LOGIN肺がんの末期。私、白石一花(しらいし いちか)は最後となった誕生日に息を引き取った。 厳冬のさなか、大きな牡丹雪が空からひらひらと舞い落ちる。私は冬が好きだ。そして、この季節に永眠できることを、どこか幸運だとも思っている。 人生の最期の瞬間。頭に降り積もる雪を見つめながら、私はようやく、佐藤時安(さとう ときやす)と「白髪を共にする」という願いを叶えたような気がした。 私の方へと駆け寄ってくる時安を視界に捉え、私は微かに唇を動かした。「さようなら」 来世では、あなたに出会わないように。そして、あなたを愛したりしないように。
View More彼らの茶番に付き合うのも疲れ果て、私は一人、かつて時安と暮らしたマンションへと向かった。そこはもう長いこと主が不在のようだったが、あるいは住人の潔癖ゆえか、埃ひとつなく静まり返っていた。夜の帳が下りる頃、時安が帰ってきた。その隣には、乃愛が寄り添っている。私は鼻で笑った。知っていたわよ。結局、あのお墓の前での涙も全部ただのパフォーマンスだったんだってことは。「時安、一花が亡くなってからもう随分経つのに、まだ私の愛を受け入れてくれないの?」乃愛は焦れったそうに彼の腕にすがりつき、問い詰めた。「何度言えば分かるんだ!君とどうにかなるなんて、あり得ない!」時安は力任せに彼女の手を振り払い、足早にソファへと沈み込んだ。彼女はまた泣き始めた。うっすらと目に涙を浮かべれば、彼がこの手に弱いことを彼女は熟知している。いつものように彼が折れて、優しく抱きしめてくれると信じて疑わないのだ。「……その涙は、もう俺には通用しないぞ」時安は深く、長く息を吐いた。まるで、自分の心の中にある何か重い鎖を断ち切る決意をしたかのようだった。「時安!永遠に私を愛してるって言ったじゃない!なのに、どうして他の女と一緒にいたのよ。まさか、本当に一花を愛してしまったの?あの女はただの私の身代わりだって、あなた自身がそう言ったじゃない!」乃愛が突然、喉を引き裂くような悲鳴を上げた。彼女は何としても、彼を自分の所有物として繋ぎ止めるための「答え」を求めていた。「……ああ。そうだったのかもな」彼は、泣きじゃくる彼女を一顧だにせず、寝室へと消えた。二人の関係は、修復不可能なほどに冷え切ったまま、最悪の形で幕を下ろした。正直なところ、時安は私の存在に気づいているのではないか――そう感じることがある。彼はふとした拍子に、何もないはずの私の方をじっと見つめるのだ。「……一花。君は、俺に会いに来てくれているのかい?」「一花……ごめん、本当にすまない」彼はいつも独り言を呟いている。何かに取り憑かれてしまったのだろうか。「時安、あなた正気?生きている間はちっとも愛してくれなかったくせに、死んでからそんなにみっともなく泣き喚いて何なのよ」私は吐き捨てるように言った。すると、彼は弾かれたようにこちらを振り返った。その瞳には、確信に満ちた強い光
「一花さん、また時安さんが来てますよ」私は力なく笑った。「何度も来るから、あなたにまで覚えられちゃったわね。聞いた?彼と乃愛のこと」「いいえ。私、今はあの人たちが一番嫌いですから。断言します、私はあいつらの『アンチ』になりました!」彼女はいつも私を笑わせてくれる。私は小さく笑い、相槌を打つ代わりに、そっと彼女の手の甲を叩いた。颯太がいつの間にか現れ、私の前に膝をついた。彼は膝に掛けたブランケットに顔を埋め、声を押し殺して泣いている。毛布が彼の涙でじわりと湿っていくのが分かった。私は愛おしさを込めて、彼の頭を優しく撫でた。「もう、どうしてそんなに泣き虫なの……」「あんなこと、言わなければよかったです。一花さんは『高嶺の花』だなんて……」彼は嗚咽を漏らした。何のことだろうと思ったが、ふと以前、あの砂浜で彼が言ってくれた言葉を思い出した。「白いワンピース姿の一花さんは、まるで高嶺の花のように手が届かない、僕の憧れの人です」と。「何よ、私は運良く、あなたの心の中で『永遠に失われた高嶺の花』になれたのかしら。あはは……」「すみません……本当に、申し訳ありません……」彼がなぜ謝るのか、私には分からなかった。ただ、彼の声が次第に遠ざかっていく。意識が途絶える寸前、周囲がにわかに騒がしくなったことだけが、おぼろげに伝わってきた。颯太がまた、声を上げて泣いた。私の手を握りしめる手に、さらにぎゅっと力がこもる。瑞希は、壊れ物を扱うように私を優しく抱きしめてくれた。遠くで石像のように立ち尽くしていた時安が、突然、なりふり構わずこちらに向かって走り出したのが見えた。ああ、よかった。ようやく、あなたと白髪になるまで寄り添えたのね。来世ではもう、あなたと出会いたくない。愛したくもない。「……さよなら」私は冬の日に、永遠の眠りについた。どうか来世では、あなたと二度と出会うことがないように。……時安は芸能界を引退した。彼は颯太と共に、私のために見晴らしの良い、穏やかな陽だまりのような墓所を選んだ。「一花、これからも君の隣にお邪魔させてもらうよ」「一花さん。これからはもう、あなたを『頼りになる年上の人』として見るのはやめます。だって一花さんは、僕にとって一生手が届かない、高嶺の花なんですから」颯太は私の最期の願いを胸
