シェイドが目を覚ますと、ちょうど夜明けを迎えるところだった。 シェイドが起きたことに気付いたのだろう。夜通しドラゴンを駆り続けて少し疲れた様子のセラフィナが、身を軽く捩ってシェイドの顔をちらりと見やる。「おはよう──よく眠れた?」 風に吹かれて大きく靡く長い銀髪を片手で押さえながら、セラフィナは少しだけ顔を綻ばせる。「おかげさまで──あと、どれくらいだ?」 シェイドが尋ねると、セラフィナは前方を指差しながら、「見えてきたよ──ほら」 セラフィナの指す方へと視線を向けると、遙か彼方──巨大な城塞都市が、暁光に照らし出されるのが見えた。「あれが……」「そう。あれが、帝都アルカディア」 帝都アルカディア──元々アルカディアは、都の中心部にある小高い丘の名称に過ぎなかった。聖教会の迫害を受けた者たちが寄り合い、日々を生きるための共同体をアルカディアの丘の上に築いたのが、帝国ハルモニアの始まりとされている。 やがて、アルカディアの丘の頂上に大地の女神シェオルを祀る大神殿が建てられ、その周囲を取り囲むような形で都市が形成され、今の帝都アルカディアとなった。 ハルモニア帝国内には幾つか大都市が存在するが、帝都アルカディアは中でも最も人口が多く、少なく見積っても百万を優に超す人や異人族が暮らしているという。「……迫害から逃れるためのちっぽけな共同体から始まって、今では世界有数の大都市になった、というわけか」 セラフィナの説明を聞いたシェイドは、何処か感慨深そうに眼前に迫ってくる帝都を見つめる。「そうだね。因みに、アルカディアは"理想郷"を意味する言葉になっている。それはそのまま、ハルモニアという国家の掲げるスローガンにもなっていてね。民衆の叛乱とかは、建国から一度も起こっていないらしいよ」 理想郷──その言葉を聞き、シェイドはふと疑問を抱いた。 セラフィナの話を聞く限り、ハルモニアは地上に存在する最後の楽園と言っても差し支えない国である。 アルカディアのような理想郷を創るというスローガンを掲げている点や、建国から一度も叛乱が起きていないという点などから、国民に寄り添う政治が行われており、国民もまたそれに不満を抱いていないことが伺える。 何故、セラフィナはグノーシス辺境伯領のみならず、ハルモニアという国そのものから出奔し、旅人として各地を放浪
大神殿内にある食堂で少し早めの朝食を摂った後、アモンの案内でシェイドが訪れたのは、行政区画にある自警団|組合《ギルド》の本部だった。 「──本当に、良いのだな?」 アモンが問うと、シェイドは小さく頷いた。 「……俺には学者のような知識もなければ、軍人のように人を殺す覚悟もない。剣を振るうしか取り柄のない俺には、自警団の仕事が性に合ってる」 「しかしなぁ……シェイドよ、君はまだ若い。そう一つの考えに、固執する必要もなかろう? それに自警団は、常に死と隣り合わせ。何時死んでも、可笑しくない危険な仕事だ。悪いことは言わぬ、考え直さないか」 「確かにそうかもしれないが、生憎これ以外の生き方を知らないものでね」 「……そうか。そこまで言うなら、止めはすまい」 ここに来るまでの道中で、何度もアモンと話し合って決めたことだ。今更、考えを改めるつもりはなかった。 「──失礼するぞ」 「はい──」 書類の整理をしていた、二十代そこそこと思われる若い受付嬢が、アモンの声に顔を上げる。黒い髪に黒い瞳。ハルモニア人と比較すると、少し濃い肌色。聖教徒によく見られる身体的特徴を、眼前の可愛らしい受付嬢は余すことなく備えていた。黒のロングワンピースの上から白いエプロンを身に付けたエプロンドレス姿が、とても良く似合っている。 「あら、アモン様。その節はどうも、お世話になりました」 「元気そうで何よりだよ、ルビィ。ここでの仕事には慣れたかね?」 「ええ、アモン様のお陰で。それで、本日はどのようなご要件でしょう?」 ルビィと呼ばれた受付嬢が首を傾げながら尋ねると、アモンはシェイドの肩に手を置きながら、 「──この青年を、自警団組合に所属させたい。君と同じく聖教会からの迫害を受けたようでな、この度ハルモニアが受け入れることになった」 「成程。確かに、自警団は慢性的な人手不足ではありますが……宜しいのですか?」 「剣の腕前は申し分ない。《《あの》》ベリアルのお墨付きだ。それに私が強要したわけではなく、彼自身の強い希望だ」 「そうですか。畏まりました」 一旦奥へと引っ込んだかと思うと、ルビィは何枚かの書類を携えて姿を現し、カウンター席に座るようシェイドたちを促した。 「何か、飲み物はお召し上がりに?」 シェイドが腰を下ろすと、ルビィは愛想よく笑いなが
