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心に陽だまり

心に陽だまり

Oleh:  パクチー好きの静香Tamat
Bahasa: Japanese
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私は神宮寺雪菜(じんぐうじ ゆきな)。 妊娠五か月のとき、夫の神宮寺修一(じんぐうじ しゅういち)は、初恋の女――黒沢美波(くろさわ みなみ)のことで、四か月ものあいだ一度も健診に付き添ってくれなかった。 そして五度目の健診の日も、結局また来なかった。 電話越しの声は冷たく、その奥にわずかな苛立ちが混じっていた。 「子どもは俺だけのもんじゃないだろ。母親になるんだから、お前がもう少し頑張ればいい話じゃないか。俺がいないと何もできないのか?」 私は何も言わなかった。 ただ、待合室のテレビに映っている―― 美波に向かってやさしく微笑んでいる修一の姿を、黙って見つめていた。 そして、小さく。 「……うん」 とだけ返した。 修一は私の様子がおかしいことに気づいたらしく、まだ何か言いかけていたけれど、その前に私は通話を切った。 近くでは看護師たちが、修一が美波のために花火を打ち上げたというニュースの話で盛り上がっていた。 ようやくこちらに気づいた看護師が歩み寄ってくる。 「神宮寺さん、妊婦健診はこちらになります」 私は静かに首を横に振った。 そして、落ち着いた声で言った。 「結構です。一週間後の中絶手術を予約してください」

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Bab 1

第1話

私は神宮寺雪菜(じんぐうじ ゆきな)。

妊娠五か月のとき、夫の神宮寺修一(じんぐうじ しゅういち)は、初恋の女――黒沢美波(くろさわ みなみ)のことで、四か月ものあいだ一度も健診に付き添ってくれなかった。

