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母の最期、彼は初恋相手の隣で笑っていた

母の最期、彼は初恋相手の隣で笑っていた

بواسطة:  暮草مكتمل
لغة: Japanese
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母が息を引き取る前、最期に望んだのは、娘である私、三浦美緒(みうら みお)が8年付き合っている恋人、高瀬直人(たかせ なおと)に会うことだった。 その日、私は直人に67回も電話をかけた。けれど、直人は一度も出なかった。 母が息を引き取ってから、ようやく直人からLINEが入った。 【今は社外秘の開発案件が大詰めで、どうしても抜けられない】 【落ち着いたら、必ずお母さんに会いに行くから】 私はすっかり冷たくなった母の手を握ったまま、やっとそれだけを返した。 【うん】 けれどその夜、SNSで一本の動画が流れてきた。 画面の中で、直人は白いスーツを着て、夜景の見えるレストランにいた。 直人はケーキを手に、篠原玲奈(しのはら れな)という女性の隣で、柔らかく笑っていた。添えられていた文章は、こうだった。 【卒業から4年。やっとまた、あなたの隣に立てました。玲奈先輩、誕生日おめでとうございます】 コメント欄には祝福の言葉が並び、その中には私にも見覚えのある名前がいくつもあった。中には、こんなことを書いている人までいた。 【玲奈先輩と直人くん、ついに付き合ったの?】 私は画面を見つめたまま、胸の奥がぎゅっと締めつけられて、しばらく息ができなかった。それでも、私は返信欄に文字を打ち込んだ。 【お似合いですね。余計だったのは私のほうだって、今さら分かりました】

