ログイン翌日、結菜は仕事の休憩時間に、町に数軒ある不動産屋を直接訪ねて回った。けれどどの店でも答えは同じだった。「あいにく、今はご紹介できる物件がありませんでして」と、申し訳なさそうに断られるばかり。まるで町全体から、見えない壁で締め出されているような錯覚に襲われる。
ここで負けるわけにはいかない。樹のために。八方塞がりの状況に追い込まれた結菜は、最後の望みをかけて、市の住宅相談窓口へと向かった。
◇ 市の住宅相談窓口。順番を待つ間も、結菜の心臓は早鐘のように鳴っていた。やがて番号を呼ばれて、彼女は担当の職員の前に座る。結菜は大家の代理人から送られてきた、内容証明のコピーを差し出した。「……という事情で、10日後にはアパートを出なくてはならなくて。ですが、町中の不動産屋さんを回っても、今すぐ入れる物件が一つも見つからないんです」
声を絞り出す結菜に、担当者は気の毒そうに眉を寄せた。
「14日以内の退去勧告とは……随分と急ですね。ですが、契約書の内容次第では違法とは言い切れません。それで、市営住宅の空き状況ですが……」
担当者が手元の端末を操作するが、その表情はすぐに曇った。
「申し訳ありません。現在、公営住宅は全て満室でして、空き待ちの方も大勢いらっしゃる状況です」
「そんな」
その言葉は、結菜の最後の望みを打ち砕くには十分だった。
だが、別の職員が慌てたように駆け寄ってくる。「早乙女さん! ちょうど今、駅前の新しい住宅にキャンセルが出ました! 子育て支援住宅です!」
智輝の社会貢献プロジェクトの一環で、リニューアルされたばかりの住宅である。セキュリティも設備も整っており、今のアパートとは比べ物にならないほど良い物件だった。
「抽選になってしまいますが、早乙女さんの条件でしたら、かなり当選の確率は高いと思います」
「そうですか! 当選しますように……」
結菜は祈るような気持ちで、申込書を記入した。
KIRYUホールディングスの会議の一件から数日後。智輝が、結菜のアパートを訪れた。 あれから会議は終了になって、鏡子と重役たちはエドワードから説教をされた。「お前たちに苦労をかけたのは分かっている。だが、これはないだろう。会社という組織のために個人の幸福を潰すのならば、そんな会社こそ潰れてしまえ。KIRYUホールディングスは、社員の幸せと社会貢献を重んじる。それは今も昔も変わらない」 偉大な創業者に諭されて、全員がうなだれるばかりであった。 そうして鏡子は、決断をする。「母さんからの伝言だ」 彼は少し気まずそうに、しかし穏やかな表情で切り出した。「代理人弁護士を通じて、親権に関する一切の要求を正式に取り下げた、と。それから……」 智輝は、一度言葉を切った。「『あの子のために、季節ごとの衣服を贈らせてほしい』と。母さんなりの謝罪の形なんだと思う。母さんは君に酷いことをした。そう簡単に許せるものではない。ただ……心から悔いているように見えた。あのプライドの高い人が、非を認めたのだから」 智輝の言葉に、結菜は目を瞬かせた。(服? あの氷のようだったお母様が、樹にプレゼントを?) 直接的な謝罪の言葉ではない。けれどあれほどプライドの高い彼女が、不器用で遠回しな形で歩み寄ろうとしてくれている。 それは鏡子が樹を「桐生家の資産」としてではなく、一人の「孫」として認めようとしている。そんな兆しに思えた。 結菜をあれほどまでに追い詰めた女性。憎んでも憎みきれないはずだった。なのに、なぜだろう。不器用な愛情表現に、結菜の胸の奥が、じんわりと温かくなっていくのを感じている。「今すぐでなくていい。君の気持ちが落ち着いたら、どうか、受け取ってくれないだろうか」「……はい」 結菜は微笑んだ。優しい笑みだった。「ありがとうございます、と、お伝えください」 かつて2人の間にあった、桐生家という巨大な氷の壁。それが春の陽
「……」 鏡子はモニタの向こうで笑う、樹の姿を見た。小さい頃の智輝とそっくりの少年が、目を輝かせてこちらを見ている。(あの年頃の頃、智輝はどうしていたかしら) よく思い出せない。その頃の鏡子は仕事に追われて、家庭を顧みていなかった。 それ以降は、智輝に厳しい教育を施した。桐生家の跡継ぎにふさわしいように、尊敬する父から受け継いだ血と会社を途絶えさせないようにと。 智輝は期待に応えて、優秀な大人になった。 でも、いつからだろうか。息子が心から笑わなくなったのは。 大人になればそんなものだと、鏡子は気にしていなかった。だが智輝は、結菜と樹の前では笑うのだ。 楽しそうに。孤独の影を脱ぎ去って。――幸せそうに。『幸せになってほしかった』『あの光こそが、桐生の名を未来へ繋ぐ』『雅臣くんを伴侶に選んだのは、彼が優しい心の持ち主だから』 父の言葉が何度もこだまする。 