Masuk私は神宮寺雪菜(じんぐうじ ゆきな)。 妊娠五か月のとき、夫の神宮寺修一(じんぐうじ しゅういち)は、初恋の女――黒沢美波(くろさわ みなみ)のことで、四か月ものあいだ一度も健診に付き添ってくれなかった。 そして五度目の健診の日も、結局また来なかった。 電話越しの声は冷たく、その奥にわずかな苛立ちが混じっていた。 「子どもは俺だけのもんじゃないだろ。母親になるんだから、お前がもう少し頑張ればいい話じゃないか。俺がいないと何もできないのか?」 私は何も言わなかった。 ただ、待合室のテレビに映っている―― 美波に向かってやさしく微笑んでいる修一の姿を、黙って見つめていた。 そして、小さく。 「……うん」 とだけ返した。 修一は私の様子がおかしいことに気づいたらしく、まだ何か言いかけていたけれど、その前に私は通話を切った。 近くでは看護師たちが、修一が美波のために花火を打ち上げたというニュースの話で盛り上がっていた。 ようやくこちらに気づいた看護師が歩み寄ってくる。 「神宮寺さん、妊婦健診はこちらになります」 私は静かに首を横に振った。 そして、落ち着いた声で言った。 「結構です。一週間後の中絶手術を予約してください」
Lihat lebih banyak私は少し戸惑いながら言った。「ま、待って……向こうのことがちゃんと片付いたら、そのときにまた話そう」その瞬間、隼人の目がぱっと明るくなった。まるで子どもみたいに嬉しそうな顔をして、いきなり私を抱き上げる。「ちょ、ちょっと……!」嬉しいのに恥ずかしくて、思わず声が漏れた。そのとき――街灯の下から怒鳴り声が飛んできた。はっとして目を凝らす。そこに立っていたのは、修一だった。表情は険しく、今にも何かしでかしそうなほど張り詰めている。私は静かに修一を見た。「もう決めたの?いつ役所に行くの」修一は目を真っ赤にしたまま、言葉を押し出すように言った。「そんなに俺を信じられないのか」思わず笑ってしまう。彼にとって大事なのは、いつだって私以外の誰かだったのに、何をどう信じろというのだろう。修一は敵意を隠そうともせず隼人を睨みつけた。「……こいつは誰だ」何か言い返そうとした隼人を手で制して、私は首を横に振った。「あなたには関係ないわ。それより、いつ役所に行くの」修一は半月以上も私を探し続けていた。まともに眠ることもできないまま、ようやく居場所を突き止めたのに――目の前にいた私は、別の男と並んで立っている。その瞬間、修一の中で何かが切れた。怒りで視界が狭くなり、理性を失いかけていた。修一は堪えきれないように吐き捨てた。「はは……雪菜。まさかこんなに早く別の男を作るとは思わなかったよ。母さんの言うとおりだな。やっぱりお前はろくな女じゃない。俺は本当に見る目が――」「黙れ!」言い終わる前に、隼人が駆け出していた。次の瞬間には、ふたりはもつれ合うように殴り合っていた。拳のぶつかる鈍い音が続けざまに響く。私は気が気じゃなくて、ふたりの動きがわずかに止まった隙に無理やり間へ割って入った。そして――修一の頬を思いきり叩いた。修一はその場で固まり、目の奥に涙をにじませた。「……こいつのために、俺を叩いたのか?」「そうよ!」隼人のためだけじゃない。今までずっと飲み込んできた悔しさも、踏みにじられてきた気持ちも、全部まとめて返しただけだ。私がほかの男と一緒にいるところを見ただけで、そんなに耐えられないなら――じゃあ私は?彼がほかの女とベッド
「自業自得だろ。告げ口なんかするからだ。ほんと、お前には吐き気がする」美波の顔から、さっきまでの可哀想な表情が一瞬で固まった。瞳の奥で、涙が今にもこぼれそうに揺れている。あれほど自分を愛していた男が、どうしてこんなふうに変わってしまったのか、美波にはわからなかった。しかも相手は、何ひとつ自分に敵わないはずの雪菜なのに。どうしても納得できず、彼女は声を張り上げた。「私は誰のためにこんなことしたと思ってるのよ!あなたがどれだけ父親になりたがってたか知ってたから、私は――」最後まで言わせず、修一はぴしゃりと遮った。「黙れ」修一は美波を見下ろしたまま、小さく首を振った。「今になってもまだ嘘をつくのか。お前が大事なのは、結局自分だけだろ。三年前もそうだったし、三年経っても何も変わってない。どうして昔、お前なんかと付き合ってたのか……本気で後悔してる」そう言い捨てると、顔を真っ青にした美波にはもう目もくれず、そのまま立ち去った。修一の頭の中はぐちゃぐちゃだった。妻も母も――どちらも失いたくなかった。へとへとになって家へ戻ると、家の中は真っ暗だった。胸がどくんと大きく鳴る。落ち着かない足取りで、部屋から部屋へと歩き回った。けれど、家じゅう探しても――会いたくてたまらないその人の姿は、どこにもなかった。胸の奥がすうっと冷えていく。震える手でスマホを取り出し、電話をかける。だが――「お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか……」修一は諦めきれず、続けて何度もかけ直した。それでも返ってくるのは、同じ無機質な音声だけだった。苛立ちまぎれに髪をかきむしり、ふらつくように立ち上がったそのとき――テーブルの上の離婚届が目に入った。しばらく呆然と見つめたあと、手にしていたスマホを壁へ叩きつけた。鈍い音が響き、画面が一瞬で砕け散る。修一はついに堪えきれなくなり、顔を両手で覆ったまま、声を押し殺して泣き出した。私は実家へ戻った。母が遺してくれた部屋があり、父はとっくに再婚していたから、この家にはもう私ひとりしかいない。けれど、寂しいとは思わなかった。むしろ、驚くほど静かで穏やかだった。一週間ほど体を休めたあと、家の近くで仕事を見つけた。私が戻ってきたと知ると、