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الفصل الأول

第1話

母が息を引き取る前、最期に望んだのは、娘である私、三浦美緒(みうら みお)が8年付き合っている恋人、高瀬直人(たかせ なおと)に会うことだった。

その日、私は直人に67回も電話をかけた。けれど、直人は一度も出なかった。

母が息を引き取ってから、ようやく直人からLINEが入った。

【今は社外秘の開発案件が大詰めで、どうしても抜けられない】

【落ち着いたら、必ずお母さんに会いに行くから】

私はすっかり冷たくなった母の手を握ったまま、やっとそれだけを返した。

【うん】

けれどその夜、SNSで一本の動画が流れてきた。

画面の中で、直人は白いスーツを着て、夜景の見えるレストランにいた。

直人はケーキを手に、篠原玲奈(しのはら れな)という女性の隣で、柔らかく笑っていた。添えられていた文章は、こうだった。

【卒業から4年。やっとまた、あなたの隣に立てました。玲奈先輩、誕生日おめでとうございます】

コメント欄には祝福の言葉が並び、その中には私にも見覚えのある名前がいくつもあった。中には、こんなことを書いている人までいた。

【玲奈先輩と直人くん、ついに付き合ったの?】

私は画面を見つめたまま、胸の奥がぎゅっと締めつけられて、しばらく息ができなかった。それでも、私は返信欄に文字を打ち込んだ。

【お似合いですね。余計だったのは私のほうだって、今さら分かりました】

……

直人から電話がかかってきたとき、私は葬儀場の前に立っていた。

葬儀社の担当者に、遺影写真をもう少し明るく整えるか確認されていた。

そのとき、スマホが震え、画面に直人の名前が表示された。

私は出なかった。

直人はすぐにLINEを送ってきた。

【美緒、さっきのコメントどういうこと?】

【また余計なこと考えてんだろ?】

【言っただろ。今は社外秘の開発案件で、外に出られないんだ】

【俺の友達も見てるんだから、あんな書き込みはやめてくれ】

私は画面を、しばらく見つめていた。

直人はスマホを見ていた。ただ、私の電話に出る時間だけがなかったのだ。

コメント欄を確認して、友人たちの反応を気にする余裕はあったのに。

三度目の着信で、私は電話に出た。

直人は声を潜めていた。けれど、その声には苛立ちが隠しきれていなかった。

「美緒、今どこにいる?」

私は背後の建物に目をやった。

「葬儀場」

直人は一瞬黙り、すぐにまた口を開いた。

「お母さんのことでつらいのは分かる。でも、関係ない人に当たるのはやめてくれないか?」

乾いた笑いが漏れた。

「関係ない人?」

直人の声には、はっきりと苛立ちが滲んだ。

「今日は玲奈先輩の誕生日だったんだ。帰国したばかりだったから、みんなで少し食事しただけだ」

「外に出られないって言ってたのに、夜景の見えるレストランには行けるんだ」

電話の向こうで、直人が黙った。

「67回も、電話したよね」

私は自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。

「あなたは一度も出なかった」

直人は声を落として言った。

「スマホが……マナーモードになってたんだ」

言葉が途中で詰まった。その時点で、言い訳にしか聞こえなかった。

私が何か言おうとしたとき、電話の向こうで、がさりと衣擦れの音がした。

続いて、玲奈の声が入り込んできた。鼻で笑うような、こちらを見下した声だった。

どうやら、玲奈がスマホを取ったらしい。

「三浦さん、で合ってる?一応、名乗っておくわ。篠原玲奈よ。

あなたには縁のない話かもしれないけど、直人くんは今夜、私と数十億規模の案件の話をしていたの。何度も何度も電話を鳴らされると、こっちも迷惑なのよ。

これからは、そういうみっともない真似で直人くんを困らせないでくれる?分かった?」

電話の向こうから、直人の声が遠く聞こえた。

「玲奈先輩、もうそのくらいにしてください」

私は式場の奥に飾られた母の遺影を見つめ、ふっと、何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。

「直人。母、今日亡くなったの。最後まで、あなたはいつ来るのって聞いてた」

電話の向こうは、完全に静まり返った。

私は続けた。

「もう来なくていい。これからも、来なくていいから」

そこで初めて、直人の声が乱れた。

「それ、どういう意味だよ?」

私は答えなかった。直人の別アカウントに、新しい投稿が上がっているのが目に入ったからだ。

そこには、玲奈の肩に上着を掛ける直人の姿が写っていた。投稿には、こう添えられていた。

【いつか分かる。本当に大切にすべきなのは、そばにいてくれる人だって】

