LOGIN結菜の唇に触れたのは、驚くほど柔らかく、少しだけためらいがちな感触。
それはお互いの孤独な魂が、壊れ物に触れるようにそっと寄り添うような、優しくも切ないキスだった。 口づけがわずかに深まる。熱い吐息がため息のように、頬にかかる。 街の喧騒を遠くに聞きながら、2人はただお互いの存在を確かめ合っていた。ゆっくりと唇が離れた後も、智輝は結菜から目を離さなかった。言葉はない。けれどその銀灰色の瞳はどんな言葉よりも雄弁に、彼女への強い想いを物語っていた。
智輝が結菜の髪を慈しむように優しく梳きながら、囁く。「結菜……俺の本当の書斎を、君にだけ見せたい」
その誘いは、彼の心の最もプライベートな場所へ招き入れることを意味していた。結菜は一瞬戸惑ったが、彼の瞳に宿る真摯な光に、抗うことのできない引力を感じて頷いた。
◇ タクシーが滑るように停まったのは、結菜が今まで見上げることしかなかった、都心の高層マンションの前だった。 結菜は場違いさに少し気後れするが、智輝と絡めた指が心強くて、歩き続けた。 その最上階、ペントハウスに2人は入る。広大なリビングと長い廊下を通り過ぎ、書斎に足を踏み入れた瞬間、結菜は息を呑んだ。「わあ……!」
華美な装飾は一切ない。しかしその部屋の本質は壁にあった。三方の壁が、床から天井までを埋め尽くす作り付けの本棚で覆われている。そこに収められた膨大な蔵書は、特殊なUVカット加工が施されたガラス扉によって、静かに守られていた。
厳選されたアンティークの家具と、柔らかな間接照明。そして残る一面の壁は全面が窓になっており、天の川が地上に降りてきたような夜景が広がっていた。ここは智輝が『月読』で探していた安らぎを、彼自身のためだけに作り上げた、完璧な聖域だった「ここが、俺が唯一、何者でもなくいられる場所だ」
智輝はそう呟くと、結菜の手を取った。彼は結菜の手を引くと、あるガラス扉の前で立ち止まって小さな鍵で錠を開けた。恭しく取り出したのは、一冊の古書である。
「君が読んでいたものと同じ、エリアス・バークだ。これは、彼が友人に贈ったサイン入りの初版本らしい」
「エリアス・バークの! 私、手持ち以外では初めて見ました」
結菜もつい興奮の声を上げた。
智輝は普段の落ち着いた姿からは想像もできないほど、その声は熱と喜びに満ちている。彼は本の装丁やインクが掠れた署名を、結菜に指し示した。「よかったら、手に取って見てくれ」
言われて、結菜は思わずためらった。こんなにも貴重な本に、自分が触れてもいいのだろうか。結菜が悩んでいると、智輝は安心させるように微笑んで本を結菜の手に乗せた。
その無防備な姿に、結菜は愛しさを感じていた。
(あんなに寂しそうな瞳をしていたのに。好きなものの前では、こんなに子供みたいに笑うんだ)
本棚の前で、智輝は結菜を後ろからそっと抱きしめた。彼の体温が、ワンピース越しにじんわりと伝わってくる。
「君となら、俺は本当の自分でいられる気がする」
その響きには、本心からの声音が感じられた。
「智輝さん……」
結菜は振り返る。智輝の銀灰色の瞳が間近にある。
彼の手が結菜の頬に伸びてきて、2人は再び唇を重ねた。前よりも深く、抑えきれない情熱を含んだキス。 結菜の唇が割り開かれて、彼の舌が入ってくる。ただの欲望や快楽だけではない。互いの孤独を埋めて、魂の渇きを潤し合うような深い結び付き。
