この男は背が高くて痩せており、整った顔立ちで、どこか怯えたような眼差しをしている。彼が黒介なのだろう。とわこは黒介の手を引き、奏の前まで歩いて行った。「黒介、お兄ちゃんに挨拶して」とわこがそう促すと、黒介は奏の冷たく陰のある表情におびえながらも、おとなしく口を開いた。「お、兄ちゃん......」「黙れ!俺はお前の兄貴じゃない!二度と兄なんかと呼ぶな!」奏は鋭い口調で言葉をさえぎり、とわこに目を向けた。「とわこ、こっちに来い」彼女は奏が怒ることを分かっていた。黒介をここに連れてきたことを、事前に相談していなかったからだ。いや、相談のしようがなかった。相談したところで、彼は絶対に反対するに決まっている。「黒介、怖がらないで。見た目は怖いけど、ほんとは優しい人なのよ」とわこは黒介をなだめると、階段を上っていった。二人は二階の主寝室へ入った。「奏、怒る前に聞いて。考えてみたの。危険な場所こそ、最も安全な場所だって。あなたの家に彼を住まわせるのが、一番安全なのよ。誰があなたの家から人を奪おうなんて思う?」奏「……」「あなたが彼を嫌ってるのは分かってる。でも彼をここに住ませるなら、あなたが私の家に住めばいいわ。どうせ私たちは結婚するんだから、いずれ一緒に住むことになるし」とわこはすでにすべてを決めていた。奏は、彼女の提案に言葉を失った。正直、全く嬉しくない。自分の家を、なぜ黒介なんかに譲らなきゃならないんだ?「もしあなたが私の家に住みたくないなら、私がこっちに引っ越してもいい。これからずっと、私はあなたのそばにいる。何があっても、私はあなたの味方よ」別荘の外。和夫は怒りで顔を真っ赤にし、心の中で火が燃え上がっていた!彼はとわこの車を追いかけて、ここまで来たのだ。まさかとわこが黒介を奏の別荘に連れてきたなんて!この別荘には、24時間体制で警備員が配置されているうえに、最先端のセキュリティシステムが導入されている。誰かの許可なしに侵入なんて、絶対に不可能だ!車に戻ろうとブツブツ文句を言っていたその時、ドンッ!突然背後から殴られ、彼はその場に崩れ落ちた。和夫は衝撃に耐えきれず、意識を失った。30分後。彼は見知らぬ部屋へと引きずり込まれていた。バシャッ!冷たい水を頭から浴びせられ、和夫はびくっと
病院。黒介はとわこの姿が見えず、どこか沈んだ様子だった。ボディーガードは彼のベッドのそばに座り、スマホゲームに夢中になっている。黒介は天井をぼんやり見つめていた。まもなく、病室のドアが開き、とわこが入ってきた。黒介は呆けたように彼女を見つめた。まるで夢を見ているかのようだった。というのも、朝にボディーガードから「とわこは今日来ない」と言われていたからだ。「黒介、今日は体調どう?」とわこがベッドのそばに来て、やさしく声をかける。ボディーガードはすぐにゲームをやめ、驚いて立ち上がった。「今日、旦那さんの看病するって言ってませんでしたっけ?」彼は気まずそうに咳払いしながら続けた。「どうして突然来たんすか?旦那さん、もう治ったとか?それともケンカでもしました?」「縁起でもないこと言わないで」とわこは少し不機嫌そうに返した。彼女の周りにいる人たち、マイクにしてもこのボディーガードにしても本当に遠慮がない。きっと、自分の性格が穏やかすぎるせいだ。黒介はとわこの手を握り、満面の笑みを浮かべた。「もうすっかり元気!外に連れてって!よ」「退院できるって、本当に確信してるの?」とわこは点滴スタンドに目をやる。もうすぐ投与が終わるところだった。「ここにいたくない」彼は哀しそうな目でとわこを見た。「和夫が来たらどうしよう。また殴られるのが怖いんだ」黒介の不安げな表情を見て、とわこは小さく頷いた。「じゃあ、先生に確認してくるね。今日退院できるなら、すぐに連れて行くから」常盤家。とわこが病院へ向かった後、千代は朝食をお盆にのせて、二階の主寝室へ向かった。「旦那様、少しでも召し上がってくださいませ。お体に障りますよ」千代は心配そうに語りかけた。「さきほど、お二人の会話が聞こえてしまいました。あの黒介という青年、結菜さんの実の兄だと?」奏は千代から粥の碗を受け取り、淡々とうなずいた。「旦那様、僭越ながら申し上げます。もう何も怖がる必要はありません」千代の声は穏やかだった。「今のあなたの立場は誰にも脅かされるものではありません。どんな出自であれ、人々はあなたを嘲笑なんてしません。大旦那様を殺めた件も、事情を知れば、世間はあなたを責めないでしょう」その言葉に、奏はわずかに表情を動かした。「本気でそう思ってるのか?」「はい。
