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31:同じ色

last update 게시일: 2025-10-14 11:05:01

 桐生智輝がホールに足を踏み入れた瞬間、場の空気が張り詰めた。職員の中にいるはずのない女の姿を認めて、彼の思考が一瞬、停止する。

 磨き上げられた革靴の下の床が、ぐらりと揺らぐような錯覚。心臓が一度だけ大きく、嫌な音を立てて鳴った。

(早乙女……結菜……? なぜ、彼女がここにいる?)

 激しい怒りと混乱が、古傷の痛みと共に胸の奥から蘇る。5年間、一度の連絡もなく姿を消した女が、今更何の用だ。智輝の全身を、冷たい炎のような感情が駆け巡った。

 しかし次の瞬間には、彼は全ての感情を精神の奥底に沈めた。完璧な「氷のCEO」の仮面を被る。感情を心から切り離すのは、この5年間で身につけた唯一の自己防衛術だった。

 一度、智輝は裏切られた。長い間抱えていた孤独を埋める、半身に出会えたと信じていたのに。

 今まで知り合った誰とも違う、特別な女性と巡り合ったと感じていたのに。

 全てはまやかしで、智輝は深く傷ついた。

 だから彼は心を閉ざ

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  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   160:結菜の新しい夢3

     都内の中心部に位置する、KIRYUホールディングス本社ビルの一階にある多目的ホール。  普段は株主総会や新作発表会などが行われる無味乾燥な空間が、今日ばかりは全く別の顔を見せていた。 エントランスには色とりどりの風船のアーチが飾られ、楽しげな童謡のオルゴール音が流れている。  開場時間とともに、何十組もの親子連れや、首から名札を下げたボランティアスタッフたちが続々と足を踏み入れてきた。「わあ、すっごく広い!」「ねえママ、あそこで絵本読むの?」 子供たちのはしゃぐ声が、高い天井に反響する。 ホールの中央には、子供たちが靴を脱いでくつろげるように、人工芝のような柔らかな緑色のマットが敷き詰められていた。  その周囲を囲むように、親たちやボランティアが座るための椅子が半円状に並べられている。居心地の良い空間が作られていた。 ステージの袖で、結菜は壁に背を預けていた。 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。(ああ、駄目ね。緊張しているわ) 心臓が耳の奥で早鐘を打ち、喉の奥がカラカラに乾いていた。 いよいよ今日が、「児童書読み聞かせ財団」の正式な設立日。  そして、記念すべき第一回の「没入型おはなし会&ボランティア向けワークショップ」の本番だ。 代表としての挨拶と、メインプログラムである結菜自身の読み聞かせ。重圧が両肩にのしかかる。「結菜、顔色が硬いぞ」 不意に背後から声がして、温かい手が結菜の肩に置かれた。 振り返ると、スーツ姿の智輝が立っていた。  いつものCEOとしての鋭い表情ではなく、1人の夫としての穏やかな笑みを浮かべている。 結菜は胸に手を当てて、少しうつむいた。「智輝さん……。どうしよう、お客さんの顔を見たら、急に足がすくんでしまって」「君なら大丈夫だ。今までどれだけ準備してきたか、俺が一番よく知っている。それに、今日は強力な応援団も来ているからな」 智輝が視線を向けた先には、鏡子と雅臣に手を引かれた樹と柚葉の姿があった

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   159

    「しかし、危うさも感じます」 鏡子はティーカップを持ち上げ、一口だけ紅茶を含んだ。「あなたの理念は素晴らしい。対話を重視する読み聞かせ。それは現場の子供たちにとって最高の体験になるでしょう。ですが、ボランティアの個人の熱意や善意に依存しすぎるシステムは、決して長続きしません」「善意に、依存……ですか?」 結菜が問い返すると、鏡子は静かに頷いた。「ええ。全国の施設を支援するということは、数百、数千のボランティアを束ねるということです。中には、熱意があっても技術が伴わない者、時間が取れずに離脱する者も出てくるでしょう。そのたびに代表であるあなたが現場に出向いて指導するわけにはいきません」 鏡子の指摘は、鋭く結菜の不安の核心を突いていた。 先日ミーティングをした田中代表の「現場は手一杯だ」という言葉が蘇る。「では、どうすれば……」「システム化し、マニュアル化するのです」 鏡子はテーブルの上の企画書を指先で叩いた。「佐藤くんが開発しているオンライン掲示板。これを単なる雑談の場にしてはいけません。優良な読み聞かせの事例や、子供の反応が良かった対話のパターンをデータベース化し、誰もが検索できるようにするのです。初心者のボランティアでも、そのデータベースを参照すれば一定のクオリティを保てるように仕組みを作る。それが、組織を運営するということです」「それは……!」 結菜は目を見張った。 ボランティアの自発的な情報共有に任せるのではなく、財団側から意図的に「成功パターンのデータベース」として構築する。 そうすれば、属人的なスキルへの依存を減らすことができる。 そうした仕組みがあれば、新しくボランティアを始める人の助けにもなるだろう。 経営者として数々の事業を成功させてきた鏡子ならではの、徹底して合理的な視点だった。「おっしゃる通りです。ボランティアの方々の負担を減らすためにも、知見を共有しやすい仕組みは絶対に必要ですね」