智輝の腕の中で、結菜は深い深い陶酔感と幸福感を味わっていた。KIRYUホールディングスの会議の一件から数日後。智輝が、結菜のアパートを訪れた。 あれから会議は終了になって、鏡子と重役たちはエドワードから説教をされた。「お前たちに苦労をかけたのは分かっている。だが、これはないだろう。会社という組織のために個人の幸福を潰すのならば、そんな会社こそ潰れてしまえ。KIRYUホールディングスは、社員の幸せと社会貢献を重んじる。それは今も昔も変わらない」 偉大な創業者に諭されて、全員がうなだれるばかりであった。 そうして鏡子は、決断をする。「母さんからの伝言だ」 彼は少し気まずそうに、しかし穏やかな表情で切り出した。「代理人弁護士を通じて、親権に関する一切の要求を正式に取り下げた、と。それから……」 智輝は、一度言葉を切った。「『あの子のために、季節ごとの衣服を贈らせてほしい』と。母さんなりの謝罪の形なんだと思う。母さんは君に酷いことをした。そう簡単に許せるものではない。ただ……心から悔いているように見えた。あのプライドの高い人が、非を認めたのだから」 智輝の言葉に、結菜は目を瞬かせた。(服? あの氷のようだったお母様が、樹にプレゼントを?) 直接的な謝罪の言葉ではない。けれどあれほどプライドの高い彼女が、不器用で遠回しな形で歩み寄ろうとしてくれている。 それは鏡子が樹を「桐生家の資産」としてではなく、一人の「孫」として認めようとしている。そんな兆しに思えた。 結菜をあれほどまでに追い詰めた女性。憎んでも憎みきれないはずだった。なのに、なぜだろう。不器用な愛情表現に、結菜の胸の奥が、じんわりと温かくなっていくのを感じている。「今すぐでなくていい。君の気持ちが落ち着いたら、どうか、受け取ってくれないだろうか」「……はい」 結菜は微笑んだ。優しい笑みだった。「ありがとうございます、と、お伝えください」 かつて2人の間にあった、桐生家という巨大な氷の壁。それが春の陽
「……」 鏡子はモニタの向こうで笑う、樹の姿を見た。小さい頃の智輝とそっくりの少年が、目を輝かせてこちらを見ている。(あの年頃の頃、智輝はどうしていたかしら) よく思い出せない。その頃の鏡子は仕事に追われて、家庭を顧みていなかった。 それ以降は、智輝に厳しい教育を施した。桐生家の跡継ぎにふさわしいように、尊敬する父から受け継いだ血と会社を途絶えさせないようにと。 智輝は期待に応えて、優秀な大人になった。 でも、いつからだろうか。息子が心から笑わなくなったのは。 大人になればそんなものだと、鏡子は気にしていなかった。だが智輝は、結菜と樹の前では笑うのだ。 楽しそうに。孤独の影を脱ぎ去って。――幸せそうに。『幸せになってほしかった』『あの光こそが、桐生の名を未来へ繋ぐ』『雅臣くんを伴侶に選んだのは、彼が優しい心の持ち主だから』 父の言葉が何度もこだまする。 ふと横を見れば、智輝が慈しむような目で樹を見つめていた。久しぶりに見せる――否、鏡子が初めて見る心からの穏やかな笑顔。(私が、間違っていたというの?) 認めたくなくて、鏡子は何度も頭を振った。「鏡子」 そんな娘の肩に、エドワードは手を置いた。しわ深く痩せてしまっているけれど、確かに父の温かい手だった。「お前には、必要以上の重圧をかけてしまった。後悔しているよ。愚かな父を、許してくれるだろうか」「そんな。お父様は、間違いなど犯しません。全ては私が至らないせいで――」「間違いを犯さない人間などいないよ、鏡子。私も、お前もね。けれど真に反省して前を向けば、それでいいんじゃないかな」「……!」 鏡子は顔を歪めた。涙が出そうになって、必死にこらえる。「おばさん、ないてるの? どこかいたいの?」 モニタの向こうの樹が、鏡子の様子に気づいて心配そうに言った。結菜がぎゅっと息子を抱きしめる。「&he
