遥かなる天空──天空の神ソルの居城。
返り血に塗れた一柱の天使はひらりと舞い降りると、手にした袋からポタポタと赤い雫が滴り落ちることなど意にも介さず、そのままソルの坐す玉座の間へと歩を進める。 ラッパを首から提げ、長い黒髪を後ろで一つ結びにしたその天使の眉間には皺が寄っており、額には薄らと癇癪筋が浮かんでいる。目は血走っており、凛々しい顔立ちが台無しであるが、本人にそれを指摘したとて徒に、火に油を注ぐだけであろう。 玉座の間へと通じる門は固く閉ざされており、門の前には何人たりとも中へは入れぬと言わんばかりに天使長ミカエルが悠然と佇んでいた。 「──例の遥かなる天空──天空の神ソルの居城。 返り血に塗れた一柱の天使はひらりと舞い降りると、手にした袋からポタポタと赤い雫が滴り落ちることなど意にも介さず、そのままソルの坐す玉座の間へと歩を進める。 ラッパを首から提げ、長い黒髪を後ろで一つ結びにしたその天使の眉間には皺が寄っており、額には薄らと癇癪筋が浮かんでいる。目は血走っており、凛々しい顔立ちが台無しであるが、本人にそれを指摘したとて徒に、火に油を注ぐだけであろう。 玉座の間へと通じる門は固く閉ざされており、門の前には何人たりとも中へは入れぬと言わんばかりに天使長ミカエルが悠然と佇んでいた。 「──例のものは?」 労いの言葉すら掛けることなくミカエルが問うと、相対するその天使は袋から生首を取り出し、苛立たしげにそれをミカエルへと無造作に放り投げた。 それは、主たるソルに見切りをつけ堕天しようとした叛逆者の首であった。 白装束に血が付き、ミカエルは心底嫌そうに眉をひそめるも、相手は煽るように嘲笑するのみ。どうやら、ミカエルやソルに対し、強い不満を抱いている様子だった。 「……今回だけは不問としよう、同族殺しのラグエル。主より賜った我が装束を、叛逆者の汚らわしい血で穢したことを」 ラグエル──それが、血走った目でミカエルを睨み付ける天使の名前だった。 その名の意味は"神の友人"。だが、名前に反してソルに謁見することは許されておらず、与えられた役割も誰もが忌み嫌うような汚れ仕事ばかりだった。 彼の役割は、"光の世界に復讐する者"。他の天使たちの行いを監視し、場合によっては対象を叛逆者として処断する者である。それと同時に、ラッパを吹き鳴らしてソルの代わりに地上に天罰を与える役目も担っていた。 故に、他の天使たちからは"同族殺しのラグエル"と呼ばれて蛇蝎の如く嫌われており、そんな彼に優しく接してくれる者は地上に降りた際に出逢った人間や、大天使ガブリエル、先日堕天したサリエルくらいのものであった。 「不問、だと……? ふっ、笑わせてく
セラフィナの命を狙い、複数体の蝿の王ベルゼブブがエリュシオンより飛来し彼女を襲撃した事件は、偶然近くを飛行していた鷲に扮したベリアルの分身体が目撃していたこともあり、小一時間も経たぬうちにハルモニア皇帝ゼノンの耳に届いていた。 「──敵は判断を見誤ったか? 墓標都市エリュシオンにセラフィナたちを誘い込むものとばかり思っていたが……」 玉座の肘掛けに軽く頬杖をつきながらゼノンが問うと、報告に上がったベリアルは銀色に輝く自身の髪の毛先を指先でくるくると弄りながら、白い歯を見せニヤリと笑う。 「半分正解で、半分は誤りですね陛下。狡猾にして悪辣なる"獣の王"が、セラフィナを自勢力に引き込むべくエリュシオンに誘い込もうとしているのは紛れもない事実です」 「ほぅ……此度の襲撃は即ち、敵が必ずしも一枚岩ではないことの証左と言ったところか? "獣の王"の方針に不満を持ち、セラフィナの息の根を止めようとしている者が敵組織の内部にいると?」 「その通りに御座います、陛下。此度の襲撃を担った、堕罪者の突然変異体──セラフィナたちは仮にベルゼブブと呼称しているようですが──それらの襲撃の意味するところは即ち、セラフィナを引き込まれると困る者が敵の中にいるということに他なりません」 自らの力に絶対の自信を持ちつつも、それでいて格上の強者に対する妬みの感情を強く持つ者。自分より優れた者が存在することを快く思わない者。 そのような相反する性質を有するのは、決して人間だけではない。天空の神ソルがそうであるように、天使や堕天使もまたそれと同様の性質を有する。 「そういう手合いは往々にして、身内の足を引っ張る厄介な存在になります。下手をすれば、身内を破滅へと導きかねない危険極まりない災厄そのものに、ね」 「……真に恐れるべきは有能な敵に非ず。真に恐れるべきは即ち、無能な味方なり。"獣の王"も決して、全知全能という訳ではないらしいな?」 「いえ、優秀には違いないでしょうが……組織がまだ小さかった頃、猫の手も借りたいとやむなく重用した者が、若しかすると幹部たちの中に居るのかもしれま
