تسجيل الدخول母が息を引き取る前、最期に望んだのは、娘である私、三浦美緒(みうら みお)が8年付き合っている恋人、高瀬直人(たかせ なおと)に会うことだった。 その日、私は直人に67回も電話をかけた。けれど、直人は一度も出なかった。 母が息を引き取ってから、ようやく直人からLINEが入った。 【今は社外秘の開発案件が大詰めで、どうしても抜けられない】 【落ち着いたら、必ずお母さんに会いに行くから】 私はすっかり冷たくなった母の手を握ったまま、やっとそれだけを返した。 【うん】 けれどその夜、SNSで一本の動画が流れてきた。 画面の中で、直人は白いスーツを着て、夜景の見えるレストランにいた。 直人はケーキを手に、篠原玲奈(しのはら れな)という女性の隣で、柔らかく笑っていた。添えられていた文章は、こうだった。 【卒業から4年。やっとまた、あなたの隣に立てました。玲奈先輩、誕生日おめでとうございます】 コメント欄には祝福の言葉が並び、その中には私にも見覚えのある名前がいくつもあった。中には、こんなことを書いている人までいた。 【玲奈先輩と直人くん、ついに付き合ったの?】 私は画面を見つめたまま、胸の奥がぎゅっと締めつけられて、しばらく息ができなかった。それでも、私は返信欄に文字を打ち込んだ。 【お似合いですね。余計だったのは私のほうだって、今さら分かりました】
عرض المزيد「違う……違うんだ……」「私が返してほしかったのは、お金だけじゃない」声は大きくなかった。けれど、直人の肩が小さく震えた。「お金なら返せる。書面に残る借りなら、いつかは返し終えられる。でも、母が最後まであなたを待っていた時間は? あなたに会えないまま逝った母の気持ちは、どうやって返すの?あなたが本当に謝る相手は、最初から私じゃない。母よ」私は墓石を指さした。直人は息をのんだ。そのときようやく、自分が何を踏みにじったのか分かったのかもしれない。喉の奥から嗚咽を漏らし、そのままぬかるんだ地面に崩れ落ちた。墓前で、額が地面につきそうになるほど何度も頭を下げた。「おばさん、ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……俺が悪かったんです……美緒も、おばさんも傷つけました……」私はもう直人を見なかった。背を向け、霊園の出口へ向かって歩き出した。「美緒――!行かないでくれ!俺を置いていかないでくれ!」背後から、直人の泣き叫ぶ声が何度も響いた。けれどその声も、雨音と風に紛れて、少しずつ遠ざかっていった。私は振り返らなかった。そのまま、迷わず前へ歩いた。霊園の門まで来たところで、私は足を止め、ポケットから古びた鍵を取り出した。それは、実家の古い家の鍵だった。直人と過ごした8年と、いつか彼と一緒に暮らすのだと信じていた未来を、最後まで引きずっていたものでもあった。私はそれを強く握りしめた。手のひらに食い込むほどに。「お母さん、あの人は、あなたが待っていたときには来なかったよ」遠くの雲が少しずつ切れていくのを見ながら、私は小さくつぶやいた。「私も、もう待たない」霊園を出るころ、雨はいつの間にか上がっていた。雲の切れ間から差した光が、雨で冷えた肩を少しずつ温めていった。私は雨上がりの青空を見上げ、土の匂いを含んだ空気をゆっくり吸い込んだ。もうすぐ三十になる。生きていてよかったと、心から思えたのは初めてだった。――ピロン。ポケットの中でスマホが震えた。取り出して見ると、事務所のアシスタントからLINEが届いていた。【所長!駅前の大型商業施設の担当の方から連絡がありました!例の店舗内装コンペ、大手の設計事務所も何社か出ていたらしいんですけど、うちの案が採用されました!来月は施工図で予定がぎっしりです。か
私は直人から少し離れたところで足を止めた。濡れた地面に膝をついて謝り続けるその姿を、冷めた目で見下ろした。心は、自分でも不思議なくらい静かだった。怒りも、胸の痛みも湧いてこない。かわいそうだとも思わない。嫌だという感情さえ、もう残っていなかった。本当に過去を手放してしまえば、かつて誰より近かった人でさえ、ただの他人に見えるのだと思った。足を動かした拍子に、足元の枯れ枝を踏んでしまった。ぱきりという音が、静かな空気に響いた。その音で、直人の泣き声がぴたりと止まった。全身をこわばらせたまま、直人はゆっくりこちらを振り返った。信じられないものを見たような顔だった。私だと分かった瞬間、直人は大きく目を見開いた。溜まっていた涙が、頬を伝ってぼろぼろと落ちた。慌てて立ち上がろうとしたものの、長く膝をついていたせいで足に力が入らなかったのだろう。そのまま体勢を崩し、ぬかるんだ地面に座り込んだ。「美緒……美緒、来てくれたんだ!」直人は地面に手をついたまま、必死にこちらへにじり寄ってきた。私の服の裾をつかもうと、震える手を伸ばした。「金は全部返した……2800万、ちゃんと返したんだ。美緒、頼む。少しでいいから、何か言ってくれよ……」私は身を引いてその手を避け、抱えていた白い菊を母の墓前にそっと供えた。「来ていたのね」私は母の墓石を見つめたまま、静かに言った。「ああ……謝りに来たんだ。おばさんに、ちゃんと謝りたくて……」直人は何度も深く頭を下げた。額が濡れた石畳につきそうになるほどだった。「美緒、この一年、目を閉じると、昔のことばかり思い出した。玲奈先輩に騙されて、会社もクビになって、親にも毎日責められて……でも、そんなとき思い出すのは、いつも美緒だった。俺がつらいとき、黙って抱きしめてくれたのは美緒だけだったから。金は全部返した。もう一度だけ、やり直させてくれ。何でもする。そばにいさせてくれるだけでいい……」私は身を起こし、足元にいる直人を見下ろした。細い雨が肩に落ちて、ひやりとした。それでも、言うべきことははっきりしていた。「直人、顔を上げて。母の前で、ちゃんと聞いて」直人は涙で濡れた顔を上げ、呆然と私を見た。「5年前、母が初めて肝臓の腫瘍を取る手術を受けた日、私はひとりで手術室の前にいた。怖くて、どう