「こんにちは! さおとめ、いつきです。4さいです!」 元気よく自己紹介した樹は、エドワードの姿を見て不思議そうに首を傾げた。「しらないおじいちゃんがいる」「こら、樹! 失礼でしょ! この方は、智輝さんのおじいさまよ!」 横で結菜が必死で息子をつついている。「おじさんの、おじいちゃん? おじさんのお父さんのお父さん?」 樹はますます首を傾げた。「樹くんは、いい子だね。結菜さんが心優しく育ててくれたのだろう」 エドワードが言うと、樹は嬉しそうに笑った。「うん! ママは、とってもやさしいよ!」◇ エドワードは、画面の中で屈託なく笑うひ孫の姿に目を細めた。(そうか……この人とこの子が、智輝の大事な宝物) 智輝は桐生家の女帝だった母に反旗を翻してまで、戦ってみせた。 孫のそんな姿に、エドワードはかつての自分を思い出す。戦後の日本に単身で渡り、無一文から会社を興した若き日の自分を重ねていた。守るべき血統や家柄など何もない。ただ、未来を信じる情熱だけがあった、あの頃の自分だ。 旧華族の名門・桐生家の娘と結婚したのも、ただ純粋に相手を愛していたからだ。 当時の桐生家は名門の名ばかりで、すっかり没落してしまっていた。だから結婚に特に利益があったわけではない。 エドワードと妻は、戦後の動乱期と会社の成長を二人三脚で乗り切った。信頼と愛情があってことのことだった。 その妻はもういない。十数年前に先立ってしまった。 エドワードの気落ちは激しく、娘の鏡子に全てを任せて隠居生活に入った。 その時の智輝はまだ10代の学生。結果、鏡子に全ての責任がのしかかった。(あの時、隠居するのは早かったかもしれんな。おかげで鏡子に、最後まで苦労をさせてしまった) エドワードは内心で首を振って、過去の後悔を振り払った。 今、孫の智輝が守ろうとしている「未来」そのものが、画面の向こうで輝いている。
「違うだろう。私はただ、お前や雅臣くんや智輝に、幸せになってほしかったのだよ」「……!」 鏡子は絶句した。 幸せになってほしい。そんな素朴な願いが、尊敬する父の口から飛び出るなんて。「お前の伴侶に雅臣くんを選んだのは、彼が優しい心の持ち主だからだ。お前のビジネスの手腕と、雅臣くんの優しさ。夫婦の力が合わされば、いい未来を掴み取れると思った。……現実は、そこまで上手くいかなかったかもしれないが」 エドワードは苦く笑った。「あの……エドワード様」 重役の一人がおそるおそるといった様子で声をかけると、エドワードは頷いた。「君たちは、席を外してくれ」「かしこまりました」 役員たちが退出していく。 会議室には、エドワード、鏡子、雅臣、そして智輝だけが残った。「智輝。久しぶりだね。あまり元気そうではないが」 智輝は祖父の前で改めて背筋を伸ばした。「いいえ、お祖父様。お知らせすることがあります。俺は今、大事な人を得ました。愛する女性と、彼女の間にできた子です」「智輝!」 鏡子が声を上げるが、智輝は構わずに続けた。「俺は彼女たちを守ると誓いました。母は不満のようですが、負けるつもりはありません。必ず、幸せを手に入れてみせます」「そうか。あの小さかった智輝が、そんなことを言うようになったのか」 エドワードは感慨深そうに頷いた。「智輝。その女性と子に会うのはできるかな?」「結菜と樹です。彼女らは地方にいます。ビデオ通話でよければ」「それで構わない。まったく便利な世の中になったものだ」 智輝はタブレットを取り出して、結菜にビデオ通話をかけた。画面の向こうの結菜は、驚いた顔をしている。 エドワードがタブレットを覗き込んだ。「こんにちは、お嬢さん。私は智輝の祖父で、エドワードという」「おじいさま、ですか?
