LOGIN景苑別荘。司野は、体が硬直し、情緒も不安定なままの素羽を抱きかかえて車を降りた。寝室に入り、ベッドに横たえ、そっと体を離そうとした瞬間、素羽が彼の服の裾をぎゅっと掴んだ。「行かないで……!」掠れた声、強張った筋肉。その全身が、彼への執着と依存を雄弁に物語っていた。司野はその手を包み込むように握り、大きな掌で彼女の脆さを受け止める。「行かない」司野は素羽の隣に横たわり、その身体を腕の中へ引き寄せた。背中をゆっくりと撫で、なだめるように囁く。「どこへも行かない。ここにいる。だから、怖がるな」素羽は小さく身を丸め、司野の胸元に顔をうずめた。彼の体温の中に、かつて確かにあったはずの安心を必死に探し求めるように。瞳を閉じると、封じ込めてきた記憶が、再び鮮明に脳裏へと溢れ出した。それらは彼女を執拗に追い詰め、心の深淵に沈めていた恐怖と臆病さを、容赦なく掘り起こしていく。もう、立ち向かえるほど強くなったはずだった。だが、無残な過去が暴かれ、大衆の面前に晒された瞬間、自分はやはり無力で臆病なままだったのだと思い知らされた。自分には、あの過去を真正面から見つめ直す勇気など、まだなかった。震える体越しに、司野は素羽の恐怖を痛いほど感じ取っていた。彼の瞳は墨を流したように暗く沈み、その奥を一筋の痛みがかすめる。素羽の状態が極めて不安定であると判断した司野は、すぐに家庭医を呼び寄せた。まずは彼女を眠らせるため、医師に鎮静剤を打たせる。司野は指先で素羽の眉間に刻まれた皺をそっと伸ばすと、森山に彼女から片時も目を離さぬよう厳命した。寝室を出て書斎へ向かうと、そこではすでに岩治が待っていた。岩治は調査結果を差し出す。「写真を流したのは、石田洋介という男です……」洋介は祝宴のスタッフを買収し、舞踊の背景映像をすり替えていたという。「石田洋介……」聞き覚えのある名だった。数秒後、司野の記憶の奥で、名前と顔が一致する。岩治が続けた。「石田は国外逃亡を図っていましたが、空港で身柄を確保しています」司野の瞳に、底知れぬ闇が宿った。「車を出せ」その一言で、岩治は主人の意図を即座に察した。鎮静剤の影響で、外から見れば、素羽は深く穏やかに眠っているように見えた。だが、彼女の精神の内側は違っていた。あの醜悪
素羽が激しく震えていた、その時だった。司野が人波を割って現れ、彼女の頭を引き寄せると、有無を言わさず胸元へと押し込んだ。周囲のあらゆる視線から、彼女の存在を遮るように。「怖がるな。俺がいる」素羽は司野の肩に額を預け、無意識のうちに彼の上着の裾を強く掴んだ。耳の奥で甲高い耳鳴りが響き、周囲の音は遠ざかり、世界が切り離されたかのようだった。司野は冷徹な眼差しで列席者を一掃し、低く、凍りつくような声で言い放つ。「これらのAI画像については、俺が徹底的に調査する。この中に犯人がいるなら、覚悟しておけ。それから、もしこれらの偽画像が外部に流出するようなことがあれば、一人残らず、相応の代償を払ってもらう」その場に集っていたのは、いずれも名の知れた名士ばかりだった。公然と脅されたことに内心の不快を滲ませながらも、須藤家の威光の前に、誰一人口を開く者はいなかった。七恵の祝宴は、この忌まわしい騒動によって、結局うやむやのまま幕を閉じた。須藤家一族だけが残された場においても、素羽の顔色は戻らなかった。向けられる視線のすべてが、自分を嘲り、嘲弄しているように思えてならない。そこへ絹谷が、ここぞとばかりに追い打ちをかける。「琴子さん。お義母様は今日、あなたたちのせいで大恥をかかされたのよ。あんな写真を撮られて、あまつさえ流されるなんて……須藤家の面目は丸潰れじゃない。一体、どう責任を取るつもり?」絹谷は、呆然と立ち尽くす素羽を冷ややかに一瞥した。「本当に、死ぬほど恥ずかしいわ。これから外を歩くたびに笑い者にされるなんて、生きた心地がしないでしょうね」司野が、氷のような声で遮った。「お前が死にたければ、誰も止めはしない」「……何ですって!?目上の人間に向かって、なんて言い草なの!」琴子も本心では、素羽を「恥さらし」だと思っていた。だが、この場では身内の側に立つ道を選ぶ。「司野の言う通りよ。あれはAIで作られた偽物。身内が陥れられたというのに、叔母であるあなたが外に敵を向けず、勝ち誇ったように騒ぎ立てるなんて……本家の失態を願うあなたたちが、この騒動を仕組んだんじゃない。夫婦は一体でしょう。司野を追い詰める術がないからって、嫁に卑劣な手を使って、息子に恥をかかせようとしたんじゃないの」絹谷の顔色がさっと変わった。「