夕刻── シェイドが大神殿へと戻ってくると、ドレスに着替えたセラフィナが、ちょうど客室から出てくるところだった。「…………!」「ほぅ……これは、これは。何と耽美な……」 セラフィナは端正な顔に薄化粧をし、シンプルなデザインの黒いドレスを優雅に着こなしていた。髪型も普段とは異なりハーフアップにしており、華奢な体躯も相まって、深窓の令嬢という言葉が良く似合う、蝶のように何処か儚げな姿へと大変身を遂げていた。「──おかえり、シェイド。マルコシアスは、ちゃんと良い子にしていた?」「あぁ……まるで、借りてきた猫のようだった」 普段のあどけなさが鳴りを潜め、そればかりか艶やかな雰囲気を醸し出す彼女の顔から目を逸らしつつ、シェイドは何度か首肯した。 マルコシアスは尻尾を振りながらセラフィナの元へと駆け寄ると、彼女の脚に何度も身体を擦り付ける。「もう……駄目だよ、マルコシアス。ストッキングが毛だらけになっちゃうし、このドレスも借り物なんだから」 くすっと笑いながら、セラフィナはマルコシアスの頭を愛おしそうに撫でた。「セラフィナよ──これから、皇帝陛下との謁見か?」 マルコシアスと戯れるセラフィナを微笑ましそうに見つめながらアモンが尋ねると、セラフィナはこくりと頷く。「そうだね……予定より、ちょっと早めてもらったけど」「左様か。まぁ、気持ちは分からんでもないが」 皇帝──ゼノンの傍には大抵の場合、死天衆のリーダー格である堕天使ベリアルが控えている。彼を蛇蝎の如く毛嫌いしているセラフィナとしては、なるべく顔を合わせたくはないのだろう。「それじゃ、行ってくるよ。用事が済むまで、マルコシアスの相手をお願い出来る? 後で部屋に寄るから」「それくらいなら、お安い御用だが……」「ありがと。君は何時も、私に親切にしてくれるね」 口元を片手で軽く押さえると、セラフィナはころころと可愛らしい声で笑った。これまで静かに微笑むことは何度かあったが、彼女が声を出して笑ったのを見たのはこれが初めてであり、シェイドは何故だか、少しずつ自分の顔が火照ってゆくのを感じていた。 何名かの巫女たちを伴って、セラフィナがその場から立ち去ると、シェイドはぼうっと、半ば夢見心地な状態でアモンに客室へと案内された。「──ここが、君に宛てがわれた客室だ。若し何か用があれば、部屋の外に
刹那──客室の扉が勢い良く開かれたかと思うと、端正な顔を歪め、険しい表情を浮かべたセラフィナが、ドレスの裾をわずかにたくし上げながら、室内へと足を踏み入れる。「……皇帝陛下との謁見の際に、貴方の姿が見当たらなかったから、何かが妙だと思ったら……やっぱりここに居たんだね、ベリアル」 わなわなと身を震わせるセラフィナを見つめると、ベリアルは目をすっと細めながら、「おや──思ったよりも、早いご帰還ですね」 床に伏せて震えているマルコシアスと、茫然自失としているシェイドとを交互に見やり、何が起こったのか大体察したのだろう。セラフィナの表情が、更に険しくなる。「答えなさい……シェイドたちに一体、何をしたの?」「何もしておりませんよ、セラフィナ。ちょっと、彼らの暇潰しに付き合ってあげただけです」 小馬鹿にした調子で、ベリアルは嗤う。「それより、も──皇帝陛下との謁見は、如何でしたか?」「何もかも、貴方の目論見通りの癖に……!」 誰が答えるものか。セラフィナが、ベリアルに向かってそう言おうとした瞬間──「──質問に答えよ。セラフィナ・フォン・グノーシス」 笑顔を崩さぬまま、ベリアルはその身から不気味なオーラを発し、わずかに語気を強めた。 直後、喉元に音もなく鋭利な刃を突き付けられたかのような悪寒が全身を駆け巡るのを感じ、セラフィナはその場から一歩も動けなくなった。 その場に磔にでもされたかの如く、身動きが取れなくなったセラフィナをギロリと睨み付けると、ベリアルはテーブルに置いてあったデスマスクを手にし、セラフィナの元へと歩み寄る。「口に気を付けることだ、セラフィナ。お前の命など、吹けば飛ぶような軽く脆いものであろう? 育ての父との……アレスとの再会を果たさずに、ここで死んでも良いというのだな?」「…………!」「良い表情を魅せるじゃありませんか? そうですセラフィナ、私は君のその可愛らしい顔が、恐怖と絶望に彩られるのを見るのが堪らなく好きな
