تسجيل الدخول「違う……違うんだ……」「私が返してほしかったのは、お金だけじゃない」声は大きくなかった。けれど、直人の肩が小さく震えた。「お金なら返せる。書面に残る借りなら、いつかは返し終えられる。でも、母が最後まであなたを待っていた時間は? あなたに会えないまま逝った母の気持ちは、どうやって返すの?あなたが本当に謝る相手は、最初から私じゃない。母よ」私は墓石を指さした。直人は息をのんだ。そのときようやく、自分が何を踏みにじったのか分かったのかもしれない。喉の奥から嗚咽を漏らし、そのままぬかるんだ地面に崩れ落ちた。墓前で、額が地面につきそうになるほど何度も頭を下げた。「おばさん、ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……俺が悪かったんです……美緒も、おばさんも傷つけました……」私はもう直人を見なかった。背を向け、霊園の出口へ向かって歩き出した。「美緒――!行かないでくれ!俺を置いていかないでくれ!」背後から、直人の泣き叫ぶ声が何度も響いた。けれどその声も、雨音と風に紛れて、少しずつ遠ざかっていった。私は振り返らなかった。そのまま、迷わず前へ歩いた。霊園の門まで来たところで、私は足を止め、ポケットから古びた鍵を取り出した。それは、実家の古い家の鍵だった。直人と過ごした8年と、いつか彼と一緒に暮らすのだと信じていた未来を、最後まで引きずっていたものでもあった。私はそれを強く握りしめた。手のひらに食い込むほどに。「お母さん、あの人は、あなたが待っていたときには来なかったよ」遠くの雲が少しずつ切れていくのを見ながら、私は小さくつぶやいた。「私も、もう待たない」霊園を出るころ、雨はいつの間にか上がっていた。雲の切れ間から差した光が、雨で冷えた肩を少しずつ温めていった。私は雨上がりの青空を見上げ、土の匂いを含んだ空気をゆっくり吸い込んだ。もうすぐ三十になる。生きていてよかったと、心から思えたのは初めてだった。――ピロン。ポケットの中でスマホが震えた。取り出して見ると、事務所のアシスタントからLINEが届いていた。【所長!駅前の大型商業施設の担当の方から連絡がありました!例の店舗内装コンペ、大手の設計事務所も何社か出ていたらしいんですけど、うちの案が採用されました!来月は施工図で予定がぎっしりです。か
私は直人から少し離れたところで足を止めた。濡れた地面に膝をついて謝り続けるその姿を、冷めた目で見下ろした。心は、自分でも不思議なくらい静かだった。怒りも、胸の痛みも湧いてこない。かわいそうだとも思わない。嫌だという感情さえ、もう残っていなかった。本当に過去を手放してしまえば、かつて誰より近かった人でさえ、ただの他人に見えるのだと思った。足を動かした拍子に、足元の枯れ枝を踏んでしまった。ぱきりという音が、静かな空気に響いた。その音で、直人の泣き声がぴたりと止まった。全身をこわばらせたまま、直人はゆっくりこちらを振り返った。信じられないものを見たような顔だった。私だと分かった瞬間、直人は大きく目を見開いた。溜まっていた涙が、頬を伝ってぼろぼろと落ちた。慌てて立ち上がろうとしたものの、長く膝をついていたせいで足に力が入らなかったのだろう。そのまま体勢を崩し、ぬかるんだ地面に座り込んだ。「美緒……美緒、来てくれたんだ!」直人は地面に手をついたまま、必死にこちらへにじり寄ってきた。私の服の裾をつかもうと、震える手を伸ばした。「金は全部返した……2800万、ちゃんと返したんだ。美緒、頼む。少しでいいから、何か言ってくれよ……」私は身を引いてその手を避け、抱えていた白い菊を母の墓前にそっと供えた。「来ていたのね」私は母の墓石を見つめたまま、静かに言った。「ああ……謝りに来たんだ。おばさんに、ちゃんと謝りたくて……」直人は何度も深く頭を下げた。額が濡れた石畳につきそうになるほどだった。「美緒、この一年、目を閉じると、昔のことばかり思い出した。玲奈先輩に騙されて、会社もクビになって、親にも毎日責められて……でも、そんなとき思い出すのは、いつも美緒だった。俺がつらいとき、黙って抱きしめてくれたのは美緒だけだったから。金は全部返した。もう一度だけ、やり直させてくれ。何でもする。そばにいさせてくれるだけでいい……」私は身を起こし、足元にいる直人を見下ろした。細い雨が肩に落ちて、ひやりとした。それでも、言うべきことははっきりしていた。「直人、顔を上げて。母の前で、ちゃんと聞いて」直人は涙で濡れた顔を上げ、呆然と私を見た。「5年前、母が初めて肝臓の腫瘍を取る手術を受けた日、私はひとりで手術室の前にいた。怖くて、どう
