Se connecter売れない芸人の朝は、たいてい湿っている。
窓際に干した洗濯物は生乾きのまま揺れ、昨夜食べた安い焼きそばの油の匂いが床に残り、畳には汗が染みついていた。夢という言葉はもっと乾いた場所にあるものだと、健児は思っていた。 目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。鳴れば奥の部屋から怒鳴り声が飛ぶ。そういう生活に身体が慣れてしまっていた。 隣で寝ている竜二は、口を開けたまま天井を向いている。売れない芸人の寝顔は、どこか死体みたいだと健児は思う。 目覚ましが鳴った。 一秒もしないうちに、襖の向こうから声がした。 「うるさい」 低く、湿った声だった。 健児は飛び起きて時計を止めた。 「すんません」 謝る必要があるのか分からないまま、毎朝謝っていた。 竜二が毛布の中で笑った。 「姉ちゃん、今日も元気やな」 「元気なやつは朝から怒鳴らへんやろ」 健児はツッコミが下手だった。 間が悪い、と竜二は言った。 相手の言葉を受ける前に喋ってしまう。客が笑いかけたところに説明を足して冷ます。ここぞという場面で黙る。人より少しだけずれている。その少しだけで芸人は死ぬのだと、竜二は苛立ちながら教えてくれた。 「お前さえ普通にできたら、俺らもっと上行けるねん」 竜二は本気でそう思っていたし、健児もそう思っていた。 ただ、普通にできる方法だけが分からなかった。 家賃を三か月滞納してアパートを追い出されたとき、竜二はあっさり言った。 「うち来るか」 うち、というのは姉と住んでいる1LDKだった。 狭い部屋だった。リビングに小さな机があり、古い冷蔵庫があり、壁際に衣装ケースが積んである。生活はたいてい、積み重ねられていく。 奥の部屋に向かって竜二が言った。 「姉ちゃん。健児、しばらく住まわすわ」 少し間があって、襖の向こうから声がした。 「好きにしろ」 それが沙織との最初の会話だった。 沙織は朝にだけ壊れていた。 目覚ましの音、蛇口の音、ビニール袋の擦れる音。そういう小さな音に、世界の終わりみたいな怒り方をした。 そのくせ夜になると、台所から包丁の音がして、洗濯機が回り、朝には弁当が二つ並んでいた。 健児と竜二の服は、なぜか毎晩きれいに畳まれて沙織の部屋に置かれていた。だから二人は朝、怒鳴られながらその部屋へ服を取りに行くしかなかった。 理不尽という言葉は、たぶん家庭の中で生まれたのだと思う。 沙織の部屋は薄暗かった。 昼間でもカーテンが閉まり、空気が少し甘かった。洗剤と女の匂いが混ざっていた。 沙織はたいてい眠っていた。長い髪が顔を隠し、布団から足だけ出していたり、肩だけ出していたりした。 ベッドの横には下着が干してあった。 黒。白。花柄。妙に派手な豹柄。 健児は見るつもりはなかったが、狭い部屋では見ないことにも技術が要る。 「姉ちゃん、また下着増えてるやん」 竜二が笑うと、布団の中から枕が飛んできた。 公園でネタ合わせをした。 「昨日な、彼女に振られてん」 竜二が言った。 健児はいつものように言葉を探し、いつものように遅れた。 「……え、なんで」 「それや。それが遅いねん」 鳩だけが近くにいた。 ある朝、沙織のスウェットがめくれて、豹柄の下着が見えていた。 健児は目を逸らしながら服を探した。 そのとき、不意に口から出た。 「なんで豹柄やねん」 誰に向けた言葉でもなかった。 だが、その声の出る速さに自分で驚いた。 その日の舞台で、初めて客が笑った。 次の日、沙織は真冬なのにキャミソールで寝ていた。 「なんで寒ないねん」 その次の日、上だけセーラー服だった。 「なんで上だけ学生やねん」 その次の日、ベッドの横に下着が五枚、きれいに並べられていた。 