Masuk私・夏川晴(なつかわ はる)を一人で育ててくれた祖父・夏川剛(なつかわ つよし)は、死ぬまでに私の花嫁姿が見たいと言った。 私はその願いを叶えるために、6年付き合った彼氏・九条司(くじょう つかさ)に、自分と結婚してくれないか、と17回も頼み込んだ末、やっと彼の同意を得ることができた。 だが入籍当日、司が幼馴染である桜井莉音(さくらい りおん)を連れて、役所から出てきたのだ。 「友達と賭けをしたんだよ。莉音と籍を入れられるかどうかって。俺だって、友達の前で情けない姿は見せられないからな」 そう言う司が、笑いながら渡してきたのは偽物の婚姻届受理証明書。 「お前のおじいさんには、これを見せて安心させてやればいいよな?どうせ偽物なんて気づきはしないんだから」 とても心が痛かった。しかし、司はもう歩き出していたので、私は必死に彼の腕をつかんで止めた。 「おじいちゃんと約束したの。必ず旦那さんを連れて会いに行くねって。 それに、あなたも一緒に会いに行ってくれるって言ったよね?」 司は隣の莉音を一瞥し、私の手を振り払った。 「いい加減にしろ。俺は今日入籍したんだ。お前に構ってる暇なんかないんだよ。 そんなに結婚したいなら、ロビーで適当な奴を捕まえて結婚すればいいだろ?俺は気にしないから」
Lihat lebih banyak「言い訳なんかしない」司の目は赤く染まり、その声はこらえきれないほど震えていた。「チャンスが欲しいんだ。たった一度だけでいい。式場もウェディングドレスも、もう全部準備してある。お前が頷いてくれれば、それでいいんだよ」私はただ静かに司を見つめた。彼の瞳は以前と変わらず、深く、鋭い輝きを宿している。私はかつて、その瞳に自分の姿を探し続けていた。あまりに長く見つめすぎて、何を探していたのかすら忘れてしまうほどに。「司。そんな必要はないから」司の動きがぴたりと止まった。「私はずっとその言葉を待ってた」私の声はとても軽く、秋の枯れ葉が水面に触れるようにさらさらと溶けていく。「あなたが振り向いてくれるのを……私を大切に想ってるって言ってくれるのを、ずっと待ってたんだ。それはもう、本当に長い間。でもね、今はもう待つのを止めたの」私は少しだけ首を傾げ、隣で静かに立つ慎吾の方を見た。慎吾はいつの間にか、私の横に立っていてくれていた。余計なことを言うわけでもなく、ただそこにいた。いつ振り向いても、この温かな眼差しで私を見ていてくれる。私は視線を戻し、再び司を見据えた。「もう帰って」跪く司の指は、白い関節が浮き出るほど強くベルベットのケースを握りしめていた。唇は震え、その目には今にも零れ落ちそうな涙が浮かんでいる。「晴……」「九条社長」慎吾が司に声をかけた。「妻はもうはっきりと気持ちを伝えていただろ?」司が勢いよく顔を上げ、慎吾と正面から視線をぶつけ合う。男同士の視線が数秒間交わりあい、部屋の空気が張り詰めた。先に視線を逸らしたのは司だった。彼はよろめきながら立ち上がる。手に握られたベルベットのケースは歪んでいた。玄関へ向かう司の背中が、一度だけ止まった。「晴」彼は振り返らずに言った。「すまなかった」ドアが静かに閉まる音がした。私は下を向いたまま、深く大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。慎吾が優しく私の肩を抱き寄せる。それは、何よりも安心できる強さだった。ソファで見守っていた祖父が、穏やかな表情でお茶を一口啜る。「よかった、よかった」祖父は何度も頷き、目を細めて微笑んでいる。その後菖蒲に聞いたのだが、莉音は横領
私は心臓をぎゅっと掴まれたような息苦しさを覚えた。大学時代、慎吾は生徒会の会長で、私は文化部の部長だった。慎吾はいつも優しく、イベントの後片付けを手伝ってくれたり、遅くまで会議をした後には食事をご馳走してくれた。私は、てっきり先輩の親切心だと思っていたし、卒業後、慎吾と司が仕事でやり合っている時も、単なる商売敵なんだと思っていた。それに、今回慎吾が祖父の件で力を貸してくれて、入籍することになった時も、友人として義理堅いだけだと思っていた。これまで深く考えたこともなかった。「結局のところ、君が幸せならそれでいいって、そう自分に言い聞かせてきたんだ」ようやく顔を上げた慎吾が、私をまっすぐに見つめる。その瞳には、10年もの間抑え込まれてきた深い愛情が詰まっていた。穏やかな湖のように静かだが、底知れない想いがその奥に秘められている。「でも、九条は違った。君を簡単に手放した。なら、俺のものにするしかないだろ?」私は慎吾をただ呆然と見つめることしかできなかった。10年。誰にも知られずに、一人の人を想い続けられるだろうか?帰りの車内、慎吾がハンドルを握り、私は助手席に座った。会話はないが、車内には温もりが満ちている。信号待ちの際、慎吾がハンドルからそっと手を離した。そして、ためらうように、その掌が私の手の上に重ねられた。とても熱かった。私も手を引かなかった。青信号になっても、慎吾の温もりはそこにあった。帰宅後、私はベランダに立って長い時間夜風に当たった。秋の夜風は冷たいけれど、頭をすっきりとさせてくれる。慎吾が上着を持ってきて、肩にかけてくれた。「夜は冷えるよ」上着を引き寄せ、私は少しだけ笑った。「慎吾」「うん?」「ありがとう」慎吾が蕩けるような優しい目で、横から私を見つめている。そして、彼は何も言わず、風に乱れた私の髪をそっと耳にかけてくれた。指先が耳に触れた瞬間、その手がわずかに震えているのが分かった。私は不意に顔が熱くなった。慎吾もさっと手を引き、わざとらしく咳払いを一つした。見ると、彼の耳元も赤くなっている。街の灯りを見下ろしながら、私たちは静かに並んで立っていた。風も静かで、月明かりが美しい夜だった。1年後、祖父が退