四日後、出立の前夜── 扉をノックする音が耳に届き、書類に目を通していたシェイドは顔を上げた。 こんな時間に誰だろう、と怪訝に思いつつ返事をすると、 「──シェイド、起きてる?」 寝間着姿のセラフィナが、手燭──手に持って用いる燭台を片手に部屋へと入ってくる。マルコシアスも一緒で、セラフィナの直ぐ傍で彼女はパタパタと尻尾を振っていた。 ぴったりとした白いロングワンピースは、シンプルなデザインながらも清楚な印象を見る者に与える。すらりと伸びた細い足にはくるぶし丈の白い靴下と、室内用のスリッパを履いていた。 「起きてるよ、セラフィナ──どうかしたのか?」 「ううん。君が心配だったから、見に来ただけ」 セラフィナは対面のソファに腰を下ろすと、テーブルの上に置かれていた書類の一部を手に取る。 それは、涙の王国周辺で目撃情報が多い魔族に関する調査報告書だった。姿形、生態、急所……それらが簡潔かつ丁寧に纏められている。 知性が高く、人間と同様に理性を有する上位魔族は皆、死天衆の支配下にある。つまり調査報告書に記載があるのは全て、知性が低く本能のままに生きる下級魔族……死天衆も匙を投げたレベルの畜生たちだ。 巨大な蛆虫の姿をしており、圧倒的な物量で襲い掛かってくるマゴット、血塗られた|襤褸《ぼろ》きれを身に纏い、不気味な歌声を発しながら現れる精霊アルコーン……中でも危険なのは、人の顔を持つ巨大な|蝗《イナゴ》"アバドン"だろうか。 マゴットと同様に、大群で襲い掛かってくるアバドン。だがマゴットよりも遥かに素早い上に顎の力も強く、そればかりか相手を長時間苦しめる猛毒まで持っている。どうやらアバドンの群れが近くにいるとラッパのような音が聞こえるらしいので、音を頼りに距離を取って、可能な限り交戦を避けた方が良いかもしれない。 それらの脅威に加えて、堕罪者まで徘徊している。セラ
同時刻── 涙の王国──王の居城。 玉座の間は血の海と化し、マゴットやアバドンといった下級魔族や、刺客として送り込まれた天使たちの死体が足の踏み場もないほどに転がっている。「…………」 積み重なった死体の山……その頂に、襤褸きれの如き黒いローブを纏ったその男は立っていた。骨と皮しかないような痩せ細った体躯で、背には大きな黒い翼を生やしており、頭上には光輪を戴いていることから、男が嘗て天使だったことは一目瞭然だった。 男の視線は大きく開かれた扉へと向けられており──その視線の遙か先には、蜃気楼の如く不規則に輪郭を変化させる巨大かつ不気味な砂時計が聳え立っていた。 ──"崩壊の砂時計"。 男は暫しの間、感情の凪いだような目で砂時計をじっと見つめていたが、直ぐに無意味と思い直したのか、天使や魔族の亡骸を踏み躙りながら、玉座の間の外へ出た。 氷漬けとなった回廊に、男の足音だけが虚しく響く。国王夫妻も宰相も、文官も武官も侍女たちも皆、氷の中で永遠の眠りに就いていた。 恐怖に顔を引き攣らせ、力なく座り込んでいる者。その場から逃げようとしている者。ただ呆然と、立ち尽くしている者。泣き叫んでいる者。その死に様は、実に様々だ。「…………」 回廊を抜け、王女の居室へと辿り着く。扉を開けると、男はそのまま真っ直ぐ、ベッドへと歩を進めた。 ベッドの上には白い棺が置かれており、その中には一人の美しい少女が横たわっていた。黒い長髪と白い肌とのコントラストが、何とも言えぬ儚さを醸し出している。「……キリエ」 棺の中で眠る少女を見下ろし、何処か憐れむような調子で男は彼女の名をポツリと呟く。少女は男の呼び掛けに答えることはなく、ただ静かな寝息を立てるのみであった。 第一王女キリエ。"|最終戦争《ハルマゲドン》"の後、キリエは敬虔な聖教徒でありながら、傷付いた堕天使を保護したことで罪に問われ、父である国王から斬首刑を言い渡されていた。 刑執行の前夜、彼女は自室で服毒自殺を図り──
──世界は、歪んでいた。 生命は皆、生まれながらにして罪をその身に宿していた。 他の生命を奪わねば、生きてゆくことが出来ぬ……"生きる"とは即ち罪を重ねてゆく行為に他ならない。日々、生命のやり取りが世界中の至る所で繰り広げられていた。 中でも特に罪深い存在とされたのが、人間であった。彼らは、自分たちこそが生命の頂点であると驕り高ぶり、不必要な殺戮を楽しんだ。自分勝手に善悪の概念を定義し、同族同士で殺し合うなどは日常茶飯事であった。 何より、彼らは他の生命と比べても欲望が極めて深かった。決して満たされることを知らぬその様はさながら、底なし沼のようでさえあった。 専横を極める、醜悪なる存在──ある意味で、彼らは歪んだ世界そのものを体現していると言えた。 だが──そんな世界を創造したと自ら称する《《神》》は、人間たちが跋扈する現況を好ましく思わなかった。故に神は、人間たちに罰を与えた上で、世界そのものを新たに創り直すことを決定した。 眼前では、首を吊った若い女が木枯らしに吹かれてゆらゆらと揺れていた。まだ死んでから間もないのだろうか。