そして五度目の健診の日も、結局また来なかった。

電話越しの声は冷たく、その奥にわずかな苛立ちが混じっていた。

「子どもは俺だけのもんじゃないだろ。母親になるんだから、お前がもう少し頑張ればいい話じゃないか。俺がいないと何もできないのか?」

私は何も言わなかった。

ただ、待合室のテレビに映っている――

美波に向かってやさしく微笑んでいる修一の姿を、黙って見つめていた。

そして、小さく。

「……うん」

とだけ返した。

修一は私の様子がおかしいことに気づいたらしく、まだ何か言いかけていたけれど、その前に私は通話を切った。

近くでは看護師たちが、修一が美波のために花火を打ち上げたというニュースの話で盛り上がっていた。

ようやくこちらに気づいた看護師が歩み寄ってくる。

「神宮寺さん、妊婦健診はこちらになります」

私は静かに首を横に振った。

そして、落ち着いた声で言った。

「結構です。一週間後の中絶手術を予約してください」

……

修一に見つけられたとき、私は通りの端にしゃがみ込み、ぼんやりと向かいを見つめていた。

繁華街のいちばん大きな街頭ビジョンには、修一と美波の映像が映し出されている。

肩を並べて花火を見上げるふたりは、どう見ても仲睦まじい恋人同士だった。

そのとき、修一が私の前に立ちふさがり、無言で視界を遮った。

冷えきった表情のまま、乱暴に腕をつかんで立たせる。

「こんな時間に何してるんだ。ただ健診に付き添わなかっただけだろ。少しは分別を持てないのか」

私は、ほんの少しだけ目を見開いた。

結婚してからの二年間――

彼にいちばん言われ続けてきた言葉が、それだった。

少しは分別を持て。

彼のスマホを見せてほしいと言えば、分別がないと言われる。

一緒に公の場に出たいと言っても、やっぱり分別がない。

妊婦健診に付き添ってほしいと頼んだときでさえ、返ってきたのは同じ言葉だった。

もし以前の私だったなら、きっとすぐに謝っていたと思う。

けれど今は違う。

丸く張ったお腹を見下ろしながら――

そんな「分別」なんて、もういらないと思った。

私が何も言わず歩き出すと、修一はすぐに苛立った声を上げた。

「お前、いったいどこへ行くつもりだ」

「フォトスタジオ」

そのひと言に、修一ははっとしたように黙り込んだ。

健診の付き添いと、マタニティフォト。

それが、私が彼にお願いした――たった二つのことだった。

それなのに彼は、そのどちらも覚えていなかった。

修一の顔に一瞬だけ後ろめたさがよぎり、そのまま無言で私をフォトスタジオへ連れていった。

「最近さ、ちょっと物忘れがひどくて。悪かったな」

私は心の中で、そっと笑った。

彼の記憶力は、むしろいいほうだ。

美波の誕生日も。

彼女の好きなお菓子も。

彼女が世に出した作品の発表日まで――きちんと覚えている。

その数は、数十どころか百に届きそうなくらいあるのに。

ただ。

私のことだけは、忘れてしまうのだ。

物思いに沈んでいるうちに、気がつけば車は目的地に着いていた。

顔を上げた瞬間、全身が強ばる。

そこは――美波の店だった。

彼女がこの街に戻ってきた初日から、修一がひとりの女のために店の場所まで吟味していたことを、私は知っていた。

店の名は「十年の記憶」。

ふたりが積み重ねてきた十年を、そのまま形にしたような名前だった。

若いころに恋をして、美波は夢を追ってヨーロッパへ渡り、修一は――腹いせのように私と結婚した。

それなのに結婚して二年後、その美波がまた戻ってきた。

雨の中で一度泣かれただけで、修一は彼女を許し、そして何事もなかったかのように、昔のふたりへ戻っていった。

まるで一夜にして、横から割り込んだのが私のほうだったみたいに。

けれど――

こんな中途半端な関係に、もうこれ以上付き合うつもりはなかった。

ドアにかけた手にぎゅっと力がこもる。

そこが美波の店だと思った途端、踏み込むのをためらった。

けれど修一は私の手首を取って、そのまま店の中へ引き入れた。

美波はすぐにこちらへ歩いてきた。

すらりとした体つきに、艶のある黒髪をゆるくまとめていて、肩の力の抜けた、自然な上品さがある。

顔色が悪く、手足までむくんでいる今の私とは――

比べることすらむなしかった。

店員は修一を見るなり、にこにこと笑って言った。

「修一さん、また美波さんに会いに来たんですね」