コメント欄で誰かが尋ねていた。

【彼女さん、怒らないの?】

直人が返信していた。

【あいつ、今それどころじゃないから】

その返信を見た瞬間、もう笑うことさえできなかった。

葬儀社の担当者が、もう一度私に声をかけた。

「三浦様、遺影のお写真はこちらでよろしいでしょうか」

私はうなずいた。

「はい」

それから直人との通話を切り、連絡先の登録名を「直人」から「高瀬直人」に変えた。

8年も待った。もう、これ以上待つ力は残っていなかった。

私はもう待たない。

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第1話
母が息を引き取る前、最期に望んだのは、娘である私、三浦美緒(みうら みお)が8年付き合っている恋人、高瀬直人(たかせ なおと)に会うことだった。その日、私は直人に67回も電話をかけた。けれど、直人は一度も出なかった。母が息を引き取ってから、ようやく直人からLINEが入った。【今は社外秘の開発案件が大詰めで、どうしても抜けられない】【落ち着いたら、必ずお母さんに会いに行くから】私はすっかり冷たくなった母の手を握ったまま、やっとそれだけを返した。【うん】けれどその夜、SNSで一本の動画が流れてきた。画面の中で、直人は白いスーツを着て、夜景の見えるレストランにいた。直人はケーキを手に、篠原玲奈(しのはら れな)という女性の隣で、柔らかく笑っていた。添えられていた文章は、こうだった。【卒業から4年。やっとまた、あなたの隣に立てました。玲奈先輩、誕生日おめでとうございます】コメント欄には祝福の言葉が並び、その中には私にも見覚えのある名前がいくつもあった。中には、こんなことを書いている人までいた。【玲奈先輩と直人くん、ついに付き合ったの?】私は画面を見つめたまま、胸の奥がぎゅっと締めつけられて、しばらく息ができなかった。それでも、私は返信欄に文字を打ち込んだ。【お似合いですね。余計だったのは私のほうだって、今さら分かりました】……直人から電話がかかってきたとき、私は葬儀場の前に立っていた。葬儀社の担当者に、遺影写真をもう少し明るく整えるか確認されていた。そのとき、スマホが震え、画面に直人の名前が表示された。私は出なかった。直人はすぐにLINEを送ってきた。【美緒、さっきのコメントどういうこと?】【また余計なこと考えてんだろ?】【言っただろ。今は社外秘の開発案件で、外に出られないんだ】【俺の友達も見てるんだから、あんな書き込みはやめてくれ】私は画面を、しばらく見つめていた。直人はスマホを見ていた。ただ、私の電話に出る時間だけがなかったのだ。コメント欄を確認して、友人たちの反応を気にする余裕はあったのに。三度目の着信で、私は電話に出た。直人は声を潜めていた。けれど、その声には苛立ちが隠しきれていなかった。「美緒、今どこにいる?」私は背後の建物に目をやった。
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第2話
母が霊安室へ運ばれていくのを見送っても、私は泣かなかった。病院に泊まり込んだこの5日間で、涙はとうに枯れていたからだ。廊下の白い明かりが、遺影に使う母の写真をぼんやり照らしていた。母は息を引き取る直前まで私の手を離さず、「直人くんは、いつ来てくれるの」と聞いていた。その声が耳から離れず、息をするたび胸が痛んだ。――ブブッ。静まり返った廊下で、ポケットの中のスマホが突然震えた。知らない番号から、メッセージが届いていた。私は何も考えられないままロックを解除し、送られてきた写真を開いた。写真を見た瞬間、指先まで冷たくなった。画質はやけに良く、スマホ越しでも細部まではっきり見えた。写真の中で、直人は玲奈の手を握っていた。少し赤くなった顔で彼女を見つめるその目は、誰が見てもただの先輩を見る目ではなかった。大きな窓の外では、誕生日を祝うための花火が、川沿いの夜空に華やかに上がっていた。写真の下には、冷たいメッセージが続いていた。【昔、二人で使っていたクラウドのバックアップを見てみたら?パスワードは、彼の初恋だった篠原玲奈の誕生日】【あなたの知りたいことは、全部そこに入ってる】差出人の名前は表示されていなかった。私は直人の笑顔から目を離せなかった。母を失った直後だったから、感情が追いつかなかったのかもしれない。そのときの私は、自分でも怖いほど冷静だった。私はそのメッセージには返信しなかった。その代わり、霊安室近くの待合スペースへ向かい、バッグからノートパソコンを取り出した。直人と付き合って8年。私のパスワードは、直人が全部知っていた。そして直人のクラウドにも、以前は私のパソコンからログインできた。私は玲奈の誕生日を入力した。認証が通り、ログインできた。クラウドには、直人のスマホに入っていたLINEのトーク履歴、非表示にされたアルバム、決済履歴まで、自動で同期されていた。私は検索欄を開き、深く息を吸ってから、「美緒」と入力した。最初に出てきたのは、直人の大学時代の友人とのトーク履歴だった。日付は半月前だった。【玲奈先輩とは結局どうなってんの? この前、南のリゾートでずいぶん楽しそうだったけど、美緒のほうはどうするつもり?】直人が以下のように返事した。【美緒はい
