帝都アルカディアから迎えのドラゴンがやって来たのは、概ねセラフィナが予想した通り、二日後の夕刻であった。
「──こ、これが……ドラゴン……」 鈍い光を放つ黒い鱗……引き締まった巨躯。太陽を背に翼を大きく広げた、威風堂々たるその姿は、見る者に畏敬の念を抱かせる。 生まれて初めて見るドラゴンという生き物に、シェイドは興奮を抑えられない様子であった。まるで、面白いものを見つけた少年のように目を輝かせている。 大地の女神シェオルが、大地に満ちる生命の循環を促すために創造したと言われる生物──ドラゴン。彼らは上位魔族に分類されており、人間にも引けを取らぬ高い知性と、恵まれた身体能力を有している。 巨体に見合わず俊敏で、空を自在に飛べることから汎用性が極めて高く、今回のように最短距離で帝都に行きたい時などは非常にありがたい存在である。 「──やっぱり本物は、迫力が違うな……」 「──準備は出来た、シェイド?」 背後にいたセラフィナが声を掛けると、シェイドはセラフィナへと向き直り、こくりと頷いた。 「あぁ──出来たよ、セラフィナ」 「じゃあ、今からドラゴンに乗る際の注意点を教えるね」 セラフィナはシェイドの手を引き、ドラゴンの目の前までゆっくり歩を進めると、 「ドラゴンは誇り高い種族。少しでも誇りを傷付けられたと感じると、暴れ出して手が付けられなくなるから、彼らの方が目上であることを、乗る前に示す必要がある。見ていて」 セラフィナはそこで一旦言葉を区切ると、すらりと伸びた細い脚を軽く交差させ、胸に右手を当てながら深々とドラゴンに対して頭を下げた。 ドラゴンは数秒ほど、お辞儀をしているセラフィナをじっと見下ろしていたが、やがてセラフィナの頭に軽く前足をかざした。 「──こんな感じ。ドラゴンが頭上に前足をかざしたら、背に乗ることを許された合図だから、許しが得られるまではお辞儀を止めないこと」 「……難しそうだな」 「そこまで、難しく考えなくても良いよ。乗せてくれる相手に敬意を払う……それだけのこと。さ、やってみて」 セラフィナに促されるまま、シェイドは胸に手を当ててドラゴンに対し一礼する。 ドラゴンはシェイドに顔を近づけると、牙を剥き出しにして唸り声を発する。熱い鼻息が顔に掛かり、冷や汗が背筋を伝う。 「……これ、大丈夫なのか? 嫌な予感しかしないんだが」 「そのまま続けて。間違っても、途中で礼を止めては駄目」 「……分かった」 セラフィナの言葉を、信じる他ない。シェイドは更に深く頭を下げ、自分の方がドラゴンよりも格下であることをアピールした。 唸り声は止んだものの、ドラゴンは未だ警戒を解かない。 ──ええいままよ。 シェイドは地面に膝を付き、頭をこれでもかと言わんばかりに深々と下げた。 どれくらい、時が経っただろう。 「──おめでとう。認められたみたいだね」 セラフィナの声が聞こえ、恐る恐る顔を上げると、ドラゴンが穏やかな表情で、頭上に前足をかざしているのが視界に飛び込んできた。 「これで、君も背に乗ることが許された」 「……危うく、死ぬかと思った」 「そう? じゃあ──早速乗ってみようか」 セラフィナは軽やかな動きでドラゴンの背に飛び乗ると、細い二の腕からは想像も付かないほど強い力で、シェイドを軽々と引き上げる。 「……凄い腕力だな。正直驚いた」 「そう? ありがと」 背の上は乗合馬車のようになっており、ドラゴンの御者が座る席とは別に、乗客用と思われる座椅子が幾つか設けられていた。 「操縦は私がするから、シェイドは帝都アルカディアに到着するまでの間、ゆっくり身体を休めていて。そうだね、空を飛んでいる間は結構冷えるから、マルコシアスを抱いて寝ると良いかも」 「そう言えば……マルコシアスはどうやって乗るんだ?」 「心配しなくてもあの子は、自力で登ってこられるよ。ほら──」 セラフィナの指す方を見ると、マルコシアスがドラゴンの尻尾の方から勢い良く駆け上がってくるのが見えた。 「……中々やるな、お前」 苦笑いを浮かべるシェイドとは対照的に、マルコシアスは何処か誇らしげである。 シェイドたちが座椅子に腰を下ろしたのを確認すると、セラフィナは軽く鞭を打って合図を出した。 