修一の母は鬼のような形相で修一を怒鳴りつけた。「美波を責めるんじゃないわよ。私が美波に聞いたんだから!」そう言って私を指さし、さらに声を荒らげる。「こんな女とはすぐにでも離婚しなさい!あのとき私があれだけ反対したのに、無理やり結婚するなんて言い出した結果がこれよ!自分の子どもまで殺されて――まだ分からないの?」言うなり修一の母は近くの椅子をつかみ、そのまま私めがけて振り下ろそうとした。修一はとっさに私の前へ出て、それを受け止めると、張り裂けそうな声で怒鳴った。「俺たちのことに口出しするな!父さんだって母さんに追いつめられて離婚したんだろ!今度は俺まで思いどおりにするつもりか!いったい何人の幸せを壊せば気が済むんだよ!」修一の怒声は広いリビングに響き渡った。修一の母の顔から、さっと血の気が引く。震える指で修一を指しながら叫ぶ。「今……何て言ったの?こんな女のために、母親にそんな口をきくの?いいわ……よく分かったわ!」次の瞬間――修一の母は勢いよくテーブルの角に頭を打ちつけた。鈍い音が響き、そのまま床へ崩れ落ちた。「母さん!」修一は駆け寄り、倒れた母を抱き上げると、そのまま外へ飛び出していった。美波は勝ち誇ったように微笑み、わずかに顎を上げて私を見下ろした。「空気が読めるなら、さっさと出ていったほうがいいわよ。ここに居座ってても、余計に惨めになるだけだから」本当は相手にするつもりなんてなかった。けれど、母が作ってくれた漬物を、あのときわざと捨てられたことを思い出した瞬間、胸の奥から怒りが込み上げてきた。私はゆっくり彼女に歩み寄り、そして、その顔をまっすぐ見据えたまま――思いきり頬を打った。突然のことに、美波は何が起きたのか分からないまま呆然としていた。けれど、続けざまにもう一発頬を打たれた瞬間、悲鳴を上げて私に掴みかかってくる。その瞬間、積もり積もっていた怒りが一気に弾けた。私はそのまま彼女を床に押し倒し、何度もその顔を叩いた。美波が泣き叫び始めても、手は止まらなかった。「やっ……やめて!顔が……顔がダメになる!謝る、謝るから……お願い、もうやめて!」手のひらがじんじんと痺れてきたころ、ようやく手を止めた。美波の顔にはくっきりと手形が残
修一の表情が、一瞬で凍りついた。確かめるように、もう一度聞き返す。「……雪菜が、手術を受けているんですか?」看護師はわずかに眉をひそめながら、うなずいた。「はい。中絶手術です。もうすぐ終わる頃だと思います」その言葉が終わるか終わらないかのうちに――手術室の扉が、静かに開いた。まだ眠ったままの私は、ストレッチャーに乗せられて外へ運び出されてくる。修一は血の気の引いた顔のまま、ふらつく足取りで近づいてきた。そして――その視線が、平らになった私の腹部に落ちた瞬間。胸の奥が、引き裂かれるように痛んだ。足元が崩れるみたいに、体の力が抜けた。目の前がぐらりと揺れる。次の瞬間、そばにいた看護師がはっと息をのんだ。修一は、その場に崩れ落ちた。どれくらい眠っていたのか分からない。……目が覚めたときも、体にはまだ重たい疲労が残っていた。テーブルの水に手を伸ばしかけた、そのとき――隣にいた修一が、先にコップを取って私の口元へ運んできた。少しだけ口に含んでから、私はようやく彼の顔を見る。修一はひどく疲れた顔をしていて、目もうっすら赤かった。奥歯を強く噛みしめ、拳を固く握り締めていた。「……どうしてだ」低い声だった。「どうして勝手に、この子を……」そこで言葉が途切れる。それ以上口にすれば、取り返しのつかないことを言ってしまいそうだったのだろう。修一は私を見ようとせず、ただ足元の床だけを見つめていた。「離婚しましょう。あなたは美波と一緒になればいいし、もう私のことは放っておいて」「……健診に付き添わなかった、それだけで離婚するのか?本気で言ってるのか」修一は喉の奥で押し殺すように笑った。そのあと、ぽたりと涙が床に落ちた。彼には理解できなかった。ほんの少し行き違っただけのはずなのに、どうしてここまで取り返しのつかない話になってしまったのか。それは――ひとつの命だったのに。私は静かに彼を見つめたまま、弱った声にわずかな皮肉を混ぜて言う。「そんなに子どもが大事だったなんて、知らなかった。一度だって、この子のこと気にかけたことなんてなかったくせに」修一は言葉を失った。痛いところを突かれたみたいに、何ひとつ言い返せなかった。この数か月、自分の気持ちが