LOGIN婚約が決まったとは言っても、それは書類だけのことだった。
婚約承諾書にサインをした後にヒュー・ベッカーから贈られてきたのは、色とりどりの宝石や上質な木綿や絹の布地に、サテンでできた靴や柔らかい羊毛の部屋履きなどで、2か月後の結婚式までに本人が現れることは終ぞなかった。 屋敷に豪華な贈り物が届くたびに妹たちは大喜びしたが、アデラインにはどんどんと積み上げられる贈り物が自分の代金なのだと思えて虚しいだけだった。 結局、アデラインがヒュー・ベッカー——いや、今はテイラー子爵家の養子となったヒューガード・テイラーと初めて会ったのは、結婚式が執り行われる教会だった。 ヒューガードから贈られた、流行の白い絹のウェディングドレスを着たアデラインは、アルマン侯爵に手を取られ床に敷かれた柔らかい絨毯の上をゆっくりと歩いていた。 亜麻色の髪を結い上げ、銀や真珠の髪飾りで飾り立てた頭に細やかな模様が全体に散りばめられたレースのヴェールで覆ったアデラインは、どこから見ても美しい花嫁だ。 絹地に金糸の刺繍を施されたドレスの重みを感じながら、父の腕の温かさに縋るように、一歩一歩夫となる男の元へ足を進めていく。 アルマン侯爵の足が止まると、アデラインは事前に教えられた通りに父の腕から手を離して、夫となるヒューガードの手を取り、彼の足の動きに合わせて俯いたまま再び歩き出した。 祭壇に到着してようやく顔を上げると、初めて夫の顔を見た。 セシルが言っていた通り、物語に出てくる美男子とは違うが、精悍で男らしい整った顔は、花嫁を迎えた喜びや緊張などは全く見受けられず、新聞で見る冷酷でやり手の事業家という評価にぴったりだと思えた。 誓いの言葉の後に口付けをすることは、アデラインにもよくわかっていた。 だが、この日初めて会う男と何を誓い、なんの口付けをするのかと思うと、アデラインはヴェールを捲り上げられた後も羞恥と悔しさで顔を上げられなかった。 その姿に、招待客のうち数人はアデラインの心情を察していたようだが、多くは初々しい花嫁の恥じらいと捉えて、アデラインの奥ゆかしさを讃える声が漏れ聞こえていた。 いつまでも顔を上げないアデラインの頬に、絹の手袋の感触がしたかと思うと、力強くはないものの強引に顔を上げさせられた。 長い睫毛に父親によく似た薄い琥珀色の瞳と、少し丸い形のいい鼻、薔薇色に染められた唇は、誰が見ても魅力的だったが、ヒューガードは表情を変えることも無く、アデラインの顔を見下ろしていた。 ——ああ、わたくしはこの男の妻になるのね。 ヒューガードの顔がそっと近付くにつれ、アデラインの心に絶望が広がったが、ヒューガードはアデラインの唇を避けてすぐ下に口付けをした。 周りからは唇を重ねたように見える位置だったのか、招待客から祝福の拍手が聞こえてきて、アデラインは安堵の吐息を漏らしてヒューガードの顔を見上げた。 きっと自分の心情を理解してくださったに違いない。少しだけ怖そうと思ったけど、実は優しい方なのだわ。 アデラインはそう思ったが、ヒューガードの顔を見た瞬間、その思いは間違いであったと気付いた。 ヒューガードの目は既にアデラインを見ておらず、ただ一つの作業を終わらせただけであることが、その仕草から読み取れたからだ。 その後のことはあまり記憶になかった。 気が付くとアデラインは侯爵邸に戻ってきていた。 左手に宝石が散りばめられた金色の指輪をしているということは、式は無事にやり終えたのだろう。 ウェディングドレスから、昼食用の薄桃色のドレスに着替えたアデラインは、事前に教えられたとおりに客間でゲストの到着を1人で待っていた。 ヒューガードは従者が耳打ちしたのを受けて、短く用事を済ませてから来ると言って、従者と出て行った。 そして、教会を出て1時間以上経った今も姿を現さない。 左手にはめられた指輪を見つめると、いよいよ自分が結婚したのだと実感が湧いてくるかと思ったが、夫となったはずの男が隣にいないこの状況では、残念なことにそんな感覚は少しも感じなかった。 