帝都アルカディアでも屈指の良血馬と言うだけあり、マスティマの走りはまるで、脚に翼が生えているかのようであった。 軍馬にしてはやや小柄な馬格であったが、その身に備えたる体力も、それまで乗ってきた馬たちとは一線を画するものがあり、乗り手のシェイドとキリエも思わず嘆息する程であった。 マルコシアスと共に草原を軽やかに駆け抜けるその様は、見る者によっては黒い稲妻を想起させたことだろう。 初日の移動距離は、以前"黒鉄の幽鬼"ラルヴァの行方を追っていた時と比較しても、やはりかなりの差があった。マスティマを下賜してくれたハルモニア皇帝ゼノンには、感謝してもしきれない。 夕刻── 近くに宿泊出来る町や村がなかったため、その日は野宿で夜を明かすことになった。 シェイドが森へ焚き火のための木の枝を取りに行き、キリエが近くの川辺で水を汲んでくる。セラフィナはマルコシアスと共にその場に残り、マスティマと荷物を魔族の襲来から守る。何時もの役割分担をし、各々は散開していた。「……よしよし。良い子、良い子」 嘶きながら顔を寄せてくるマスティマの首筋や鬣を優しく撫でてやりながら、セラフィナは素晴らしい走りを見せた彼を労う。 喜ぶだろうかと荷物の中から林檎を取り出し、何となくマスティマに差し出してみると、彼は迷うことなく林檎を器用に食し始める。大好物だったのだろうか──幸せを噛み締めている様子の彼を見ていると、微笑ましかった。 どれくらい、時が経っただろうか。「──セラフィナ」 氷を思わせるカイムの声に、セラフィナはハッと我に返った。気が付くと場に立ち込める空気の中に、明確な殺意と敵意が混ざっている。「アルカディアより北は、既に敵地だと思え──馬如きに現を抜かして警戒を緩めるとは、お世辞にもお前らしいとは言えないなぁ?」 先刻、アモンを挑発していた彼の嘴を無理矢理塞いで黙らせたことを根に持っているのか、カイムの言葉にはほんの少しだけ棘がある。「……ごめん」
帝都アルカディアの正門前にバアルがドラゴンを着陸させると、タイミングを計ったかのようにアモンが一頭の青毛の軍馬を伴い、正門を潜って姿を現した。 「──こうして顔を合わせるのは久方ぶりであるな、三人とも。元気そうで何よりだ」 ドラゴンの背より降り立ったセラフィナたちの顔を順番に見つめると、アモンはほんの少しだけ嬉しそうに目を細める。思えば都市国家アッカドの一件以降、彼とは一度も顔を合わせていなかった。 「──後のことは任せるぞ、アモン。私は皇帝陛下に、セラフィナたちをこの帝都アルカディアまで無事に送り届けたことを報告せねばならぬのでな」 「うむ──任された、バアル」 アモンが頷くのを確認すると、バアルはドラゴンに無言で指示を出し、そのままアルカディアの丘に聳え立つ大神殿へと飛び去っていった。 「ほぅ……? 以前よりも、心做しか逞しくなったように見えるな。実に良い顔をしておる」 バアルと全く同じようなことを言いつつも、アモンはセラフィナたちを労うように、それぞれの肩をポンポンと軽く叩く。彼女たちの無事の帰還を、心から喜んでいる様子だった。 「……そうやって善人ぶるのは楽しいか、アモン?」 何処か醒めたような目で、セラフィナの左肩に留まっていたカイムが問うと、アモンは大きな溜め息を一つ吐きながら、セラフィナに尋ねる。 「セラフィナよ……其方、何時の間に此奴(カイム)と知り合った?」 「一ヶ月と少し前くらい、だったかな? エリゴールに紹介してもらってね。それから今日に至るまでずっと、彼の助力を得ているけど……それが、どうかした?」 「いや、エリゴールの紹介ならば別に良いのだが……何か変なことを、此奴に吹き込まれていないかと思ってな」 珍しく露骨に嫌そうな顔をするアモン。余程、カイムのことを好いていないらしい。 そんなアモンを嘲るように、カイムが再度口を開く。 「変なことは吹き込んでおらぬ。あぁ……変なことは一つも、セラフィナたちには吹き