「展示会か」 舞台では突っ込むタイミングが見え始めていた。 そのタイミングには客も笑った。 ツッコミとは常識の代弁だと思っていたが、たぶん違う。相手の中にある歪みを、一番早く見つけることだった。 仕事が増えた。 小さな劇場のトリ前に出られるようになり、深夜番組の端にも映るようになった。 竜二は女の家に転がり込み、健児はしばらく沙織と二人で暮らした。 だが日常会話は少なかった。 「飯」 「はい」 「ゴミ」 「出しときます」 「うるさい」 「まだ何も言うてません…」 それでも生活は続いた。 部屋を借りることにした夜、健児は台所の沙織に言った。 「来月、出ます」 皿を洗う手が少し止まった。 「好きにしろ」 いつも通りの声だった。 だが、いつもより小さく細い返答だった。 そのとき沙織が前髪を耳にかけた。 初めて顔が見えた。 きれいな人だった。もっと早く見ればよかったと思った。 数日後、沙織は死んだ。 朝アルバイトへ向かう途中、自転車で車道に出てトラックにぶつかったらしい。 朝が苦手な人だった。 最後まで朝に負けたのだと、健児は思った。 部屋を片付けに行くと、棚にDVDが並んでいた。 二人の出た番組。ネタ見せ。地方営業。雑誌の切り抜き。コンビ名に赤丸がついていた。 竜二が黙ってタンスを開けた。 中には新品の下着がぎっしり詰まっていた。 豹柄。花柄。白。黒。季節外れの厚手のもの。制服に合わせるような紺色のものまであった。 引き出しの奥に、小さなメモ帳があった。 月曜 豹柄 反応よし 火曜 寒そうな格好 少し遅い 水曜 制服 笑った 木曜 五枚並べる 成功 金曜 忙しいのかな?帰らない。 土曜 帰らない…。 日曜 健児は座り込んだ。 沙織は何ひとつ優しい言葉を持っていなかった。 その代わり、優しい行動だけを山ほど持っていた。 人を励ます言い方も、応援の仕方も知らない女が、毎朝自分の部屋で一人、芸人を育てていたのだ。 竜二が鼻をすすった。 「姉ちゃん、ほんまアホやな」 健児はメモ帳を閉じた。 「今さら、こんなボケわかるか……」 笑った。目の奥が熱かった。 部屋を出ようとしたとき…。 「好きにしろ」 「えっ…。」 振り返っても、もちろん誰もいない。 健児は笑って外へ出る。 変わらぬ朝だった。 完売れない芸人の朝は、たいてい湿っている。 窓際に干した洗濯物は生乾きのまま揺れ、昨夜食べた安い焼きそばの油の匂いが床に残り、畳には汗が染みついていた。夢という言葉はもっと乾いた場所にあるものだと、健児は思っていた。 目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。鳴れば奥の部屋から怒鳴り声が飛ぶ。そういう生活に身体が慣れてしまっていた。 隣で寝ている竜二は、口を開けたまま天井を向いている。売れない芸人の寝顔は、どこか死体みたいだと健児は思う。 目覚ましが鳴った。 一秒もしないうちに、襖の向こうから声がした。 「うるさい」 低く、湿った声だった。 健児は飛び起きて時計を止めた。 「すんません」 謝る必要があるのか分からないまま、毎朝謝っていた。 竜二が毛布の中で笑った。 「姉ちゃん、今日も元気やな」 「元気なやつは朝から怒鳴らへんやろ」 健児はツッコミが下手だった。 間が悪い、と竜二は言った。 相手の言葉を受ける前に喋ってしまう。客が笑いかけたところに説明を足して冷ます。ここぞという場面で黙る。人より少しだけずれている。その少しだけで芸人は死ぬのだと、竜二は苛立ちながら教えてくれた。 「お前さえ普通にできたら、俺らもっと上行けるねん」 竜二は本気でそう思っていたし、健児もそう思っていた。 ただ、普通にできる方法だけが分からなかった。 家賃を三か月滞納してアパートを追い出されたとき、竜二はあっさり言った。 