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2話

Author: Amy
last update publish date: 2026-09-04 14:09:05

翌朝、情報環境学部棟3階の実験室には、昨日と同じ黒いパネルが6枚並んでいた。

「神崎、踏んでいいぞ」

教卓の前から片桐誠(かたぎり まこと)教授が声をかけた。

僕が片足を乗せると、靴を囲む青い輪が誘導線になって窓側へ伸びた。

「光都ディスプレイの都市表示システム、シティレイヤーだ。本学も歩行者誘導の実証実験に加わる」

片桐教授は眼鏡を拭き、学生たちを見渡した。

「登録情報と現在地を読み取り、その人にだけ見える映像を返す。歩きスマホを禁じるなら、代わりの情報経路が必要になる」

僕の足元に名前と予定が浮かんだ。

【神崎遼 次の講義まで42分】

「名前や時間割は、実験用に登録したんですか」

「スマートフォンの公開IDと歩容で識別し、大学の連携システムから呼び出している」

テスト用ではない。大学が持つ僕の情報が、そのまま使われていた。

僕がパネルを降りると、入れ替わるように翔が乗った。

「学食の空席まで出る。A定食、残り18食」

僕の位置から見えるのは白い線の断片だけだった。翔の隣へ回り込むと、線は虹色に割れて別の形へ崩れた。

「目の位置に合わせて光を振り分ける。同じパネルを見ても、表示は別々だ」

片桐教授の説明を聞きながら、僕は翔に見えている文字を最後まで読めなかった。

「本人の同意は取っていますか?」

振り返ると、学生記者証を下げた高瀬凪(たかせ なぎ)がいた。長い髪を後ろでまとめ、紙のメモを胸に当てている。

「公共の安全に必要な範囲は、区の条例と特別法の運用規則に従う。詳細は光都へ」

片桐教授が答えると、凪はメモの角をそろえ、僕の足元を見て出ていった。

……

法案は未明までの審議で衆参両院を通過し、4月28日に公布された。

【本日公布 6月1日施行】

翌日から区内の舗装が剥がされ、朝には黒いパネルがはめ込まれていた。

区の工事記録を調べると、前年から【老朽設備更新】の名目で電源線と固定枠が埋められていた。目の前で街が作り替えられたように見えても、準備は法案前に終わっていた。

駅の壁、バス停、病院の廊下、大学の階段まで画面になった。歩く人の足元には、その人だけの矢印や予定が現れる。

駅前には、スマートフォンを使うための白い区画もできた。導入直後は人が列を作ったが、2週目には短くなった。路面が遅延を教え、壁が家族からの連絡を読み上げ、店頭画面が本人だけの値引きを出したからだ。

