Accueil / 文芸 / 森村征爾短編集 / ググ男、だから嫌われる

Partager

ググ男、だから嫌われる

Auteur: 森村征爾
last update Date de publication: 2026-07-24 21:52:33

序章 ググ男爆誕!

「それ、違うよ」

昼休みのファミレスで、男はスマホを掲げた。

「今ググった。正式には――」

まだ誰も答えを求めていない。 ただ雑談していただけだった。

だが男は止まらない。

「いや、データあるから」

「ソースある?」

「感情論じゃん」

彼はいつだって正しい…。

そして、いつだって少しだけ嫌われる。

世の中は、調べれば簡単に答えへ辿り着ける時代になった。

わからないことは検索すればいい。

間違いは訂正すればいい。

効率よく、早く、正確に。

それは、本当に正解なのだろうか。

簡単に答えを出せるあなたへ。

必ずしも、早い答えが良いとは限らない。

どや顔していると、 たぶん嫌われる。

第一話 店探し

大学合格が決まった日、母が言った。

「今日はお祝いね。ランチ、お母さんがおごるわ」

ググ男は嬉しくなった。

「本当!? じゃあ美味しい店探すよ!」

すぐにスマホを取り出し、検索を始める。

「近所に高級寿司屋あるみたい」

「いいじゃない。今日くらい奮発しちゃう。予約してよ」

母は笑っていた。 嬉しそうだった。

だが、ググ男の指が止まる。

「あ、待って。この店、平日しかランチ価格じゃないみたい」

「じゃあ別のとこでいいわよ」

「待って、他も見る。……あ、この店レビュー低い。やめとこ」

母は苦笑いを浮かべた。

「ここは? マグロが新鮮らしい」

「いいじゃない」

「あ、でもカウンターしかないなぁ。落ち着かないかも」

検索は終わらない。

「ここ高いな……。母さん払える?」

「今日は気にしなくていいって」

「でもコスパ悪いよ。あ、安い寿司ランチないからイタリアンも探すね」

母は静かになった。

ググ男だけが、スマホの画面を見続ける。

十分後。

「……ググ男ちゃん」

「ん?」

「私もう、スシローでいいわ」

その声は、少し疲れていた。

母は寿司を食べたかったわけじゃない。

ただ、 合格した息子と笑ってご飯を食べたかっただけだった。

ググ男、母の気持ちを検索できない。

だから嫌われる。

第二話 上司と部下

「事務長、すみません。少し相談というか、教えていただきたいのですが……」

四十代の女性事務員は、申し訳なさそうに声をかけた。

事務長は手を止め、椅子を向ける。

「どうしました?」

「先方から少し厳しいお電話がありまして……。私の説明が足りなかったのかもしれません」

「ふむ……」

事務長はすぐに否定しなかった。

「ならば、先方が心配されているなら、私から説明に出向く方が良いかもしれませんね」

女性事務員は少し安心した顔を見せた。

「申し訳ありません……」

「いえ。私がもう少し早く気が付いていれば、先方に不安な思いをさせずに済んだかもしれません」

その空気は穏やかだった。

誰かを責めるのではなく、どうすれば相手が安心するかを考える時間だった。

だが…。

近くで聞き耳を立てていたググ男が、 素早くスマホを取り出す。

数秒後。

「それ、クレーム対応の初動ミスですね」

空気が止まった。

ググ男は画面を見せる。

「ネットにもあります。“謝罪だけ先行すると責任を認めた形になるので危険”って」

「いや、これは……」

「あと、“担当者レベルで抱え込まない”って書いてますよ。対応フロー古くないですか?」

女性事務員の顔から血の気が引いていく。

事務長は静かに笑った。

「ありがとう。参考にしますね」

ググ男は満足そうに頷いた。

正しいことを言った。

たぶん…一番言わなくていいタイミングで。

ググ男、空気より検索結果を信じる。

だから嫌われる。

第三話 お金の使い方

「ググ男さん、今日の映画面白かった!」

彼女は嬉しそうに笑った。

「代金、本当に払わなくて良かったの?」

