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森村征爾短編集
森村征爾短編集
Autor: 森村征爾

夫の妖怪化が止まらない

Autor: 森村征爾
last update Data de publicação: 2026-07-24 21:52:29

冒頭 王子との出会い

出会いは突然だった。

身長は176センチ。 細い身体にうっすらと筋肉がついている。

白い肌は光を弾くようで、笑うと覗く八重歯が少年っぽかった。

生まれつき体毛が薄いらしく、夏でも腕はつるりとしていた。 湯上がりの少し紅くなった肌には妙な色気があり、何度触れたいと思ったかわからない。

優しくて、よく笑って、甘い言葉を惜しまない人だった。

燃え上がるような恋をした。

第一話 ソファに棲む妖怪

結婚三十年。

どうしてこうなった……。

夫婦共働き。

平日の十八時。 私が仕事から帰る頃には、夫は必ず先に帰宅している。

「ただいまー」

玄関を開けても返事はない。

嫌な予感しかしない。

リビングへ向かうと、今日も奴はいた。

帰宅した瞬間に脱ぎ捨てられた仕事着。 裏返った靴下。 床に転がるワイシャツ。

そして、三百六十五日ほぼ同じ灰色の部屋着をまとったまま、ソファに横たわる妖怪。

「ただいま」

二度目でようやく、

「おう」

返事はあった。

ただし視線はテレビから一ミリも動かない。

かつて毎日のように囁かれていた甘い言葉は、もう存在しない。

「愛してる」 「会いたかった」 「今日も綺麗だね」

あの頃の男はどこへ消えたのか。

今、目の前にいるのは、ポテチを食べながら尻を掻く中年生物である。

そして妖怪は、ニュース番組を見つめたまま静かに屁をこいた。

……ブゥ。

「ねえ」

「ん?」

「今のおなら?」

「おう」

悪びれもしない。

私は静かに天井を見上げた。

結婚三十年。

恋とは、儚い。

第二話 冷蔵庫を漁る夜行性生物

朝、台所へ入った瞬間、私は静かに目を閉じた。

シンクには茶碗と箸。 食べ終えた形跡のある皿。 中途半端に残されたおかず。

昨夜も出たのだ…。

深夜になると活動を始める妖怪がいる。

奴は夕食を終えるとソファーへ横になる。 そのまま寝息を立て、朝まで動かない時もある。

だが時々、夜中に目を覚ます。

そして、冷蔵庫を漁るのだ。

夕飯の残り、 冷やご飯、 翌日のために置いていたおかず…。

容赦なく食べ尽くす。

翌朝には綺麗に消えている。

若い頃はあんなに細かったのに、今では会社の健康診断で高メタボ判定。

部屋着の上着からは腹が収まりきらず、ぼよんと垂れ下がっている。

なのに腹立たしいことに、肌だけは昔のままだ。

剥き卵みたいにつるつるで、変に白い。

歳を取った私より、無駄に綺麗な肌をしている。

神様は配分を間違えたと思う。

「おはよー」

声をかけると、

「おう」

短い返事。

そして次の瞬間。

ブゥゥゥ~~~……。

やたら長い放屁が響く。この妖怪は屁で会話も可能。

私は黙って夫を見る。

夫は何事もなかったようにテレビのリモコンを探していた。

結婚三十年。

努力もしないのに白肌の妖怪が憎たらしい。

第三話 片言の日本語妖怪

「ただいまー」

「おう」

「今日さ、会社でね」

「おう」

「子どもたちが今度帰ってくるって」

「おう↑?」

語尾が少し上がった。

聞いているアピールである。

私は、もはやこの微妙なイントネーションの違いを聞き分けられるようになっていた。

奴は、年々日本語を失っている。

若い頃は違った。

「今日も綺麗だね」

「会いたかった」

「愛してる」

聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらい甘い言葉を吐いていた男が、今ではほぼ「おう」しか言わない。