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第3話
大学院入試対策講座:160万円。大学院の学費とほかの諸費用:240万円。4年間住んでいた高級マンションの家賃:720万円。4年間、毎年のように買ってきたブランド時計やスマホ、パソコン、それに生活費:480万円。新居の頭金として用意していたお金:600万円。それから先月、持参金として預かっておいてほしいと直人に渡したお金:600万円。総額2800万円。この8年、直人の言う「将来」のために、私は身を削る思いで働き、稼いだお金を少しずつ渡してきた。私はその中でも、持参金として渡したあの600万円の行き先を念入りに調べた。それは、母が癌だと分かる前に、私の結婚のためにと無理をして用意してくれたお金だった。取引明細を見ても、直人が約束していた定期預金に入れた記録は見当たらなかった。そのお金は、振り込まれた翌日に「個人プロジェクトへの投資資金」という名目で、「レナテック」名義の法人口座へ送金されていた。画面いっぱいに並んだ明細と送金記録のスクリーンショットを見て、私はふいに笑った。笑っているうちに、涙がキーボードの上に落ちた。直人は、私から受け取ったお金を自分のために使っていただけではなかった。家族ぐるみで私を利用し、そのお金を、初恋相手の事業にまでつぎ込んでいたのだ。私はすべてのトーク履歴、送金明細、リゾートや各地のホテルの予約履歴をスクリーンショットで保存し、必要なものはダウンロードした。そして、近くのコンビニにあるマルチコピー機にデータを送った。コピー機が低い音を立てて動き出し、証拠を一枚ずつ印刷していく。私はコピー機の前に立ち、印刷されていく文字を見つめていた。ふと、母が直人に会わないまま逝ったことは、もしかしたら救いだったのかもしれないと思った。……最後の一枚がコピー機から出てきた、そのときだった。ノートパソコンの画面に、新着メールの通知が出た。差出人はまた、あの匿名アカウントだった。本文はなく、添付されていたのは「卒業式」という動画ファイルだけだった。動画の撮影日は、4年前の3月だった。映っていたのは、直人の大学院の修了式が行われていた会場裏の廊下だった。修了式に出ていたのだろう、直人はきちんとしたスーツ姿だった。玲奈は、仕立てのいいワンピーススーツを着ていた
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第4話
【美緒、やっと分かってくれたんだな?よかった!】【昨日は本当に社外秘の開発案件で、スマホを持ち込めなかったんだ。だから電話に出られなかった】【もう怒らないでくれよ。明後日は両親を連れてそっちに行く。お母さんのことは本当に残念だった。でも、美緒もこれからのことを考えないとな】私はスマホの画面を消し、それ以上返事をしなかった。その日の午前10時ちょうど。実家の玄関ドアが、外から乱暴に開いた。直人は、やけに仕立てのいいカジュアルスーツを着ていた。その後ろから、直人の両親がいかにも偉そうに入ってきた。玄関に入るなり、直人の父は顔をしかめて鼻を押さえ、手でぱたぱたと空気を払った。「まったく、美緒さん。朝っぱらから私たちを呼びつけて、いったい何の用だ? 何だ、この線香くさいのは。朝から辛気くさい」直人の父は遠慮もなく、リビングのソファへどかっと腰を下ろした。母の遺影には目もくれず、いきなり説教を始めた。「うちの直人はな、昨日、仕事で徹夜したんだ。へとへとなんだよ。それなのに君は、六十回以上も電話をかけ続けたそうじゃないか。会社での評価に響いたら、どうするつもりだ?もういい大人なんだから、少しは考えて行動しなさい」直人の母も顔をしかめ、上から目線で諭すように、わざとらしくため息をついた。「美緒さん、きついことを言うようだけど。お母様の病気は、もうどうにもならなかったんでしょう。直人が顔を出したところで、何か変わったわけじゃないわ。それを直人に当たるのは違うんじゃないかしら。女なら、男の仕事の邪魔をしちゃだめよ。少しくらい我慢することも覚えなさい。もっと先のことを考えるの」私は向かいのソファに座ったまま、分厚い封筒を握りしめ、目の前の三人を冷めた目で見ていた。「言いたいことは、それで全部?」私の声はひどくかすれていた。感情が抜け落ちていて、怒っているのか悲しんでいるのか、自分でも分からなかった。私の様子がいつもと違うことに気づいたのか、直人はすぐに声を落とし、なだめるような顔をした。「美緒、まだ怒ってるのか?仕事だったって言ってるだろ。俺だってどうしようもなかったんだよ。そんな態度を続けるなら、結婚の話も考え直すしかなくなるぞ」「そうだぞ!」直人の父が勢いよくテーブルを叩き、