「大丈夫大丈夫。無料チケット手に入れたから」

ググ男は得意げにスマホを振った。

「すごい! ありがとう!」

二人は映画館を出て、夕暮れの街を歩く。

「夕食まで付き合ってくれるの? 本当にありがとう」

彼女は少し照れながら言った。

ググ男は財布を確認する。

「いや……お金ないから、夕食は割り勘で」

「あ、あら……」

一瞬だけ空気が止まる。

だが彼女は笑顔を作った。

「ううん、大丈夫。ググ男さんと映画見れたし、幸せだわ」

「でしょ?」

ググ男は満足そうに頷く。

「でも無料チケットなんて、よく手に入ったわね」

「検索したら地域アプリ紹介されてさ」

「へぇー」

「ChatGPTとGeminiにも課金してるし」

「……え?」

「検索効率めちゃ上がるよ」

「課金してるの?」

「うん」

「検索のために?」

「情報は武器だからね」

彼女は黙った。

目の前の夕飯には金を渋るのに検索精度には毎月課金している男。

ググ男“今使うべきお金”がわからない。

だから嫌われる。

第四話 出張先

「明日から大阪出張だよね? 準備手伝うよ」

新婚三日目。

ググ男の妻は、一週間の出張を命じられていた。

「ありがと。向こうの天気どうかなぁ」

「初日と四日目、五日目は雨だよ」

「もう調べてくれたの?」

妻は少し笑った。

「衣類、少なめの方がいいかなぁ……」

「ホテルから北に百メートルでコンビニあるし、さらに三十メートル先に商店街あるから大丈夫」

「あ、ありがとう……」

ググ男は止まらない。

「空港からホテルまでのタクシー会社も調べて、LINEに貼っといた」

「助かるわ」

「もし道中で体調悪くなったら、近くに総合病院あるから電話番号も貼っとくね」

妻の手が止まる。

「……そこまで調べたの?」

「うん。あと女性一人でも入りやすい飲食店ランキングも送っとく」

「ググ男くん」

「ん?」

「心配しすぎ」

「だって、一週間も離れるし」

ググ男は真剣だった。

検索結果の数だけ妻が無事でいる未来を増やせる気がしていた。

たぶん彼は不安になると調べ続ける。

そして調べるほど不安になる。

ググ男愛情表現が検索。

だから少し重い。

第五話 趣味

「ググ男さんって、趣味あるんですか?」

職場の後輩が何気なく聞いた。

ググ男は少し考える。静かにスマホを取り出した。

「検索かな」

「……検索?」

「うん」

後輩は笑った。

「いやいや、そういうのじゃなくて。映画とか、釣りとか、旅行とか」

「調べるの好きなんだよね」

ググ男の目が少し輝く。

「例えば炊飯器買うとしても、一週間くらい比較する」

「長っ」

「レビュー見て、価格推移見て、型番ごとの差を調べて、旧モデルとの性能比較して」

「買う頃には新型出てません?」

「出る」

ググ男は真顔だった。

「旅行も好きだよ」

「へぇ、どこ行ったんです?」

「行ってない」

「え?」

「調べるだけ」

「……。」

「最安ルートとか、ホテル比較とか、現地グルメとか見るの好き」

「行かないんですか?」

「調べて満足する」

後輩は少し黙った。

「……楽しいです?」

「楽しいよ?」

ググ男は即答した。

「世界中のこと知れるし」

それは本心だった。

だがググ男は検索している時間だけで満足してしまう。

比較して、調べて、最適解を探し続ける。

そして結局、何も始まらない。

ググ男、準備だけは完璧。

だから人生が始まらない。

第六話 夏休みの宿題

「あーあ……夏休み終わりかぁ」

小学五年生の少年は、机に突っ伏(つっぷ)した。

「宿題、全然やってない……」

その横で、小さなググ男が静かにスマホを取り出す。

「まだ諦めるのは早い」

「え?」

「自由研究は“短時間 簡単 すごく見える”で検索」

画面を高速でスクロールする。

「読書感想文は、“小学生向け 読んでない 書き方”」

「そ、そんなのあるの!?」

「ある」

小さなググ男は頼もしかった。

「漢字ドリルは答え載ってるサイト探す」

「すげぇ!」