「うち来るか」 うち、というのは姉と住んでいる1LDKだった。 狭い部屋だった。リビングに小さな机があり、古い冷蔵庫があり、壁際に衣装ケースが積んである。生活はたいてい、積み重ねられていく。 奥の部屋に向かって竜二が言った。 「姉ちゃん。健児、しばらく住まわすわ」 少し間があって、襖の向こうから声がした。 「好きにしろ」 それが沙織との最初の会話だった。 沙織は朝にだけ壊れていた。 目覚ましの音、蛇口の音、ビニール袋の擦れる音。そういう小さな音に、世界の終わりみたいな怒り方をした。 そのくせ夜になると、台所から包丁の音がして、洗濯機が回り、朝には弁当が二つ並んでいた。 健児と竜二の服は、なぜか毎晩きれいに畳まれて沙織の部屋に置かれていた。だから二人は朝、
僕は、空気に何故か色が見える。 子どものころは、それを匂いのせいだと思っていた。母の洗濯物は薄い水色、雨上がりの土は深い茶色、給食のカレーは濁った黄色。世界は目に見えない色で満ちていて、誰もそれに気づかないのが不思議だった。 けれど口に出したことはない。変なやつだと思われるに決まっていた。 小学校六年の六月、プール開きの日。塩素の匂いが白い靄となって水面を漂う中、一本だけ赤い色が混じっているのを見つけた。 血のような赤だった。 その筋はプールサイドを這い、飛び込み台の前で立っていた高橋の足元へつながっていた。 高橋は人気者だった。泳ぎが速く、よく笑い、女子にも男子にも好かれていた。日に焼けた肩を揺らしながら友達を押しのけ、笛の音に文句を言っている。その周囲だけ、空気がじわじわと赤く滲んでいた。 僕は声をかけようとして、やめた。 お前、赤い匂いがしてる。 そんな言葉、どうやって信じてもらえる。 笛が鳴り、一斉に水へ入る。白い飛沫の中で、高橋の赤だけが尾を引いた。クロールで進み、ターンの手前で急に腕が止まる。顔が上がらない。 数秒後、歓声が悲鳴に変わった。 高橋は心臓の発作だったらしい。救急車が来て、午後の授業はなくなった。皆が泣き、僕も泣いた。高橋のためなのか、自分のためなのかはわからなかった。 もし言えていたら。 もし赤を信じていたら。 その日から、色のことは誰にも話していない。 成長してから、見える色は匂いだけではないと知った。 人の機嫌。場の空気。言葉になる前の感情。そういうものもまた、薄い靄となって漂っていた。 職場で誰かが怒りを飲み込んでいる日は、天井近くに鈍い黒が溜まる。祝いの席では金色の粒が照明の下で跳ねる。恋人と笑い合った帰り道は、夜道なのに薄桃色の靄が肩の高さを流れていく。 嫌なときは黒に近い。 楽しいときは明るい色。 単純な法則だった。 だから人生も、その色の通りにできているのだと思っていた。苦しい時期は過ぎれば明るくなるし、明るい時期には希望が続くのだと。 だが四十を過ぎたころから、様子が変わった。 朝の台所。駅のホーム。会社の廊下。馴染みの喫茶店。休日の公園。 どこへ行っても、空気の底に黒みが差している。 最初は世の中のせいだと思った。ニュースは暗く、人は余裕をなくし、誰もが疲れて見える。だ
序章 ググ男爆誕! 「それ、違うよ」 昼休みのファミレスで、男はスマホを掲げた。 「今ググった。正式には――」 まだ誰も答えを求めていない。 ただ雑談していただけだった。 だが男は止まらない。 「いや、データあるから」 「ソースある?」 「感情論じゃん」 彼はいつだって正しい…。 そして、いつだって少しだけ嫌われる。 世の中は、調べれば簡単に答えへ辿り着ける時代になった。 わからないことは検索すればいい。 間違いは訂正すればいい。 効率よく、早く、正確に。 それは、本当に正解なのだろうか。 簡単に答えを出せるあなたへ。 必ずしも、早い答えが良いとは限らない。 