修一の表情が固まり、すぐに私のほうをうかがうように視線を向ける。

美波は小さく笑って、その子をたしなめた。

「そんなこと言わないの。この方は修一の奥さまよ」

それから私へ微笑みかける。

「雪菜、気にしないでね。まだ若い子だから、ちょっと思ったことをそのまま言っちゃうだけなの」

そう言うと、何事もなかったかのように私の手を取り、服を見せはじめた。

私が終始淡々としていたせいか、美波は何度かこちらをうかがい、本当に動じていないとわかると、わずかに皮肉めいた笑みを浮かべた。

そのとき私の目は、目の前に掛けられていた一着のロングドレスに留まっていた。

真珠のような白で、どこか清らかな気配があった。

試着してみようと手を伸ばした、その瞬間――

修一が横から私の手を押さえた。

低い声で言う。

「それはやめて、別のにしろ」

どうして、と顔を上げた私は――

壁に飾られていた、修一と美波のツーショット写真を目にした。
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第1話
私は神宮寺雪菜(じんぐうじ ゆきな)。妊娠五か月のとき、夫の神宮寺修一(じんぐうじ しゅういち)は、初恋の女――黒沢美波(くろさわ みなみ)のことで、四か月ものあいだ一度も健診に付き添ってくれなかった。そして五度目の健診の日も、結局また来なかった。電話越しの声は冷たく、その奥にわずかな苛立ちが混じっていた。「子どもは俺だけのもんじゃないだろ。母親になるんだから、お前がもう少し頑張ればいい話じゃないか。俺がいないと何もできないのか?」私は何も言わなかった。ただ、待合室のテレビに映っている――美波に向かってやさしく微笑んでいる修一の姿を、黙って見つめていた。そして、小さく。「……うん」とだけ返した。修一は私の様子がおかしいことに気づいたらしく、まだ何か言いかけていたけれど、その前に私は通話を切った。近くでは看護師たちが、修一が美波のために花火を打ち上げたというニュースの話で盛り上がっていた。ようやくこちらに気づいた看護師が歩み寄ってくる。「神宮寺さん、妊婦健診はこちらになります」私は静かに首を横に振った。そして、落ち着いた声で言った。「結構です。一週間後の中絶手術を予約してください」……修一に見つけられたとき、私は通りの端にしゃがみ込み、ぼんやりと向かいを見つめていた。繁華街のいちばん大きな街頭ビジョンには、修一と美波の映像が映し出されている。肩を並べて花火を見上げるふたりは、どう見ても仲睦まじい恋人同士だった。そのとき、修一が私の前に立ちふさがり、無言で視界を遮った。冷えきった表情のまま、乱暴に腕をつかんで立たせる。「こんな時間に何してるんだ。ただ健診に付き添わなかっただけだろ。少しは分別を持てないのか」私は、ほんの少しだけ目を見開いた。結婚してからの二年間――彼にいちばん言われ続けてきた言葉が、それだった。少しは分別を持て。彼のスマホを見せてほしいと言えば、分別がないと言われる。一緒に公の場に出たいと言っても、やっぱり分別がない。妊婦健診に付き添ってほしいと頼んだときでさえ、返ってきたのは同じ言葉だった。もし以前の私だったなら、きっとすぐに謝っていたと思う。けれど今は違う。丸く張ったお腹を見下ろしながら――そんな「分別」なんて、
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第2話
あの写真の中で彼女が着ていたのは、まさにそのドレスだった。それに気づいた瞬間、胸の奥がざらりと波立った。私は何も言わず、すぐ別の一着に手を伸ばした。体をすり抜けるようにして試着室へ入ろうとした、そのときだった。背後で店員が口元を押さえながら、くすくす笑う声が聞こえた。「美波さん、ドレスがかぶっても別に問題ないですよ。似合わないほうが気まずいだけですし。ほら、あの人すぐ別のに替えましたよ」美波はふっと笑った。けれどそれは余裕でも優しさでもない。はっきりとした――侮りだった。それでも、私は何とも思わなかった。着替えを終えると、私は静かに椅子へ腰を下ろした。修一が私の隣に立ち、そっと肩を抱き寄せる。シャッターが切られる――その直前だった。美波が突然胸を押さえ、その場に崩れ落ちた。「修一、苦しい……」肩に置かれていた手が、するりと離れる。修一は血相を変えて駆け寄り、そのまま彼女を抱き上げて外へ出ていった。