ふと横を見れば、智輝が慈しむような目で樹を見つめていた。久しぶりに見せる――否、鏡子が初めて見る心からの穏やかな笑顔。(私が、間違っていたというの?) 認めたくなくて、鏡子は何度も頭を振った。「鏡子」 そんな娘の肩に、エドワードは手を置いた。しわ深く痩せてしまっているけれど、確かに父の温かい手だった。「お前には、必要以上の重圧をかけてしまった。後悔しているよ。愚かな父を、許してくれるだろうか」「そんな。お父様は、間違いなど犯しません。全ては私が至らないせいで――」「間違いを犯さない人間などいないよ、鏡子。私も、お前もね。けれど真に反省して前を向けば、それでいいんじゃないかな」「……!」 鏡子は顔を歪めた。涙が出そうになって、必死にこらえる。「おばさん、ないてるの? どこかいたいの?」 モニタの向こうの樹が、鏡子の様子に気づいて心配そうに言った。結菜がぎゅっと息子を抱きしめる。「&he
「こんにちは! さおとめ、いつきです。4さいです!」 元気よく自己紹介した樹は、エドワードの姿を見て不思議そうに首を傾げた。「しらないおじいちゃんがいる」「こら、樹! 失礼でしょ! この方は、智輝さんのおじいさまよ!」 横で結菜が必死で息子をつついている。「おじさんの、おじいちゃん? おじさんのお父さんのお父さん?」 樹はますます首を傾げた。「樹くんは、いい子だね。結菜さんが心優しく育ててくれたのだろう」 エドワードが言うと、樹は嬉しそうに笑った。「うん! ママは、とってもやさしいよ!」◇ エドワードは、画面の中で屈託なく笑うひ孫の姿に目を細めた。(そうか……この人とこの子が、智輝の大事な宝物) 智輝は桐生家の女帝だった母に反旗を翻してまで、戦ってみせた。 孫のそんな姿に、エドワードはかつての自分を思い出す。戦後の日本に単身で渡り、無一文から会社を興した若き日の自分を重ねていた。守るべき血統や家柄など何もない。ただ、未来を信じる情熱だけがあった、あの頃の自分だ。 旧華族の名門・桐生家の娘と結婚したのも、ただ純粋に相手を愛していたからだ。 当時の桐生家は名門の名ばかりで、すっかり没落してしまっていた。だから結婚に特に利益があったわけではない。 エドワードと妻は、戦後の動乱期と会社の成長を二人三脚で乗り切った。信頼と愛情があってことのことだった。 その妻はもういない。十数年前に先立ってしまった。 エドワードの気落ちは激しく、娘の鏡子に全てを任せて隠居生活に入った。 その時の智輝はまだ10代の学生。結果、鏡子に全ての責任がのしかかった。(あの時、隠居するのは早かったかもしれんな。おかげで鏡子に、最後まで苦労をさせてしまった) エドワードは内心で首を振って、過去の後悔を振り払った。 今、孫の智輝が守ろうとしている「未来」そのものが、画面の向こうで輝いている。
「違うだろう。私はただ、お前や雅臣くんや智輝に、幸せになってほしかったのだよ」「……!」 鏡子は絶句した。 幸せになってほしい。そんな素朴な願いが、尊敬する父の口から飛び出るなんて。「お前の伴侶に雅臣くんを選んだのは、彼が優しい心の持ち主だからだ。お前のビジネスの手腕と、雅臣くんの優しさ。夫婦の力が合わされば、いい未来を掴み取れると思った。……現実は、そこまで上手くいかなかったかもしれないが」 エドワードは苦く笑った。「あの……エドワード様」 重役の一人がおそるおそるといった様子で声をかけると、エドワードは頷いた。「君たちは、席を外してくれ」「かしこまりました」 役員たちが退出していく。 会議室には、エドワード、鏡子、雅臣、そして智輝だけが残った。「智輝。久しぶりだね。あまり元気そうではないが」 智輝は祖父の前で改めて背筋を伸ばした。「いいえ、お祖父様。お知らせすることがあります。俺は今、大事な人を得ました。愛する女性と、彼女の間にできた子です」「智輝!」 鏡子が声を上げるが、智輝は構わずに続けた。「俺は彼女たちを守ると誓いました。母は不満のようですが、負けるつもりはありません。必ず、幸せを手に入れてみせます」「そうか。あの小さかった智輝が、そんなことを言うようになったのか」 エドワードは感慨深そうに頷いた。「智輝。その女性と子に会うのはできるかな?」「結菜と樹です。彼女らは地方にいます。ビデオ通話でよければ」「それで構わない。まったく便利な世の中になったものだ」 智輝はタブレットを取り出して、結菜にビデオ通話をかけた。画面の向こうの結菜は、驚いた顔をしている。 エドワードがタブレットを覗き込んだ。「こんにちは、お嬢さん。私は智輝の祖父で、エドワードという」「おじいさま、ですか?