亜綺と洋介が離れるのは早かったが、入ってきた素羽の目に、その姿ははっきりと映ってしまった。眉をひそめ、素羽の瞳に探るような色が宿る。あの男は、亜綺が連れてきたのか?なぜ二人が知り合いなのだろう。素羽の脳裏で、ばらばらだった点と点が繋がり、一本の線を結んだ。その先に浮かび上がったのは、ある女の名――美宜。彼女なのだろうか。洋介が、何の目的もなく現れたとは思えなかった。それどころか、自分を狙って来たとさえ感じられる。彼が何を企んでいるのか見当もつかず、素羽は、いっそのこと芽のうちに摘み取ることにした。警備員を呼び、内密にパーティーから追い出そうとしたが、その試みはすぐに遮られる。亜綺が琴子を伴って現れ、素羽の前に立ちはだかったのだ。「どうして私の友達を追い出そうとするの。今日はおばあちゃんの誕生祝いなのよ。騒ぎを起こすつもり?」素羽が口を開くより早く、琴子の怒りもまた、彼女に向けられた。「家でわがままするのはまだしも、ここはあなたが勝手気ままに振る舞っていい場所だと思っているの?」そう言って、琴子は警備員たちを下がらせた。さらに鋭い視線を向ける。「招待客を監視する暇があるなら、さっさと司野に連絡しなさい」洋介は去り際に、勝ち誇ったような、挑発的な視線を素羽に投げつけてきた。先手を失った以上、もはや大っぴらに洋介を追い出すことはできない。素羽はやむなく、自ら洋介を監視することにした。彼が動き出す前に押さえられるよう、何を企んでいるのかを見極めるためだ。亜綺のほうには、佳奈にも目を光らせておくよう頼んだ。宴は終始滞りなく進み、表向きには何の異変もなかった。洋介でさえ、大人しくしているように見えた。佳奈もやって来て亜綺の様子を報告したが、要するに「問題なし」という内容だった。素羽は、わずかに眉を寄せる。考えすぎだったのだろうか。物思いに沈んでいると、翔太が背後霊のように、いつの間にか背後に立っていた。「お義姉さん、あんなブス男をじっと見て、どうしたの?」「……」須藤家の人間は皆、幽霊のように付きまとうのが好きなのだろうか。翔太は答えなど待たず、独り言のように続ける。「なに、司野に刺激されて、変な趣味に目覚めたとか」そこへ佳奈が小声で割り込んだ。「違うんです。あの
幸雄が去った後、琴子は素羽に怒りをぶつけようとしたが、その前に素羽は背を向け、さっさとその場を後にした。吐き出しかけた怒りは喉元でせき止められ、琴子は周囲の目をはばかりながら、必死にそれを飲み込むしかなかった。素羽は庭へ出て電話をかけた。呼び出し音だけが虚しく鳴り、応答はない。義務は果たした。連絡がつかない以上、本人が現れなくとも、それは自分の責任ではない。「素羽さん」スマートフォンをしまった直後、背後から耳を劈くような、不快で吐き気を催す声が降ってきた。素羽の体が、反射的に強張る。振り向くと、洋介が何事もなかったかのような顔で立っていた。あの不快な視線が、舐め回すように素羽の体をなぞり、冷やかすように言う。「ピーチちゃん、久しぶりだな」その瞬間、素羽の瞳が揺れ、顔から血の気が失せた。「ピーチちゃん」という呼び方は、彼女にとって決して愛称などではない。かつて屈辱と欲情を押し付けられた、忌まわしい呼び名だった。その反応を見て、洋介は満足げに、悪意を滲ませた笑みを浮かべる。「まさか、ここまで出世してるとはな。今や『須藤家の奥さん』か。須藤家の連中は知ってるのか?お前が昔、俺たちの前で犬みたいに跪いてたことをよ」この男、私のことを思い出したの?素羽の体はこわばったままだったが、表情だけは必死に取り繕った。「誰に連れられて、ここに来たの?」洋介の素性で、この場に出席する資格があるとは思えない。美玲はまだ更生施設から出ていないはずだ。では、彼は誰の同伴で来たというのか。洋介は鼻を鳴らし、問いには答えなかった。「須藤家に食い込んで、ずいぶん強気になったもんだな」言葉とは裏腹に、視線は品定めするように素羽を追い続けている。やはり見間違いではなかった。かつての青臭さとは違い、今の素羽は熟した果実のようで、男の欲を露骨に刺激する。その剥き出しで卑猥な視線に、素羽の脳裏で忌まわしい記憶が蘇った。昔の洋介も、いつもこんな目で自分を見ていた。「私が須藤家の人間だと分かっているなら、さっさと消えなさい!」洋介は鼻で笑った。「お前の男は、外で愛人を囲ってるんだろ?須藤家でお前にどんな立場があるってんだ」そう言うと一歩踏み出し、彼女の顔に触れようと手を伸ばす。「昔馴染みだ。俺は慈悲深いからな。