薄汚れた粗悪な|長靴下《ストッキング》に包まれた爪先から、ぽたぽたと糞尿が滴り落ちている。 視線を少し動かせば、至る所に死体が転がっていた。首を刃物で掻き切った者、眼前の女のように首を吊った者、吐瀉物に塗れながら倒れている者。「……惨いね」 黒衣に身を包んだ少女がぽつりとそう呟くと、彼女の傍らに控える一匹の黒い狼が、彼女の言葉に同意するかの如く悲しげに吠えた。 遠方に目を向けると、巨大な砂時計が蜃気楼のように不規則に輪郭を変えながら、時を刻んでいるのが見える。あの砂時計が目の前に広がる惨状の元凶だということを、少女はよく理解していた。 ──"崩壊の砂時計"。 少女は砂時計のことをそう呼んでいる。それは世界が終焉を迎えるまでの秒読みをする装置。そして世界中の何処にでもあって、何処にもない空虚なるもの。生命あるものが、どれほど砂時計に近付こうと試みたところで無意味である。常に一定の距離を保ったまま、目的地に何時まで経とうとも辿り着くことは出来ないのだから。 崩壊の砂時計が出現してから、世界は変貌した。遥かなる天空より飛来する、翼持つ者──《《天使》》と、地の底より這い出て来る、異形の怪物──《《魔族》》の活発化。
黒衣に身を包んだ神秘的な少女が、村の入り口に姿を現すと、人々は一斉に奇異の眼差しを少女へと向けた。 来訪者など殆どない寒村──そこに突然現れた、巨大な黒い狼を伴った異邦からの幼き旅人。村人たちが警戒するのは致し方のないことではあった。 少女は目深に被っていたフードを取ると、近くで馬の世話をしていた男に声を掛けた。「あの──」「…………」「少し、お尋ねしたいことがあるのですが──」「…………」 男は心底嫌そうな顔をすると、そそくさと家の中へと入ってゆく。言葉の訛りや外見から、少女が異教徒だと分かったらしい。尤も外見に関しては、同じ異教徒の中にあっても極めて稀有な見た目ではあったが。 男が家の中へと入っていったのを皮切りに、他の村人たちも一斉に少女から目を逸らし、我も我もと家の中に入ってゆく。 ──"聖教徒にあらずんば、人にあらず"。 天空の神ソルを信仰する、巨大宗教勢力"聖教会"の教えだ。この村の人間たちはどうやら皆、敬虔なる聖教徒であるらしい。大地の女神シェオルを信仰する巨大な帝国ハルモニアからやって来た少女は、彼らからすれば正に不倶戴天の敵でしかないのだろう。 そもそも、聖教会の定める教義によると、異教徒は人間として扱われない。聖教徒からすれば、彼らは獣畜生と何ら変わらない存在である。人は獣畜生と言葉を交わさない。それはそのまま、少女のような異教徒相手にも適用されていたのである。「困ったね……どうしたものかな、マルコシアス」 無表情のまま、少女は顎に人差し指を軽く当てながら、傍らに控える黒い狼──マルコシアスに語り掛ける。「──"村全体から腐敗臭がする"? どうだろう……気の所為だと言いたいところだけど、君の勘は大概当たるからね」 今宵は新月──少女にとって最も危険な夜。可能ならば人のいる安全な場所で休みたかったが、村人たちの反応から察するに、どうやらそれは無理そうだ。 自殺行為に等しいが、魔族や堕罪者が跋扈する荒野で夜を明かすしかない。 少女が諦めて踵を返そうとした、その時だった。「おやおや──こんな寂れた場所に旅人さんかい?」 若い男の声が、耳に届く。振り向くと、村の外から一人の青年が、悠然とした動きでこちらへと向かってくるのが見えた。「ほぅ……これは驚いた。まさか、こんな可愛らしいお嬢さんが旅をしているとはね」「
同時刻── 涙の王国──王の居城。 玉座の間は血の海と化し、マゴットやアバドンといった下級魔族や、刺客として送り込まれた天使たちの死体が足の踏み場もないほどに転がっている。「…………」 積み重なった死体の山……その頂に、襤褸きれの如き黒いローブを纏ったその男は立っていた。骨と皮しかないような痩せ細った体躯で、背には大きな黒い翼を生やしており、頭上には光輪を戴いていることから、男が嘗て天使だったことは一目瞭然だった。 男の視線は大きく開かれた扉へと向けられており──その視線の遙か先には、蜃気楼の如く不規則に輪郭を変化させる巨大かつ不気味な砂時計が聳え立っていた。 ──"崩壊の砂時計"。 男は暫しの間、感情の凪いだような目で砂時計をじっと見つめていたが、直ぐに無意味と思い直したのか、天使や魔族の亡骸を踏み躙りながら、玉座の間の外へ出た。 氷漬けとなった回廊に、男の足音だけが虚しく響く。国王夫妻も宰相も、文官も武官も侍女たちも皆、氷の中で永遠の眠りに就いていた。 恐怖に顔を引き攣らせ、力なく座り込んでいる者。その場から逃げようとしている者。ただ呆然と、立ち尽くしている者。