どや顔していると、 たぶん嫌われる。 第一話 店探し 大学合格が決まった日、母が言った。 「今日はお祝いね。ランチ、お母さんがおごるわ」 ググ男は嬉しくなった。 「本当!? じゃあ美味しい店探すよ!」 すぐにスマホを取り出し、検索を始める。 「近所に高級寿司屋あるみたい」 「いいじゃない。今日くらい奮発しちゃう。予約してよ」 母は笑っていた。 嬉しそうだった。 だが、ググ男の指が止まる。 「あ、待って。この店、平日しかランチ価格じゃないみたい」 「じゃあ別のとこでいいわよ」 「待って、他も見る。……あ、この店レビュー低い。やめとこ」 母は苦笑いを浮かべた。 「ここは? マグロが新鮮らしい」 「いいじゃない」 「あ、でもカウンターしかないなぁ。落ち着かないかも」 検索は終わらない。 「ここ高いな……。母さん払える?」 「今日は気にしなくていいって」 「でもコスパ悪いよ。あ、安い寿司ランチないからイタリアンも探すね」 母は静かになった。 ググ男だけが、スマホの画面を見続ける。 十分後。 「……ググ男ちゃん」 「ん?」 「私もう、スシローでいいわ」 その声は、少し疲れていた。 母は寿司を食べたかったわけじゃない。 ただ、 合格した息子と笑ってご飯を食べたかっただけだった。 ググ男、母の気持ちを検索できない。 だから嫌われる。 第二話 上司と部下 「事務長、すみません。少し相談というか、教えていただきたいのですが……」 四十代の女性事務員は、申し訳なさそうに声をかけた。 事務長は
冒頭 王子との出会い 出会いは突然だった。 身長は176センチ。 細い身体にうっすらと筋肉がついている。 白い肌は光を弾くようで、笑うと覗く八重歯が少年っぽかった。 生まれつき体毛が薄いらしく、夏でも腕はつるりとしていた。 湯上がりの少し紅くなった肌には妙な色気があり、何度触れたいと思ったかわからない。 優しくて、よく笑って、甘い言葉を惜しまない人だった。 燃え上がるような恋をした。 第一話 ソファに棲む妖怪 結婚三十年。 どうしてこうなった……。 夫婦共働き。 平日の十八時。 私が仕事から帰る頃には、夫は必ず先に帰宅している。 「ただいまー」 玄関を開けても返事はない。 嫌な予感しかしない。 リビングへ向かうと、今日も奴はいた。 帰宅した瞬間に脱ぎ捨てられた仕事着。 裏返った靴下。 床に転がるワイシャツ。 そして、三百六十五日ほぼ同じ灰色の部屋着をまとったまま、ソファに横たわる妖怪。 「ただいま」 二度目でようやく、 「おう」 返事はあった。 ただし視線はテレビから一ミリも動かない。 かつて毎日のように囁かれていた甘い言葉は、もう存在しない。 「愛してる」 「会いたかった」 「今日も綺麗だね」 あの頃の男はどこへ消えたのか。 今、目の前にいるのは、ポテチを食べながら尻を掻く中年生物である。 そして妖怪は、ニュース番組を見つめたまま静かに屁をこいた。 ……ブゥ。 「ねえ」 「ん?」 「今のおなら?」 「おう」 悪びれもしない。 私は静かに天井を見上げた。 結婚三十年。 恋とは、儚い。 第二話 冷蔵庫を漁る夜行性生物 朝、台所へ入った瞬間、私は静かに目を閉じた。 シンクには茶碗と箸。 食べ終えた形跡のある皿。 中途半端に残されたおかず。 昨夜も出たのだ…。 深夜になると活動を始める妖怪がいる。 奴は夕食を終えるとソファーへ横になる。 そのまま寝息を立て、朝まで動かない時もある。 だが時々、夜中に目を覚ます。 そして、冷蔵庫を漁るのだ。 夕飯の残り、 冷やご飯、 翌日のために置いていたおかず…。 容赦なく食べ尽くす。 翌朝には綺麗に消えている。 若い頃はあんなに細かったのに、今では会社の健康診断で高メタボ判定。 部屋着の上着からは腹が収まりきらず、ぼよんと垂れ下がっている