「工作は家にある材料で作れるやつにする。百均閉まってるから」

少年の目が輝き始める。

「ググ男天才じゃん!」

「効率だよ」

数時間後。

机の上には“それっぽい宿題”が並んでいた。

「終わったぁぁ!!」

少年は歓喜した。

「ありがとうググ男!」

「いやぁ、検索しただけだよ」

小さなググ男は満足そうに頷いた。

だが翌日…。

「自由研究、ネット丸写しですね」

「感想文、去年と同じサイト使いました?」

「漢字の書き順、全部違います」

先生の声が教室に響く。

少年は泣きそうになりながら後ろの席を見る。

小さなググ男は親指を立てていた。

小さなググ男“終わらせる方法”には詳しい。

でも“学ぶ意味”は検索しない。

だから嫌われる。

第七話 相棒

「いいか、ググ男」

定年間近の上司は、缶コーヒーを片手に言った。

「仕事ってのはな、一人じゃ乗り越えられん時がある」

「……はい」

「だから“良き相棒”を見つけろ」

上司は少し笑った。

「相談できる相手でもいい。支え合える奴でもいい。組織ってのは、そういうので回ってる」

ググ男は真面目に頷いた。

「わかるか?」

「はい!」

翌日。

ググ男はデスクにノートPCを二台並べていた。

「何してるの?」

同僚が聞く。

「相棒導入しました」

「……は?」

「ChatGPTとGeminiです」

誇らしげだった。

「資料作成、要約、文章校正、壁打ち、全部できます」

「いや、そういう意味じゃ……」

「仕事には良き相棒が必要なので」

ググ男は満足そうに頷く。

「しかも二十四時間対応」

「……。」

「否定もしないし、愚痴も漏らさない」

同僚は静かに席へ戻った。

一週間後…。

「最近、ググ男くん会話減ったよね」

「AIに相談した方が早いらしいよ」

「人に聞かなくなったな……」

ググ男は気づかない。

“効率の良い相棒”を得るほど人との距離が離れていることに。

そして今日も誰にも相談せず完璧な資料を作る。

ググ男相棒は増えた。

でも味方は減った。

だから嫌われる。

第八話 海外旅行

「見て見て! もう下、ハワイよ!」

窓の外に広がる青い海を見て妻は子供みたいにはしゃいでいた。

新婚旅行。

ググ男と妻は、初めての海外へ来ていた。

「ググ男さん、私……英語喋れないから不安だわ」

「大丈夫だよ」

ググ男は落ち着いていた。

「タクシーとか、ちゃんと乗れるかしら……」

「安心して」

ググ男はスマホを掲げる。

「空港からホテルまでの移動方法、全部調べてある」

「ほんと?」

「配車アプリの登録済み。翻訳アプリもオフライン対応設定した」

「すごい……!」

「あと、ぼったくりタクシー回避方法と、チップ文化の平均額、治安悪いエリア、現地で日本人が腹壊しやすい飲食店ランキングも保存してる」

妻の笑顔が少し止まる。

「あと、ハワイで日本人観光客が遭遇しやすい犯罪一覧も…。」

「ググ男さん」

「ん?」

「ちょっと怖くなってきたわ……」

「あ、ごめん」

だが数分後。

「あと津波避難経路も…。」

「もういいわ!旅行来たのに、ずっと危険情報しか聞いてない!」

妻は小さくため息をついた。

「私はね、“何が起きるかわからない”も含めて楽しみたかったの」

ググ男は黙る。

彼は不安を消そうとして検索する。

でも時々、検索しすぎることで楽しみまで消してしまう。

ググ男、安心は調べられる。

でも、ワクワクは検索できない。

だから嫌われる。

第九話 連絡

「あら? ググ男さんから着信だわ」

女性事務員は、寝る前にスマホを見た。

時計は深夜〇時過ぎ。

「もう遅いし……明日連絡したらいいわよね」

今日は疲れていた。

そのまま布団へ入る。

数分後。

ブーブー。

ブーブー。

「あら……?」

再びスマホが震える。

画面を見ると、ググ男から通知が大量に届いていた。

『メール送信しました』

『LINEも送ります』

『起きてます?』

「えっ、急用……?」

慌ててLINEを開く。