「──行くよ」 合図を受けたドラゴンが飛翔すると同時、周りの景色が目まぐるしく変化してゆく。大地はどんどん遠ざかり、家々が豆粒のように小さくなってゆく。 「お……おぉ……」 飛ぶ鳥は何時も、こんな美しい景色を見ているのか。肌で風を感じながらシェイドは思わず、セラフィナにも聞こえるほどの大きな溜め息を漏らす。 空から見下ろす大地は、とても壮大で美しかった。蜃気楼の如く、不規則に輪郭を変化させている巨大な砂時計さえなければ、感動のあまり涙を流していたことだろう。 崩壊の砂時計──何処に視線を動かそうとも、それは必ず視界に映り込んでくる。何とも忌々しい。 セラフィナが身体を休めていろと言った理由が、何となく分かったような気がした。嫌でも存在を主張してくる崩壊の砂時計が、壮大な風景を目の当たりにした感動を台無しにしてしまう。 「……砂時計(アレ)さえなければ、な」 「君も、そう思う?」 「……あぁ」 セラフィナに同意しつつ、シェイドは大きな欠伸をする。 「──さっきも言ったけど、到着するまでの間、ゆっくり身体を休めていなよ。帝都アルカディアに到着したら、起こしてあげるから」 「帝都までは、どれくらい掛かる?」 「そうだね──このまま順調にいけば、明日の夜明け頃に着くだろうから、凡そ半日といったところかな」 地平線に沈みゆく夕日を見ながら、セラフィナは呟くような調子でそう答える。 「そうか──じゃあ、お言葉に甘えようかな」 セラフィナと御者を交代したい気持ちはあるが、ドラゴンに乗ったのはこれが初めてであり、とてもではないが御せる自信がない。潔く、彼女の言葉に従った方が良さそうだ。 シェイドが横になると、マルコシアスが寄ってくる。何となく抱きしめてみると、セラフィナの言う通り、確かに暖かく心地好い。 マルコシアスの温もりに包まれながら、シェイドはゆっくりと、微睡みの中に落ちていった。 「──おやすみ、シェイド。今はどうか、良い夢を」 すやすやと寝息を立て始めたシェイドをちらりと見やり、セラフィナは穏やかな声音で、そう彼に言葉を掛けた。"冒涜者"バフォメットが帝都アルカディアの自警団組合を壊滅させ、シェイドと面識のある受付嬢のルビィを惨たらしく殺害してから一夜が明けた。 小休憩を挟みつつ、夜通し馬を駆り続けたセラフィナたちは、ハルモニア北方──帝都アルカディアとエリュシオンとの中間地点まで来ていた。 エリュシオンは、帝都アルカディアに次ぐ人口を抱える大都市である。都市の名の意味は"死後の楽園"であり、その名の示す通り国内最大規模の墓地があることで知られている。 死後はエリュシオンに骨を埋めたい。そう希望するハルモニア国民は数多く、今も尚エリュシオンはじわじわと都市の拡大を続けている。 何故、セラフィナたちはエリュシオンのある北方へと進んだのか。それは、"黒鉄の幽鬼"ラルヴァの目撃情報と被害が最も多いのが、アルカディアとエリュシオンとを結ぶ交通路だったことが主な理由である。 果たして、帝都アルカディアとエリュシオンとを結ぶ交通路から少し外れた草原にて、セラフィナたちは異様なる光景を目の当たりにすることとなった。 「──止まって」 ふと、違和感を覚えたセラフィナが馬を止めつつそう言うと、同じ馬の背に跨っていたシェイドとキリエは互いに顔を見合わせる。馬に乗り慣れていないキリエのために、シェイドは彼女を自分の前に乗せた状態で手綱を握っていた。 「……何かあったのか、セラフィナ?」 シェイドが尋ねると、セラフィナは無表情のまま、 「──マルコシアスが、過剰に反応してる。彼女は耳や鼻が利くから、何かを感じとったのかも」 言われてみれば、マルコシアスは背中の毛を逆立てつつ唸り声を発しており、かなり苛立っているようにも見える。
