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3話

Author: Amy
last update publish date: 2026-09-04 20:01:21

2039年6月1日、午前7時40分。

東央大学前交差点の南西角で、僕は旧型カメラを三脚へ固定した。横断歩道のパネル脇には、表示の輝度と保守情報を記録する大学の測定端末を置く。

背後にはシャッターを閉じた文具店、右手には大学の南門、道路の正面にはコンビニがある。朝の光が斜めに差し、横断歩道の半分だけを白く照らしていた。

カメラのふたつのスロットへ同じ映像を記録する設定を確かめ、録画を始めた。

信号待ちの人々は、誰もスマートフォンを持っていない。全員が足元の時刻や広告、青い矢印を見ていた。

スマートフォンをしまっても、視線は上がっていない。手の中の画面が、足元へ移っただけだった。

上空にはAI巡視機が3機いた。

午前7時48分、対岸に翔が現れた。配達バッグを背負い、自転車をラックへ留める。僕を見つけ、左手を上げた。

青信号まで、あと12秒。

翔の足元で白い表示が切り替わった。内容は読めない。

翔は僕を見たあと、ポケットのスマートフォンへ手を伸ばした。

信号が青になり、人波が動く。翔もスマートフォンへ目を落としたまま、横断歩道へ一歩出た。

巡視機の1機が高度を下げた。赤い点が翔の左肩から胸へ滑り、中央で止まる。

警告より先に、照準を合わせている。

「翔、止まれ!」

僕が横断歩道へ踏み出したとき、警告音が鳴った。

【停止してください。スマートフォンをしまってください】

翔が顔を上げた。僕と目が合う。その場で止まり、スマートフォンをポケットへ戻そうとした。

後ろの会社員が配達バッグへぶつかり、翔は横断歩道の端へ半歩よけた。それ以上は動かなかった。

「翔は止まってる!スマホもしまおうとしてる!」

【危険行為を継続。即時制止へ移行します】

1発目で翔の体が横へ揺れた。

2発目で、スマートフォンが白線の上を滑った。

翔は膝をつき、左肩から倒れた。

人波が止まった。救急車を呼ぶためのスマートフォンさえ、誰も出せない。

子どもを連れた女性が口元を押さえ、会社員は鞄を胸へ抱えた。誰も翔へ近づかない。上空の巡視機だけが、同じ高さで回り続けていた。

「救急車を呼んで!」

会社員が立ち止まり、ポケットへ手を入れてスマートフォンを開いた。

通報している彼へも巡視機のカメラが向いた。会社員は白い枠から出ないよう足をそろえ、震える声で場所を伝えていた。

僕は翔の横へ膝をついた。落ちた画面には、昨夜のメッセージが残っている。

【明日、配達のついでに実験室、先に開けておいて】

シャツの胸に暗い染みが広がっていた。

「翔、聞こえる?」

「遼……鍵……」

「いい。もういいから」

「ごめん」

何に謝ったのか、聞き返せなかった。

翔の視線が僕の肩を越え、焦点を失った。僕は名前を呼び続けた。

返事はなかった。胸の染みだけが広がった。

路面が赤い共通表示へ変わる。

【事故処理中 迂回してください】

白い矢印が翔を避けて四方へ伸びた。最初の数人が従うと、残りの人々も背を向けた。

数秒前まで翔を囲んでいた場所が、急速に空いていく。翔の体だけが、横断歩道の中央へ置き去りにされた。

「行かないで。見てたでしょう!」

振り返る人はいなかった。

白い矢印は人々を安全な歩道へ導きながら、翔を見た人を現場から遠ざけていった。

救急隊は7分で着いた。翔を担架へ移すとき、バッグから赤い線の引かれた紙の路線図が落ちた。

隊員は巡視機へ何度も身分証を示し、規制線の内側へ入った。人を助ける側まで、機械に許可を求めていた。

拾おうとした僕を、警察官が止めた。

「巡視機が、あなたも危険行為者と判定しています」

僕は南西角のカメラを指した。

「大学の機材です。まだ録画しています」

