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まあるいリンゴ しかくいりんご さんかくのリンゴ

Author: 森村征爾
last update publish date: 2026-08-12 22:21:54

むかしむかし、海のずっと向こう、地図にも載っていない小さな島に、世界でたった一本しかないリンゴの木がありました。

島の名前を、人々は「実りの島」と呼んでいました。

土が豊かで、季節ごとにたくさんの果物や野菜が実る島だったからです。

けれど、本当の意味で「実りの島」と呼ばれていた理由は、別にありました。

この島には、知恵の実る人がたくさん住んでいたのです。

文章を書くのが上手な人。

計算が得意な人。

絵を描くのが上手な人。

音楽をつくる人。

まだ誰も見たことのないものを想像できる人。

人の悲しみや喜びを、自分のことのように考えられる人。

畑を耕す人も、魚をとる人も、子どもを育てる人も、それぞれに知恵を持っていました。

島の人たちは、どうして自分たちの島には、こんなにもいろいろな知恵を持つ人がいるのかを、ちゃんと知っていました。

村の真ん中に立つ、あのリンゴの木のおかげです。

リンゴの木は、村の広場の真ん中に、どっしりと根を張っていました。

幹は太く、枝は四方へ大きく広がり、夏には青々とした葉が風に揺れ、秋になると、その葉の間から不思議な実が顔を出しました。

まあるいリンゴ。

しかくいリンゴ。

さんかくのリンゴ。

そして、ふつうのリンゴ。

ふつうのリンゴは、なぜか目には見えませんでした。

けれど、そこにあることだけは、島の人たちには分かっていました。

形が違えば、色も、香りも、味も違いました。

まあるいリンゴは、日の光のような赤色をしていました。

かじると、やさしい甘さが口いっぱいに広がります。

このリンゴを食べると、言葉や人の気持ちを考えることが得意になりました。

人の話をじっと聞き、その言葉の奥にある本当の気持ちに気づけるようになるのです。

しかくいリンゴは、深い森のような緑色をしていました。

少し酸っぱく、しゃきっとした歯ごたえがあります。

このリンゴを食べると、数字や仕組みを考えることが得意になりました。

複雑なことでも、まるで地図を見るように筋道が見えるようになるのです。

さんかくのリンゴは、黄金色に輝いていました。

甘酸っぱく、どこか不思議な香りがします。

このリンゴを食べると、想像することや、絵や音楽をつくることが得意になりました。

頭の中に、まだ誰も見たことのない景色が浮かぶのです。

そして、ふつうのリンゴ。

目には見えません。

けれど、食べた人には分かりました。

それは、どの形にも決められないもの。

誰かの真似ではない、自分だけの考えを育てるリンゴだったのです。

島の人たちは、同じリンゴばかり食べませんでした。

違うリンゴを食べると、今まで知らなかった考え方を知ることができたからです。

文章を書くのが得意な人が、しかくいリンゴを食べれば、物語の中に数字や仕組みを取り入れられました。

計算が得意な人が、さんかくのリンゴを食べれば、数字の向こうに美しいものを想像できました。

絵を描く人が、まあるいリンゴを食べれば、絵の中に人の心まで描けました。

音楽をつくる人が、ふつうのリンゴを食べれば、誰かの真似ではない、その人だけの旋律をつくれました。

だから、朝になると村人たちは広場に集まり、木の下で顔を見合わせました。

「今日は、どのリンゴを食べようか」

それが島の人たちの、何よりの楽しみでした。

ある年老いた木こりは、若い頃にはしかくいリンゴばかり食べていました。

木の太さを測り、森の地形を計算し、どの木を残せば森が豊かになるのかを考えるのが得意だったのです。

けれど歳を重ねるにつれ、まあるいリンゴを好むようになりました。

「若い頃は、木のことばかり考えていたんじゃ。今になってようやく、木を切る人間の気持ちが分かるようになった」

木こりはそう言って笑いました。

また、幼い姉妹は、いつも違う形のリンゴを選びました。

姉がまあるいリンゴを持ってくれば、妹はさんかくのリンゴを持ってきます。

そして二人で半分こにするのです。

「お姉ちゃんには、どんな景色が見えるの?」

「妹には、どんな音が聞こえるの?」

二人はそうやって、互いの見ている世界を少しずつ分け合いながら育ちました。

そんなある日、海の向こうから一人の旅人がやってきました。

旅人は、ぼろぼろの服を着て、長い旅に疲れ果てていました。