最後まで、一度もこちらを振り返らなかった。店員が気の毒そうな目で私を見る。けれど私は背筋を伸ばしたまま、微笑んで言った。「続けてください」店員は一瞬きょとんとしたあと、小さく口をへの字に曲げ、それでも黙って撮影を続けた。撮影が終わるころには、不思議と心が静かになっていた。私は満ち足りた気持ちで、その場をあとにした。これは私とこの子だけの記憶だ。あの人がいてもいなくても、もうどうでもいい。店を出てから、外の風が思っていたよりずっと強いことに気づいた。仕方なく、私は近くのホテルに入った。ベッドに横になって間もなく、スマホが震えはじめた。修一からだった。出る気にはなれず、そのまま放っておいた。三回続いたあと、ようやく着信は止まった。うとうとしかけたころ、今度はメッセージが一件届いた。開いてみると――修一の腕の中に収まっている美波の写真だった。しかも彼女が着ていたのは、私のパジャマだった。五秒もしないうちに、そのメッセージは取り消された。続いて、短いメッセージが届く。【ごめん、間違えて送っちゃった】わざとだと、すぐにわかった。けれど不思議と、腹は立たなかった。私はスマホの画面を閉じ、そのまままた眠りに落ちた。翌朝、タクシーで家に戻っ
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第3話
部屋の空気が、凍りついたように止まった。誰もが顔を見合わせ、言葉を失っている。ただ、気まずさだけが重く漂っていた。修一がそっと私の肩を押さえ、声を潜めて言った。「美波が捨てたんだ。菌があるかもしれないって。お前の体を心配してのことだよ」……私のため?私は食べるつもりなんてなかった。まして、彼女に食べさせるつもりもなかった。それなのに、どうして勝手に捨てていいことになるの。そうだ。この人は昔からずっとそうだった。私を諭すことばかりで、私に向けるべき最低限の敬意すらくれたことがない。まして、私が大切にしているものなんて――気にかけたことさえ、なかった。涙がぽたぽたと床に落ちていく。修一は一瞬だけ戸惑ったような顔をして、私の頬に手を伸ばしかけた。私はその手を、力いっぱい振り払った。その瞬間――「きゃっ!」美波の甲高い悲鳴が部屋に響いた。彼女は修一をかばうように前に立ち、怒った顔で私を睨む。「雪菜、漬物を捨てたのは私よ。文句があるなら、私に言って」英司まで不機嫌そうに口を開いた。「たかが漬物ひとつだろ。そこまで騒ぐことかよ。空気悪くなるじゃないか」翔也も露骨にうんざりした顔で言う。「美波は生物学専攻だったんだぞ。お前よりよっぽど詳しいだろ。せっかく気を遣ってやったのに、恩知らずだな」――みんな、美波の味方だった。まるで私が、ひとりで騒ぎ立てる面倒な女みたいに。そのうえ、彼らの修一を見る目には、同情まで浮かんでいる。こんな女とよく結婚したものだ――そう言いたげな視線だった。でも、そんなことはどうでもよかった。本当にどうでもいい。私が気にしているのは――母が、私のために作ってくれた漬物。ただ、それだけだった。涙が床に落ちる。私はその場に膝をつき、ゴミの中から漬物を拾い上げようと手を伸ばした。「何してるんだよ!」修一が慌てて腕を掴もうとする。「まだ妊娠中なんだぞ!」その言葉に、美波の目が揺れた。彼女は慌てたように私のそばへしゃがみ込み、震える声で言った。「……ごめんなさい。私が悪かった。私も一緒に拾うから」口では殊勝なことを言いながら――その指先は、容赦なく私の手の甲に食い込んできた。鋭い痛みに体がびくっと跳ねる。私は反射
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第4話
【あんたが横から割り込んだから別れたんでしょ。ほんと最低。人の男奪っといて何様?】【妊娠してるんだって?だったら早く堕ろしなよ。絶対産まないで。美波がかわいそうでしょ】【もう美波の方選んでるでしょ。しがみついても無駄だって。いい加減、二人の邪魔するのやめなよ】騒ぎは日に日に大きくなり、三日間もニュースの話題を独占していた。修一が私の置かれている状況を知らないはずがないのに、彼は何ひとつ動かなかった。わかっていた。彼は、私が折れるのを待っているだけだった。私たちの関係の中で、いつだって強いのは彼のほうだったから。着る服にも口を出して、食べるものにも口を出して、しまいには私の行動まで把握しようとする。やさしさは全部、美波に向けて。