バアルの聖地カナン襲撃と時を同じくして、涙の王国に隣接する諸国家からなる連合軍は、帝国第三軍の所属と思われる一千余騎の騎兵と会敵。
彼らは連合軍の大軍勢を見るや否やパニックとなり、武器や手持ちの食糧などをその場に投棄して逃げ出した。 投棄された武器を見聞すると、その殆どがハルモニアの標準装備である筈の、連射が可能な新式の小銃でも銃身にライフリングの施されたライフル・マスケットでもなく、銃身にライフリングが施されていない旧式の滑腔マスケット銃であり、それも所々が傷んでいる粗悪品だった。その様は、とても軍事大国ハルモニアとは思えぬものであった。 三十万を優に超す大軍勢からなる連合軍。数の上では圧倒的優位にあったが、国家毎に指揮系統が異なるためか、その足並みは全くと言っても良いほど揃っていなかった。 ──"無敗の貴公子とやらも、名ばかりか"。 ──"帝国第三軍、恐るるに足らず"。 連合軍を形成する一部の国軍は後方に控える聖教騎士団への報告を怠り、そればかりか前線へと突出。逃げるハルモニア騎兵の追撃を開始した。 ハルモニア騎兵は阿鼻叫喚と言った様子で、ひたすら北へ北へと逃げ続けた。逃げる度、その場に打ち捨てられる武器や食糧、そして空馬。気を良くした連合軍の一部はそのまま、逃げる騎兵の追撃を続行した。 追撃を開始してから、凡そ一週間後── ハルモニア騎兵は"死の谷"と呼ばれる、周囲が険しい斜面となっている峡谷地帯へと逃げ込み、その後を追って数万もの大軍勢が"死の谷"へとなだれ込んだ。 だが……全ては、彼の者が──"軍神"と謳われる端麗なる貴公子が仕組んだ罠であった。 「──ふふっ……愚かだね、連合軍の諸君。戦の鍵を握る生命線たる後方連絡線が、すっかり伸びきってしまっているじゃないか。兵站の重要性を、君たちは分かってい同時刻、某所── 雷鳴轟く、暗雲の中──雨粒に全身を打たれながら、その両者は対峙していた。 ヴェールの如き薄衣を纏い、虹色に輝く二対の翼を生やした中性的な見た目の黒髪の天使。 華奢な体躯に見合わぬ、身の丈以上もある巨大な三日月鎌を手にし、固く両目を閉じている少女のような見た目の淡い金髪の天使。 前者は天空の神ソルに背き、"獣の王"の傘下に加わった元・死の天使アズラエル。後者はアズラエルが三日月の魔女アスタロトに敗れた後、彼の持っていた死の天使としての権能と役割を代わりとしてソルより与えられた、元・大天使サリエルである。 「──会いたかった。大天使サリエル。否……元・大天使サリエルと呼ぶべきかな? 今や君は、私と同じくソルに背いた叛逆者だからね」 変声期前の少年を思わせる声でアズラエルが声を掛けると、サリエルは彼を警戒しているのか無言のままわずかに身を強ばらせる。 ソルの差し向けた追っ手たちと何度も干戈を交え、そしてその度に退けてきたのだろう。サリエルの小さく華奢な身体の至るところに、まだ真新しく痛々しい傷が刻まれ、今も尚じわじわと血が滲み出している。 「……私に一体、何の用があるのです? 貴方の言う通り私は、主に背いた叛逆者。大天使でも何でもない、ただの煙なき炎の子」 やや舌足らずな幼さの残る声で、サリエルはアズラエルに問う。両目は固く閉じられていたが、顔はしっかりとアズラエルの方を向いていた。 「──単刀直入に言おう、サリエル。"獣の王"の傘下に加われ。君ほどの存在が、このまま消えてゆくのは実に勿体ない」 「…………」 「君も、私と同じなんだろう? ソルに忠節を尽くすのが馬鹿馬鹿しくなった。あんな暗愚な主君の下で、破滅へと通ずる道をただ只管に突き進むだなんて考えると、とて