それでも、この後の披露宴が終わると2人はアルマン領を離れて、首都にあるヒューガードの屋敷に向かうことになっていた。 そうなると、アデラインは名実ともにヒューガードの妻になるのだ。 アデラインは胃の腑が痛くなるような気分で、食堂に続く扉を見つめた。 ヒューガードが寄越した業者によって床や壁が修繕された食堂には、豪華な昼食が並べられていた。 「素敵!子羊に雉のローストよ。パイもあるわ。ああ、見てコレット、わたくしの大嫌いな野菜でさえあんなに美味しそうに見えるわ」 食堂でゲストを待ち構えているセシルが、興奮気味にコレットに言ったが、行儀が悪いと窘めるのも忘れて、コレットもテーブルに並んだ豪華な料理を見て言葉を失っている。 料理の間には、美しい装飾の銀食器が並び、細工物の塩入れが活けられた花と共にテーブルを飾り立ていた。 「ウェディング・ブレックファストなんて初めて見たわ。こんなのが食べられるなら、わたくしも早く結婚したいわ」 「お姉さまはまず、社交界にデビューできるように行儀作法を覚えなさいよ。アディ姉さまにいつも言われてるでしょ」 「嫌な子ね。来年の春にはデビューよ。お父さまが約束してくださったもの」 セシルとコレットの軽口に、アルマン侯爵は少しだけ胸が軽くなるようだった。 少なくとも、娘たちにはこの結婚が不幸には見えていないようだ。 ヒューガードが姿を現さなくても、セシルたちは気にしていなかった。 毎日のように届けられる花や贈り物は、妹たちにも届けられていた。若い娘たちの好奇心を満たすような本や甘い菓子によって、彼女たちの興味はヒューガード本人から、今日届く贈り物は何なのかということに向けられていたからだ。 セシルたちの賑やかな話し声は、アデラインにとっても慰めになっていた。 少なくとも、この結婚で不幸になる人間は誰もいないのだ。 アデラインは自分にそう言い聞かせると、最初に到着したゲストを1人で出迎えた。『侍女の手配をしていただき、ありがとうございます』 一文だけの小さなカードが添えられた籠には、砂糖菓子が入った瓶と温室で育てた|トルコ桔梗《リシアンサス》とアネモネの花が彩りよく飾られていた。 ヒューガードはカードに書かれた、女らしい美しい書体をそっと指でなぞってみた。 昨夜のうちに書かれたインクはとうに乾いていて、ヒューガードの指を汚すことはなかったが、不思議と彼女の香りがするような気がした。 ヒューガードは机の上のトレイから便箋を取り出そうと手を伸ばしたが、少しだけ考えて、引き出しからカードを取り出して、部屋の隅で立っている|侍従《ヴァレット》に声をかけた。「トビー」 アデラインの使いで籠を持ってきた侍従のトビーは、静かに頭を下げた。 夫からの返事を、と催促こそされていなかったが、旦那様はきっと何か返事か言葉をくださるに違いないと、待機していたのだ。「これを奥方に」「かしこまりました」 ヒューガードが無造作に差し出したカードを、トビーは大事そうにハンカチに包んでポケットにしまい込んだ。 トビーが一礼して部屋を出て行くと、ヒューガードはもう一度アデラインからのカードを眺めてから、砂糖菓子が入った瓶を手に取った。「相変わらずだな」 ヒューガードは無意識に微笑むと、アデラインからのカードをそっと机の引き出しにしまい込んだ。 ヒューの家は、貧しいレンガ職人だった。 父親は朝から晩まで黙って土を練り、レンガを焼き、時折塀や建物の修理をする——そんな平凡な男だった。 ヒューが14歳になった年の夏になる少し前。嵐でアルマン侯爵家の塀が崩れたため、修理に出かけた。 塀の損傷が思った以上に酷かったことと、年頃になったこともあって、父親はヒューを修行がてら手伝わせることにした。 ひと月近く修理にはかかると思われたが、アルマン侯爵は構わないと快く了承してくれた上、通常よりも多くの賃金を提示してくれた。 お屋敷はヒューの家がいくつ入るかもわからないくらい広かったが、ヒューたちが入ることを許されたのは、塀の周辺と庭の奥にある資材置場だけだった。 ヒューは初めて見るお屋敷に興奮していた。この中で働くにはどうしたらいいんだろう。この中ではどんな美味い飯が食えるんだろう。どんな仕事をしてるのか、本はどれだけあるのか……想像は尽きなかった。 そんな時、