許可を得て録画を止めた。路面表示測定端末も電源を切らずにバッグへ戻す。

端末の小さな記録灯は点滅していた。何を受信したのか確認する余裕はなく、衝撃を与えないようタオルで包んだ。

同じ映像を記録したメモリーカードの1枚を予備電池のケースへ移し、もう1枚を入れたカメラは警察へ渡した。

カードを隠したことが正しいかは分からなかった。ただ、両方を渡せば、翔が止まった時間まで消える気がした。

警察官へ戻るまでの数歩で、予備電池のケースが急に重くなった。証拠だけでなく、誰にも渡せない責任まで入ったようだった。

それでも手放す気にはなれなかった。僕が見た4秒を、もう一度失うほうがずっと怖かった。

救急車への同乗を断られ、無人タクシーで病院へ向かった。

後部座席へ座ると、前方座席の背面が発光した。搬送先までの地図より先に、公共安全局の速報が開いた。

【施行初日 AI巡視機が違反歩行者を即時制止 児童の安全を確保】

翔の背中だけが赤い円で囲まれていた。続く事故予測映像では、配達バッグの青年の前へ子どもが飛び出す。

「車内表示を消して」

【公共安全情報は非表示にできません】

僕は上着を脱ぎ、前方座席の画面へかぶせた。映像は隠れたが、左右のスピーカーから首相の声明が流れ続けた。

「違う。子どもは翔の前にはいなかった」

車載AIは答えなかった。

メッセージ画面には【既読 午前7時48分】と残っていた。

翔が撃たれる直前の時刻だった。既読の文字を消せば、自分が送ったことまで消せるような気がした。それでも指は動かなかった。

……

救命救急センターの待合室で10分ほど待つと、翔の母、佐伯美紀(さえき みき)が駆け込んできた。「区立図書館・指定避難所 防災表示確認担当」とある名札をつけたままだった。後ろには高校生の妹、佐伯莉子(さえき りこ)がいる。

「遼くん、翔は?」

「まだ何も。翔が見てたの、僕のメッセージなんです」

美紀が僕を見上げた。

「実験室を開けておいてって。通知を見るためにスマホを出して……」

莉子が立ち上がった。頬を打たれても避けるつもりはなかった。

けれど、莉子は僕の横を通り、給水機から紙コップを取った。

「お兄ちゃん、頼まれると断れないから。遼さんだけのせいじゃない」

水を注ぐ手が震え、半分が受け皿へ落ちた。許されたとは思わなかった。

その言葉は、僕より莉子自身へ言い聞かせているように聞こえた。

午前8時37分、医師が処置室から出てきた。

「懸命に処置を続けましたが、午前8時31分、死亡を確認しました」

美紀は泣かなかった。

「息子に、会えますか」

医師は一度目を伏せ、「はい」と答えた。

莉子の紙コップが潰れ、水が指の間から落ちた。

ふたりが処置室へ入ったあと、壁の案内画面が暗転した。

死亡を告げられてから数分もたっていなかった。病院の画面は、家族が戻るより先に翔を危険人物へ変えた。

【死亡した危険行為者 停止命令を3回無視】

翔が歩く同じ1秒が3回つながれ、警告音が重ねられていた。翔が顔を上げ、止まり、スマートフォンを胸へ引いた場面だけがない。

僕は予備電池のケースからカードを出し、手元の映像と比べた。

公式映像にはない4秒がある。

翔は僕を見て、スマートフォンを戻そうとし、足を止めていた。

警告音と発射音を基準に重ねると、公式映像はその4秒だけを抜き、前後をつないでいた。3回の警告も、同じ1秒を繰り返したものだった。

背後を通る会社員の足も、警告のたびに同じ位置へ戻っている。見比べるほど、編集の跡ははっきりした。

発砲直前で再生を止めた。美紀と莉子へ、ここでもう一度、翔を撃たせることはできなかった。

午前9時20分、ふたりが戻った。

壁には新しい見出しが出ていた。

【危険歩行者の即時制止により、児童の命を救う】

翔を殺したことが、子どもを救ったことになっていた。

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