泣き叫んでいる者。その死に様は、実に様々だ。「…………」 回廊を抜け、王女の居室へと辿り着く。扉を開けると、男はそのまま真っ直ぐ、ベッドへと歩を進めた。 ベッドの上には白い棺が置かれており、その中には一人の美しい少女が横たわっていた。黒い長髪と白い肌とのコントラストが、何とも言えぬ儚さを醸し出している。「……キリエ」 棺の中で眠る少女を見下ろし、何処か憐れむような調子で男は彼女の名をポツリと呟く。少女は男の呼び掛けに答えることはなく、ただ静かな寝息を立てるのみであった。 第一王女キリエ。"|最終戦争《ハルマゲドン》"の後、キリエは敬虔な聖教徒でありながら、傷付いた堕天使を保護したことで罪に問われ、父である国王から斬首刑を言い渡されていた。 刑執行の前夜、彼女は自室で服毒自殺を図り──
四日後、出立の前夜── 扉をノックする音が耳に届き、書類に目を通していたシェイドは顔を上げた。 こんな時間に誰だろう、と怪訝に思いつつ返事をすると、 「──シェイド、起きてる?」 寝間着姿のセラフィナが、手燭──手に持って用いる燭台を片手に部屋へと入ってくる。マルコシアスも一緒で、セラフィナの直ぐ傍で彼女はパタパタと尻尾を振っていた。 ぴったりとした白いロングワンピースは、シンプルなデザインながらも清楚な印象を見る者に与える。すらりと伸びた細い足にはくるぶし丈の白い靴下と、室内用のスリッパを履いていた。 「起きてるよ、セラフィナ──どうかしたのか?」 「ううん。君が心配だったから、見に来ただけ」 セラフィナは対面のソファに腰を下ろすと、テーブルの上に置かれていた書類の一部を手に取る。 それは、涙の王国周辺で目撃情報が多い魔族に関する調査報告書だった。姿形、生態、急所……それらが簡潔かつ丁寧に纏められている。 知性が高く、人間と同様に理性を有する上位魔族は皆、死天衆の支配下にある。つまり調査報告書に記載があるのは全て、知性が低く本能のままに生きる下級魔族……死天衆も匙を投げたレベルの畜生たちだ。 巨大な蛆虫の姿をしており、圧倒的な物量で襲い掛かってくるマゴット、血塗られた|襤褸《ぼろ》きれを身に纏い、不気味な歌声を発しながら現れる精霊アルコーン……中でも危険なのは、人の顔を持つ巨大な|蝗《イナゴ》"アバドン"だろうか。 マゴットと同様に、大群で襲い掛かってくるアバドン。だがマゴットよりも遥かに素早い上に顎の力も強く、そればかりか相手を長時間苦しめる猛毒まで持っている。どうやらアバドンの群れが近くにいるとラッパのような音が聞こえるらしいので、音を頼りに距離を取って、可能な限り交戦を避けた方が良いかもしれない。 それらの脅威に加えて、堕罪者まで徘徊している。セラ
刹那──客室の扉が勢い良く開かれたかと思うと、端正な顔を歪め、険しい表情を浮かべたセラフィナが、ドレスの裾をわずかにたくし上げながら、室内へと足を踏み入れる。「……皇帝陛下との謁見の際に、貴方の姿が見当たらなかったから、何かが妙だと思ったら……やっぱりここに居たんだね、ベリアル」 わなわなと身を震わせるセラフィナを見つめると、ベリアルは目をすっと細めながら、「おや──思ったよりも、早いご帰還ですね」 床に伏せて震えているマルコシアスと、茫然自失としているシェイドとを交互に見やり、何が起こったのか大体察したのだろう。セラフィナの表情が、更に険しくなる。「答えなさい……シェイドたちに一体、何をしたの?」「何もしておりませんよ、セラフィナ。ちょっと、彼らの暇潰しに付き合ってあげただけです」 小馬鹿にした調子で、ベリアルは嗤う。「それより、も──皇帝陛下との謁見は、如何でしたか?」「何もかも、貴方の目論見通りの癖に……!」 誰が答えるものか。セラフィナが、ベリアルに向かってそう言おうとした瞬間──「──質問に答えよ。セラフィナ・フォン・グノーシス」 笑顔を崩さぬまま、ベリアルはその身から不気味なオーラを発し、わずかに語気を強めた。 直後、喉元に音もなく鋭利な刃を突き付けられたかのような悪寒が全身を駆け巡るのを感じ、セラフィナはその場から一歩も動けなくなった。 その場に磔にでもされたかの如く、身動きが取れなくなったセラフィナをギロリと睨み付けると、ベリアルはテーブルに置いてあったデスマスクを手にし、セラフィナの元へと歩み寄る。「口に気を付けることだ、セラフィナ。お前の命など、吹けば飛ぶような軽く脆いものであろう? 育ての父との……アレスとの再会を果たさずに、ここで死んでも良いというのだな?」「…………!」「良い表情を魅せるじゃありませんか? そうですセラフィナ、私は君のその可愛らしい顔が、恐怖と絶望に彩られるのを見るのが堪らなく好きな