重いカーテンが開かれ、一気に明るくなった部屋でアデラインは目を覚ました。 「おはようございます。奥様」 ナタリーは相変わらずの仏頂面で、アデラインに頭を下げた。 「おはよう。ナタリー」 アデラインはまだ眠気をひきずったまま、もそもそとベッドから這い出た。 サイドボードには花の絵が散りばめられた陶器のたらいが2つ並んでいて、1つからは心地よさそうな湯気が立ち昇っている。 アデラインはひとりで微笑むと、湯気が立っているほうのたらいで顔を洗った。程よい温度のお湯が、夜の冷気で引き攣った顔をゆっくりと解してくれるようだ。 続いて冷たい水でもう一度洗う。冷たい水は肌を引き締めて血行を良くしてくれるのだ。 顔を洗い終えるとナタリーの差し出したガーゼの手拭いで顔を拭き、鏡台の前に腰を下ろした。 鏡台の上には昨日はなかった薔薇の香りのする化粧水や、蜜蝋を練り込んだ良い香りのするクリームなどが並べられていた。 鏡越しにナタリーを盗み見ると、少しだけ気まずそうにブラシを持って立つ姿に、アデラインは気がついていないふりをしながら微笑んで、目の前に並べられた化粧水のボトルを手に取った。 食堂で軽い朝食を済ませたアデラインは、自室に戻るとトマスから預かった予算表を睨んでいた。 一見複雑な簿記の記述に見えたが、読み込んでみるととてもわかりやすくまとめられていることに、アデラインは感心した。 おかげで今年の予算の使い道と、残りの金額を把握することができた。 アデラインはひと息ついてナタリーを呼ぶと、トマスとポーラを自室に来るよう伝言を頼んだ。 「この屋敷に招いたゲストのリストも持って来るように伝えてね」 アデラインが付け加えると、ナタリーは頷いて部屋を出た。 10分とかからずにトマスとポーラが部屋を訪れると、アデラインは予算表と書き記したメモ書きをトマスに渡した。 「屋敷の模様替えをしたいと思うの。このお屋敷にはとても高価な装飾が多いから、それを活かした配置にしたいわ。旦那様に了解を取って下さる?」 「旦那様は屋敷のことは奥様のお好きなようにとおっしゃっておられました」 トマスが答えると、アデラインは少しだけ驚いて、ついポーラを見てしまった。 ポーラは真っ直ぐに立ったまま、アデラインの顔を見返して小さく頷いた。彼女も承
ベッカー邸の食堂で初めて摂る夕食は、アルマン侯爵家とは違い、ロシア式でサービスされるのだと、食堂に向かう途中でトマスが教えてくれた。 アルマン侯爵家では、フランス式——と言えば聞こえがいいが、質素な食事がいくつかテーブルに並べられただけのもので、一品ずつ提供されるロシア式は本や新聞でしか見たことがなかった。 「本日の給仕を務めさせていただきます、第一侍従のジーン・フィッシャーです」 トマスが紹介した従僕は、夫と同じとび色の瞳を細めて会釈をした。 瞳の色は同じでも、ジーンはフットマンらしく若々しく、彫刻のように美しい顔が華やかで、ヒューガードとは全く違うとアデラインは思った。 ジーンは、丁寧な所作でグラスにシェリー酒を注ぎ入れたが、左手でグラスの底を押さえていた。 アデラインは少しだけ眉をしかめたが、すぐにシェリー酒を口に運んだ。 癖のない舌触りのシェリー酒は、するすると喉を通り抜けた。アーモンドのような香りが鼻をくすぐり、爽やかな口当たりが食欲を増してくれるようだ。 こんなに上等なシェリー酒は口にしたことがない。 ほっと感嘆の溜息をつく間に、目の前にスープの皿が差し出された。 湯気の立った皿はそっと受け皿の上に運ばれたが、置かれる際に食器同士の重なる音が静かな食堂に小さく響いた。 