宿の食堂にて夕食を摂った後、シェイドは食堂に併設されている酒場のカウンターに腰掛け、独り考え事をしながら黙々とカクテルを飲んでいた。
カウンターを挟んだ向かい側では、元ハルモニア帝国軍人という異色の経歴を持つ宿の支配人が、流れるような手付きで作業をしている。聞けば"|最終戦争《ハルマゲドン》"の際に片目を負傷し、上官や部下に迷惑は掛けられないとの理由から、やむなく退役したのだという。 そしてカウンターからやや離れた場所では、シェヘラザードがシェイドの方をそれとなく気にしつつ、優雅な所作でカクテルを口に含んでいるのが見えた。その様はさながら、砂漠に咲いた一輪の白き花のようである。 パズズに見つかる恐れがあったとはいえ、初対面の相手に失礼なことをしてしまったので、詫びのしるしに是非とも酒を馳走したい──シェヘラザードはそう言って食後の酒にシェイドを誘ったのだった。 酒代をシェヘラザードが出すことについては、シェイドも何も言わなかった。しかし、シェヘラザードと一緒に酒を飲むことだけは固辞した。 まだ相手がさして親しくもない、知り合って間もない間柄というのは勿論だが、それ以上にシェイドが警戒していたのは、色仕掛けを用いた籠絡……即ちハニートラップであった。 今や良き相棒と言っても差し支えないセラフィナの神秘的、耽美的とも言える美貌の前には流石に霞んでしまうものの、シェヘラザードもまた傾国の美女と呼ぶに相応しい、珠玉の如き美貌の持ち主である。その美貌を武器として異性を誑かすのは、恐らく造作もないことだろう。 尤も、シェヘラザード本人にその気があるのか否かは現状定かではない。それでも、万が一のことを考えると彼女を警戒せざるを得ないのは、致し方のないところではあった。「──失礼」「……うん?」 シェイドが顔を上げ、声のした方へと視線を動かすと、ハープを手に携えた青年が爽やかな笑みを浮かべながら軽く手を挙げる。 出で立ちからして吟遊詩人だろうか。多くの異性からモテそうな甘い顔立ちをしているが、同時に歴戦の古豪かの如きオーラも纏っている、良く分からない雰囲気の翌日── シェヘラザードに先導されつつ、セラフィナたちは駱駝の背に乗り、都市国家アッカドへと続く道なき道を進み続けていた。「…………」 水筒の水をほんの少し口に含みながら、セラフィナはそれとなく周囲の顔色や様子を窺う。 先導するシェヘラザードは、些細な変化も見逃すまいと集中力を高めているのか、セラフィナの視線に気が付く様子はない。 キリエは環境の変化に戸惑っているのか、忙しなく顔を動かしており、殿のアモンはそんなキリエを安心させようと数分に一度、彼女の隣に自らの乗る駱駝を寄せて肩を軽く叩いている。 そしてセラフィナの直ぐ隣にいるシェイドは、やや警戒した様子でシェヘラザードの小さな背中を睨み付けていた。懐に忍ばせている暗器を何時でも投げられるように体勢を維持しており、彼女が少しでも怪しい動きを見せたならば、恐らくは躊躇することなく暗器を投擲するのではないだろうか。 誰も一言も発することなく、ただ前へ前へと進むその様はさながら夢遊病患者か、死者の行軍のようであった。「…………」 ほんの少し息苦しさや、居心地の悪さを感じる。慣れない環境に置かれてストレスを感じているのは勿論のこと、若干ではあるが不和が生じているのもまた息苦しさを感じさせる要因となっているのは否めない。 セラフィナたちが宿を発ち、数多の危険が待ち受ける広大なる砂漠へと足を踏み入れたのは、夜明け前のことだった。 宿を発って間もない内は、セラフィナやアモンが先導するシェヘラザードに声を掛け、何気ない世間話をしていた。 が、さして親しい間柄もないために話すことは直ぐになくなり、日が昇った頃には誰もがすっかり口を閉ざしてしまったのである。 ふと、先導していたシェヘラザードが手綱を引いて駱駝の動きを止め、右手をすっと軽く挙げる。"要警戒"を示すハンドサインである。 キリエやシェイドの顔に緊張が走る。シェヘラザードは続けて"その場から動くな"とハンドサインを出すと、駱駝の背から舞うようにひらりと飛び降りる。 何かを見