「結菜だって、結局見つかっただろ?」奏は眉をひそめ、別の案を提示した。「黒介を殺さないというなら、和夫一家を始末するしかない」とわこは沈黙した。その提案は、彼女には到底受け入れられない。彼に人を殺してほしくなかった。「奏、まだ風邪が治ってないんだから、まずはゆっくり休んで」彼女は目を伏せ、そっとささやいた。「黒介のことは急がなくていい。病院にはボディーガードをつけてるし、和夫も簡単には近づけないわ。あなたの体調が良くなったら、もっといい方法を一緒に考えよう」「とわこ、逃げても何も解決しない」彼の声は冷たく、刃のようだった。「俺と奴は、共存できない」「どうして?黒介はあなたの何も奪わない。結菜と同じ普通の意味での人じゃない。もし結菜が生きてたら、あなたは結菜まで殺すつもりなの?」彼女は眉をひそめ、問い詰めた。「そんなのは詭弁だ。結菜はもう死んでる。だからその仮定は成り立たない」彼は鋭く言い返す。「詭弁を言ってるのはどっちよ?黒介は一体何をしたっていうの?どうしてあなただけが彼を受け入れられないの?」とわこは、こうなることを予想していた。けれど、彼がここまで強硬だとは思っていなかった。「彼に罪はない。悪いのは俺だ」奏の顔には陰りが差し、低く言い放った。「俺は、奴の人生を奪っておきながら、それを一生返すつもりもないんだ」「奏、私はあなたを責めてなんかない」彼女は苦しげに息を吸った。「あなたの人生は、自分で選んだものじゃない。あなたもまた、被害者なのよ」彼は黙って布団をはねのけ、ベッドを降りた。彼女は、彼が長い足取りで洗面所へ入っていくのを見つめながら、胸が締め付けられる思いだった。彼を説得するのは、無理かもしれない。この問題に、正解なんてないのかもしれない。彼の言う通り、もし黒介を隠したとしても、和夫は命をかけて探すだろう。和夫が生きている限り、それは止まらない。つまり、黒介が死ぬか、和夫が死ぬか。どちらかが消えない限り、この問題は永遠に火種を抱え続ける。朝食の時間。千代は彼ら二人をそっと観察した後、何も言わずに立ち去った。どうやら、二人の間の溝はまだ埋まっていないようだった。千代が出ていった後、とわこは重い沈黙を破った。「奏、私、考えてみたの。仮に黒介の存在が知られて、あなたの出自が公に
ボディーガードはすぐには反応できなかった。彼女が言った「夫」とは、一体誰のことなのか。「誰ですか?夫って?」ボディーガードは声を張り上げて尋ねた。奏は、とわこのスマホから漏れるスピーカーモードの声を聞き取った。とわこの顔は一瞬で真っ赤に染まる。「奏に決まってるでしょ。もうすぐ結婚するんだから」「へえ、まだ結婚してないのに、もう夫呼びですか?」ボディーガードは茶化すように笑った。「まあいいや、じゃあそっちはそっちで看病でもしててください。こっちは黒介の相手でもしときますから」奏が隣にいなければ、とわこはきっとボディーガードに頼んで、電話を黒介に代わってもらっていたはずだ。少しでも黒介の気持ちを落ち着かせたかった。でも、今は奏が目の前にいる。そんなこと、とてもできなかった。電話を切った後、彼女は彼の方を見た。奏はすでに体を背け、背中を向けていた。彼女はスマホを置き、そっと彼に近づいた。「奏、具合どう?」言いながら、そっと彼の額に手を当てる。彼は昨夜のことを思い出し、不機嫌そうにその手を払いのけた。「ごめんなさい、昨日は私が悪かったの」彼の胸に体を預けるようにして、柔らかく言った。「お腹すいてない?朝ごはん持ってこようか?」「なんであのバカの看病に行かない?」低くこもった声で彼が言う。「だって、あなたの方が大事だから」そう言って、彼の体を無理やりこちらに向けさせた。「ねえ、見て。指輪、つけたの。サイズ、ぴったりだったよ」彼は彼女の指に光るダイヤの指輪を見つめる。怒りがこみ上げそうになったが、どこかで抑えられてしまった。昨夜、熱に浮かされながらも、彼女が腕の中で言った言葉を彼は覚えている。彼女がわざと遅れたわけじゃないと信じている。けれど、彼と黒介の関係は、絶対に共存できないものだった。彼女が口では自分を愛してると言いながら、黒介と関わり続けるのは、許せなかった。たとえそれが、同情や哀れみであっても。「黒介のこと、あなたが受け入れられないのは分かってる」彼の表情が冷たく沈んでいるのを見て、彼女は心を開いた。「彼は結菜のお兄さんだから、それも分かってる」その言葉に、彼の目に鋭い光が宿る。「彼は私の患者だから、隠せるわけない」彼女はベッドを降り、水を汲みに行く。「でもね、和夫が彼にほんの少し