アデラインは気付かないふりをして、食事を続けようとスープ皿を覗き込んで息を呑んだ。 スープは透明な琥珀色が美しい、初めて見るものだった。 「こちらはコンソメスープでございます」 トマスが伝えると、アデラインは驚きと興奮が入り混じった顔でトマスを見つめてから、もう一度スープを見つめた。 「これが……」 本で読んだコンソメスープは、大量の肉や野菜を使い捨てる上、大変な技量を要する、それはそれは贅沢なスープだった。 そんなものを一生口にすることなどないと思っていたのに、目の前で光り輝いているのだ。 アデラインはそっと、スープを掬うと一口目をゆっくりと味わった。 透明な液体の中に濃厚な牛肉の甘味が溶け込み、それを野菜たちのスパイシーな香りが包み込む。今までに味わったことの無い美味しさに、気が付くと皿はすぐに空っぽになっていた。 部屋に戻ったアデラインは、木綿の生
重いカーテンが開かれ、一気に明るくなった部屋でアデラインは目を覚ました。 「おはようございます。奥様」 ナタリーは相変わらずの仏頂面で、アデラインに頭を下げた。 「おはよう。ナタリー」 アデラインはまだ眠気をひきずったまま、もそもそとベッドから這い出た。 サイドボードには花の絵が散りばめられた陶器のたらいが2つ並んでいて、1つからは心地よさそうな湯気が立ち昇っている。 アデラインはひとりで微笑むと、湯気が立っているほうのたらいで顔を洗った。程よい温度のお湯が、夜の冷気で引き攣った顔をゆっくりと解してくれるようだ。 続いて冷たい水でもう一度洗う。冷たい水は肌を引き締めて血行を良くしてくれるのだ。 顔を洗い終えるとナタリーの差し出したガーゼの手拭いで顔を拭き、鏡台の前に腰を下ろした。 鏡台の上には昨日はなかった薔薇の香りのする化粧水や、蜜蝋を練り込んだ良い香りのするクリームなどが並べられていた。 鏡越しにナタリーを盗み見ると、少しだけ気まずそうにブラシを持って立つ姿に、アデラインは気がついていないふりをしながら微笑んで、目の前に並べられた化粧水のボトルを手に取った。 食堂で軽い朝食を済ませたアデラインは、自室に戻るとトマスから預かった予算表を睨んでいた。 一見複雑な簿記の記述に見えたが、読み込んでみるととてもわかりやすくまとめられていることに、アデラインは感心した。 おかげで今年の予算の使い道と、残りの金額を把握することができた。 アデラインはひと息ついてナタリーを呼ぶと、トマスとポーラを自室に来るよう伝言を頼んだ。 「この屋敷に招いたゲストのリストも持って来るように伝えてね」 アデラインが付け加えると、ナタリーは頷いて部屋を出た。 10分とかからずにトマスとポーラが部屋を訪れると、アデラインは予算表と書き記したメモ書きをトマスに渡した。 「屋敷の模様替えをしたいと思うの。このお屋敷にはとても高価な装飾が多いから、それを活かした配置にしたいわ。旦那様に了解を取って下さる?」 「旦那様は屋敷のことは奥様のお好きなようにとおっしゃっておられました」 トマスが答えると、アデラインは少しだけ驚いて、ついポーラを見てしまった。 ポーラは真っ直ぐに立ったまま、アデラインの顔を見返して小さく頷いた。彼女も承知
「わたくしは、朝は食堂で食事をします」 アデラインが言うと、トマスは「承知いたしました」と頷いた。 ヒューガードがどの程度の権限を認めたのかという問いには、トマスは明確には答えなかった。「奥様に不自由がないようにと仰せつかっております」との返事は、肯定的に受け止めると女主人の全権を認めるとなるし、否定的に受け止めると単なる客人の扱いだとなる。 アデラインはどちらなのかと問いただすことはしなかった。その代わり、確認すればよいのだ。「屋敷の誂えを整えたいわ。屋敷の維持費や改修費の予算を見せてもらえるかしら」 その要望にも、トマスは黙って頷いた。 アデラインはその動作を見て、満足そうに頷いた。 トマスの答えで、旦那様はそれなりに自分に裁量を任せてくれている——アデラインはそう確信することができた。