時安は一応、引き際は弁えているようだった。だが、それからというもの、彼は足繁くここへ通うようになった。自分の真心が伝わりさえすれば、いつか私が心変わりをして、また元の鞘に収まるはずだと――そう信じて疑わない様子で。彼は手を変え品を変え、趣向を凝らした花を抱えては見舞いにやって来た。けれど、私は少しも嬉しくなかった。皮肉なものだ。私は花粉アレルギーなのだ。花好きなのは私ではなく、乃愛の方だった。彼は今になっても私の中に彼女の影を追い求め、自分が愛しているのは乃愛なのだと、無自覚に証明し続けている。「颯太、彼に伝えて。私は花粉症で、花が好きなのは乃愛の方よ。人違いもいい加減にして、もう来ないでって」それだけを言い切るのに、精根尽き果ててしまった。必死に空気を吸い込もうとするが、空気の乾燥に喉がやられ、激しく咳き込んでしまう。無意識に口元を押さえたハンカチに目を落とすと、そこには鮮血が滲んでいた。ああ、私の命はもう、幾日も持たないのだと悟った。時安の執念深さは、今に始まったことではない。結局、彼は春から冬へと季節が移ろっても、何食わぬ顔で毎日姿を見せた。彼が身につけている服も、アクセサリーも、靴の一足に至るまで、私にはすべてに見覚えがあった。それらはすべて、かつての私が、彼の好みと体格に合わせて心血を注いで選び抜いたものばかりだったから。「何度言ったら分かるの。もう来ないでって言ったでしょう。あなた、そんなに暇なの?仕事はどうしたわけ?それとも何、あなたは救いようのないマゾなの?半分死にかけている女を眺めるのが今のトレンドなわけ?私たちは五年一緒にいたけれど、あなたたちはそのうちの二年、不潔な関係を続けていたのよね。ふん、何?お気に入りの乃愛に新しい男でもできて、捨てられちゃった?それで、都合よく私を思い出したってわけ?時安、あなた、本当に惨めね」考えうる限り、最も残酷で醜悪な言葉を並べ立てた。それが、今の私にできる精一杯の抵抗だった。けれど、彼は表情一つ変えず、ただ縁を赤くした瞳で静かに私を見つめていた。私の罵詈雑言をすべて、甘んじて受け入れるかのように。「颯太!颯太!この男を追い出して!ゴホッ……ゴホッ、……っ!」激昂したせいで胸が締め付けられ、熱いものが喉を駆け上がった。鮮血が床に飛び散り、私は呼吸を整える間も
瑞希は私の冗談を受け流した。私は重い腕を無理やり持ち上げ、彼女の二の腕を指先でつついた。「……どうして黙ってるの?」瑞希は顔をぐしゃぐしゃにして、しゃくりあげながら泣いていた。「一花さん、鏡を見てくださいよ。今の自分のどこに、生きてる人間の生気があるっていうんですか。それなのに、そんな冗談……薬だって、本当は飲んでないんでしょ?知ってるんだから。トイレに流して証拠隠滅してることくらい。お願いですから、もっと自分を大事にしてください!」私は言葉を失った。「自分を大事に」――その言葉が、私の乾ききった心に波紋を広げる。気づけば、涙が頬を伝い、静まり返った部屋に微かな音を立ててシーツに吸い込まれていった。「大事に、ね……私だって、そうしたかったわよ。でも、もう疲れちゃった。毎晩目を閉じるたびに、このまま二度と目が覚めなければいいって、それだけを祈ってるの。それなのに、無情にも朝は来ちゃうのよね」私は溢れる涙を手の甲で無造作に拭った。廊下で誰かが看護師を呼ぶ声が響き、瑞希は涙を拭うと、慌てて部屋を飛び出していった。静まり返った病室で、すぐに彼女が戻ってくるものだと思っていた。だが、入れ替わるようにドアを開けて入ってきたのは、颯太だった。彼の姿を認めた瞬間、私の顔に浮かんでいた微かな笑みが凍りついた。「……どうして、ここにいるの?」「一花さん……どうして、そんな姿に……」彼は私の問いには答えず、愕然とした様子で逆に問いを投げ返してきた。私は彼をからかうように、わざと不敵な笑みを浮かべてみせた。「何よ、あまりのブサイクさに目のやり場に困った?目の毒だったかしら」「……っ!一花さん、いい加減にしてください!どうして、そうやってすぐ茶化すんですか!」相変わらず、彼は少し突っついただけでムキになる。坊やね、と思う。私は面白がって、さらに彼をからかった。「冗談はさておき、何しに来たのよ。まさか、エスパーにでも目覚めて私の居場所を突き止めたわけ?ほら、正直に言いなさい」彼は素直に、消え入りそうな声で答えた。「祖父がこちらに入院していまして、そのお見舞いに来たんです。そうしたら、この部屋から一花さんにそっくりの声が聞こえてきて……気づいたら、居ても立ってもいられずに入っていました。まさか、本当に一花さんだなんて思いもしませんでした」