自警団組合アルカディア本部に併設されている酒場に黒衣の吟遊詩人が姿を現したのは、絶え間なく雷鳴が轟き渡る夜のことであった。 外は激しい雨だというのに、男の衣服は全くと言って良いほど濡れておらず、薄らと笑みを浮かべているのも相まって何処か不気味だった。 彼はカウンターに腰を下ろすと、注文も程々に、その日たまたま酒場の接客業を任されていた受付嬢のルビィに声を掛ける。 余談であるが、人口が百万を超す大都市である帝都アルカディア。そこで働く自警団員は凡そ二千人ほど。商隊護衛などで不在の者もいるので、実際はもっと少ない人数でアルカディア周辺の治安維持を担っていることになる。 近郊の巡回、魔物の討伐、都市内の夜警……猫の手も借りたいほどに、人手が足りていない。 上記の通り深刻な人材不足のため、ルビィのように現場に赴かない者は決まって、書類仕事と酒場の接客業とを兼任していた。 殉職率の高いことで知られる自警団。給料は非常に良いが命は鳥の羽根の如く軽い。そのため、なり手が中々居ないのが実情であった。 「──君。そこの君だよ、可愛らしいお嬢さん」 「えっ……わ、私ですか……?」 人見知りなのだろうか。或いは、まだ酒場での接客業に慣れていないのだろうか。突然甘い顔立ちの優男に声を掛けられ、ルビィは困惑しながらトレイで顔を隠し、頬を赤らめる。 初心な様子の彼女を見つめると、吟遊詩人は何処か微笑ましそうに目を細めながら、
涙の王国方面にて勃発したハルモニアと聖教会諸勢力の争いは、早くも最終局面を迎えていた。 初戦を快勝した"軍神"エリゴール率いる帝国第三軍は、勢いそのままに各国の軍勢を次々に撃破。複数の国軍で構成された連合軍故、統率が乱れている聖教会勢力は苦戦を強いられていた。 連合軍の主戦力たる聖教騎士団は、第五騎士団・第六騎士団ともに涙の王国の国境付近に布陣して以降、頑なに動こうとはしない。彼らは上官たる騎士団長レヴィの命により、エリゴールとの交戦を避け、睨み合いに徹する考えだった。 ──"彼の軍神と尋常なる戦をしていては、命が幾つあっても足りぬというもの" 。 レヴィの判断は、ことエリゴールを相手にする場合に於いては最良のものであると言えた。聖教会の土地を守るだけならば、国境に兵を配置して睨みを利かせ、帝国第三軍を涙の王国に釘付けにしておけば良いのだから。下手に相手と交戦するだけ、兵や物資の無駄というものである。 果たして、他国の軍勢が軒並み、帝国第三軍の攻撃を受けて補給線を断たれ、前線で孤立してゆく中、聖教騎士団だけは全くの無傷であった。 一方、補給線を断たれた各国の軍中では餓死者が相次ぎ、士気は底をついていた。死んだ仲間の肉を貪り、僅かに残された食糧を巡り、身内同士で不毛な争いを繰り広げる。この世の地獄の全てが、そこにはあった。 後方に控える聖教騎士団に何度も救援を要請するも、未だ援軍の影一つない。余りにも距離が離れ過ぎており、使者の殆どが道中で力尽きて落命、或いは逃亡していたからだ。 補給線は断たれ、前線にて孤立し、周辺には魔族や堕罪者が跋扈。これだけでも十二分に絶望的な状況だと言うのに、それに追い討ちをかけるように、前方にはエリゴール率いる帝国第三軍の主力部隊が布陣し、威風堂々たる陣容をこれでもかと見せ付けてくる。
その日の夜遅く── ハルモニア皇帝ゼノンとの謁見を終えたセラフィナは黙々と、自らに宛てがわれている客室へと続く回廊を、マルコシアスと共に歩んでいた。 静寂が支配する回廊にコツコツと、セラフィナの履いているパンプスの踵の音のみが響く。シンプルなデザインの黒いドレスに身を包んだ彼女の腕には、少女の華奢な見た目には似合わぬ無骨な大口径の小銃が抱かれていた。 それは、ゼノンから褒美として下賜された世に二つとない逸品だった。装備した者の魔力を吸い取り、それを一点に収束させてライフル弾として撃ち出す。理論上、弾切れを起こす心配がないという優れものである。 何か一つ問題があるとするならば、セラフィナには銃の心得がないことくらいだろうか。尤も今のセラフィナには、シェイドという頼もしい銃の名手がいるので、彼に持たせれば何ら問題はないだろう。 ふと、セラフィナはその場に立ち止まると、無表情のまま腕に抱きかかえた小銃を見つめてホッと一つ溜め息を吐いた。 「──随分あっさりと、あの人を捜す了承を貰えたね、マルコシアス。些か話が出来すぎていて、正直なところ少し不安だけれど」 セラフィナは自らの足に頭を擦り寄せるマルコシアスを優しく撫でながら、ポツリとそう呟く。 