『明日、お土産渡したいので出勤時間教えてください』

「……え?」

『大阪出張のお土産です』

『職場で渡すと荷物になるかと思いまして』

『ちなみに日持ちは十四日です』

『人気ランキング一位でした』

『レビュー4.6』

『行列四十分でした』

女性事務員は苦笑いした。

さらに通知が届く。

『要冷蔵なので保冷剤六時間対応です』

『受け取りタイミング相談したく』

『起きてます?』

時計は深夜一時。

女性事務員は静かにスマホを伏せた。

翌朝…。

「ごめんなさい、寝てました」

「あ、大丈夫です!」

ググ男は爽やかだった。

「ちなみに、お土産の最適受け渡し時間も調べてきました」

「調べなくていいのよ、そこは……」

ググ男は首を傾げる。

相手に喜んでほしい。

迷惑をかけたくない。

その気持ちは本物だった。

でも時々“気遣い”は量を間違えると、ただの圧になる。

ググ男、親切の情報量が多すぎる。

だから嫌われる。

最終話 嫌われない方法

ググ男は最近、気づき始めていた。

自分は何故か空気が読めない。

悪気はない。

むしろ、相手のためを思っている。

なのに時々会話が止まる。

笑顔が固まる。

誘われなくなる。

職場でも、友人関係でも、少しだけ浮いている。

その都度、調べた。

『空気が読めない人 特徴』

『嫌われる人 共通点』

『正論ばかり言う人』

『人間関係 改善方法』

検索結果は大量に出てきた。

ググ男は真剣に読んだ。

・相手の感情を考える

・共感を先にする

・正しさを押し付けない

・話を最後まで聞く

「なるほど……」

ググ男は頷いた。

翌日…。

職場の女性事務員が困った顔をしていた。

「コピー機また調子悪いのよねぇ……」

ググ男は口を開きかける。

原因、型番、修理費、レビュー、 買い替え時期。

全部もう調べられる。

でもググ男は一度だけ飲み込んだ。

「……大変ですね」

女性事務員は少し驚いた。

「ふふっ、今日は検索しないの?」

「……我慢してます」

その言葉に女性事務員は吹き出した。

「何それ」

周囲も少し笑う。

ググ男は困った顔で頭をかいた。

たぶん彼はこれからも空気を読むのは苦手だ。

きっとまた余計なことも言う。

調べなくていいことまで調べる。

でも…。

誰かが困っていたら本気で心配する。

頼まれてもいないのに調べる。

不安そうな顔を見ると放っておけない。

だから少し面倒くさい。

だから少し空気が読めない。

だから嫌われる。

でも…。

少し愛される。

あとがき

私は、会話の最中にすぐ検索する人が少し苦手だ。

「どうしよう?」 「どうかなあ?」

そんな言葉を聞いた瞬間、待ってましたと言わんばかりにスマホを取り出す人がいる。

もちろん悪気はない。

むしろ親切心だ。

早く、正しく、最適な答えを出してあげたい。

きっと過去に「助かった」「詳しいね」 と誰かに喜ばれた経験があるのだと思う。

だから調べる。

でも私は、少し苦手だった。

人と人の会話には、答えを出す以外の意味があると思っている。

仕事を円滑にするため。

安心するため。

愚痴を聞いてもらうため。

ただ、一緒に悩むため。

答えなんて、すぐ出なくてもいい時がある。

だから会話の途中で検索されるたび、どこか気持ちが置いていかれる気がしていた。

――けれど。

この作品を書くため、“ググる人間”をずっと観察していた。

すると不思議なことに、少しずつ好きになっていた。

彼らは、世界を効率よく生きたいのではなく、誰かを困らせたくないだけなのかもしれない。

間違えたくない。

役に立ちたい。

安心させたい。

その気持ちが、検索という行動になっている。

だから今は、軽蔑ではなく、少し愛でるような気持ちで見ている。

今日もどこかで、 誰かが「どうしようかな」と呟いた瞬間、 ググ男は静かにスマホを開いている。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 森村征爾短編集   好きにしろ(短編)