「夕食前に使用人を集めてちょうだい。挨拶がしたいわ」「かしこまりました。全員、玄関ホールに集まるよう申し伝えます」「お願いね」 アデラインが言うと、トマスは目元で微笑んで見せた。目尻に皺が寄るのを見て、父のアルマン侯爵が懐かしくなったが、別れたのはつい昨日のことだ。 それなのに、これからここが自分の生活する場所なのだと思うと、もう数か月も会っていないかのような切なさが胸を締め付けた。 これが結婚というものなのだろうか。 これまで一緒に過ごした温かい家庭からでて、新しい環境で1人の大人の女性として生きていく。そこにはもう、愛しい父や妹たちの温もりはなく、代わりに得た新しい家族の手を取って歩く。それが結婚なのだと亡くなった母から教えられた。 だが、アデラインはすぐに否定した。 何故なら、結婚とは1人でするものではない。そして、自分の夫は手を取るどころか、初夜はもちろん、結婚したばかりの朝にすら顔を出さないのだ。 いくら世間知らずなアデラインにもわかる。こんなのは普通じゃない。 アデラインはトマスの目尻の皺から目を逸らして、小さく両手を重ねて握った。 それでも—— もう結婚生活は始まってしまったのだ。 それならば、少なくともこの屋敷の女主人として、そして、次期アルマン侯爵夫人として堂々と振舞わなければならない。 アデラインは深く息を吸い込むと、ぐっと胸を張った。「夕食のお召し替えはいかがいたしましょう。ミセスポーラを呼んでまいりましょう
「家政婦のポーラでございます。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」 ナタリーが部屋に連れてきた40半ばの初老の女性は、深々と頭を下げた。「いいのよ。わたくしも人前に出られる姿ではなかったし」 アデラインが言うと、ポーラは横目で半歩後ろで控えているナタリーを見た。「今後はお手伝いが必要な際はわたくしをお呼びくださいませ。以前はヘッセン伯爵家でメイドをしていた経験がございます」 この数少ない会話でポーラは全てを察したのだろう。 アデラインはポーラの存在を少しだけ頼もしく思った。「そうね。明日の朝はあなたにお願いします——と、言いたいのだけど、わたくし、このドレスがとても気に入ったの。明日もこれを着たいわ」「ですが、2日続けて同じご衣裳など——いいえ、畏まりました。では、針子に命じまして同じようなものをすぐに作らせますわ」 ポーラはアデラインの考えを察して、すぐににこやかに答えた。 アデラインはポーラの答えに満足して、「よろしくね」とだけ言うと、ナタリーは仏頂面を少しだけ気まずそうにしかめたが、アデラインは見ない振りをした。「家令のトマスは——」「外出しているとナタリーに教えてもらったわ。戻ったらまた挨拶をさせて頂戴。それまでナタリーに屋敷を案内してもらうわ」 アデラインが言うと、ポーラは頷いてナタリーに「頼みましたよ」とだけ言って、部屋を後にした。 ナタリーの先導で屋敷を見て回ったアデラインは、領地の侯爵邸に引けを取らない広さと、豪華な装飾、そしてそれらが埃ひとつなく丁寧に手入れされていることに感心していた。 窓にかけられたカーテンひとつとっても、丁寧にブラシをかけて手入れをされていることがわかる。木の床などは念入りにワックスをかけて磨かれているおかげで、艶やかに輝いている。「旦那様はとても厳しい方なのかしら」「いいえ。旦那様はお忙しくい方ですのでお屋敷にはほとんどいらっしゃいません。屋敷にいらっしゃる時も執務室から出られることは滅多とありません」「お客様は頻繁にいらっしゃるの?」「滅多といらっしゃいません。年に数回、お食事をご一緒されることはありますが、滞在される方は見たことがありませんね」 ナタリーの答えに、アデラインは「そう」と残念そうに答えた。 せっかくこれだけ素晴らしい家を、ヒューガードという人は気にかけもしないのだ。