私に向けられるのは、強引さと冷たさだけだった。自分は私がいなくても平気でいられるって思わせておきながら、私には、彼がいなきゃ何も残らないと思い込ませようとしていた。昔みたいに、また私が泣いて謝るのを待っていたんだ。そしてもう一度、自分の腕の中に閉じ込めて――どこにも行けないまま大人しくしていろって。でも――もう、あの頃の私じゃなかった。だから四日目に、修一は戻ってきた。その日はひどい雨だった。彼は全身ずぶ濡れで、どれだけ外に立っていたのかもわからないほどだった。私を見る目は暗く複雑で、悲しそうにも、どこか傷ついたようにも見えた。こちらへ歩き出しかけて――ふいに自分の体が冷え切っていることに気づいたらしい。慌てて上着を脱ぎ捨てる。それから私を抱きしめ、くぐもった声で言った。「健診はもう予約してある。今度は絶対、俺も一緒に行く。漬物のことも……悪かった。あのときは俺が止めるべきだった。変な噂もただの行き違いだ。もう会社にも話は通してある。これ以上、お前が悪く言われることはない」修一は黙ったまま私を見つめていた。――またここで、私が折れるのを待っている。突き放しておいて、最後に少しだけやさしくする。それが、彼のいつものやり方だった。でも私は知っている。美波がいる限り、修一が最後に切り捨てるのは――いつだって私だ。こんなふうに、誰かと取り合うみたいな関係には、もう疲れていた。私は何も言わず、そのまま寝室へ戻った。修一があとを追
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第5話
そのころ、美波の家に駆けつけた修一は――はじめて本気で怒っていた。美波が自殺したふりまでして自分を呼びつけたことが、どうしても信じられなかったのだ。だまされたような感覚に引きずられるようにして、昔のことまで一気によみがえってくる。長く付き合ってきたとはいえ、美波は昔から自分勝手だった。気分しだいで無茶なことを繰り返し、新しい相手が現れれば曖昧な態度を取り、海外でやりたいことがあると言い出したかと思えば、あっさり別れを切り出した。若いころは、それでも許せた。けれど三十を目前にした今の彼には、そんな振り回される関係に付き合っている余裕はなかった。黙ったまま外へ出ていこうとする修一を見て、美波は笑いながら後ろから抱きついた。唇を尖らせ、甘えるような声で言う。「だって修一が全然相手してくれないんだもの。電話したって全然出てくれないし……私、泣きすぎて目まで腫れちゃった」いつもの調子だった。振り向いて、心配してくれるのを待っているのが見え透いていた。けれど次の瞬間――修一は荒っぽくその腕を振りほどいた。美波に向けられた目には、隠しきれない嫌悪が浮かんでいた。その視線に、美波の胸がひやりと冷える。修一がこんな目で自分を見るのは、はじめてだった。彼女はすぐに不満そうに眉を寄せた。「ちょっと冗談言っただけじゃない。そんなに怒ること?それとも雪菜が私の悪口でも言ったの?私、もう身を引いたのに……それでもまだ足りないの?私がいなくなれば満足?」その言葉に、修一の表情がわずかに歪んだ。胸の奥で、苛立ちがじわじわと膨れ上がっていく。「あいつがお前の悪口なんて言うわけないだろ。一言も言ってない」それどころか――雪菜は、彼がここへ来ることさえ受け入れていたのに、美波は勝手に悪意として受け取っている。修一は初めて、雪菜が報われないと思った。同時に、彼女のよさを痛いほど思い知らされた。雪菜は、人のいないところで誰かを悪く言うような女じゃない。美波みたいに、自分のことしか考えない女でもない。いつだって静かで、余計なことで人と張り合おうともしなかった。たとえ腹を立てても、少し宥めればそれで済んでしまう――そんな女だった。修一はもう、美波とこれ以上話す気にもなれなかった。背を向けて立ち去ろうと
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第6話