    売れない芸人の朝は、たいてい湿っている。 窓際に干した洗濯物は生乾きのまま揺れ、昨夜食べた安い焼きそばの油の匂いが床に残り、畳には汗が染みついていた。夢という言葉はもっと乾いた場所にあるものだと、健児は思っていた。 目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。鳴れば奥の部屋から怒鳴り声が飛ぶ。そういう生活に身体が慣れてしまっていた。 隣で寝ている竜二は、口を開けたまま天井を向いている。売れない芸人の寝顔は、どこか死体みたいだと健児は思う。 目覚ましが鳴った。 一秒もしないうちに、襖の向こうから声がした。 「うるさい」 低く、湿った声だった。 健児は飛び起きて時計を止めた。 「すんません」 謝る必要があるのか分からないまま、毎朝謝っていた。 竜二が毛布の中で笑った。 「姉ちゃん、今日も元気やな」 「元気なやつは朝から怒鳴らへんやろ」 健児はツッコミが下手だった。 間が悪い、と竜二は言った。 相手の言葉を受ける前に喋ってしまう。客が笑いかけたところに説明を足して冷ます。ここぞという場面で黙る。人より少しだけずれている。その少しだけで芸人は死ぬのだと、竜二は苛立ちながら教えてくれた。 「お前さえ普通にできたら、俺らもっと上行けるねん」 竜二は本気でそう思っていたし、健児もそう思っていた。 ただ、普通にできる方法だけが分からなかった。 家賃を三か月滞納してアパートを追い出されたとき、竜二はあっさり言った。 「うち来るか」 うち、というのは姉と住んでいる1LDKだった。 狭い部屋だった。リビングに小さな机があり、古い冷蔵庫があり、壁際に衣装ケースが積んである。生活はたいてい、積み重ねられていく。 奥の部屋に向かって竜二が言った。 「姉ちゃん。健児、しばらく住まわすわ」 少し間があって、襖の向こうから声がした。 「好きにしろ」 それが沙織との最初の会話だった。 沙織は朝にだけ壊れていた。 目覚ましの音、蛇口の音、ビニール袋の擦れる音。そういう小さな音に、世界の終わりみたいな怒り方をした。 そのくせ夜になると、台所から包丁の音がして、洗濯機が回り、朝には弁当が二つ並んでいた。 健児と竜二の服は、なぜか毎晩きれいに畳まれて沙織の部屋に置かれていた。だから二人は朝、

  • 森村征爾短編集   誰にも見えない色(短編)

    僕は、空気に何故か色が見える。 子どものころは、それを匂いのせいだと思っていた。母の洗濯物は薄い水色、雨上がりの土は深い茶色、給食のカレーは濁った黄色。世界は目に見えない色で満ちていて、誰もそれに気づかないのが不思議だった。 けれど口に出したことはない。変なやつだと思われるに決まっていた。 小学校六年の六月、プール開きの日。塩素の匂いが白い靄となって水面を漂う中、一本だけ赤い色が混じっているのを見つけた。 血のような赤だった。 その筋はプールサイドを這い、飛び込み台の前で立っていた高橋の足元へつながっていた。 高橋は人気者だった。泳ぎが速く、よく笑い、女子にも男子にも好かれていた。日に焼けた肩を揺らしながら友達を押しのけ、笛の音に文句を言っている。その周囲だけ、空気がじわじわと赤く滲んでいた。 僕は声をかけようとして、やめた。 お前、赤い匂いがしてる。 そんな言葉、どうやって信じてもらえる。 笛が鳴り、一斉に水へ入る。白い飛沫の中で、高橋の赤だけが尾を引いた。クロールで進み、ターンの手前で急に腕が止まる。顔が上がらない。 数秒後、歓声が悲鳴に変わった。 高橋は心臓の発作だったらしい。救急車が来て、午後の授業はなくなった。皆が泣き、僕も泣いた。高橋のためなのか、自分のためなのかはわからなかった。 もし言えていたら。 もし赤を信じていたら。 その日から、色のことは誰にも話していない。 成長してから、見える色は匂いだけではないと知った。 人の機嫌。場の空気。言葉になる前の感情。そういうものもまた、薄い靄となって漂っていた。 職場で誰かが怒りを飲み込んでいる日は、天井近くに鈍い黒が溜まる。祝いの席では金色の粒が照明の下で跳ねる。恋人と笑い合った帰り道は、夜道なのに薄桃色の靄が肩の高さを流れていく。 嫌なときは黒に近い。 楽しいときは明るい色。 単純な法則だった。 だから人生も、その色の通りにできているのだと思っていた。苦しい時期は過ぎれば明るくなるし、明るい時期には希望が続くのだと。 だが四十を過ぎたころから、様子が変わった。 朝の台所。駅のホーム。会社の廊下。馴染みの喫茶店。休日の公園。 どこへ行っても、空気の底に黒みが差している。 最初は世の中のせいだと思った。ニュースは暗く、人は余裕をなくし、誰もが疲れて見える。だ