残業を終えて深夜の街に出るたび、きらびやかなネオンの下で浴びる夜風が、たまらなく自由に感じられた。2か月後の1日の朝、銀行アプリに入金通知が届いた。【入金:10万円 備考:返済】続けて、知らない番号からメッセージが届いた。【美緒、今月は仕事を3つ掛け持ちして、やっとこれだけ用意した。今は小さな会社で電話営業をしてる。給料は安いけど……仕事帰りにカップルを見るたび、美緒のことを思い出す。もう許してもらえないのは分かってる。それでも、お金は最後まで返す。美緒は……元気か?】私は画面を見つめ、苦笑した。返事はしなかった。事務所の入金管理表を開き、直人の欄に返済額として10万円を入力した。【残り:2790万円】毎月その金を振り込むたび、直人は自分が何をしたのか思い知らされるはずだった。半年以上が過ぎ、事務所は少しずつ軌道に乗っていった。県内でいくつも店を出している飲食チェーンの店舗デザインまで任されるようになってからも、毎月1日の朝になると、直人からの入金通知は欠かさず届いた。最初の頃は振込のたびに長い謝罪のメッセージが来ていた。それがやがて短い「ごめん」になり、最後には何も届かなくなった。1年後のある朝、スマホがまた震えた。開くと、いつもとは違う大きな金額が表示されていた。直人は実家に残っていた資産を売ったらしく、残っていた分をまとめて振り込んできた。備考欄には、短くこう入っていた。【完済】私は画面をしばらく見つめ、最後に一度だけ返信した。【確認した。これで貸し借りはなし】そのあと私は、8年間使い続けてきた銀行口座を解約し、LINEアカウントも削除した。これで、直人につながるものは何も残らなかった。母の命日が近づいていた。窓の外では、細い雨が降り続いていた。そろそろ一度、故郷へ帰ろうと思った。母を見送ってから、一度も戻れなかったあの場所へ。……霊園に着いても、雨はまだ細く降っていた。濡れた石段には薄く苔がつき、空気には松や檜の匂いと、線香の香りがかすかに混じっていた。私は白い菊の花束を抱え、石段をゆっくり上っていった。遠くから、母の墓前に誰かがいるのが見えた。痩せた背中を丸めたその人は、色あせた灰色のコートを着て、伸びた髪を後ろで無造作に束ねていた。濡れた墓石の前で膝をつき、肩を震
電話を切ったあと、私はしばらくスマホを見下ろしていた。けれど、心は少しも動かなかった。こうなるのも、当然だった。直人はずっと、玲奈を選べば自分ものし上がれると思っていた。けれど、そんなうまい話に代償がないはずがなかった。母が私に残してくれた大事なお金まで差し出して、直人は玲奈の会社にしがみついた。そして今、何もかも失った。その日の午後、直人の母からまた電話がかかってきた。今度は、実家で見せていたあの偉そうな態度はどこにもなかった。声は震え、ほとんど泣いているようだった。「美緒さん……お願い、直人を助けてやって。篠原に、あの子は利用されたのよ。あの600万だって、直人が一時の迷いで貸しただけなの。篠原は逮捕されたし、お金も戻ってこない。このままじゃ、直人は仕事まで失うかもしれないの。下手をしたら、警察からも事情を聴かれるかもしれない。お願い、あなたから説明してくれない? あのお金は、あなたが自分から渡したものですって言ってくれればいいのよ」電話の向こうで必死に泣きつく声を聞きながら、吐き気がこみ上げた。「自分から渡した?」私は冷たく笑った。「あの時あなたがずいぶん強気でしたよね。家を売れ、娘さんの新居の頭金にしろ、持参金を1000万に増やせと言っていたでしょ。いざ困ったら、今度は私に助けろって言うんですか?」「美緒さん、私たちは本当に反省しているのよ。篠原があんな人だと分かっていたら、直人には関わらせなかったわ。あなたと直人は8年も一緒にいたのよ。ここまで追い詰めなくてもいいじゃない」「8年も一緒にいたからこそ、もう十分です」私は声をさらに冷たくした。「それに、あの契約書には、彼が私に債務を負っていると明记されています。期限どおりに返さないなら、こちらもきちんと手続きを取ります。直人だけ何もなかったことにできると思わないでください。来月1日に最初の入金が確認できなければ、次は裁判所でお会いしましょう」私は直人の母がさらに何か言う前に、電話を切った。彼女に関わる番号は、すべて着信拒否にした。一週間後、直人への処分が決まった。問題になっていた600万円については、私の契約書が個人間の金銭貸借を裏づける資料として扱われ、直人本人の立件はひとまず見送られた。とはいえ、会社の財務規程に重大に違反したとし