エドワードの登場に、その場の空気が、一瞬にして凍りついた。 先ほどまで智輝を糾弾していた役員たちが、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、一斉に椅子を引いて立ち上がる。その動きは、まるで軍隊の号令にでも従うかのように、一糸乱れぬものだった。 彼らは皆、若き日のエドワードのカリスマ性と厳しさを知る世代。その創業者を前に、彼らは会社の重役ではなくただの平社員へと戻っていた。 鏡子もまた、完璧なポーカーフェイスを崩していた。信じられないものを見たように唇をわずかに開く。(お父様がなぜ、ここに……?) 彼女の視線が、父の車椅子の横に立つ夫、雅臣へと突き刺さる。(雅臣さん? いつも私の言うことには黙って従うだけのあなたが、なぜ!?) 雅臣は妻の非難に満ちた視線を、逸らすことなく受け止めていた。常の気弱な彼としてはあり得ない態度である。 裏切りに対する怒りと、尊敬する父の登場による狼狽。鏡子の心中は激しく揺れた。「お父様……なぜ、ここに?」 ようやく絞り出した声は、力を失っていた。◇ エドワードは、騒然とする役員たちを一瞥で黙らせると、車椅子をゆっくりと進めた。孫である智輝の苦悩に満ちた顔をじっと見つめる。その視線を娘である鏡子へと移した。 そうして発せられた声は穏やかだったが、その場の誰をも黙らせる力があった。「鏡子。お前には、ずっと苦労をかけてきたな」「……え?」 予期せぬ労いの言葉。鏡子は、驚いて父の顔を見上げた。「雅臣くんが、経営には向かぬと分かっていながら、婿に迎えたのは私の判断だ。そして、なまじお前に能力があるからと、智輝を産んだ後も、重い荷物を背負わせすぎてしまった」 エドワードは一度言葉を切ると、静かに続けた。「だが、もう一度考えてみてほしい。会社はもちろん大事だ。だが会社とて、人間一人ひとりによって支えられているもの。そして人間は機械ではない。みなが心を持ち
鏡子は智輝を結菜から引き離し、精神的に追い詰める。その上で最終的に樹を奪い取るための正当性を、会社を巻き込んで作り上げようとしているのだ。 それがどれだけ自分勝手で理不尽なものであるか、鏡子は気づいてもいない。 彼女はただ、桐生家の当主として、KIRYUホールディングスの重役として責任を果たしているつもりでいる。(まったく、手間のかかること。とはいえ、私が婚約者選びに失敗したのも事実ですね。綾小路銀行との縁は良いと思ったけれど、当の玲香さんがあそこまで浅はかとは。まあ、結婚相手はこれからまた探せる。今は確実に子供を手に入れておきましょう) 鏡子は窮地に立たされている息子を、無感動な目で見やっていた。◇ 会議室は、重苦しい膠着状態に陥っていた。 役員たちはただただ非難を繰り返すが、智輝も折れることはない。 話のすり替えに応じず、感情を殺して反論してみせる。 しかし役員たちもまた、鏡子の前でそう簡単に白旗を上げることもなかった。 その時、コン、コン、と控えめなノックの音が、重厚なドアを震わせた。 役員の一人が、苛立たしげに「誰だ」と声を上げる。重要な役員会の最中に許可なく入室を求める者など、通常では考えられない。 ドアがわずかに開いた。隙間から顔を覗かせたのは、若い秘書だった。彼は室内の重圧に気圧されたように青ざめている。「申し訳ございません。……お客様が、どうしてもと……」 秘書の言葉が終わるよりも早く、ドアがさらに押し開かれた。 ドアの前に立っていたのは、心配そうな、どこか安堵した表情の雅臣だった。「雅臣さん? あなたに出席の資格はないはずですけれど?」 鏡子が、驚きと非難の入り混じった声で夫の名を呼ぶ。しかし雅臣は妻の視線を無視すると、恭しく背後の人物に道を開けた。 静かなモーター音と共に、一台の電動車椅子がゆっくりと入室してくる。 それに乗っていたのは、一人の老紳士だった。90歳を超えているはずだが、その