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   158

     樹の銀灰色の瞳は智輝によく似て、知的な輝きを持っている。 柚葉の瞳は結菜と同じダークブラウンだ。コロコロと変わる表情が愛らしい。「ママ、お仕事終わったの?」 樹がブロックから顔を上げ、結菜の横にやって来た。「ええ、少し休憩よ。樹はお城を作っているの?」「うん。でも柚葉が怪獣みたいに壊しに来るんだ」 樹が肩をすくめると、柚葉は「かいじゅー!」と言いながら両手を挙げてみせた。 兄と遊ぶのがよほど楽しいのだろう、満面の笑顔だ。 結菜は堪えきれずに吹き出した。 子供たちの屈託のない笑顔を見ていると、さきほどのオンラインミーティングでの疲労が嘘のように消えていく。「ママ、最近ずっと夜までお勉強してるよね。新しい図書館を作るの?」 樹が結菜の膝にあごを乗せて、上目遣いで聞いてきた。「図書館じゃないわ。絵本を読んであげる人たちを助けるためのお仕事よ。どんな本を選べばいいか、どうやって読めば楽しいか、みんなで考える場所を作るの」「ふーん。それって、ママが僕に読んでくれてたみたいに?」「そうね。樹は、ママが読む絵本、好きだった?」 結菜が尋ねると、樹は目を輝かせて大きく頷いた。「大好き! ママが読むと、恐竜が本当にドシンドシンって歩いてるみたいに聞こえるし、絵の中に隠れてる小鳥を探すのも楽しかった。だから、ママの選んだ絵本なら、他のみんなも絶対に好きになるよ!」 樹はきっぱりと言い切る。迷いのない口ぶりだった。 結菜は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。目頭が熱くなる。 樹は、結菜が司書として最も大切にしてきた「対話」を、ちゃんと受け取ってくれていたのだ。「ありがとう、樹。ママ、頑張るわ」 結菜は樹の頭を撫で、柚葉を抱き上げた。(子供たちに最高の絵本体験を届ける。そのために、私が折れるわけにはいかない) 結菜の心に、再び消えない火が灯った。◇

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   157

    「それは……」 結菜は言葉に詰まった。 思わず手をきつく握り合わせる。 反論しなければならない。道楽ではないと。 大企業のCEO夫人という肩書きが、どうしても「恵まれた立場の人間による慈善活動」という色眼鏡を生んでしまうのだ。「決して道楽などではありません。私自身、以前は市立図書館で……」「本日はここまでにしておきましょう。お話は伺いました」 女性は事務的にそう告げると、一方的に通信を切断した。 モニターが真っ黒になり、結菜の顔が映り込む。 その顔は、自分でも驚くほど青ざめていた。「難しいな……」 ぽつりと呟いた結菜の背後で、書斎のドアが開いた。 振り返ると、マグカップを2つ持った智輝が立っていた。 在宅ワーク中の彼は、ノーネクタイのラフなシャツ姿だ。「お疲れ様。通信が切れる音がしたから、終わったのかと思って。コロンビアの深煎りだ」 智輝はデスクの上にマグカップを置き、結菜の背後に回って肩を揉みほぐした。「ありがとう。……聞いていた?」「少しだけね。手厳しい意見だったみたいだ」 智輝の長い指が肩の凝りを的確に捉えて、結菜はわずかに目を細めた。 温かいコーヒーの香りが、こわばった体を少しずつ解きほぐしていく。「私の熱意だけじゃ、伝わらないみたい。KIRYUという看板が大きすぎて、どうしても警戒されてしまうの」「新しいことを始める時は、反発はつきものさ。特に現場で長く苦労してきた人ほど、外部からの突然の介入を嫌う。焦る必要はないよ。実績で証明していくしかない」 智輝はそう言いながら、自分のマグカップを手に取った。 窓からの光が彼の銀灰色の瞳に反射し、理知的な光を放っている。「佐藤のチームが開発しているマッチングアプリのベータ版、来週にはテスト運用に入れそうだ。UIも直感的で、スマートフォンに不慣れな年配のボラ