司の表情が凍りつく。司は何か言いたかったが、喉に何かが詰まったように、言葉が出せなかった。婚姻届。あのふざけた賭け、あまりにも馬鹿げた入籍。私はあの日のことを思い出していた。1週間前から悩んで選んだ白のワンピースを着て、役所の前でずっと司が来るのを待っていた。奮発して買った、ちょっと高めのワンピース。3ヶ月分の給料をはたいた。一生に一度のことだから、そう思って。一番きれいな姿でいたかった。白いワンピース姿の私を、ずっと司の心に留めてほしくて。役所の入り口で3時間も待った。でも結局、司は私の前に現れなかった。なぜなら、もう中で莉音と入籍の手続きを行なっていたから。たったひとつの賭けのために。「莉音ちゃんとは結婚できないんだろ?」友達にそうからかわれて。「何言ってるんだ。できるに決まってるだろ?」そう言って、司は本当に入籍してしまった。これだけの簡単な話。私は視線を落とした。まつげが微かに震える。もう、ここにいたくはない。ここの空気は、なんだか息苦しい。「行こう」私は慎吾の袖を軽く引っ張った。慎吾は私を見つめると、先ほどまでの氷のような鋭さを消す。彼は頷くと、私の肩を抱き寄せた。私たちは身を翻し、駐車場へ向かった。一度も振り返らずに。だが、突き刺さるような司の視線を背中にひしひしと感じた。慎吾は車のドアを開け、私が頭をぶつけないようにそっと手を添えてくれた。車に乗り込み、彼を見上げる。逆光の中、慎吾は私を見つめていた。私は思わず微笑んでしまった。ドアが閉まり、外の世界と隔絶される。黒いマイバッハが静かに駐車場を出た。あえて、バックミラーは見ないことにして……カフェにて。カフェのドアが開くと、菖蒲が勢いよく飛び込んできた。走りながら駆け寄ってきて、バッグを下ろす間も惜しんで私の前に座る。菖蒲は私の手を握りしめ、まるで検査でもするように、私の全身をじろじろと見回した。「大丈夫?」私が答えるより先に、菖蒲の視線は慎吾に向けられる。驚きに彼女は目を丸くした。「まさか、話してた相手ってこの人?」菖蒲の声が、信じられないといった調子で高く響いた。私は口元を和らげ、小さく頷く。菖蒲は口を開け、私と慎吾を何度も見比べ
披露宴の会場も、晴が以前「薔薇の壁がある庭園が素敵」と言っていた、東区にある場所に決めている。招待状もデザインさせ、高級感のある箔押しで、二人それぞれの名前を入れていた。司はふっと足を止めた。これを知れば、晴もきっと感動してくれるはずだ。晴はこういうサプライズに弱く、こっちが少しでも優しくすれば、何日も上機嫌でいてくれた。以前、自分が何気なくコーヒーを差し入れした時、晴はとても喜んで、インスタに3枚も写真を投稿していた。本当に扱いやすい女だと思う。だから、今回だって以前のような関係に必ず戻れるはずだ。慎吾と関係が何もなければ……晴が自分だけの晴でさえいてくれれば……司は病院の正面玄関から外へ出た。夕方の冷たい風が、通り抜けていく。晴のことはすぐに見つけることができた。淡い黄色のワンピースを着ている。しかし、あんなワンピース、司は見たことがなかった。髪は下ろしてふんわりとカールさせ、肩先に垂らしている。以前より少し痩せたのか、あごのラインがすっきりとし、鎖骨もより目立っていた。そして、その細い手首は、ある男の腕に絡んでいる。慎吾だ。チャコールグレーのスーツを上品に着こなした慎吾が、少し顔を寄せながら晴に何か話しかけ、穏やかな笑みを浮かべていた。その光景を見た司は、心臓を刺されたような痛みに襲われた。慎吾。ビジネスでの揉め事などどうでもいい。今は、この男が自分の女と腕を組んでいることが許せない。司は荒々しい足取りで二人の元へ向かった。……「晴」司の喉の奥から絞り出すような低い声が聞こえた。顔を上げ、司の姿が目に入った瞬間、私の笑みは自然と消えていく。「どうしたの?」自分でも驚くほど、それは淡々とした声だった。司の喉がごくりと動き、その手が私に向かって差し伸べられた。「俺と帰るぞ」しかし、私は動かない。静かに司を見つめる。それもまるで、遠い過去に別れた赤の他人を見るような目つきで……記憶が埃をかぶるほど、もう遠い思い出の中にいる人として。すると、司の後ろから、克哉や他の仲間たちも次々と駆けつけてきた。克哉は慎吾と私を交互に見比べ、まるで苦虫でも噛み潰したかのような表情を浮かべる。そして、意を決したのか前に進み出てきて、今にも泣き出しそ