夕刻── シェイドが大神殿へと戻ってくると、ドレスに着替えたセラフィナが、ちょうど客室から出てくるところだった。「…………!」「ほぅ……これは、これは。何と耽美な……」 セラフィナは端正な顔に薄化粧をし、シンプルなデザインの黒いドレスを優雅に着こなしていた。髪型も普段とは異なりハーフアップにしており、華奢な体躯も相まって、深窓の令嬢という言葉が良く似合う、蝶のように何処か儚げな姿へと大変身を遂げていた。「──おかえり、シェイド。マルコシアスは、ちゃんと良い子にしていた?」「あぁ……まるで、借りてきた猫のようだった」 普段のあどけなさが鳴りを潜め、そればかりか艶やかな雰囲気を醸し出す彼女の顔から目を逸らしつつ、シェイドは何度か首肯した。 マルコシアスは尻尾を振りながらセラフィナの元へと駆け寄ると、彼女の脚に何度も身体を擦り付ける。「もう……駄目だよ、マルコシアス。ストッキングが毛だらけになっちゃうし、このドレスも借り物なんだから」 くすっと笑いながら、セラフィナはマルコシアスの頭を愛おしそうに撫でた。「セラフィナよ──これから、皇帝陛下との謁見か?」 マルコシアスと戯れるセラフィナを微笑ましそうに見つめながらアモンが尋ねると、セラフィナはこくりと頷く。「そうだね……予定より、ちょっと早めてもらったけど」「左様か。まぁ、気持ちは分からんでもないが」 皇帝──ゼノンの傍には大抵の場合、死天衆のリーダー格である堕天使ベリアルが控えている。彼を蛇蝎の如く毛嫌いしているセラフィナとしては、なるべく顔を合わせたくはないのだろう。「それじゃ、行ってくるよ。用事が済むまで、マルコシアスの相手をお願い出来る? 後で部屋に寄るから」「それくらいなら、お安い御用だが……」「ありがと。君は何時も、私に親切にしてくれるね」 口元を片手で軽く押さえると、セラフィナはころころと可愛らしい声で笑った。これまで静かに微笑むことは何度かあったが、彼女が声を出して笑ったのを見たのはこれが初めてであり、シェイドは何故だか、少しずつ自分の顔が火照ってゆくのを感じていた。 何名かの巫女たちを伴って、セラフィナがその場から立ち去ると、シェイドはぼうっと、半ば夢見心地な状態でアモンに客室へと案内された。「──ここが、君に宛てがわれた客室だ。若し何か用があれば、部屋の外に
大神殿内にある食堂で少し早めの朝食を摂った後、アモンの案内でシェイドが訪れたのは、行政区画にある自警団|組合《ギルド》の本部だった。 「──本当に、良いのだな?」 アモンが問うと、シェイドは小さく頷いた。 「……俺には学者のような知識もなければ、軍人のように人を殺す覚悟もない。剣を振るうしか取り柄のない俺には、自警団の仕事が性に合ってる」 「しかしなぁ……シェイドよ、君はまだ若い。そう一つの考えに、固執する必要もなかろう? それに自警団は、常に死と隣り合わせ。何時死んでも、可笑しくない危険な仕事だ。悪いことは言わぬ、考え直さないか」 「確かにそうかもしれないが、生憎これ以外の生き方を知らないものでね」 「……そうか。そこまで言うなら、止めはすまい」 ここに来るまでの道中で、何度もアモンと話し合って決めたことだ。今更、考えを改めるつもりはなかった。 「──失礼するぞ」 「はい──」 書類の整理をしていた、二十代そこそこと思われる若い受付嬢が、アモンの声に顔を上げる。黒い髪に黒い瞳。ハルモニア人と比較すると、少し濃い肌色。聖教徒によく見られる身体的特徴を、眼前の可愛らしい受付嬢は余すことなく備えていた。黒のロングワンピースの上から白いエプロンを身に付けたエプロンドレス姿が、とても良く似合っている。 「あら、アモン様。その節はどうも、お世話になりました」 「元気そうで何よりだよ、ルビィ。ここでの仕事には慣れたかね?」 「ええ、アモン様のお陰で。それで、本日はどのようなご要件でしょう?」 ルビィと呼ばれた受付嬢が首を傾げながら尋ねると、アモンはシェイドの肩に手を置きながら、 「──この青年を、自警団組合に所属させたい。君と同じく聖教会からの迫害を受けたようでな、この度ハルモニアが受け入れることになった」 「成程。確かに、自警団は慢性的な人手不足ではありますが……宜しいのですか?」 「剣の腕前は申し分ない。《《あの》》ベリアルのお墨付きだ。それに私が強要したわけではなく、彼自身の強い希望だ」 「そうですか。畏まりました」 一旦奥へと引っ込んだかと思うと、ルビィは何枚かの書類を携えて姿を現し、カウンター席に座るようシェイドたちを促した。 「何か、飲み物はお召し上がりに?」 シェイドが腰を下ろすと、ルビィは愛想よく笑いなが