"黒鉄の幽鬼"ラルヴァと会敵した翌日── "鳥の王"と謳われる霊鳥シームルグの坐す南方を目指し、セラフィナたちは馬を進めていた。 だが、ラルヴァとの激闘で深手を負ったセラフィナの傷の状態が予想以上に芳しくなく、この日はそれ以上の南下を止め、最寄りの街で宿を取り、暫し身体を休めることとなった。 「…………」 寝間着であるシルク製の白いワンピースに着替えたセラフィナはベッド上で仰向けになると、無表情のままじっと天井を見つめていた。 横になりながら考え事をしている時の癖なのか、ワンピースの裾からスラリと伸びた、フリルの付いたくるぶし丈の白い靴下を履いた細い両足をブラブラと所在なげに揺らしている。 「──セラフィナ様」 宿の関係者から借りてきたと思われるワゴンを押しながら、傍らにマルコシアスを、肩にカイムを侍らせたキリエが室内へと入ってくる。 「──うん? キリエ、どうかしたの?」 そう言ってベッドから身を起こすと、セラフィナは部屋に常備されているスリッパを履きながら優雅に立ち上がる。 「もう……駄目ですよ、ちゃんと横になっていないと。貴方様は今、圧倒的に血が足りていないんですから」 倒れても知りませんから──口ではそう言いつつも彼女は慣れた手付きでテキパキと、部屋の中央に設置されたテーブルの上にワゴンで運んできたものを配膳してゆく。 幾つかのチョコレートや茶菓子に、大きなカップに並々と注がれたほかほかのココア。そしてハルモニア国内で最大手の新聞が一部。 「ほら──頼まれたもの、貰ってきましたよ」
遥かなる天空──太陽を象った巨大な玉座に、人型の輪郭を有するその怪物は威風堂々たる威容を誇りつつ、どっかりと腰を下ろしていた。 玉座の左側に大天使ガブリエルを侍らせ、何処か気怠そうに頬杖を付きながら、眼前にて恭しく敬礼する天使長ミカエルを見下ろしている。 全身を光で覆い隠しているため、その者の姿を目視で確認することは叶わない。けれども、その者の本来の姿が途轍もなく醜悪で悍ましいであろうことは、玉座の傍らにて小さく震えているガブリエルの様子からも明らかであった。 「……面を上げよ、天使長ミカエル」 「御意──我が主よ、全知全能なる創造主よ」 ミカエルが顔を上げると、その者は嗄れた声で含み笑う。その様子はまるで、自分の創った
ハルモニアや聖教会勢力に限らず、歴史や伝統ある都市には必ずと言っても良いほど、"カタコンベ(地下墳墓)"と呼ばれる場所が存在する。 その多くは、聖教会の迫害から逃れた異端者などが、殉教者を弔いつつ自らの信仰を守った場所。大規模なものになると祭壇、礼拝堂、洗礼場などを備えた集会場としての機能を持つものもある。 異端者にとって、貴重な活動拠点となるカタコンベであるが、裏を返せば異端審問会にとっては絶好の狩場ともなり得る、正に諸刃の剣という言葉が適する場所であった。 そして、奇しくもセラフィナたちが"黒鉄の幽鬼"ラルヴァと会敵した日の夜、枢機卿クロウリー率いる異端審問官部隊による誅罰が、聖地カナンの地下に広がるカタコンベにて行われようとしていた。 煌々と燃え盛る松明の明かりが、整然と列を成している。列成す者たちは皆、黒の装束を身に纏い、黒い目出し帽と三角頭巾でその素顔を覆い隠していた。 手には聖典を携え、腰には十字架を模した長剣を帯び、呪詛の如くボソボソと、聖典の一節を口ずさんでいる。 彼らは"不死隊"──ただの異端審問官ではなく、枢機卿クロウリー直属の精鋭部隊である。