エドワードの登場に、その場の空気が、一瞬にして凍りついた。 先ほどまで智輝を糾弾していた役員たちが、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、一斉に椅子を引いて立ち上がる。その動きは、まるで軍隊の号令にでも従うかのように、一糸乱れぬものだった。 彼らは皆、若き日のエドワードのカリスマ性と厳しさを知る世代。その創業者を前に、彼らは会社の重役ではなくただの平社員へと戻っていた。 鏡子もまた、完璧なポーカーフェイスを崩していた。信じられないものを見たように唇をわずかに開く。(お父様がなぜ、ここに……?) 彼女の視線が、父の車椅子の横に立つ夫、雅臣へと突き刺さる。(雅臣さん? いつも私の言うことには黙って従うだけのあなたが、なぜ!?) 雅臣は妻の非難に満ちた視線を、逸らすことなく受け止めていた。常の気弱な彼としてはあり得ない態度である。 裏切りに対する怒りと、尊敬する父の登場による狼狽。鏡子の心中は激しく揺れた。「お父様……なぜ、ここに?」 ようやく絞り出した声は、力を失っていた。◇ エドワードは、騒然とする役員たちを一瞥で黙らせると、車椅子をゆっくりと進めた。孫である智輝の苦悩に満ちた顔をじっと見つめる。その視線を娘である鏡子へと移した。 そうして発せられた声は穏やかだったが、その場の誰をも黙らせる力があった。「鏡子。お前には、ずっと苦労をかけてきたな」「……え?」 予期せぬ労いの言葉。鏡子は、驚いて父の顔を見上げた。「雅臣くんが、経営には向かぬと分かっていながら、婿に迎えたのは私の判断だ。そして、なまじお前に能力があるからと、智輝を産んだ後も、重い荷物を背負わせすぎてしまった」 エドワードは一度言葉を切ると、静かに続けた。「だが、もう一度考えてみてほしい。会社はもちろん大事だ。だが会社とて、人間一人ひとりによって支えられているもの。そして人間は機械ではない。みなが心を持ち
鏡子は智輝を結菜から引き離し、精神的に追い詰める。その上で最終的に樹を奪い取るための正当性を、会社を巻き込んで作り上げようとしているのだ。 それがどれだけ自分勝手で理不尽なものであるか、鏡子は気づいてもいない。 彼女はただ、桐生家の当主として、KIRYUホールディングスの重役として責任を果たしているつもりでいる。(まったく、手間のかかること。とはいえ、私が婚約者選びに失敗したのも事実ですね。綾小路銀行との縁は良いと思ったけれど、当の玲香さんがあそこまで浅はかとは。まあ、結婚相手はこれからまた探せる。今は確実に子供を手に入れておきましょう) 鏡子は窮地に立たされている息子を、無感動な目で見やっていた。◇ 会議室は、重苦しい膠着状態に陥っていた。 役員たちはただただ非難を繰り返すが、智輝も折れることはない。 話のすり替えに応じず、感情を殺して反論してみせる。 しかし役員たちもまた、鏡子の前でそう簡単に白旗を上げることもなかった。 その時、コン、コン、と控えめなノックの音が、重厚なドアを震わせた。 役員の一人が、苛立たしげに「誰だ」と声を上げる。重要な役員会の最中に許可なく入室を求める者など、通常では考えられない。 ドアがわずかに開いた。隙間から顔を覗かせたのは、若い秘書だった。彼は室内の重圧に気圧されたように青ざめている。「申し訳ございません。……お客様が、どうしてもと……」 秘書の言葉が終わるよりも早く、ドアがさらに押し開かれた。 ドアの前に立っていたのは、心配そうな、どこか安堵した表情の雅臣だった。「雅臣さん? あなたに出席の資格はないはずですけれど?」 鏡子が、驚きと非難の入り混じった声で夫の名を呼ぶ。しかし雅臣は妻の視線を無視すると、恭しく背後の人物に道を開けた。 静かなモーター音と共に、一台の電動車椅子がゆっくりと入室してくる。 それに乗っていたのは、一人の老紳士だった。90歳を超えているはずだが、その