彼の身体は寒さに震えていた。さっき、彼女が腕の中から離れた瞬間、凍えるような冷たさが全身を襲いまるで死の淵にいるような感覚だった。だから彼は、彼女を離せなかった。「奏、お願いだから、もう自分を傷つけないで」彼女は必死に訴えた。「私が悪くても、あなたが悪くても、自分をこんなふうに追い込むのはやめて」彼の呼吸は、ますます荒くなった。熱を帯びた身体からは、まるで火が燃えているかのように、熱気が放たれていた。彼女は焦り、不安でたまらなかった。このまま高熱が続けば、命に関わるかもしれない。「奏、お願い、薬を取りに行かせて」彼女は力いっぱい彼の腕を振りほどこうとした。だが彼は、それを許さなかった。「奏!本当に死にたいの?」彼の手があまりに強く、痛みに顔をしかめながら叫んだ。怒鳴りたくなんてなかった。でも、こうでもしなければ、彼は目を覚まさない気がした。その怒鳴り声に、彼の握る力が少しだけ緩んだ。けれど、それでも放そうとはしなかった。彼女は彼の目の前に座り、動けず、戻る気にもなれず暗闇の中、ただじっと向かい合っていた。「本当に、死にたい」低く掠れた声が、静寂を破った。熱に浮かされているのか、それとも正気なのか、判断がつかない。「死なせない」彼女は怒りに震えながら言った。「あなたが死んだら、私と子どもたちはどうなるの」「財産は全部渡す。きっと、問題なく暮らしていける」彼の声には、絶望が滲んでいた。息を呑むほどの深い闇を感じる声音だった。「なんで死にたいの?私が遅れたから?ただ、それだけのことで」彼女の声が詰まり、涙が溢れそうになる。「疲れたんだ」ぽつりと漏らされたその言葉に、すべてが詰まっていた。遅刻はただのきっかけに過ぎなかった。彼は、ずっと疲れていたのだ。生きていることそのものが、間違いだと感じていた。彼女は目に涙をためながら、思いきり彼の腕を振りほどいた。そしてベッドから飛び降りると、照明をパッと点けた。明るい光が部屋に広がる中、彼女はベッドの下に立ち、冷たい眼差しを彼に向けた。「奏、今、あなたは熱でうわ言を言ってるだけだって私は思ってる。誰が死んでもいいけど、あなたはだめ。私一人で、三人の子どもを育てるなんて無理!もし死ぬって言うなら、私も一緒に死ぬわ!子どもたちなんて、放っておくしかない」
彼女には確信があった。彼は眠っていない。あれだけ怒っていたのだから、眠れるはずがない。今、自分がドアを開けて入ってきた音も、きっと聞こえているはず。彼女は一歩一歩、ベッドに近づいていった。彼が何も言わなければ、そのまま隣に横になって眠るつもりだった。一日中あれこれあって、彼女も疲れていた。ベッドの端に腰掛け、布団に入ろうとしたそのとき「出て行け」低く、怒りを押し殺した彼の声が暗闇から響いた。「出て行かない」彼女はあっさりと布団に入ると、彼の隣に身体を滑り込ませた。そして、彼が動き出す前に、その身体をぎゅっと抱きしめた。彼の身体は硬直し、息遣いが荒くなる。まるで、次の瞬間に爆発しそうなほどの緊張感だった。「奏、ごめんなさい。本当に、悪かったと思ってる」彼女は彼の首元に顔をうずめ、小さな声でささやいた。「あなたが私のために用意してくれたライトショー、ちゃんと見たよ、ダイヤの指輪も」その言葉が、ようやく鎮まりかけていた彼の感情に再び火をつけた。彼は彼女を乱暴に突き放し、かすれた怒声を上げた。「触るな!」彼女は一瞬固まったが、すぐにもう一度彼を抱きしめた。「奏、私はあなたの気持ちを疑ったことなんて、一度もない」彼女は心の奥を、そのまま言葉にしてぶつけた。「私の想ってる人は、最初から今までずっとあなただけ。もし今夜あなたがプロポーズするって知ってたら、何があってもすぐに会いに行った」彼の胸が大きく上下している。息は荒くなっているのに、言葉は一つも返ってこなかった。頭がズキズキと痛み、身体が妙に熱い。とわこが彼に絡みついてくることで、息苦しさが増していった。彼はもう、彼女を突き放さなかった。どうせ突き放しても、また戻ってくると分かっていたからだ。「奏、電話に出られなかったのは、スマホの充電が切れてて、しかもバッグに入れっぱなしだったから。電源が落ちてたなんて、気づいてなかったの」彼女は次々と言い訳を重ねる。「あなたとの約束を忘れてたわけじゃないよ。黒介の具合が少しでも良くなったら、すぐにあなたのところへ行くつもりだったの。でも、彼がずっと嘔吐してて、見捨てられなかったの」「黒介」その名前を聞いた瞬間、彼の感情に再び火がついた。「奏、お願いだから怒らないで」彼女は彼の胸の中に身体をすり寄せ、真正面