けれど、島の人たちを見た瞬間、その疲れも忘れたように目を見張りました。

詩をそらんじる人がいる。

難しい計算を、まるで遊びのように解く人がいる。

子どもが描いた絵を、大人が本気で褒めている。

魚をとる漁師が、海の流れについて誰よりも詳しく語っている。

旅人は驚いて尋ねました。

「どうして、みんなそんなに賢いのですか?」

島の人たちは笑って、村の中央にあるリンゴの木を指さしました。

旅人は木の下に落ちていた、まあるいリンゴを拾いました。

そして、一口かじりました。

その瞬間でした。

頭の中に、今まで気づかなかった言葉が次々と浮かびました。

人の笑顔の奥にある寂しさ。

誰かの怒りの奥にある悲しみ。

自分が知らなかった誰かの気持ち。

旅人は、しばらく黙っていました。

やがて、小さな声で言いました。

「こんな世界があったのか……」

島の人たちは旅人を歓迎しました。

旅人は滞在中に、まあるいリンゴだけでなく、しかくいリンゴも、さんかくのリンゴも食べました。

そして帰る頃には、以前とは違う人のようになっていました。

故郷に戻った旅人は、出会う人たちに島の話をしました。

「あの島には、不思議なリンゴの木がある」

「リンゴを食べれば、頭が良くなる」

「一つだけではなく、いろいろな形を食べるんだ」

「そうすれば、自分には見えなかった世界が見えるようになる」

噂は、旅人の口から口へ、あっという間に世界中へ広がりました。

船が一隻やってきました。

また一隻。

その次には、何隻もの船がやってきました。

大人も、子どもも、学者も、芸術家も、商人も、遠い国の王様の使いまでやってきました。

島の人たちは、みんなを温かく迎えました。

「一つの形だけでなく、いろんなリンゴを食べてごらんなさい。そのほうが、きっと世界が広く見えますよ」

多くの人は、その言葉にうなずきました。

そして本当に、世界は広くなりました。

文章を書けなかった人が物語を書けるようになりました。

計算が苦手だった人が、難しい問題を解けるようになりました。

絵を描けなかった人が、見たことのない景色を描けるようになりました。

歌えなかった人が、人の心を揺さぶる歌を歌えるようになりました。

島には笑い声があふれました。

ところが、しばらくすると、少しずつ変なことが起こり始めました。

やってくる人が増えすぎて、リンゴをじっくり味わう余裕がなくなったのです。

ある人が言いました。

「私は、まあるいリンゴが一番好きだ。これだけ食べていれば十分だろう」

別の人が言いました。

「いや、しかくいリンゴのほうがいい。これからの時代は、数字と仕組みがすべてだ」

すると別の人が言いました。

「さんかくのリンゴこそ一番すばらしい。想像力のない者に未来はない」

最初は、ただの好みでした。

けれど、いつの間にか、それは優劣に変わりました。

「まあるいリンゴを食べる人のほうがやさしい」

「しかくいリンゴを食べる人のほうが頭がいい」

「さんかくのリンゴを食べる人のほうが才能がある」

いつしか、人々は自分の好きなリンゴだけを食べるようになりました。

そして、自分と違うリンゴを食べる人を認めなくなりました。

村の広場には、目に見えない線が引かれました。

まあるいリンゴを好む人は東へ。

しかくいリンゴを好む人は西へ。

さんかくのリンゴを好む人は南へ。

人々は、いつの間にか同じものを好む者同士で固まっていきました。

子どもたちにも、親の好きなリンゴだけを食べさせるようになりました。

生まれてから一度も、別の形を知らない子どもさえ出てきました。

古老たちは心配しました。

「違うリンゴも食べてごらん」

「自分とは違う考えを知ってごらん」

「それが、この島を豊かにしてきたんだよ」

けれど、人々は聞きませんでした。

「必要ない」

「私には、このリンゴだけで十分だ」

「他のリンゴなんて、私たちには邪魔だ」

そして、とうとう争いが始まりました。

「まあるいリンゴは、私たちのものだ」

「しかくいリンゴをよこせ」

「さんかくのリンゴは、選ばれた者だけのものだ」

リンゴは、もう食べるものではありませんでした。

奪い合うものになっていました。

木の周りには柵が作られ、それぞれの人たちが自分たちの好きなリンゴのなる枝を囲い込みました。

そしてある日、一人の男が叫びました。

「こんな木があるから争いになるんだ!」

男は太い枝をつかみました。

「いっそ、なくなってしまえばいい!」

バキッ。

枝が折れました。