サロメたちの会話を見聞きしていたアスモデウスは、直ちにベリアルに報告書を作成して送るべく、潜伏先であるアイネイアスの屋敷へと帰還していた。 当代アイネイアスは数年前に先代の死を受け代替わりしたばかりの青年であったが、ハルモニア独立戦争の英雄の末裔であることを誇りとする気高い人物であった。 墓標都市エリュシオン、アイネイアス邸── 「──お戻りになられましたか、アスモデウス卿」 自らの執務室に転移魔法で音もなく姿を現したアスモデウスを見ても驚く様子もなく、アイネイアスはほんの少しだけぎこちない笑みを、若さ溢れる精悍なる顔に浮かべる。 「あぁ、戻ったとも。当代アイネイアス……ハルモニア独立戦争の英雄アイネイアスの末裔よ。其方にとって、あまり宜しくない情報が手に入ってな──」 来客用のソファーにどっかりと腰を下ろすと、統治者たるアイネイアスの執務を補佐する秘書官が、手慣れた様子でアスモデウスに紅茶を勧めてくる。 「うむ──お役目、ご苦労」 アスモデウスが労いの言葉を掛けると、アイネイアスと同い年くらいのその女性秘書官は小首を傾げながらにこっと笑った。彼女はアイネイアスの幼馴染である貴族令嬢で、花嫁修業も兼ねて彼の秘書官をやっていると聞いている。 「ハルモニア独立戦争の英雄、初代アイネイアスの遺物が盗まれた。生前、奴が愛用していた剣が、な。墓所の夜警に当たっていた衛兵も皆、何者かによって殺されたぞ」 紅茶を口に含みつつ、ベリアルへ提出するための報告書を作成するアスモデウス。手書きであるにも関わらず、記されてゆく字はまるで、印刷でもされているかの如く整然としている。 「何と……遂に、我が先祖の墓まで荒らされるとは……」 「まぁ、そう気を落とすな。其方の治める、この墓標都市エリュシオンの墓所は広大──相手の動きを完全に予測して動くなど、無理とは言わんが不可能に近かろう」 慰めにはならんだろうが、と口では言いつつも、アスモデウスは項垂れるアイネイアスに慰めの言葉を掛けてやる。その間も、報告を纏
墓標都市エリュシオンの"地下墳墓(カタコンベ)"──錆び付いた剣を小さな両腕に抱えながら、赤い靴を履いた十歳前後の少女が薄暗い回廊を進んでゆく。 コツコツ、コツコツと、静寂に支配された回廊に少女の足音と、やや舌足らずな歌声が響く。 ──"星降る荒野に行こうよ" ──"天地の娘に連れられて" ──"地は亡く、天は泣いてるよ" ──"痛みと苦しみに悶えながら" ──"皆で逝こうよ、渾沌(まろかれ)の元に" ──"痛みも苦しみもなくなるから" ──"泥の中に身を委ねて" ──"どうか、永久の安息を" 好きな人に褒めて貰うことでも想像しているのか、少女の様子は何処か楽しげで──若し、誰かがその光景を見たならば、あまりの不気味さに言葉を失ったことであろう。 薄暗い地下墳墓の中で、スキップをしながらご機嫌そうに歌を歌っている天真爛漫なる美少女など、誰がどう見たって異常なのだから。 やがて、少女は一つの部屋へと辿り着くと、少女は元気いっぱいに帰還を報告した。 「──戻ったよ! サロメ様!」 少女の声に、道化師メフィストフェレスと世間話をしていた赤いローブを羽織った二十歳前後の娘──"獣の教団"最高幹部のサロメはくるりと振り向き、端正なるその顔に柔和な笑みを湛えた。 「おかえりなさい、カレン。何か、良いものは見つけることは出来たかしら?」 「うん! 見て、これ!」 赤い靴の少女──カレンは、しっかりと両腕に抱いていた錆び付いた剣を、サロメにそっと手渡した。 「まぁ……何て、素晴らしい遺物なのかしら。これならきっと、良い触媒になるでしょうね」 「えへへ……アイネイアス? って人のお墓で見つけたの。怖いおじさんたちに襲われて、すっごく痛い思いをしたけれど……カレンね、サロメ様に褒めて貰いたくて、一生懸命頑張ったよ!」 その言葉通り、