  • 森村征爾短編集   ググ男、だから嫌われる

    序章 ググ男爆誕! 「それ、違うよ」 昼休みのファミレスで、男はスマホを掲げた。 「今ググった。正式には――」 まだ誰も答えを求めていない。 ただ雑談していただけだった。 だが男は止まらない。 「いや、データあるから」 「ソースある?」 「感情論じゃん」 彼はいつだって正しい…。 そして、いつだって少しだけ嫌われる。 世の中は、調べれば簡単に答えへ辿り着ける時代になった。 わからないことは検索すればいい。 間違いは訂正すればいい。 効率よく、早く、正確に。 それは、本当に正解なのだろうか。 簡単に答えを出せるあなたへ。 必ずしも、早い答えが良いとは限らない。 どや顔していると、 たぶん嫌われる。 第一話 店探し 大学合格が決まった日、母が言った。 「今日はお祝いね。ランチ、お母さんがおごるわ」 ググ男は嬉しくなった。 「本当!? じゃあ美味しい店探すよ!」 すぐにスマホを取り出し、検索を始める。 「近所に高級寿司屋あるみたい」 「いいじゃない。今日くらい奮発しちゃう。予約してよ」 母は笑っていた。 嬉しそうだった。 だが、ググ男の指が止まる。 「あ、待って。この店、平日しかランチ価格じゃないみたい」 「じゃあ別のとこでいいわよ」 「待って、他も見る。……あ、この店レビュー低い。やめとこ」 母は苦笑いを浮かべた。 「ここは? マグロが新鮮らしい」 「いいじゃない」 「あ、でもカウンターしかないなぁ。落ち着かないかも」 検索は終わらない。 「ここ高いな……。母さん払える?」 「今日は気にしなくていいって」 「でもコスパ悪いよ。あ、安い寿司ランチないからイタリアンも探すね」 母は静かになった。 ググ男だけが、スマホの画面を見続ける。 十分後。 「……ググ男ちゃん」 「ん?」 「私もう、スシローでいいわ」 その声は、少し疲れていた。 母は寿司を食べたかったわけじゃない。 ただ、 合格した息子と笑ってご飯を食べたかっただけだった。 ググ男、母の気持ちを検索できない。 だから嫌われる。 第二話 上司と部下 「事務長、すみません。少し相談というか、教えていただきたいのですが……」 四十代の女性事務員は、申し訳なさそうに声をかけた。 事務長は

  • 森村征爾短編集   夫の妖怪化が止まらない

    冒頭 王子との出会い 出会いは突然だった。 身長は176センチ。 細い身体にうっすらと筋肉がついている。 白い肌は光を弾くようで、笑うと覗く八重歯が少年っぽかった。 生まれつき体毛が薄いらしく、夏でも腕はつるりとしていた。 湯上がりの少し紅くなった肌には妙な色気があり、何度触れたいと思ったかわからない。 優しくて、よく笑って、甘い言葉を惜しまない人だった。 燃え上がるような恋をした。 第一話 ソファに棲む妖怪 結婚三十年。 どうしてこうなった……。 夫婦共働き。 平日の十八時。 私が仕事から帰る頃には、夫は必ず先に帰宅している。 「ただいまー」 玄関を開けても返事はない。 嫌な予感しかしない。 リビングへ向かうと、今日も奴はいた。 帰宅した瞬間に脱ぎ捨てられた仕事着。 裏返った靴下。 床に転がるワイシャツ。 そして、三百六十五日ほぼ同じ灰色の部屋着をまとったまま、ソファに横たわる妖怪。 「ただいま」 二度目でようやく、 「おう」 返事はあった。 ただし視線はテレビから一ミリも動かない。 かつて毎日のように囁かれていた甘い言葉は、もう存在しない。 「愛してる」 「会いたかった」 「今日も綺麗だね」 あの頃の男はどこへ消えたのか。 今、目の前にいるのは、ポテチを食べながら尻を掻く中年生物である。 そして妖怪は、ニュース番組を見つめたまま静かに屁をこいた。 ……ブゥ。 「ねえ」 「ん?」 「今のおなら?」 「おう」 悪びれもしない。 私は静かに天井を見上げた。 結婚三十年。 恋とは、儚い。 第二話 冷蔵庫を漁る夜行性生物 朝、台所へ入った瞬間、私は静かに目を閉じた。 シンクには茶碗と箸。 食べ終えた形跡のある皿。 中途半端に残されたおかず。 昨夜も出たのだ…。 深夜になると活動を始める妖怪がいる。 奴は夕食を終えるとソファーへ横になる。 そのまま寝息を立て、朝まで動かない時もある。 だが時々、夜中に目を覚ます。 そして、冷蔵庫を漁るのだ。 夕飯の残り、 冷やご飯、 翌日のために置いていたおかず…。 容赦なく食べ尽くす。 翌朝には綺麗に消えている。 若い頃はあんなに細かったのに、今では会社の健康診断で高メタボ判定。 部屋着の上着からは腹が収まりきらず、ぼよんと垂れ下がっている

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status