好奇心に抗えず、素羽はつい司野のスマートフォンの位置情報を開いてしまった。地図を見ただけでは、司野がどの国へ出張しているのか正確には分からない。そこで彼女は、楓華の知り合いである探偵に頼み、ピンポイントで所在を特定してもらうことにした。やがて、相手から調査結果が届く。「セイント・バーツ島だ。そこはほとんどがプライベートアイランドだよ」衛星写真を見つめる素羽の表情に変化はなかったが、内心では滑稽で仕方がなかった。その島の風景が、美宜から送られてきた写真と見事に一致していたからだ。わざわざ出張という嘘の口実まで用意して――司野も、ご苦労なことだ。親友の様子を見れば、何かを察しているのは一目瞭然だった。楓華は単刀直入に尋ねる。「その場所に、何か問題でもあるの?」素羽は隠すことなく答えた。「美宜が司野に囲われている場所よ。その島は」それを聞いた楓華は、泥でも食わされたかのような忌々しい表情を浮かべた。世間では「籠の鳥」というが、司野の場合は「島の鳥」か。恐ろしいほどの羽振りの良さである。だが、素羽の関心はすでに司野と美宜から離れていた。彼女は話題を切り替える。「司野から譲り受けた一画の店舗だけど、私の個人資産として処理するのを手伝って」かつて司野が、一度与えた婚姻中の財産を奪い返そうとした、あの男らしくない振る舞いを思い出し、素羽は今のうちに婚姻関係を利用して私腹を肥やし、正当に個人資産へ組み替えておこうと考えたのだ。楓華はその意図を察し、二つ返事で承諾した。「いいわよ、任せて。死ぬほど溜め込んで、死ぬほど使ってやりなさい。あんたが使わなきゃ、どうせ外の女に流れるだけなんだから」翌日、七恵の祝宴当日。司野は結局戻らなかったが、素羽は気にかける風もなく、一人で会場へ向かった。会場は多くの人々が行き交い、華やかな賑わいを見せている。そこへ琴子がやって来て素羽の腕を掴むと、歯噛みせんばかりの勢いで問い詰めた。「どうして一人なの?司野はどこ?今日が何の日か分かっているの!」今日は七恵の八十歳の誕生日だ。長孫である司野が出席しないなど、あってはならない。素羽はそっと腕を振り払った。「分かっています。おばあさんの祝宴ですよね。でも司野がそれを分かっているかどうかは、彼に聞いてください。おばあさんが大事な
幸雄と七恵の誕生日は、須藤家にとってきわめて重要な行事である。今月末、七恵が八十歳の傘寿を迎えるにあたり、須藤家では盛大な祝宴の準備が着々と進められていた。気づけば、宴を三日後に控える時期になっていた。食事中、司野のスマートフォンが何度も鳴り響いたが、彼はすべてを拒否した。しかし、最後に届いた一通のメッセージが、彼の表情を一変させる。「二日ほど出張に行ってくる」そう告げられても、素羽はとくに反応を示さなかった。無言のままの彼女を見つめ、司野は思わず問いかける。「……何か言うことはないのか?」素羽は顔を上げ、冷ややかな視線を向けた。そして次の瞬間、事務的に口を開く。「森山さん」呼ばれて、森山が台所から顔を出した。「はい、奥様」「旦那様の出張の準備をしてあげて」「承知いたしました」森山は静かに頷いた。「準備はいらない」司野は素羽を凝視したまま、瞳に不快感をにじませた。「いいか。お前は俺が妻として迎えた女だ。置物になるために、ここにいるわけじゃない」素羽は何も言わず、ただ静かに司野を見つめ返した。司野はさらに続ける。「俺の衣食住に関わることは、お前が責任を持つべきだ」それは妻として扱うというより、家政婦として命じているに等しかった。素羽は箸を置き、立ち上がる。抑揚のない、機械的な声で言った。「出張先はどこ?服を詰めてくるわ」言葉どおり従ってはいるが、かつてとは天地ほども違うその態度に、司野の苛立ちは募る。「……もういい」吐き捨てるように言い残し、司野はスマートフォンを手に、そのまま家を出て行った。彼が去ると、素羽は何事もなかったかのように席へ戻り、食事を再開した。傍らで見ていた森山は、何か言いたげに彼女を見つめていたが、結局何も口にせず、視線を伏せた。――あれほど仲の良かった夫婦が、どうしてこんなことになってしまったのかしら……祝宴の前日になっても司野は戻らなかったが、素羽は気に留める様子もない。淡々と食事をし、やるべきことをこなし、自分の時間を過ごしていた。琴子が素羽のもとを訪ねてきた。「司野はどうしたの?」「知りません」琴子は眉をひそめる。「妻でありながら、知らないなんてことがあるの?」素羽は琴子を見つめ、静かな口調で言い返した。「あ