もしかすると長年の結婚生活の中で、日本語能力が退化したのかもしれない。

だが恐ろしいことに、この会話で成立してしまうのだ。

「今日何か食べたい?」

「お、おう……」

これは“考えている”である。

「ゴミ出しした?」

「おう」

これは“たぶんした”。

「お風呂入った?」

「……おう」

これは“入ってない”。

長年連れ添った結果、私は妖怪語を理解できるようになっていた。

最近では背中を見るだけで感情までわかる。

ソファーに対して斜め四十五度なら機嫌が良い。

完全横向きなら眠い。

体育座りしている時は腹を壊している。

もはや野生動物の観察に近い。

結婚三十年。

甘い言葉は皆無。

変わりに私は、新言語で会話が可能になっていた。

第四話 休日DIY妖怪

若い頃の私は思っていた。

休日は、お洒落な店でランチをして、 映画を観て、 ショッピングでは手を繋いで歩くのだと。

雑誌みたいな夫婦。

そういう未来を想像していた。

現実は違う。

休日の朝六時

ガラガラガラッ——!

奴は物置から工具箱を引きずり出す。

眠気でぼんやりする私をよそに、庭へ木材を運び始めた。

また始まった…。

休日DIY妖怪である。

ホームセンターで買ってきた大量の木材を並べ、朝から黙々と切り始める。

ギュイィィィン!!

電動工具の音が住宅街に響く。

「まだ早いからやめなさい!」

窓を開けて怒鳴ると、

「おう」

返事だけは良い。

そして止めない…。

聞く耳はない…。

昼過ぎになる頃には、部屋着の腹をぼよんぼよん揺らしながら汗だくで作業していた。

「昼ご飯出来たよー」

声をかけに庭へ出る。

すると、そこには立派な木製の踏み台が置かれていた。

「え、何これ」

「ん」

「作ったの?」

「おう」

ぐらつきもない。

妙に丁寧。

しかもサイズがぴったりだった。

「これ、台所の上の棚にちょうどいいかも!」

思わず声が弾む。

結婚三十年。

休日に出掛けることもなくDIY。

無駄にスキルも高い。

第五話 動かざること山の如し

休日の妖怪は基本、動かない…。

本当に動かない。

朝食を食べるとソファへ移動し、そのまま根を張る。

テレビ、 スマホ、 うたた寝。

そしてたまに冷蔵庫。

活動範囲は半径二メートル以内である。

「ちょっと買い物行かない?」

「おう……」

返事はする。

だが立たない。

十分後。

まだいる。

「行くの?」

「……おう」

動かない。

もはや会話ではない、生存確認である。

若い頃は違った。

「どこ行きたい?」

「迎えに行くよ」

「ドライブしよう」

あの行動力はどこへ消えたのか…。

今ではソファと完全に同化している。

昼過ぎ。

様子を見に行くと、同じ姿勢のままテレビを見ていた。

「腰痛くならないの?」

「おう」

なるのか、ならないのか分からない返事。

さらに夕方。

まだいる…。

さすがに心配になり、

「生きてる?」

と聞くと、

「おう」

少し遅れて返事が来た。

私は安心して洗濯物を取り込む。

結婚三十年。

私は、妖怪の安否確認をしている。

第六話 騒音妖怪

若い頃の私は、夫の寝顔を見るのが好きだった。

静かな寝息。 安心しきった顔。 時々ぴくりと動く指先。

スヤスヤ眠る姿を見ていると、妙に母性をくすぐられたものだ。

「かわいいなぁ」

そう思いながら隣で眠っていた。

……あの頃は。

現在、深夜一時。

リビングから地鳴りのような音が響いていた。

ゴゴゴゴゴ……。

私は静かに目を閉じる。

来た、騒音妖怪である。

夫はソファーに横たわったまま、口も目も半開きにして眠っていた。

いや、これは本当に眠っているのか…。

もはや工事現場ではないのか。

「グゴォォォォ……ッ!!」

突然イビキが爆発する。

壁が微妙に震えた気がした。

これは人類の呼吸と言って良いのだろうか。

しかも厄介なことに、たまにビクッ!!と身体が跳ねる。

「うわっ!」

毎回びっくりする。

だが本人は起きない。

イビキは継続する。

ゴゴゴ……ッ。

グゴォォォ……。

一定のリズムで住宅街へ騒音を放出していた。

以前、子どもが小学生だった頃、

「お父さん、猛獣みたい」

と真顔で言ったことがある。

私は否定できなかった…。

深夜二時。

さすがに限界を迎えた私は、夫の肩を揺する。

「ちょっと! イビキうるさい!」

すると妖怪は薄目を開け、

「……おう」

それだけ言って再び眠った。

三秒後。

グゴォォォォォッ!!!!