シェイドが謎多き吟遊詩人フォルネウスより、三日月の魔女アスタロトに纏わる寓話を聞かせてもらっていた丁度その頃── シェヘラザードに案内された客室……その中央にあるソファーにゆったりと腰を下ろしながら、セラフィナは愛用品であるブーツや剣を黙々と磨いていた。 普段ならセラフィナの傍に侍っている筈のマルコシアスは、残念ながらこの場には居ない。愛玩動物の連れ込み禁止という宿の規則に則り、彼女は外にある厩舎で寝泊まりすることになったからである。 シェヘラザードはマルコシアスについて、宿の支配人と交渉することを勧めたが、セラフィナは"規則がある以上は例外を作ってはいけない"とあっさり拒否。今頃、彼女は厩舎の中で、寝藁を涙で濡らしているかもしれない。 当然であるが異性であるシェイド、異性なのかどうかは分からないがアモンは別室である。尤も、天使・堕天使に性を問うのは野暮というものだが……。 広々とした部屋の四隅には魔除けの意味合いが込められているのか、人間大のパズズ像が複数体、それぞれ窓や部屋の出入り口を睨み付けるような形で設置されている。 部屋を彩る装飾品として見ると悪趣味だが、魔除けとして見ると途端に頼もしく思えるのは、パズズの持つ守護者的な側面故だろうか。 そして向かい側のソファーにはキリエが腰掛けており、セラフィナが"日課"を終えるのを、茶菓子をつまみつつ今か今かと待っていた。 小一時間ほど前、宿の中庭でセラフィナの貸した剣を振り回すどころか逆に振り回されてひぃひぃと言っていた筈なのに、今は存外元気そうである。「……こんな所、かな」 ほっと溜め息を一つ吐くと、セラフィナは剣を磨く手を止め、顔をゆっくりと上げる。そのままキリエの方を見つめると、表情一つ変えぬまま、「……お風呂。私なんか待っていないで、先に一人で入ってくれば良かったのに」「だ、だって、慣れない場所ですし……一人で浴場まで行くのが怖かったので……」「なるほどね……大丈夫って言いたいところだけど、確かに敵か味方かも分からない人たちが、宿の中に沢山溢れ返
宿の食堂にて夕食を摂った後、シェイドは食堂に併設されている酒場のカウンターに腰掛け、独り考え事をしながら黙々とカクテルを飲んでいた。 カウンターを挟んだ向かい側では、元ハルモニア帝国軍人という異色の経歴を持つ宿の支配人が、流れるような手付きで作業をしている。聞けば"|最終戦争《ハルマゲドン》"の際に片目を負傷し、上官や部下に迷惑は掛けられないとの理由から、やむなく退役したのだという。 そしてカウンターからやや離れた場所では、シェヘラザードがシェイドの方をそれとなく気にしつつ、優雅な所作でカクテルを口に含んでいるのが見えた。その様はさながら、砂漠に咲いた一輪の白き花のようである。 パズズに見つかる恐れがあったとはいえ、初対面の相手に失礼なことをしてしまったので、詫びのしるしに是非とも酒を馳走したい──シェヘラザードはそう言って食後の酒にシェイドを誘ったのだった。 酒代をシェヘラザードが出すことについては、シェイドも何も言わなかった。