修一の表情が、一瞬で凍りついた。確かめるように、もう一度聞き返す。「……雪菜が、手術を受けているんですか?」看護師はわずかに眉をひそめながら、うなずいた。「はい。中絶手術です。もうすぐ終わる頃だと思います」その言葉が終わるか終わらないかのうちに――手術室の扉が、静かに開いた。まだ眠ったままの私は、ストレッチャーに乗せられて外へ運び出されてくる。修一は血の気の引いた顔のまま、ふらつく足取りで近づいてきた。そして――その視線が、平らになった私の腹部に落ちた瞬間。胸の奥が、引き裂かれるように痛んだ。足元が崩れるみたいに、体の力が抜けた。目の前がぐらりと揺れる。次の瞬間、そばにいた看護師がはっと息をのんだ。修一は、その場に崩れ落ちた。どれくらい眠っていたのか分からない。……目が覚めたときも、体にはまだ重たい疲労が残っていた。テーブルの水に手を伸ばしかけた、そのとき――隣にいた修一が、先にコップを取って私の口元へ運んできた。少しだけ口に含んでから、私はようやく彼の顔を見る。修一はひどく疲れた顔をしていて、目もうっすら赤かった。奥歯を強く噛みしめ、拳を固く握り締めていた。「……どうしてだ」低い声だった。「どうして勝手に、この子を……」そこで言葉が途切れる。それ以上口にすれば、取り返しのつかないことを言ってしまいそうだったのだろう。修一は私を見ようとせず、ただ足元の床だけを見つめていた。「離婚しましょう。あなたは美波と一緒になればいいし、もう私のことは放っておいて」「……健診に付き添わなかった、それだけで離婚するのか?本気で言ってるのか」修一は喉の奥で押し殺すように笑った。そのあと、ぽたりと涙が床に落ちた。彼には理解できなかった。ほんの少し行き違っただけのはずなのに、どうしてここまで取り返しのつかない話になってしまったのか。それは――ひとつの命だったのに。私は静かに彼を見つめたまま、弱った声にわずかな皮肉を混ぜて言う。「そんなに子どもが大事だったなんて、知らなかった。一度だって、この子のこと気にかけたことなんてなかったくせに」修一は言葉を失った。痛いところを突かれたみたいに、何ひとつ言い返せなかった。この数か月、自分の気持ちが
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第7話
修一の母は鬼のような形相で修一を怒鳴りつけた。「美波を責めるんじゃないわよ。私が美波に聞いたんだから!」そう言って私を指さし、さらに声を荒らげる。「こんな女とはすぐにでも離婚しなさい!あのとき私があれだけ反対したのに、無理やり結婚するなんて言い出した結果がこれよ!自分の子どもまで殺されて――まだ分からないの?」言うなり修一の母は近くの椅子をつかみ、そのまま私めがけて振り下ろそうとした。修一はとっさに私の前へ出て、それを受け止めると、張り裂けそうな声で怒鳴った。「俺たちのことに口出しするな!父さんだって母さんに追いつめられて離婚したんだろ!今度は俺まで思いどおりにするつもりか!いったい何人の幸せを壊せば気が済むんだよ!」修一の怒声は広いリビングに響き渡った。修一の母の顔から、さっと血の気が引く。震える指で修一を指しながら叫ぶ。「今……何て言ったの?こんな女のために、母親にそんな口をきくの?いいわ……よく分かったわ!」次の瞬間――修一の母は勢いよくテーブルの角に頭を打ちつけた。鈍い音が響き、そのまま床へ崩れ落ちた。「母さん!」修一は駆け寄り、倒れた母を抱き上げると、そのまま外へ飛び出していった。美波は勝ち誇ったように微笑み、わずかに顎を上げて私を見下ろした。「空気が読めるなら、さっさと出ていったほうがいいわよ。ここに居座ってても、余計に惨めになるだけだから」本当は相手にするつもりなんてなかった。けれど、母が作ってくれた漬物を、あのときわざと捨てられたことを思い出した瞬間、胸の奥から怒りが込み上げてきた。私はゆっくり彼女に歩み寄り、そして、その顔をまっすぐ見据えたまま――思いきり頬を打った。突然のことに、美波は何が起きたのか分からないまま呆然としていた。けれど、続けざまにもう一発頬を打たれた瞬間、悲鳴を上げて私に掴みかかってくる。その瞬間、積もり積もっていた怒りが一気に弾けた。私はそのまま彼女を床に押し倒し、何度もその顔を叩いた。美波が泣き叫び始めても、手は止まらなかった。「やっ……やめて!顔が……顔がダメになる!謝る、謝るから……お願い、もうやめて!」手のひらがじんじんと痺れてきたころ、ようやく手を止めた。美波の顔にはくっきりと手形が残
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第8話