シェイドが目を覚ますと、ちょうど夜明けを迎えるところだった。 シェイドが起きたことに気付いたのだろう。夜通しドラゴンを駆り続けて少し疲れた様子のセラフィナが、身を軽く捩ってシェイドの顔をちらりと見やる。「おはよう──よく眠れた?」 風に吹かれて大きく靡く長い銀髪を片手で押さえながら、セラフィナは少しだけ顔を綻ばせる。「おかげさまで──あと、どれくらいだ?」 シェイドが尋ねると、セラフィナは前方を指差しながら、「見えてきたよ──ほら」 セラフィナの指す方へと視線を向けると、遙か彼方──巨大な城塞都市が、暁光に照らし出されるのが見えた。「あれが……」「そう。あれが、帝都アルカディア」 帝都アルカディア──元々アルカディアは、都の中心部にある小高い丘の名称に過ぎなかった。聖教会の迫害を受けた者たちが寄り合い、日々を生きるための共同体をアルカディアの丘の上に築いたのが、帝国ハルモニアの始まりとされている。 やがて、アルカディアの丘の頂上に大地の女神シェオルを祀る大神殿が建てられ、その周囲を取り囲むような形で都市が形成され、今の帝都アルカディアとなった。 ハルモニア帝国内には幾つか大都市が存在するが、帝都アルカディアは中でも最も人口が多く、少なく見積っても百万を優に超す人や異人族が暮らしているという。「……迫害から逃れるためのちっぽけな共同体から始まって、今では世界有数の大都市になった、というわけか」 セラフィナの説明を聞いたシェイドは、何処か感慨深そうに眼前に迫ってくる帝都を見つめる。「そうだね。因みに、アルカディアは"理想郷"を意味する言葉になっている。それはそのまま、ハルモニアという国家の掲げるスローガンにもなっていてね。民衆の叛乱とかは、建国から一度も起こっていないらしいよ」 理想郷──その言葉を聞き、シェイドはふと疑問を抱いた。 セラフィナの話を聞く限り、ハルモニアは地上に存在する最後の楽園と言っても差し支えない国である。 アルカディアのような理想郷を創るというスローガンを掲げている点や、建国から一度も叛乱が起きていないという点などから、国民に寄り添う政治が行われており、国民もまたそれに不満を抱いていないことが伺える。 何故、セラフィナはグノーシス辺境伯領のみならず、ハルモニアという国そのものから出奔し、旅人として各地を放浪
帝都アルカディアから迎えのドラゴンがやって来たのは、概ねセラフィナが予想した通り、二日後の夕刻であった。「──こ、これが……ドラゴン……」 鈍い光を放つ黒い鱗……引き締まった巨躯。太陽を背に翼を大きく広げた、威風堂々たるその姿は、見る者に畏敬の念を抱かせる。 生まれて初めて見るドラゴンという生き物に、シェイドは興奮を抑えられない様子であった。まるで、面白いものを見つけた少年のように目を輝かせている。 大地の女神シェオルが、大地に満ちる生命の循環を促すために創造したと言われる生物──ドラゴン。彼らは上位魔族に分類されており、人間にも引けを取らぬ高い知性と、恵まれた身体能力を有している。 巨体に見合わず俊敏で、空を自在に飛べることから汎用性が極めて高く、今回のように最短距離で帝都に行きたい時などは非常にありがたい存在である。「──やっぱり本物は、迫力が違うな……」「──準備は出来た、シェイド?」 背後にいたセラフィナが声を掛けると、シェイドはセラフィナへと向き直り、こくりと頷いた。「あぁ──出来たよ、セラフィナ」「じゃあ、今からドラゴンに乗る際の注意点を教えるね」 セラフィナはシェイドの手を引き、ドラゴンの目の前までゆっくり歩を進めると、「ドラゴンは誇り高い種族。少しでも誇りを傷付けられたと感じると、暴れ出して手が付けられなくなるから、彼らの方が目上であることを、乗る前に示す必要がある。見ていて」 セラフィナはそこで一旦言葉を区切ると、すらりと伸びた細い脚を軽く交差させ、胸に右手を当てながら深々とドラゴンに対して頭を下げた。 ドラゴンは数秒ほど、お辞儀をしているセラフィナをじっと見下ろしていたが、やがてセラフィナの頭に軽く前足をかざした。「──こんな感じ。ドラゴンが頭上に前足をかざしたら、背に乗ることを許された合図だから、許しが得られるまではお辞儀を止めないこと」「……難しそうだな」「そこまで、難しく考えなくても良いよ。乗せてくれる相手に敬意を払う……それだけのこと。さ、やってみて」 セラフィナに促されるまま、シェイドは胸に手を当ててドラゴンに対し一礼する。 ドラゴンはシェイドに顔を近づけると、牙を剥き出しにして唸り声を発する。熱い鼻息が顔に掛かり、冷や汗が背筋を伝う。「……これ、大丈夫なのか? 嫌な予感しかしないんだが」「