直人の声は、信じられないというように震えていた。「何を言ってるんですか。資金繰りが苦しいから助けてほしいって言ったのは、先輩のほうでしょう。プロジェクトが軌道に乗ったら、俺と結婚するって言ってくれたじゃないですか!」「それ、いつの話?」玲奈は冷たく言い捨てた。「出資元が急に手を引いたの。プロジェクトはもう終わり。会社だって、このままじゃ潰れるわ。私だって自分のことで手一杯なのに、あなたの面倒まで見られるわけないでしょう?」「そんな……話が違うじゃないですか!」録音の向こうで、直人が玲奈を引き止めようとしたのか、衣擦れの音がした。続いて、バッグが車のドアにぶつかる鈍い音が響いた。「話が違うって、何?勝手に期待したのはあなたでしょう。私はあなたに、三浦さんのお母様が残したお金を勝手に使えなんて、一言も言ってないわ」玲奈は直人を振り払ったらしい。「三浦さん、いい人なんでしょう?だったら戻って謝ればいいじゃない。私を巻き込まないで。警備員さん、この人をお願いします!」録音はそこで切れた。私はホテルの部屋でイヤホンを外し、声もなく笑った。笑っているうちに、この数日ずっと胸の奥に詰まっていたものが、少しずつ抜けていった。せいぜい、お互いに潰し合えばいい。夜11時、直人はまた別の番号から、大量のスクリーンショットを送りつけてきた。この8年間のLINEや、振込履歴の画像だった。毎月のように、私が生活費を送っていた記録。深夜に「腹減った」と言われて、わざわざ外へ買いに出たときのやり取り。何日も無視されたあとでさえ、私が「大丈夫。仕事、頑張って」と返していたメッセージ。そんなものばかりが、画面に並んでいた。【美緒、部屋に戻って全部見返した。やっと分かった。この8年、お前はずっと俺を支えてくれてたんだな】【今日、玲奈先輩に会いに行った。あの人は俺を選ばなかった。美緒、俺はようやく、自分が何をなくしたのか分かった。頼む、もう一度だけやり直させてくれ】その文字を見ても、心は少しも動かなかった。むしろ、吐き気がした。直人は、私が大事だったと気づいたわけではない。ただ、都合よく頼れる相手を失って、自分にはもう何も残っていないと気づいただけだ。私は最後に一言だけ返した。【今さら気づいても遅い。お
「頼む、もう一度だけチャンスをくれ。金は必ず取り戻す。美緒、結婚しよう。明日にでも婚姻届を出そう」私は足を止め、袖をつかむ直人の手をゆっくり外した。「直人、今日は母の初七日なの。あなたは入ってきてから、母の遺影に一度も目を向けなかった。線香の一本もあげなかった」私は言葉を失ったような直人の目を見て、静かに言った。「あなたが頭を下げる相手は、私じゃない。母よ」30分後、私は霊園に来ていた。今日は母の初七日だった。細かな雨が降り始めていた。私は母の墓前にしゃがみ、封筒から書類のコピーを取り出して、そっと墓前に置いた。雨に濡れた紙の端が、ゆっくりと丸まっていく。「お母さん、ちゃんと取り返したよ」私は目を赤くしたまま、持ってきた花を供えた。「あの人たちに奪われたもの、ちゃんと取り返してきたから」線香の煙が、雨の中で細く揺れていた。ポケットの中でスマホが震えた。直人からだった。【美緒、俺が悪かった。頼む、俺を見捨てないでくれ】私は返信しなかった。直人は本当に反省したわけではない。ただ、今回も私が許してくれると思っていただけだ。……母の葬儀と初七日法要を終え、私はしばらく泊まっているビジネスホテルへ戻った。部屋に入り、カードキーを差し込んだ途端、スマホが続けざまに震えた。画面には不在着信の通知が次々と表示されていた。すべて直人からだった。私は表情ひとつ変えずにスマホをサイレントにし、ベッドの上に伏せた。電話に出ないと分かったのか、今度はLINEの通知が立て続けに届き始めた。【美緒、電話に出てくれ。頼む、一度会って話そう】私は冷たく返した。【契約書にはもうサインしたでしょう。話すことは何もない。来月1日、最初の返済を忘れないで】【美緒、本当に悪かった。この数日、ずっと美緒のことばかり考えてた。やっぱり俺、美緒がいないと無理なんだ】画面に並んだ「悪かった」の文字を見て、今さらだと思った。【本当に悪いと思っているなら、4年前にやめられたはずでしょう。修了式の会場裏であの人とキスしたとき、あなたは自分が何をしているか分かっていたはず】送信すると、すぐに既読がついた。けれど、それ以上返事は来なかった。しばらくして、知らない番号から電話がかかってきた。出ると、直人の母