シェイドが目を覚ますと、ちょうど夜明けを迎えるところだった。
シェイドが起きたことに気付いたのだろう。夜通しドラゴンを駆り続けて少し疲れた様子のセラフィナが、身を軽く捩ってシェイドの顔をちらりと見やる。 「おはよう──よく眠れた?」 風に吹かれて大きく靡く長い銀髪を片手で押さえながら、セラフィナは少しだけ顔を綻ばせる。 「おかげさまで──あと、どれくらいだ?」 シェイドが尋ねると、セラフィナは前方を指差しながら、 「見えてきたよ──ほら」 セラフィナの指す方へと視線を向けると、遙か彼方──巨大な城塞都市が、暁光に照らし出されるのが見えた。 「あれが……」 「そう。あれが、帝都アルカディア」 帝都アルカディア──元々アルカディアは、都の中心部にある小高い丘の名称に過ぎなかった。聖教会の迫害を受けた者たちが寄り合い、日々を生きるための共同体をアルカディアの丘の上に築いたのが、帝国ハルモニアの始まりとされている。 やがて、アルカディアの丘の頂上に大地の女神シェオルを祀る大神殿が建てられ、その周囲を取り囲むような形で都市が形成され、今の帝都アルカディアとなった。 ハルモニア帝国内には幾つか大都市が存在するが、帝都アルカディアは中でも最も人口が多く、少なく見積っても百万を優に超す人や異人族が暮らしているという。 「……迫害から逃れるためのちっぽけな共同体から始まって、今では世界有数の大都市になった、というわけか」 セラフィナの説明を聞いたシェイドは、何処か感慨深そうに眼前に迫ってくる帝都を見つめる。 「そうだね。因みに、アルカディアは"理想郷"を意味する言葉になっている。それはそのまま、ハルモニアという国家の掲げるスローガンにもなっていてね。民衆の叛乱とかは、建国から一度も起こっていないらしいよ」 理想郷──その言葉を聞き、シェイドはふと疑問を抱いた。 セラフィナの話を聞く限り、ハルモニアは地上に存在する最後の楽園と言っても差し支えない国である。 アルカディアのような理想郷を創るというスローガンを掲げている点や、建国から一度も叛乱が起きていないという点などから、国民に寄り添う政治が行われており、国民もまたそれに不満を抱いていないことが伺える。 何故、セラフィナはグノーシス辺境伯領のみならず、ハルモニアという国そのものから出奔し、旅人として各地を放浪していたのだろう。 バアルたち死天衆のことをひどく毛嫌いしていたが、彼女がそれだけの理由で出奔するような、器の小さな人間であるとは到底思えない。 そもそも、彼女の養父である剣聖アレスは、出奔する彼女を引き止めなかったのだろうか。若しくは、本当の娘のように溺愛していたからこそ、彼女の意思を尊重して送り出したのだろうか。 「…………」 「──どうか、した?」 突然黙りこくってしまったシェイドの様子を不審に思ったのか、セラフィナは淡々と彼に問い掛ける。 「……いや、何でもない」 「そう? なら、良いけど」 アルカディアの丘の上──大神殿の方から、ドラゴンに跨った衛兵たちが、こちらへと向かってくるのが見える。 既にこちらのことを把握しているのか、衛兵の一人が銅鑼の如く良く響く声で、 「──セラフィナ・フォン・グノーシス! これより、こちらの誘導に従ってもらう!!」 セラフィナは露骨に嫌そうな顔をしつつも、ハンドサインで了承の意を示す。フルネームで呼ばれるのは、どうやら余り好きではないようだ。 衛兵たちに半ば護衛されるような形で、大神殿近くの竜舎へと降り立つと、一人の男が五人の堕天使たちを従えて、セラフィナたちの元へと歩み寄ってくる。その中には先日、国境守備隊の野営地にやって来たバアルの姿もあった。 