しかし、シェヘラザードと一緒に酒を飲むことだけは固辞した。 まだ相手がさして親しくもない、知り合って間もない間柄というのは勿論だが、それ以上にシェイドが警戒していたのは、色仕掛けを用いた籠絡……即ちハニートラップであった。 今や良き相棒と言っても差し支えないセラフィナの神秘的、耽美的とも言える美貌の前には流石に霞んでしまうものの、シェヘラザードもまた傾国の美女と呼ぶに相応しい、珠玉の如き美貌の持ち主である。その美貌を武器として異性を誑かすのは、恐らく造作もないことだろう。 尤も、シェヘラザード本人にその気があるのか否かは現状定かではない。それでも、万が一のことを考えると彼女を警戒せざるを得ないのは、致し方のないところではあった。「──失礼」「……うん?」 シェイドが顔を上げ、声のした方へと視線を動かすと、ハープを手に携えた青年が爽やかな笑みを浮かべながら軽く手を挙げる。 出で立ちからして吟遊詩人だろうか。多くの異性からモテそうな甘い顔立ちをしているが、同時に歴戦の古豪かの如きオーラも纏っている、良く分からない雰囲気の
ハルモニア国境── 竜舎前の広場にセラフィナたちを背に乗せたドラゴンが降り立つと、親善外交の場としてよく使われている高級宿の方から数名の護衛を伴い、精霊教会の巫女装束に身を包んだ若い女が現れる。「──綺麗……まるで、白百合の花のよう」 こちらへと歩み寄ってくる女の姿を見つめ、キリエが思わずといった様子で嘆声を漏らす。 年の頃は二十歳前後、日焼けしている護衛の兵たちと比較すると明らかに肌が白く、ハルモニア人によく見られる身体的特徴がちらほらと散見される。 丁寧に薄化粧の施された顔は目鼻立ちがくっきりとしており非常に可愛らしいが、身に纏う落ち着いた雰囲気の所為だろうか、可愛さよりも綺麗さの方が優っているように感じられた。「──出迎え、ご苦労」 ドラゴンの背から軽やかな動きで飛び降りたアモンが、穏やかな声で労いの言葉を掛けると、巫女はその場に片膝を付き、胸に片手を当てながらアモンに対して深々と一礼した。「……ハルモニア式の敬礼で応えるとは見事であるな、シェヘラザード」「有り難きお言葉、痛み入ります」 シェヘラザードと呼ばれた巫女は、端正な顔に柔和な笑みを浮かべると、再度アモンに対し丁寧に一礼をする。「──彼女は何者?」 ドラゴンの背からマルコシアスと共に、軽やかな動きで飛び降りてきたセラフィナが尋ねると、アモンはシェヘラザードに近くまで来るよう促してセラフィナたちと対面させつつ、「紹介しよう。彼女は精霊教会所属、巫女長ラマシュトゥの側仕えをしている、巫女のシェヘラザードだ。彼女は若いながらもハルモニアとの親善外交の取次役も担っていてな、今回我らを精霊教会本部のある、都市国家アッカドまで案内してくれることになった」「──初めまして。シェヘラザードと申します」 シェヘラザードはくすっと笑いながら、巫女装束の裾を軽くつまみ、細い足を交差させて優雅にお辞儀をする。どうやら彼女は、ハルモニア式の儀礼に造詣が深いらしい。ハルモニアとの親善外交の取次役を任されるのも納得である。