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第5話
一番上に置かれていたのは、直人と玲奈が高級ホテルで抱き合い、キスをしている写真だった。その下には、あの600万円の振込明細と、銀行の受付印が入った控えが重なっていた。それを見た瞬間、さっきまで好き勝手にまくし立てていた三人は、ぴたりと黙り込んだ。ついさっきまで、家を売れ、持参金を増やせと騒いでいた直人の母は、言葉を失っていた。床に落ちた明細を震える手で拾い上げた瞬間、顔から一気に血の気が引いた。さっきまで偉そうに構えていた直人の父も、床に散らばった写真を見た途端、勢いよく立ち上がった。震える指で写真を指し、声を上ずらせた。「直人……こ、これはどういうことだ。この600万、どこにやったんだ!」「ち、違う……違うんだ、美緒。聞いてくれ!」直人も顔を青ざめさせた。ここで初めて、本気でまずいと思ったようだった。直人は床に散らばった紙へ手を伸ばした。奪って破り捨てるつもりだったのだろう。私は無言で押し返した。「聞いてくれって、何を? 4年前の修了式の日、母ががんの切除手術を受けている間に、あなたが初恋の相手だった篠原さんと会場裏でキスしていたこと?」私は床に尻もちをついた直人を見下ろした。怒りはなかった。ただ、自分でも驚くほど冷たい声だった。「それとも一昨日、母が私のために残してくれた大事なお金で、篠原さんのために夜景の見えるレストランを貸し切って、特別なケーキまで用意していたこと?」「美緒、俺が悪かった……本当に、あのときはどうかしてたんだ!」直人は床に座り込んだまま、泣きそうな顔で私の足元にすがりついてきた。「あの金は、玲奈先輩に頼まれたんだ! 資金繰りが厳しくて、このままじゃプロジェクトが潰れるから、少しの間だけ貸してほしいって!断れなかっただけなんだ。本当に愛してるのは、美緒だけなんだよ!俺たち、8年も一緒にいたんだぞ。たかが数百万で終わりにするのか?」「よくそんなことが言えるね」私は嫌悪を隠さず、その手を振りほどいた。封筒の奥から、あらかじめ用意しておいた「債務承認弁済契約書」とボールペンを取り出し、テーブルに置いた。「持参金、学費、家賃、新居の頭金まで含めて、この8年であなたが私から受け取ったお金は、全部で2800万。明細も、ここに全部そろっている」私は書類を指さし、はっきりと言っ
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第6話
「頼む、もう一度だけチャンスをくれ。金は必ず取り戻す。美緒、結婚しよう。明日にでも婚姻届を出そう」私は足を止め、袖をつかむ直人の手をゆっくり外した。「直人、今日は母の初七日なの。あなたは入ってきてから、母の遺影に一度も目を向けなかった。線香の一本もあげなかった」私は言葉を失ったような直人の目を見て、静かに言った。「あなたが頭を下げる相手は、私じゃない。母よ」30分後、私は霊園に来ていた。今日は母の初七日だった。細かな雨が降り始めていた。私は母の墓前にしゃがみ、封筒から書類のコピーを取り出して、そっと墓前に置いた。雨に濡れた紙の端が、ゆっくりと丸まっていく。「お母さん、ちゃんと取り返したよ」私は目を赤くしたまま、持ってきた花を供えた。「あの人たちに奪われたもの、ちゃんと取り返してきたから」線香の煙が、雨の中で細く揺れていた。ポケットの中でスマホが震えた。直人からだった。【美緒、俺が悪かった。頼む、俺を見捨てないでくれ】私は返信しなかった。直人は本当に反省したわけではない。ただ、今回も私が許してくれると思っていただけだ。……母の葬儀と初七日法要を終え、私はしばらく泊まっているビジネスホテルへ戻った。部屋に入り、カードキーを差し込んだ途端、スマホが続けざまに震えた。画面には不在着信の通知が次々と表示されていた。すべて直人からだった。私は表情ひとつ変えずにスマホをサイレントにし、ベッドの上に伏せた。電話に出ないと分かったのか、今度はLINEの通知が立て続けに届き始めた。【美緒、電話に出てくれ。頼む、一度会って話そう】私は冷たく返した。【契約書にはもうサインしたでしょう。話すことは何もない。来月1日、最初の返済を忘れないで】【美緒、本当に悪かった。この数日、ずっと美緒のことばかり考えてた。やっぱり俺、美緒がいないと無理なんだ】画面に並んだ「悪かった」の文字を見て、今さらだと思った。【本当に悪いと思っているなら、4年前にやめられたはずでしょう。修了式の会場裏であの人とキスしたとき、あなたは自分が何をしているか分かっていたはず】送信すると、すぐに既読がついた。けれど、それ以上返事は来なかった。しばらくして、知らない番号から電話がかかってきた。出ると、直人の母