普段は神父や修道女として日常生活の中に溶け込んでいるが、主たるクロウリーの召集が掛かると即座に専用の装束を身に纏い、彼の元へと馳せ参じる。 総指揮官は枢機卿クロウリー、副官は彼の右腕たる異端審問官メイザース。その強さは、聖教騎士団の最精鋭"カルディナル親衛隊"にも引けを取らぬと言う。 影の中より一頭の黒い大型犬を伴い、青鹿毛の軍馬に跨った初老の男が現れると、不死隊の面々は無言のまま一斉に敬礼する。 枢機卿クロウリー……往時の勢いを失った聖教会を牛耳る稀代の怪物。"最後の魔術師"の異名を欲しいままにする、シェイドの仇敵。
夕刻── 近隣の街や村から応援としてやって来た何名かのドワーフやゴブリン、コボルトの男たちが、ラルヴァの犠牲となった自警団員や商人たちを次々と死体袋に入れ、荷馬車へと無造作に積み込んでゆく中、セラフィナは路傍に腰掛け、ぼんやりと空を眺めていた。 ラルヴァとの死闘で深手を負った右腕は、キリエの手によって治癒魔法が入念に施され、シェイドの素早い応急処置により三角巾でしっかりと固定されていた。 刃が骨に当たって止まったのが、不幸中の幸いだったろうか。何とか、右腕を喪失する事態だけは避けられたのである。 「…………」 彼女の視線の先では、不規則に輪郭を変える"崩壊の砂時計"が、黙々と時を刻み続けている。 その様子はまるで、今を精一杯生きている全ての生ある者たちを憐れみ、そして嘲笑っているかのようだった。 けれども、セラフィナの脳内の大半を占めていたのは砂時計のことなどではなく、全く別のことであった。 「……ラルヴァ」 "黒鉄の幽鬼"ラルヴァ。数刻前、刃を交えた黒き騎士の姿をした強大なる怪物。剣技と卓越した身体能力のみで、彼は正しく古今無双とも言える強さを見せつけた。 そんな彼と死闘を演じる中で、セラフィナは確かな手応えを感じていた。 ──ラルヴァの正体は恐らく、剣聖アレスその人。自分が行方を捜し続けていた、最愛の養父。認めたくないと言う思いもあったが、その身で感じた剣圧、そして目の当たりにした戦い方は間違いなく彼のものだ。 "獣の王"を称
セラフィナとラルヴァ──両者はゆっくりと間合いを微調整し、何時でも剣を振るうことの出来る体勢を維持しながら、互いに睨み合いを続けていた。 その長さ──時間にして、凡そ二時間。 互いに剣の道に通じたる者……初太刀を外した際のリスクを考えれば、妥当な判断と言えよう。その道を極めた者ならば尚更。手数ではなく、一撃が勝敗を分けるのが剣の世界だからだ。 「…………」 セラフィナの背筋を、冷や汗が伝う。ラルヴァの佇まいは異様だった。怒りや憎しみといった負の感情が、微塵も感じられない。ただ氷を思わせる冷たい敵意と害意のみが覗き穴越しに、セラフィナへと向けられている。それが、兎に角恐ろしかった。 「────」 ラルヴァの注意はただ、セラフィナのみに向けられている。或いは、セラフィナ意外は眼中にないのかもしれない。 ──"ラルヴァは、丸腰の者は襲わない"。 シェイドも、そしてキリエも、セラフィナとラルヴァが対峙している間に、カイムの指示で密かに武器を外し丸腰になっていたのだから。 これで、二人が幽鬼に襲われる心配はない。裏を返せば二人の助力は期待薄。燃え盛る荷馬車を遮蔽物にして、マルコシアスが辛うじて助力出来るか出来ないか、といった状態だろうか。 身体は未だ本調子ではないが、やれるところまでやってみるしかない。セラフィナは心の中で覚悟を決める。 「────」 先に動いたのは、ラルヴァだった。