教室の入口を通るだけで出席が登録され、遅刻した日には赤い文字が僕の靴先へついてきた。

【神崎遼 9時04分】

踏んでも文字は逃げた。周囲の学生には見えていないらしく、誰も振り向かない。

僕に見えるのは、僕のために選ばれた情報だけだった。同じ道を歩きながら、ひとりずつ別の床を見ている。

前を歩く女性が足元を見て微笑んだ。僕には虹色の線しか見えない。隣の男性も何かを追うように視線を動かしていたが、その内容を確かめる方法はなかった。

母は便利だと言った。

「買い物の途中で、安い店を道が教えてくれるの。前より安全じゃない?」

テーブルの端には、東央区から届いた紙の案内があった。

【あなたに必要な情報だけを、安全な場所へ】

「必要かどうかを決めるのは誰?」

「嫌なら見なければいいでしょ」

見なければいい。その言葉が残った。

……

5月9日、光都の技術者が実験室へ来た。

僕は実験用アカウントで保守画面を開き、【第1期配備計画】を選んだ。

【初回製造 2038年10月】

【第1期配備地域 全国12地域】

法案の根拠となった対策会議の初会合より3か月早い。

保存しようとした瞬間、画面が暗転した。

【管理者により閲覧権限が変更されました】

背後に片桐教授が立っていた。

「神崎。研究の範囲を越えないように」

「全国分を、法案より先に作っています」

「企業が将来需要を見込むのは普通だ。今は測定結果をまとめなさい」

教授は眼鏡を拭き、隣の班へ移った。

布でレンズを拭く間だけ、返事を考えていたように見えた。僕がもう一度保守画面を開こうとすると、項目そのものが一覧から消えていた。

閉じた保守画面には戻れなかった。僕は製造年月と配備地域を測定表の余白へ書き、帰宅してから紙のノートにも写した。

……

5月18日、駅前で一般向けの誘導試験が始まった。

僕が旧型カメラで撮る前を、配達バッグを背負った翔が歩いてきた。

「信号に間に合う速度まで出る」

「急がせるのが安全なのか?」

「遅れないのも安全」

翔は急に歩調を速め、青信号が点滅する前に渡り切った。

「矢印が黄色になったから。急げってことだろ」

僕の矢印は青いままだった。同じ横断歩道で、別々の指示を受けていた。

翔と別れたあと、高齢の男性が立ち止まりポケットでスマートフォンを開いた。

白い枠の中央に両足を入れ、周囲を確かめてから操作している。掲示された規則どおりの使い方だった。

【立ち止まって操作してください】

巡視機が降り、黒い筒を男性へ向ける。

【スマートフォンをしまってください】

「ここは使っていい場所だろう」

男性が足元を指すと、白い枠が広告に変わった。

一歩も動いていない。巡視機が来る前まで確かにあった枠だけが、靴の下から消えた。

【この場所は端末利用区画ではありません】

男性がスマートフォンをしまうと、足元へ【要注意歩行者】と出た。変わったのは男性ではなく、表示だった。

その夜、固定位置の映像を確認した。文字の全文は崩れていたが、翔を追った黄色い矢印と、僕の足元に残った青い矢印が同じ時刻に映っていた。男性の立ち位置は変わらないのに、白い枠だけが消えていた。

翔の矢印が黄色になった瞬間、右端の広告も切り替わっていた。高齢男性の映像では、白い枠が消える前後で靴の位置は1センチも変わっていない。

表示は人によって変わり、同じ場所の白い枠まで後から消えた。

僕は撮影データを外付けメモリーへ複製した。

ファイル名には日付、時刻、場所を入れた。翌日同じ表示を探しても、もう出ないかもしれないと思ったからだ。

外付けメモリーを机の引き出しへしまい、静かに鍵をかけた。

……

施行前日の5月31日、商店街で翔と会った。

翔は配達バッグから卵を出し、僕へ渡した。

「明日から配達増やすんだ。莉子、来年受験だから、塾代くらい出してやりたい」

靴のかかとで縁石を2度叩く。

配達アプリは、安全対応加算として1件につき200円を上乗せするという。経路を確かめるたびに止まる時間を、配達員へ払う仕組みだった。

アーケードの画面に首相が現れた。

【明日から、見上げる国へ】

「明日、本当に配達するのか」

「止まって見ればいいんだろ」

「ルートを見るなら、必ず止まれよ」

「わかってるって」

翔は笑い、自転車で去った。

夕日の中へ消える直前、翔は一度振り返り、卵を落とすなと手で示した。僕はパックを持ち上げて答えた。

夜10時過ぎ、僕は翌朝の課題撮影を準備していた。基準光を測る校正器を実験室へ置いたままだと気づく。開室当番の翔は、朝の配達を終えると僕より先に大学前を通る。

三脚、路面表示測定端末、予備電池をバッグへ入れ、カメラの時刻を合わせた。翔へ頼まなくても、撮影後に自分で実験室へ戻れば間に合う時間だった。

僕は連絡先の先頭に出た翔の名前を押した。

短いメッセージを送った。

送信後も未読の印が残った。翔ならもう寝ている。僕は画面を閉じた。

【明日、配達のついでに実験室、先に開けておいて】

午前0時、街中の画面が切り替わった。

【歩行中のスマートフォン操作規制 本日施行】

【AI巡視機による検知を開始します】

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