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第7話
直人の声は、信じられないというように震えていた。「何を言ってるんですか。資金繰りが苦しいから助けてほしいって言ったのは、先輩のほうでしょう。プロジェクトが軌道に乗ったら、俺と結婚するって言ってくれたじゃないですか!」「それ、いつの話?」玲奈は冷たく言い捨てた。「出資元が急に手を引いたの。プロジェクトはもう終わり。会社だって、このままじゃ潰れるわ。私だって自分のことで手一杯なのに、あなたの面倒まで見られるわけないでしょう?」「そんな……話が違うじゃないですか!」録音の向こうで、直人が玲奈を引き止めようとしたのか、衣擦れの音がした。続いて、バッグが車のドアにぶつかる鈍い音が響いた。「話が違うって、何?勝手に期待したのはあなたでしょう。私はあなたに、三浦さんのお母様が残したお金を勝手に使えなんて、一言も言ってないわ」玲奈は直人を振り払ったらしい。「三浦さん、いい人なんでしょう?だったら戻って謝ればいいじゃない。私を巻き込まないで。警備員さん、この人をお願いします!」録音はそこで切れた。私はホテルの部屋でイヤホンを外し、声もなく笑った。笑っているうちに、この数日ずっと胸の奥に詰まっていたものが、少しずつ抜けていった。せいぜい、お互いに潰し合えばいい。夜11時、直人はまた別の番号から、大量のスクリーンショットを送りつけてきた。この8年間のLINEや、振込履歴の画像だった。毎月のように、私が生活費を送っていた記録。深夜に「腹減った」と言われて、わざわざ外へ買いに出たときのやり取り。何日も無視されたあとでさえ、私が「大丈夫。仕事、頑張って」と返していたメッセージ。そんなものばかりが、画面に並んでいた。【美緒、部屋に戻って全部見返した。やっと分かった。この8年、お前はずっと俺を支えてくれてたんだな】【今日、玲奈先輩に会いに行った。あの人は俺を選ばなかった。美緒、俺はようやく、自分が何をなくしたのか分かった。頼む、もう一度だけやり直させてくれ】その文字を見ても、心は少しも動かなかった。むしろ、吐き気がした。直人は、私が大事だったと気づいたわけではない。ただ、都合よく頼れる相手を失って、自分にはもう何も残っていないと気づいただけだ。私は最後に一言だけ返した。【今さら気づいても遅い。お
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第8話
電話を切ったあと、私はしばらくスマホを見下ろしていた。けれど、心は少しも動かなかった。こうなるのも、当然だった。直人はずっと、玲奈を選べば自分ものし上がれると思っていた。けれど、そんなうまい話に代償がないはずがなかった。母が私に残してくれた大事なお金まで差し出して、直人は玲奈の会社にしがみついた。そして今、何もかも失った。その日の午後、直人の母からまた電話がかかってきた。今度は、実家で見せていたあの偉そうな態度はどこにもなかった。声は震え、ほとんど泣いているようだった。「美緒さん……お願い、直人を助けてやって。篠原に、あの子は利用されたのよ。あの600万だって、直人が一時の迷いで貸しただけなの。篠原は逮捕されたし、お金も戻ってこない。このままじゃ、直人は仕事まで失うかもしれないの。下手をしたら、警察からも事情を聴かれるかもしれない。お願い、あなたから説明してくれない? あのお金は、あなたが自分から渡したものですって言ってくれればいいのよ」電話の向こうで必死に泣きつく声を聞きながら、吐き気がこみ上げた。「自分から渡した?」私は冷たく笑った。「あの時あなたがずいぶん強気でしたよね。家を売れ、娘さんの新居の頭金にしろ、持参金を1000万に増やせと言っていたでしょ。いざ困ったら、今度は私に助けろって言うんですか?」「美緒さん、私たちは本当に反省しているのよ。篠原があんな人だと分かっていたら、直人には関わらせなかったわ。あなたと直人は8年も一緒にいたのよ。ここまで追い詰めなくてもいいじゃない」「8年も一緒にいたからこそ、もう十分です」私は声をさらに冷たくした。「それに、あの契約書には、彼が私に債務を負っていると明记されています。期限どおりに返さないなら、こちらもきちんと手続きを取ります。直人だけ何もなかったことにできると思わないでください。来月1日に最初の入金が確認できなければ、次は裁判所でお会いしましょう」私は直人の母がさらに何か言う前に、電話を切った。彼女に関わる番号は、すべて着信拒否にした。一週間後、直人への処分が決まった。問題になっていた600万円については、私の契約書が個人間の金銭貸借を裏づける資料として扱われ、直人本人の立件はひとまず見送られた。とはいえ、会社の財務規程に重大に違反したとし