ハルモニア国境守備隊の駐屯地── シェイドは救護所のベッドの上で、退屈しのぎにハルモニア国教会の教典を読んでいた。隣のベッドからは噎せ返るような血の臭いに混じって、夜明けまでそこで意識を失っていたセラフィナの甘い残り香が漂ってくる。 昨晩は新月だったため、医者や衛生兵が夜通し付きっきりでセラフィナの看護をしていた。どうやらセラフィナはハルモニア人たちから特別視されているらしく、必死の形相で彼らは治療に当たっていた。 なお、当のセラフィナだが、夜の間はぐったりしていて今にも死にそうな状態だったというのに、朝になると軽い足取りで、風呂に入ってくると言って救護所から出ていった。呑気なものである。「やぁ──おはよう、シェイド。良い朝だね」 風呂から戻ってきたセラフィナが、無表情のまま軽く片手を挙げる。マルコシアスも一緒だったのか、セラフィナの直ぐ隣で、心做しかご機嫌そうに尻尾を振っている。「おはよう──もう、元気になったのか」「元気かどうかはさておいて、一応は動けるね」「そりゃ良かった」 セラフィナはブーツを脱ぐと、そのままベッドの上に膝を抱えて座り込み、シェイドが教典を読んでいる様子を興味深そうに見つめる。「熱心だね、随分と」「……|生憎《あいにく》これぐらいしか、今はやることがないからな」 国境守備隊に保護された時、シェイドはかなり衰弱していたため、まだ自由に動き回ることを禁じられていた。 因みにセラフィナは保護された時、衣服が土埃や返り血で汚れていた程度で、衰弱していたシェイドとは対照的にケロッとしていた。何故なのかは分からない。「──読んでいて、楽しい?」 厚手の白いストッキングに包まれた小さく可愛らしい爪先を何度か動かしながらセラフィナが尋ねると、シェイドはこくりと頷く。「あぁ、楽しいな。聖教会の教典に書かれていたことと、真逆のことが書かれている」「……例えば?」「俺がガキの頃、大地の女神シェオルは世を破滅に導く魔族の王だと教えられたが、ハルモニア国教会の教えでは天空の神ソルこそ、創造主を騙る"簒奪者"ということになっている」「そうだね。どっちも黙りこくっていて、苦しむ人々に手を差し伸べていないから、五十歩百歩というか、碌でもない存在だと私は思うけど」「だが──この教典には、大地の女神シェオルは簒奪者ソルに胸を刺されて命
今から二十五年前──聖教会の用いている教会暦に直すと1175年。"崩壊の砂時計"が、地上に出現した直後。 崩壊の砂時計の出現を、天空の神ソルからの天啓と解釈した聖教会が、全ての異教徒たちの断罪と、全ての聖教徒たちの救済を声高に叫び、ハルモニアを始めとする諸国家に宣戦を布告した。 聖教会側が"|最終戦争《ハルマゲドン》"と呼称したこの世界大戦は当初、技術力に優れるハルモニア帝国軍が優位に戦を進めていたが、天使長ミカエルたちが聖教会側に助力、更には剣聖アレスが登場したことにより、わずか一年ほどで戦局を覆されることとなった。 天使という究極の脅威に対し、異教徒たちが助力を求めた者たち。それは神にも匹敵する力を持った、魔族たちを束ねる五人の堕天使──"死天衆"だった。 ハルモニア帝都──アルカディア。 神殿内の至る所に、巫女の格好をした少女たちの遺体が転がっていた。まだ息絶えて間もないのか、殆どは小さな手や純白のストッキングに包まれた華奢な爪先を、ピクピクと痙攣させている。 彼女たちは全員、ハルモニア国教会に所属する巫女であった。死天衆の召喚という、国家の存亡を賭けた、それでいて危険極まりない儀式に臨んだ、美しく気高く、そして清らかで勇敢なる者たち。 死天衆の一柱が召喚に応じて顕現した直後──彼女たちは顕現によって生じた暴風に吹き飛ばされ、神殿の壁や柱に身体を強く打ち付けられ、そして命を落とした。無事だったのはただ一人、逆五芒星の描かれた魔法陣の中にいた若い男だけであった。「──私を呼んだのは、貴方ですね?」 死天衆が、穏やかな声音で問い掛ける。男性とも女性ともつかぬ中性的な声。だが、長い銀髪を風に靡かせ、涼やかな青い瞳で男を見つめる様は、世に存在するありとあらゆる芸術品が、全て陳腐な|瓦落多《ガラクタ》に見えるほど神々しく、そして美しい。「……あぁ。この私だ」 周囲の惨状に胸を痛めているのか、或いは必要な犠牲だったとはいえ、未来ある少女たちの命を奪ってしまったことに罪悪感を覚えているのか、男は何処か辛そうな顔で、死天衆の問いに応じた。「大地の女神シェオルの使徒よ……"簒奪者"ソルの魔の手からハルモニアの民たちを守るべく、貴公の力を借りたい。どうか我らを救ってはくれまいか」「ふむ……」「頼む……天使どもが、あの簒奪者の犬どもが、聖教会に力を貸