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第10話

Author: 花辞樹
目を覚ましたとき、最初に耳にしたのは、宏と遥の婚約が発表された、という知らせだった。

兄は壁を拳で叩くほど怒っていたけれど、私は不思議と、何の感情も湧かなかった。

宏は、私に二度の「出血」をもたらした。

一度目は、私のお腹の子を奪った時。

二度目は、私の中に残っていた、彼への最後の愛を奪った時。

今の私にとって、宏はもう他人にすぎない。

いや、もはや「上司」ですらない。

私はスマホを取り出し、人事部の同僚宛に辞表を送った。

これからの私は、もう工業デザインなんてやめる。もっと、華やかなジュエリーを作りたい。

私のデザインしたドレスを、世界中の人に纏わせたい。

そう、これからは、私自身の人生を生きるのだ。

「お兄さん、退院の手続きをして」

兄は一瞬驚いたように私を見つめた。

「でも……まだ回復していないだろ」

私は微笑み、スマホの画面を見せた。そこにはデザインコンテストの招待状が映っていた。

「でも、チャンスは待ってくれない。この大会に出たいの」

兄はじっと私を見つめ、それからそっと頭を撫でて言った。

「わかった。兄さんは、君の選んだ道を全部応援する。

だから、これからはもう……兄さんに隠しごとはなし、だな?」

私は彼の胸に飛び込みながら笑った。

「はい、もう嘘つかないよ」

退院の日、受付で手続きを終えたとき、宏に出くわした。

彼の隣には遥。彼女はわざとらしく彼の腕に手を回し、挑発的な笑みを浮かべてこちらを見た。

私は一瞥もくれず、すべての支払いを済ませ、そのまま背を向けて歩き出した。

気のせいだろうか。宏の顔はひどく疲れて見えた。それに、どこか悲しげでもあった。

兄の話では、彼は私が妊娠していたことも、流産したことも知ったらしい。

そして泣いていた、とも。

たぶん、それは「罪悪感」なのだろう。

しかし、その罪悪感はほんのわずかだったに違いない。

そうでなければ、あの事実を知ったその日に、遥との婚約を発表するはずがない。

まあ、どうでもいい。彼らがなぜ結婚しようが、いつ結婚しようが、もう私には関係のないこと。

私はH国行きの航空券を予約した。

出発前、修理店に寄って、宏に壊されたあのネックレスを直せないか頼んだ。

あれはDiskeの作品。砕けたままでは、あまりにも惜しい。

だが職人は首を振った。あまり
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