スラリと伸びた彼女の細い両脚を覆う、シルク製の黒いストッキングはすっかり相棒の毛だらけになってしまっていた。私生活ではまだ使えるかもしれないが、もう公の場では履けそうもない。 尤も、セラフィナは先程までの謁見の内容へと思いを馳せており、両足が毛まみれになっていることなど気にも留めていなかったが。 養父たる剣聖アレスの行方を捜すため、暫くの間アルカディアを離れ、自由に行動したい──そのように申し出たセラフィナに対し、ゼノンは嫌な顔一つすることなく、やりたいようにやれば良いと承諾してくれた。そればかりか、アレス捜索の一助となるような、ちょっとした助言までしてくれた。 普通なら、喜ぶべきことなのだろう。けれどもセラフィナは、それを素直に喜ぶことが出来なかった。一つ、大きな懸念すべきことがあったからだ。 「……"何時もなら陛下の傍に侍っている筈の性悪堕天使(ベリアル)が、今日に限っては玉座の間に居なかったことが妙に気になる"? うん──確かに、君の言う通りだね。私も、それが一番気になってる」
その怪物の噂が、まことしやかに囁かれるようになったのは、剣聖アレスの捜索打ち切りが公表されて間もなくのことであった。 血塗られた黒鉄の鎧を身に纏った痩身の大男。身の丈ほどもある巨大な剣を手足の如く自在に操り、自らの前に立った者を容赦なく斬り捨てるという。 まるで、この世の全てを憎んでいるかのように。たとえ眼前に立つ相手が女子供であっても、怪物は躊躇うことなく剣を振り下ろしたと、辛うじて難を逃れた者たちは語る。 ──"目が合ったら、急いで武器を捨てろ"。 ──"そして、祈れ。相手が気まぐれな親切心から、こちらを見逃してくれることを"。 黒き騎士の姿をしたその怪物を、人々は畏怖の念を込めてこう呼んだ。 ──"黒鉄の幽鬼"ラルヴァ、と。 大神殿の敷地内に併設されている練兵場……ハルモニアの誇る精兵たちの中に混じり、シェイドは鈍った身体を鍛え、戦闘勘を取り戻すべく日々鍛錬に勤しんでいた。 この日も練兵場にて、同年代のまだ若い新兵たちを相手に、名うての暗殺者かと見紛うような動きを披露していたのだが、そこに純白の巫女装束に身を包んだ、まだ幼さの残る少女が恐る恐るといった様子で足を踏み入れてきたかと思うと、シェイドに声を掛けてきた。「あ、あの……シェイドさん、で宜しいでしょうか」「うん……? 確かに、俺がシェイドだけど。何か用でも?」「は、はい……その、グノーシス辺境伯アレス様の御息女、セラフィナ様から言伝を預かっておりまして……」 巫女になってまだ間もないのか、周囲の環境に慣れていない様子のその少女は、緊張した面持ちでもじもじしながら言伝の内容をシェイドに伝えた。
聖教会自治領、聖地カナン── 教皇執務室の扉がゆっくりと開かれたかと思うと、豪奢な法衣を身に纏った初老の男が入室してくる。 「──お呼びですかな、教皇聖下?」 深刻そうな表情を浮かべ、眉間に皺を寄せている教皇グレゴリオを見つめると、枢機卿クロウリーは白い歯を見せて不敵に笑う。 「……おお、クロウリー卿。其方を呼び寄せたのは他でもない。各地で相次いでおる要人暗殺の件について、其方の見解を聞きたいのだ」 精霊教会の崩壊以後、聖教会勢力の要人が各地で暗殺されている。現場には必ず犠牲者の血で、何やら意味深な文章が残されていた。 ──"女神シェオルは既に亡く、ソルの威信は地に墜ちた"。 「ふむ──」 グレゴリオの言葉を受け、クロウリーは顎に手を当てる。ハルモニアの仕業、という訳ではどうやらなさそうだ。 ここ数日の、各地に展開している異端審問官たちからの報告と照らし合わせながら、クロウリーは現況の整理を試みる。 「──関係があるか否かは、現段階では測りかねておりますが。近頃、各地で自殺者が急増しておるようですな。同時に、堕罪者の数も急増していると」 「うむ……」 実に痛ましいことだ。沈痛そうな面持ちのグレゴリオとは対照的に、クロウリーは如何にも他者の生き死にに興味がなさそうである。 「これらを踏まえて、僭越ながら私見を述べさせて頂きますが……最も可能性が高いのは、