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   156:結菜の新しい夢2

     夜更けの桐生邸。書斎のデスクランプだけが、結菜の手元をオレンジ色に照らしていた。 パソコンの画面には、全国の児童養護施設や絵本の読み聞かせボランティア団体から回収したアンケート結果が並んでいる。 結菜はマウスをクリックし、寄せられた声に一つ一つ目を通していった。『寄付で本はたくさん頂きますが、読み聞かせをするスタッフの人数が足りません』『子供たちの反応が薄い時、どう読めばいいのか不安になります』『どんな絵本を選べば、子供たちが会話に参加してくれるのか分かりません』 切実な悩みの数々に、結菜はふうと息を吐き出した。(やっぱり、そういう悩みが多いのね) 長いこと目を凝らしていたため、モニターの光で目がしばしばする。こめかみを指の腹で揉みほぐした。 本を届けるだけでは不十分だ。読み手となる大人を支援し、子供たちとの対話を生み出す技術を伝える必要がある。 それが結菜の立ち上げる財団の核心だった。 デスクの端には、分厚い児童書のカタログや、結菜自身が図書館勤務時代に書き留めていた読書記録のノートが山積みになっている。 結菜はペンを手に取り、新しいノートに書き込みを始めた。(まずは、『結菜セレクト・対話が生まれる絵本箱』のリスト作りね) 単に名作を揃えるのではない。 ページをめくるたびに「次はどうなるかな?」「どっちに隠れていると思う?」と子供たちに問いかけやすい構成の本を選ぶ。 例えば、動物のしっぽだけが描かれていて、次のページで正体が分かる仕掛け絵本。 文字が少なく、絵の隅々に小さな虫や妖精が隠れていて、それを一緒に探せるような絵本。 司書としての記憶の引き出しを次々と開け、タイトルを書き連ねていく。 ノートの上にインクの滑る音が、静寂の部屋に心地よく響く。 やりがいのある作業だ。 疲れよりも、自分の知識がどこかの子供の笑顔に繋がるという期待が勝っていた。◇ 翌日の午後。

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   155

    「ハコモノを作って満足するのは、古い企業のやり方だ。結菜の言う通り、現場に血の通った支援でなければ意味がない」「は、はい。申し訳ありません」 佐々木が慌てて頭を下げる。 智輝は結菜に向き直り、柔らかく微笑んだ。「結菜。君のやりたいことを、もっと具体的に彼らに教えてやってくれ。KIRYUの技術は、君の理念を実現するための裏方にすぎないんだから」 結菜は深く深呼吸をした。 予算の大きさに気圧されてしまったが、大事なのはお金だけではない。 智輝の信頼に応えるため、結菜は言葉を紡いだ。「はい。私がやりたいのは、現場で頑張っているボランティアの方々を支援することです」 結菜はテーブルの上の分厚い企画書を脇に押しやり、身を乗り出した。「どう読めば子供が喜ぶか、専門家としてノウハウを教えるワークショップを開きたいです。それから、ただ本を送るのではなく、子供と対話が生まれやすい絵本を私自身が厳選して届けたい。そして……本を読んでほしい施設と、読み手であるボランティアを繋ぐ仕組みを作りたいんです」 若い佐藤が目を輝かせて身を乗り出してきた。「それなら、マッチングアプリの開発が有効ですね! ボランティアの需要と供給を可視化して、ノウハウを共有するオンラインコミュニティを作れば、全国規模での支援が可能です」「ええ、それです! そういうシステムがあれば、現場はとても助かります」 結菜と佐藤のやり取りを見て、佐々木もようやく状況を理解したように頷き始めた。「なるほど……。ハードではなく、ソフトの支援。さらにITによるインフラ構築を行う、総合的な事業です。確かに、我が社の強みを活かした新しい形の社会貢献と言えますね」 智輝が満足げに頷く。「決まりだな。佐々木、佐藤。ゼロベースで企画を練り直してくれ。この財団の理念は『本を通じた対話で、子供たちの心と未来を育む』だ」「承知いたしました。すぐに新しいチームを編成し、結菜代表の知見をシステムに落とし込みます」

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