をした。まさか澪が、夫の弱みをあんなに平然と口にするとは思わなかったのだ。けれど同時に、それは本当なのだろうとも思った。そうでなければ、結婚して七年も経つのに子供がいないなんて、どう考えてもおかしい。そのせいで、彼女の澪を見る目にはさらに同情が増した。澪は、本当の理由までは口にしなかった。征司は最初から澪との間に子供を持つつもりなどない。結婚した最初の夜、彼は氷のように冷めた声で、澪にこう告げた。「仕事が忙しい。子供のことまで考える余裕はないし、持つつもりもない。だから、期待するな。相談しようとしても無駄だ」あの頃
結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つよ
そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰
征司は紗耶のものをこの家へ運び込むことを許した。それは、森宮家の妻である澪がどれほど惨めに敗れたのかを、家中の者に見せつけるのと同じだ。離婚するつもりでいるとはいえ、澪はまだ征司の妻だった。征司がどれほど急いで紗耶を表に出したがっていようと、離婚も成立していないうちから、自分がここまで踏みにじられる筋合いはない。澪は作業員たちを静かに見渡し、運び込まれた家具を一つずつ指さして言った。「どれも高いものですよね。全部譲りますよ。中古で売っても、いい値段になると思いますから。お手数ですが、外へ運び出してください」作業員たちは、ただ雇われて来ただけの人間だ。そんなうまい話を聞か