ドラゴンの背から軽やかに飛び降りると、セラフィナは片膝を付き、胸に手を当てて深々と男に一礼する。 「皇帝陛下──セラフィナ・フォン・グノーシス、只今ハルモニアに帰還致しました」 男は精悍な顔をわずかに綻ばせると、セラフィナの頬を片手で撫でながら、 「セラフィナ……私は信じておったぞ。お前が再び、このハルモニアの地へと戻ってくることを」 「陛下……」 「さぁ……セラフィナ。ハルモニアの愛しき子よ。どうか、父を抱きしめてはくれまいか?」 「──陛下のお望みとあらば、喜んで」 セラフィナは滑らかな動きで立ち上がると、男と軽く抱擁を交わす。男はセラフィナの髪を優しく撫でながら身を離すと、遅れてドラゴンの背から降りてきたシェイドを見つめてニヤリと笑みを浮かべ、地の底から響くような声で誰何する。 「其方が……セラフィナが気に入ったという"冒涜者"バフォメットが帝都アルカディアの自警団組合を壊滅させ、シェイドと面識のある受付嬢のルビィを惨たらしく殺害してから一夜が明けた。 小休憩を挟みつつ、夜通し馬を駆り続けたセラフィナたちは、ハルモニア北方──帝都アルカディアとエリュシオンとの中間地点まで来ていた。 エリュシオンは、帝都アルカディアに次ぐ人口を抱える大都市である。都市の名の意味は"死後の楽園"であり、その名の示す通り国内最大規模の墓地があることで知られている。 死後はエリュシオンに骨を埋めたい。そう希望するハルモニア国民は数多く、今も尚エリュシオンはじわじわと都市の拡大を続けている。 何故、セラフィナたちはエリュシオンのある北方へと進んだのか。それは、"黒鉄の幽鬼"ラルヴァの目撃情報と被害が最も多いのが、アルカディアとエリュシオンとを結ぶ交通路だったことが主な理由である。 果たして、帝都アルカディアとエリュシオンとを結ぶ交通路から少し外れた草原にて、セラフィナたちは異様なる光景を目の当たりにすることとなった。 「──止まって」 ふと、違和感を覚えたセラフィナが馬を止めつつそう言うと、同じ馬の背に跨っていたシェイドとキリエは互いに顔を見合わせる。馬に乗り慣れていないキリエのために、シェイドは彼女を自分の前に乗せた状態で手綱を握っていた。 「……何かあったのか、セラフィナ?」 シェイドが尋ねると、セラフィナは無表情のまま、 「──マルコシアスが、過剰に反応してる。彼女は耳や鼻が利くから、何かを感じとったのかも」 言われてみれば、マルコシアスは背中の毛を逆立てつつ唸り声を発しており、かなり苛立っているようにも見える。
自警団組合アルカディア本部に併設されている酒場に黒衣の吟遊詩人が姿を現したのは、絶え間なく雷鳴が轟き渡る夜のことであった。 外は激しい雨だというのに、男の衣服は全くと言って良いほど濡れておらず、薄らと笑みを浮かべているのも相まって何処か不気味だった。 彼はカウンターに腰を下ろすと、注文も程々に、その日たまたま酒場の接客業を任されていた受付嬢のルビィに声を掛ける。 余談であるが、人口が百万を超す大都市である帝都アルカディア。そこで働く自警団員は凡そ二千人ほど。商隊護衛などで不在の者もいるので、実際はもっと少ない人数でアルカディア周辺の治安維持を担っていることになる。 近郊の巡回、魔物の討伐、都市内の夜警……猫の手も借りたいほどに、人手が足りていない。 上記の通り深刻な人材不足のため、ルビィのように現場に赴かない者は決まって、書類仕事と酒場の接客業とを兼任していた。 殉職率の高いことで知られる自警団。給料は非常に良いが命は鳥の羽根の如く軽い。そのため、なり手が中々居ないのが実情であった。 「──君。そこの君だよ、可愛らしいお嬢さん」 「えっ……わ、私ですか……?」 人見知りなのだろうか。或いは、まだ酒場での接客業に慣れていないのだろうか。突然甘い顔立ちの優男に声を掛けられ、ルビィは困惑しながらトレイで顔を隠し、頬を赤らめる。 初心な様子の彼女を見つめると、吟遊詩人は何処か微笑ましそうに目を細めながら、