その乾いた音を聞いた人々は、なぜか安心しました。

「今のうちに取れ!」

「誰かに奪われる前に!」

「全部持って帰れ!」

枝が一本、また一本と折られていきました。

葉が舞い散りました。

リンゴが地面に落ち、踏みつぶされました。

そして最後には――。

世界でたった一本しかなかったリンゴの木が、大きな音を立てて倒れました。

島は、しんと静かになりました。

地面には、たくさんのリンゴが転がっていました。

まあるいリンゴ。

しかくいリンゴ。

さんかくのリンゴ。

けれど、もう誰も喜びませんでした。

木がなくなったからです。

その年も。

次の年も。

リンゴは実りませんでした。

切り株から、新しい芽が出ることもありませんでした。

やがて、人々は気づき始めました。

文章を書ける人が少なくなっている。

難しい計算ができる人が少なくなっている。

新しいものを想像できる人が少なくなっている。

絵を描く人も、音楽をつくる人も少なくなっている。

そして何より、人の気持ちを想像できる人が少なくなっていました。

村の広場は静かになりました。

争いの声はなくなりました。

けれど、その代わりに、寂しさが残りました。

人々は昔のことを思い出そうとしました。

どうして昔の人たちは、いろいろな考え方を持っていたのだろう。

どうして違うリンゴを食べていたのだろう。

どうして、自分と違うものを大切にしていたのだろう。

誰にも分かりませんでした。

教えてくれるリンゴは、もうありません。

ただ、広場には一本の枯れた木が残っていました。

古老たちは、その木の下に座り、昔の話をしました。

けれど、その話も少しずつ短くなりました。

昔はもっとたくさんの言葉を知っていたはずなのに。

昔はもっと複雑なことを考えられたはずなのに。

昔はもっと遠くまで想像できたはずなのに。

人々は、少しずつ忘れていきました。

違うものを知ることが、知恵になること。

自分とは違う考えを持つ人と分け合うことが、世界を広げること。

そして、世界でたった一本だったリンゴの木を倒したのは、誰か一人の乱暴者ではなく、自分たち全員だったことを。

それから、さらに長い年月が過ぎました。

ある日、枯れた木の下で、一人の子どもが古老に尋ねました。

「ねえ、おじいさん。この木には、昔リンゴがなっていたの?」

古老は、しばらく木を見上げていました。

「そうだよ」

「どんなリンゴ?」

古老は笑いました。

「まあるいリンゴもあった。しかくいリンゴもあった。さんかくのリンゴもあった」

「ふつうのリンゴは?」

古老は少し考えてから答えました。

「それも、あったよ」

「どんな味だったの?」

古老は答えませんでした。

その代わり、子どもの頭をそっとなでました。

そして、こう言いました。

「それはね。君が見つけるものなんだよ」

子どもは不思議そうな顔をしました。

枯れた木を見上げました。

もちろん、そこには何もありません。

リンゴもありません。

新しい芽もありません。

それでも子どもは、なぜか木を見ながら考えました。

自分だったら、どんなリンゴを育てるだろう。

丸いだろうか。

四角いだろうか。

三角だろうか。

それとも――。

どの形にも似ていないものだろうか。

その瞬間、子どもの胸の奥で、小さな何かが生まれました。

それは、リンゴの木にはもう実らない実でした。

昔、不思議なリンゴを食べた人たちが、知らないうちに身体の中で育てていたもの。

誰かから受け取った知恵。

誰かと分け合った考え。

誰かとは違う、自分だけの見方。

それらが混ざり合って、長い時間をかけて育った――新しい実でした。

不思議なリンゴの木は、もうありません。

まあるいリンゴも。

しかくいリンゴも。

さんかくのリンゴも。

もう二度と、あの木には実らないでしょう。

けれど、人の中に育ったリンゴまで消えることはありません。

人は誰かから知恵をもらい、誰かとは違う形に育てていくのです。

だから、世界には今日も、いろいろな人がいます。

いろいろな考えがあります。

いろいろな形のリンゴがあります。

そして、そのどれもが、誰かの世界を広げるためにあるのです。

世界でたった一本だったリンゴの木は、もうありません。

けれど、その木から生まれた実りは、今もどこかで育っています。

あなたの中にも。

わたしの中にも。

他人とは違う、その人にしかないリンゴが。

おしまい。

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