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第9話
残業を終えて深夜の街に出るたび、きらびやかなネオンの下で浴びる夜風が、たまらなく自由に感じられた。2か月後の1日の朝、銀行アプリに入金通知が届いた。【入金:10万円 備考:返済】続けて、知らない番号からメッセージが届いた。【美緒、今月は仕事を3つ掛け持ちして、やっとこれだけ用意した。今は小さな会社で電話営業をしてる。給料は安いけど……仕事帰りにカップルを見るたび、美緒のことを思い出す。もう許してもらえないのは分かってる。それでも、お金は最後まで返す。美緒は……元気か?】私は画面を見つめ、苦笑した。返事はしなかった。事務所の入金管理表を開き、直人の欄に返済額として10万円を入力した。【残り:2790万円】毎月その金を振り込むたび、直人は自分が何をしたのか思い知らされるはずだった。半年以上が過ぎ、事務所は少しずつ軌道に乗っていった。県内でいくつも店を出している飲食チェーンの店舗デザインまで任されるようになってからも、毎月1日の朝になると、直人からの入金通知は欠かさず届いた。最初の頃は振込のたびに長い謝罪のメッセージが来ていた。それがやがて短い「ごめん」になり、最後には何も届かなくなった。1年後のある朝、スマホがまた震えた。開くと、いつもとは違う大きな金額が表示されていた。直人は実家に残っていた資産を売ったらしく、残っていた分をまとめて振り込んできた。備考欄には、短くこう入っていた。【完済】私は画面をしばらく見つめ、最後に一度だけ返信した。【確認した。これで貸し借りはなし】そのあと私は、8年間使い続けてきた銀行口座を解約し、LINEアカウントも削除した。これで、直人につながるものは何も残らなかった。母の命日が近づいていた。窓の外では、細い雨が降り続いていた。そろそろ一度、故郷へ帰ろうと思った。母を見送ってから、一度も戻れなかったあの場所へ。……霊園に着いても、雨はまだ細く降っていた。濡れた石段には薄く苔がつき、空気には松や檜の匂いと、線香の香りがかすかに混じっていた。私は白い菊の花束を抱え、石段をゆっくり上っていった。遠くから、母の墓前に誰かがいるのが見えた。痩せた背中を丸めたその人は、色あせた灰色のコートを着て、伸びた髪を後ろで無造作に束ねていた。濡れた墓石の前で膝をつき、肩を震
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第10話
私は直人から少し離れたところで足を止めた。濡れた地面に膝をついて謝り続けるその姿を、冷めた目で見下ろした。心は、自分でも不思議なくらい静かだった。怒りも、胸の痛みも湧いてこない。かわいそうだとも思わない。嫌だという感情さえ、もう残っていなかった。本当に過去を手放してしまえば、かつて誰より近かった人でさえ、ただの他人に見えるのだと思った。足を動かした拍子に、足元の枯れ枝を踏んでしまった。ぱきりという音が、静かな空気に響いた。その音で、直人の泣き声がぴたりと止まった。全身をこわばらせたまま、直人はゆっくりこちらを振り返った。信じられないものを見たような顔だった。私だと分かった瞬間、直人は大きく目を見開いた。溜まっていた涙が、頬を伝ってぼろぼろと落ちた。慌てて立ち上がろうとしたものの、長く膝をついていたせいで足に力が入らなかったのだろう。そのまま体勢を崩し、ぬかるんだ地面に座り込んだ。「美緒……美緒、来てくれたんだ!」直人は地面に手をついたまま、必死にこちらへにじり寄ってきた。私の服の裾をつかもうと、震える手を伸ばした。「金は全部返した……2800万、ちゃんと返したんだ。美緒、頼む。少しでいいから、何か言ってくれよ……」私は身を引いてその手を避け、抱えていた白い菊を母の墓前にそっと供えた。「来ていたのね」私は母の墓石を見つめたまま、静かに言った。「ああ……謝りに来たんだ。おばさんに、ちゃんと謝りたくて……」直人は何度も深く頭を下げた。額が濡れた石畳につきそうになるほどだった。「美緒、この一年、目を閉じると、昔のことばかり思い出した。玲奈先輩に騙されて、会社もクビになって、親にも毎日責められて……でも、そんなとき思い出すのは、いつも美緒だった。俺がつらいとき、黙って抱きしめてくれたのは美緒だけだったから。金は全部返した。もう一度だけ、やり直させてくれ。何でもする。そばにいさせてくれるだけでいい……」私は身を起こし、足元にいる直人を見下ろした。細い雨が肩に落ちて、ひやりとした。それでも、言うべきことははっきりしていた。「直人、顔を上げて。母の前で、ちゃんと聞いて」直人は涙で濡れた顔を上げ、呆然と私を見た。「5年前、母が初めて肝臓の腫瘍を取る手術を受けた日、私はひとりで手術室の前にいた。怖くて、どう
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