涙の王国方面にて勃発したハルモニアと聖教会諸勢力の争いは、早くも最終局面を迎えていた。 初戦を快勝した"軍神"エリゴール率いる帝国第三軍は、勢いそのままに各国の軍勢を次々に撃破。複数の国軍で構成された連合軍故、統率が乱れている聖教会勢力は苦戦を強いられていた。 連合軍の主戦力たる聖教騎士団は、第五騎士団・第六騎士団ともに涙の王国の国境付近に布陣して以降、頑なに動こうとはしない。彼らは上官たる騎士団長レヴィの命により、エリゴールとの交戦を避け、睨み合いに徹する考えだった。 ──"彼の軍神と尋常なる戦をしていては、命が幾つあっても足りぬというもの" 。 レヴィの判断は、ことエリゴールを相手にする場合に於いては最良のものであると言えた。聖教会の土地を守るだけならば、国境に兵を配置して睨みを利かせ、帝国第三軍を涙の王国に釘付けにしておけば良いのだから。下手に相手と交戦するだけ、兵や物資の無駄というものである。 果たして、他国の軍勢が軒並み、帝国第三軍の攻撃を受けて補給線を断たれ、前線で孤立してゆく中、聖教騎士団だけは全くの無傷であった。 一方、補給線を断たれた各国の軍中では餓死者が相次ぎ、士気は底をついていた。死んだ仲間の肉を貪り、僅かに残された食糧を巡り、身内同士で不毛な争いを繰り広げる。この世の地獄の全てが、そこにはあった。 後方に控える聖教騎士団に何度も救援を要請するも、未だ援軍の影一つない。余りにも距離が離れ過ぎており、使者の殆どが道中で力尽きて落命、或いは逃亡していたからだ。 補給線は断たれ、前線にて孤立し、周辺には魔族や堕罪者が跋扈。これだけでも十二分に絶望的な状況だと言うのに、それに追い討ちをかけるように、前方にはエリゴール率いる帝国第三軍の主力部隊が布陣し、威風堂々たる陣容をこれでもかと見せ付けてくる。
その日の夜遅く── ハルモニア皇帝ゼノンとの謁見を終えたセラフィナは黙々と、自らに宛てがわれている客室へと続く回廊を、マルコシアスと共に歩んでいた。 静寂が支配する回廊にコツコツと、セラフィナの履いているパンプスの踵の音のみが響く。シンプルなデザインの黒いドレスに身を包んだ彼女の腕には、少女の華奢な見た目には似合わぬ無骨な大口径の小銃が抱かれていた。 それは、ゼノンから褒美として下賜された世に二つとない逸品だった。装備した者の魔力を吸い取り、それを一点に収束させてライフル弾として撃ち出す。理論上、弾切れを起こす心配がないという優れものである。 何か一つ問題があるとするならば、セラフィナには銃の心得がないことくらいだろうか。尤も今のセラフィナには、シェイドという頼もしい銃の名手がいるので、彼に持たせれば何ら問題はないだろう。 ふと、セラフィナはその場に立ち止まると、無表情のまま腕に抱きかかえた小銃を見つめてホッと一つ溜め息を吐いた。 「──随分あっさりと、あの人を捜す了承を貰えたね、マルコシアス。些か話が出来すぎていて、正直なところ少し不安だけれど」 セラフィナは自らの足に頭を擦り寄せるマルコシアスを優しく撫でながら、ポツリとそう呟く。 スラリと伸びた彼女の細い両脚を覆う、シルク製の黒いストッキングはすっかり相棒の毛だらけになってしまっていた。私生活ではまだ使えるかもしれないが、もう公の場では履けそうもない。 尤も、セラフィナは先程までの謁見の内容へと思いを馳せており、両足が毛まみれになっていることなど気にも留めていなかったが。 