残業を終えて深夜の街に出るたび、きらびやかなネオンの下で浴びる夜風が、たまらなく自由に感じられた。2か月後の1日の朝、銀行アプリに入金通知が届いた。【入金:10万円 備考:返済】続けて、知らない番号からメッセージが届いた。【美緒、今月は仕事を3つ掛け持ちして、やっとこれだけ用意した。今は小さな会社で電話営業をしてる。給料は安いけど……仕事帰りにカップルを見るたび、美緒のことを思い出す。もう許してもらえないのは分かってる。それでも、お金は最後まで返す。美緒は……元気か?】私は画面を見つめ、苦笑した。返事はしなかった。事務所の入金管理表を開き、直人の欄に返済額として10万円を入力した。【残り:2790万円】毎月その金を振り込むたび、直人は自分が何をしたのか思い知らされるはずだった。半年以上が過ぎ、事務所は少しずつ軌道に乗っていった。県内でいくつも店を出している飲食チェーンの店舗デザインまで任されるようになってからも、毎月1日の朝になると、直人からの入金通知は欠かさず届いた。最初の頃は振込のたびに長い謝罪のメッセージが来ていた。それがやがて短い「ごめん」になり、最後には何も届かなくなった。1年後のある朝、スマホがまた震えた。開くと、いつもとは違う大きな金額が表示されていた。直人は実家に残っていた資産を売ったらしく、残っていた分をまとめて振り込んできた。備考欄には、短くこう入っていた。【完済】私は画面をしばらく見つめ、最後に一度だけ返信した。【確認した。これで貸し借りはなし】そのあと私は、8年間使い続けてきた銀行口座を解約し、LINEアカウントも削除した。これで、直人につながるものは何も残らなかった。母の命日が近づいていた。窓の外では、細い雨が降り続いていた。そろそろ一度、故郷へ帰ろうと思った。母を見送ってから、一度も戻れなかったあの場所へ。……霊園に着いても、雨はまだ細く降っていた。濡れた石段には薄く苔がつき、空気には松や檜の匂いと、線香の香りがかすかに混じっていた。私は白い菊の花束を抱え、石段をゆっくり上っていった。遠くから、母の墓前に誰かがいるのが見えた。痩せた背中を丸めたその人は、色あせた灰色のコートを着て、伸びた髪を後ろで無造作に束ねていた。濡れた墓石の前で膝をつき、肩を震
電話を切ったあと、私はしばらくスマホを見下ろしていた。けれど、心は少しも動かなかった。こうなるのも、当然だった。直人はずっと、玲奈を選べば自分ものし上がれると思っていた。けれど、そんなうまい話に代償がないはずがなかった。母が私に残してくれた大事なお金まで差し出して、直人は玲奈の会社にしがみついた。そして今、何もかも失った。その日の午後、直人の母からまた電話がかかってきた。今度は、実家で見せていたあの偉そうな態度はどこにもなかった。声は震え、ほとんど泣いているようだった。「美緒さん……お願い、直人を助けてやって。篠原に、あの子は利用されたのよ。あの600万だって、直人が一時の迷いで貸しただけなの。篠原は逮捕されたし、お金も戻ってこない。このままじゃ、直人は仕事まで失うかもしれないの。下手をしたら、警察からも事情を聴かれるかもしれない。お願い、あなたから説明してくれない? あのお金は、あなたが自分から渡したものですって言ってくれればいいのよ」電話の向こうで必死に泣きつく声を聞きながら、吐き気がこみ上げた。「自分から渡した?」私は冷たく笑った。「あの時あなたがずいぶん強気でしたよね。家を売れ、娘さんの新居の頭金にしろ、持参金を1000万に増やせと言っていたでしょ。いざ困ったら、今度は私に助けろって言うんですか?」「美緒さん、私たちは本当に反省しているのよ。篠原があんな人だと分かっていたら、直人には関わらせなかったわ。あなたと直人は8年も一緒にいたのよ。ここまで追い詰めなくてもいいじゃない」「8年も一緒にいたからこそ、もう十分です」私は声をさらに冷たくした。「それに、あの契約書には、彼が私に債務を負っていると明记されています。期限どおりに返さないなら、こちらもきちんと手続きを取ります。直人だけ何もなかったことにできると思わないでください。来月1日に最初の入金が確認できなければ、次は裁判所でお会いしましょう」私は直人の母がさらに何か言う前に、電話を切った。彼女に関わる番号は、すべて着信拒否にした。一週間後、直人への処分が決まった。問題になっていた600万円については、私の契約書が個人間の金銭貸借を裏づける資料として扱われ、直人本人の立件はひとまず見送られた。とはいえ、会社の財務規程に重大に違反したとし