状況悪化…。

結婚三十年。

最近の私は、夫の寝顔に殺意を覚える。

第七話 華麗なるスル~

私がまだ若い頃はポケベル時代があった。

今はスマホで簡単に伝えることが出きるが、限られた数字で相手に伝えていたものだ。

朝も夜も今なら恥ずかしい内容を日本の若者は連発していた。

もちろん我が家の妖怪も。

買い物に行った際、歯みがき粉がまだあるか?とメールする。直ぐに既読。

「…。」

「………。」

きた!えっ…。

ネットニュースの記事が送られてきた。

『巨大マグロ』

誰も聴いていない。

さらに数分しても返信はない。

電話して

「歯みがき粉あった?」

「おうっ」

あるなら返信してよ…。

結婚三十年

昔はポケベルに14106(アイシテル)

今は華麗に既読スル~。

第八話 脂…妖怪

あれは1990年代後半。

七月の海辺。

夫はミントグリーンのシャツに白い短パンを履いていた。

爽やかなシャツからはシャボンの匂い。

日に焼けた首筋には汗が光っていた。

細くて、よく笑って、まるで海辺の王子だった。

……あの頃は。

2025年七月。

仕事から帰宅した夫は、いつものように床へ仕事着を脱ぎ捨てた。

私は無言で拾い上げる。

シャツの首周りには、うっすら黄色い汚れ。

首筋には、じっとり脂汗。

「仕事着は床に置かないでって何回も言ったでしょ。それに時間が経ったら汚れ落ちないのよ」

「……おう」

全く反省した様子はない。

私は夫を見る。

灰色の部屋着。

今日も当然のように着ている。

「部屋着も洗うから脱いでよ」

「おう!」

珍しく返事が良い。

妖怪はそのまま洗濯機へ向かった。

だが数分後。

何事もなかったように、灰色の部屋着姿でソファーへ戻ってくる。

「え!?」

私は夫を見る。

「まさか同じ部屋着を買って着替えたの?」

「おう!!」

妙に誇らしげだった。

結婚三十年。

灰色は脂が目立たない。

奴は意外と気にしてる。

最終話 隣にいる妖怪

子どもたちが家を出てから、家の中は妙に静かになった。

食器は減り、洗濯物も減った。

夫婦二人だけの生活にも、いつの間にか慣れていた。

休日の昼。

妖怪は今日もソファーに転がっている。

灰色の部屋着。

ぼよんとした腹。

テレビを見ながら、ぼりぼり煎餅を食べていた。

「ねえ」

「おう」

返事だけは昔から良い。

私は棚を整理していて、古いアルバムを見つけた。

若い頃の写真。

海辺、ミントグリーンのシャツ、白い短パン。

細くて、よく笑う男がそこにいた。

「あー、若い」

思わず笑う。

夫はソファーからちらりと写真を見る。

「……おう」

少しだけ照れ臭そうだった。

昔の私は、この人と結婚したら毎日キラキラした生活が待っていると思っていた。

現実は違った…。

床へ脱ぎ捨てられる仕事着。

裏返った靴下、イビキ、屁、既読スルー。

気づけば会話は「おう」ばかり…。

完全に妖怪である。

でも…。

雨の日は迎えに来る。

重たい荷物は黙って持つ。

私が風邪を引けば、いつの間にかスポーツドリンクが置かれている。

言葉は減った。

だが、いなくなった訳ではないらしい。

夫が立ち上がる。

「プリンある?」

「日本語喋れたんだ、あるよ。」

「おう!」

私は吹き出した。

結婚三十年。

これはこれで悪くない。

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