養父たる剣聖アレスの行方を捜すため、暫くの間アルカディアを離れ、自由に行動したい──そのように申し出たセラフィナに対し、ゼノンは嫌な顔一つすることなく、やりたいようにやれば良いと承諾してくれた。そればかりか、アレス捜索の一助となるような、ちょっとした助言までしてくれた。 普通なら、喜ぶべきことなのだろう。けれどもセラフィナは、それを素直に喜ぶことが出来なかった。一つ、大きな懸念すべきことがあったからだ。 「……"何時もなら陛下の傍に侍っている筈の性悪堕天使(ベリアル)が、今日に限っては玉座の間に居なかったことが妙に気になる"? うん──確かに、君の言う通りだね。私も、それが一番気になってる」
その怪物の噂が、まことしやかに囁かれるようになったのは、剣聖アレスの捜索打ち切りが公表されて間もなくのことであった。 血塗られた黒鉄の鎧を身に纏った痩身の大男。身の丈ほどもある巨大な剣を手足の如く自在に操り、自らの前に立った者を容赦なく斬り捨てるという。 まるで、この世の全てを憎んでいるかのように。たとえ眼前に立つ相手が女子供であっても、怪物は躊躇うことなく剣を振り下ろしたと、辛うじて難を逃れた者たちは語る。 ──"目が合ったら、急いで武器を捨てろ"。 ──"そして、祈れ。相手が気まぐれな親切心から、こちらを見逃してくれることを"。 黒き騎士の姿をしたその怪物を、人々は畏怖の念を込めてこう呼んだ。 ──"黒鉄の幽鬼"ラルヴァ、と。 大神殿の敷地内に併設されている練兵場……ハルモニアの誇る精兵たちの中に混じり、シェイドは鈍った身体を鍛え、戦闘勘を取り戻すべく日々鍛錬に勤しんでいた。 この日も練兵場にて、同年代のまだ若い新兵たちを相手に、名うての暗殺者かと見紛うような動きを披露していたのだが、そこに純白の巫女装束に身を包んだ、まだ幼さの残る少女が恐る恐るといった様子で足を踏み入れてきたかと思うと、シェイドに声を掛けてきた。「あ、あの……シェイドさん、で宜しいでしょうか」「うん……? 確かに、俺がシェイドだけど。何か用でも?」「は、はい……その、グノーシス辺境伯アレス様の御息女、セラフィナ様から言伝を預かっておりまして……」 巫女になってまだ間もないのか、周囲の環境に慣れていない様子のその少女は、緊張した面持ちでもじもじしながら言伝の内容をシェイドに伝えた。
聖教会自治領、聖地カナン── 教皇執務室の扉がゆっくりと開かれたかと思うと、豪奢な法衣を身に纏った初老の男が入室してくる。 「──お呼びですかな、教皇聖下?」 深刻そうな表情を浮かべ、眉間に皺を寄せている教皇グレゴリオを見つめると、枢機卿クロウリーは白い歯を見せて不敵に笑う。 「……おお、クロウリー卿。其方を呼び寄せたのは他でもない。各地で相次いでおる要人暗殺の件について、其方の見解を聞きたいのだ」 精霊教会の崩壊以後、聖教会勢力の要人が各地で暗殺されている。現場には必ず犠牲者の血で、何やら意味深な文章が残されていた。 ──"女神シェオルは既に亡く、ソルの威信は地に墜ちた"。 「ふむ──」 グレゴリオの言葉を受け、クロウリーは顎に手を当てる。ハルモニアの仕業、という訳ではどうやらなさそうだ。 ここ数日の、各地に展開している異端審問官たちからの報告と照らし合わせながら、クロウリーは現況の整理を試みる。 「──関係があるか否かは、現段階では測りかねておりますが。近頃、各地で自殺者が急増しておるようですな。同時に、堕罪者の数も急増していると」 「うむ……」 実に痛ましいことだ。沈痛そうな面持ちのグレゴリオとは対照的に、クロウリーは如何にも他者の生き死にに興味がなさそうである。 「これらを踏まえて、僭越ながら私見を述べさせて頂きますが……最も可能性が高いのは、