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第134話

Author: 雨の若君
部屋の空気が、一瞬で抜け落ちたみたいに静まり返る。呼吸さえも止まってしまう。

司野が張り詰めていた気を、素羽の細く尖った顎に目が合った瞬間、ふっと下げる。

「昨日のことは事情があったんだ。俺たちはこれから先、まだ長く一緒にいるんだから……次は必ず埋め合わせる。でもさ、無関係な人を巻き込むのだけはやめてほしい。美宜は体が弱いんだ、刺激なんて絶対に受けられない」

司野の言う「埋め合わせ」なんて、素羽にとってはただの安心材料だ。結局、自分をなだめて、彼の大事な人を守りたいだけなんだろう?

素羽は淡々と返す。「彼女に何かするつもりはない」

美宜に何をしろっていうの?

自分が恥をかくだけで、他には何も意味なんてない。

……

世の中は本当に狭い。誰かが誰かを知っていて、その誰かがまた別の誰かの親戚だったりする。

まさか美宜と亜綺が親友で、しかも亜綺が琴子の遠縁の親戚の娘だったなんて、素羽は思いもしなかった。

どう考えても縁もゆかりもない三組の人間が、本家の古い屋敷に集まっている。そして素羽は、長男の嫁として、琴子に呼ばれて客人のもてなしをすることになる。

美宜と親しげに話す亜綺を見て、素羽は琴子が自分を呼んだ理由を理解する。

亜綺は無邪気な笑顔で素羽に挨拶する。「お義姉さん、初めまして、私、亜綺って言うの。司野お兄さんの従妹なんだ」

初対面を装う亜綺に、素羽も話を合わせる。「初めまして」

琴子が言う。「亜綺は初めて北町に来たのよ。司野の嫁として、ちゃんともてなしてあげて」

そう言われてしまえば、断ることもできない。

「わかりました」

亜綺は微笑みながら言う。「お義姉さん、しばらくお世話になるね」

口ではそう言うけれど、態度は全然遠慮がない。

美宜と一緒に買い物に行けば、素羽に荷物持ちを頼み、食事に行けば素羽に全部支払わせ、美容院でも素羽を付き添わせる。

亜綺はわざとらしく言う。「お義姉さん、私のこと、うるさいって思ってない?」

素羽はまるで感情がないように言う。「もしそうだと言ったら?」

亜綺はくるんとしたまつげをパチパチさせて言う。「じゃあ、琴子おばさんに聞かなきゃ。私、何かお義姉さんを怒らせることしちゃったのかな」

亜綺が美宜と気が合う理由が、素羽にもよくわかる。似た者同士ってやつだ。

自分の口を閉ざすのは、素羽の得意技だ。亜
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Comments (1)
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中村 由美
司野一家が見つけられないところへ 逃げてしまえ!!!23年失踪すれば良い
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