「自業自得だろ。告げ口なんかするからだ。ほんと、お前には吐き気がする」美波の顔から、さっきまでの可哀想な表情が一瞬で固まった。瞳の奥で、涙が今にもこぼれそうに揺れている。あれほど自分を愛していた男が、どうしてこんなふうに変わってしまったのか、美波にはわからなかった。しかも相手は、何ひとつ自分に敵わないはずの雪菜なのに。どうしても納得できず、彼女は声を張り上げた。「私は誰のためにこんなことしたと思ってるのよ!あなたがどれだけ父親になりたがってたか知ってたから、私は――」最後まで言わせず、修一はぴしゃりと遮った。「黙れ」修一は美波を見下ろしたまま、小さく首を振った。「今になってもまだ嘘をつくのか。お前が大事なのは、結局自分だけだろ。三年前もそうだったし、三年経っても何も変わってない。どうして昔、お前なんかと付き合ってたのか……本気で後悔してる」そう言い捨てると、顔を真っ青にした美波にはもう目もくれず、そのまま立ち去った。修一の頭の中はぐちゃぐちゃだった。妻も母も――どちらも失いたくなかった。へとへとになって家へ戻ると、家の中は真っ暗だった。胸がどくんと大きく鳴る。落ち着かない足取りで、部屋から部屋へと歩き回った。けれど、家じゅう探しても――会いたくてたまらないその人の姿は、どこにもなかった。胸の奥がすうっと冷えていく。震える手でスマホを取り出し、電話をかける。だが――「お掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか……」修一は諦めきれず、続けて何度もかけ直した。それでも返ってくるのは、同じ無機質な音声だけだった。苛立ちまぎれに髪をかきむしり、ふらつくように立ち上がったそのとき――テーブルの上の離婚届が目に入った。しばらく呆然と見つめたあと、手にしていたスマホを壁へ叩きつけた。鈍い音が響き、画面が一瞬で砕け散る。修一はついに堪えきれなくなり、顔を両手で覆ったまま、声を押し殺して泣き出した。私は実家へ戻った。母が遺してくれた部屋があり、父はとっくに再婚していたから、この家にはもう私ひとりしかいない。けれど、寂しいとは思わなかった。むしろ、驚くほど静かで穏やかだった。一週間ほど体を休めたあと、家の近くで仕事を見つけた。私が戻ってきたと知ると、
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第9話
私は少し戸惑いながら言った。「ま、待って……向こうのことがちゃんと片付いたら、そのときにまた話そう」その瞬間、隼人の目がぱっと明るくなった。まるで子どもみたいに嬉しそうな顔をして、いきなり私を抱き上げる。「ちょ、ちょっと……!」嬉しいのに恥ずかしくて、思わず声が漏れた。そのとき――街灯の下から怒鳴り声が飛んできた。はっとして目を凝らす。そこに立っていたのは、修一だった。表情は険しく、今にも何かしでかしそうなほど張り詰めている。私は静かに修一を見た。「もう決めたの?いつ役所に行くの」修一は目を真っ赤にしたまま、言葉を押し出すように言った。「そんなに俺を信じられないのか」思わず笑ってしまう。彼にとって大事なのは、いつだって私以外の誰かだったのに、何をどう信じろというのだろう。修一は敵意を隠そうともせず隼人を睨みつけた。「……こいつは誰だ」何か言い返そうとした隼人を手で制して、私は首を横に振った。「あなたには関係ないわ。それより、いつ役所に行くの」修一は半月以上も私を探し続けていた。まともに眠ることもできないまま、ようやく居場所を突き止めたのに――目の前にいた私は、別の男と並んで立っている。その瞬間、修一の中で何かが切れた。怒りで視界が狭くなり、理性を失いかけていた。修一は堪えきれないように吐き捨てた。「はは……雪菜。まさかこんなに早く別の男を作るとは思わなかったよ。母さんの言うとおりだな。やっぱりお前はろくな女じゃない。俺は本当に見る目が――」「黙れ!」言い終わる前に、隼人が駆け出していた。次の瞬間には、ふたりはもつれ合うように殴り合っていた。拳のぶつかる鈍い音が続けざまに響く。私は気が気じゃなくて、ふたりの動きがわずかに止まった隙に無理やり間へ割って入った。そして――修一の頬を思いきり叩いた。修一はその場で固まり、目の奥に涙をにじませた。「……こいつのために、俺を叩いたのか?」「そうよ!」隼人のためだけじゃない。今までずっと飲み込んできた悔しさも、踏みにじられてきた気持ちも、全部まとめて返しただけだ。私がほかの男と一緒にいるところを見ただけで、そんなに耐えられないなら――じゃあ私は?彼がほかの女とベッド
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