セラフィナたちが、国境へと移動している丁度その頃、聖教騎士団長レヴィと大天使ガブリエルの二名もまた、精霊教会の本部がある都市国家アッカドを目指し、旅を続けていた。 砂漠地帯某所── 都市国家アッカドに向かうと言う行商人との交渉を終えたレヴィは、広場で現地の子供たちと戯れているガブリエルの元へと足早に向かった。 レヴィたちが立ち寄っているのは、やや小規模なオアシス都市であった。砂漠地帯の中にはオアシスと呼ばれる、絶えず水が得られる場所がある。そうした場所には人が集まりやすく、場合によっては血で血を洗うような争いに発展することもしばしばあると言う。「──ガブリエル様。ただいま、アッカドへと向かうという行商人との交渉を終えて参りました」 レヴィの言葉に、子供たちに御伽噺を語って聞かせていたガブリエルは髪を指先でかきあげつつ顔を上げる。天使であることに気付かれぬよう、彼女は魔術で翼を巧妙に隠していた。「ふふっ……ご苦労様です、レヴィ。それで、如何でしたか?」「はい。交渉の結果、喜んでアッカドまで我らを同行させてくれるとのことに御座います。代わりに、少しばかり報酬を弾むことになってしまいましたが……」 若干不満そうに、レヴィは白い頬をぷくっと膨らませる。商人という生き物には、強欲な者しかいないのか……そう言いたげな様子である。 もっと、もっとと子供たちがガブリエルに御伽噺を聞かせてくれとせがむ。どうやら、この短時間ですっかり懐かれてしまったようだ。 異なる存在を信仰する異教徒が相手であろうとも、聖教徒と同じように接するガブリエル。慈愛と優しさに満ちたその様は正しく、神の代理人と呼ぶに相応しい。あの邪智暴虐なる枢機卿クロウリーでさえ、彼女には頭が上がらないのも納得である。 そんなガブリエルのことを、レヴィはほんの少し羨ましく思った。先代騎士団長たる親の七光りと、クロウリーを始めとする年寄り連中から小馬鹿にされ、まるで相手にして貰えないレヴィにとって、尊崇を集めるガブリエルは憧れ以外の何者でもなかったのだ。「──お待たせ致しました」
晴れ渡った空の下、セラフィナたちを乗せたドラゴンは、ハルモニアと精霊教会の勢力圏との国境に位置するハルモニア国境守備隊の駐屯地を目指し、帝都アルカディアを出立した。 帝都アルカディアから国境守備隊の駐屯地までは丸一日、駐屯地から精霊教会本部がある都市国家アッカドまでは|駱駝《ラクダ》で一週間ほど。これはあくまで予定通りに移動が出来た場合の話なので、実際は予定より遅くなることが大いに予想される。「…………」 大きな欠伸をするマルコシアスの顎の下を優しく撫でてやりながら、セラフィナは遙か遠方に聳え立つ、蜃気楼の如く不規則に輪郭を変化させる巨大な砂時計を、何処か感情の凪いだような目で見つめていた。「──浮かない顔をしているな?」 ドラゴンを慣れた手付きで御しながら、アモンが見向きもせずにそう問い掛けると、セラフィナは風に吹かれて大きく靡く、艶やかな銀色の長髪を片手で押さえつつ、「──まぁ、ね。正直なところ、今回の依頼は気が進まないんだよね」「気持ちは分からんでもないが……ベリアルからの依頼内容が基本的に碌でもないものしかないのは別に、今に始まったことではなかろう?」「それはそう。出来ることなら、彼からの依頼なんて一つも引き受けたくないけれど」 憂いを帯びた目で、小さな溜め息をほっと一つ吐くセラフィナ……草臥れたその様子からは、まだ齢十六の清らかで可愛らしい少女とはとても思えない、何とも言えない哀愁が漂っている。 セラフィナの隣では、やや寝不足気味なのかキリエが彼女の肩に寄り掛かりながら静かな寝息を立てており、対面では目の下に隈を作ったシェイドが黙々と愛用する武器の手入れをしていた。 この場に存在する全員が草臥れているのは、最早呪いか何かの類ではなかろうか。物理的、精神的の違いはあれど、全員が草臥れているとは、悪い意味で奇跡的なメンバー構成である。 果たしてこのメンバーで無事に役目を終え、生きて再び故郷の土を踏めるのだろうか。既に草臥れている面々を見ていると、些か不安になってくる。 恐らく、全く同じことをシェイ