ANMELDEN遠くから、麗蘭を見守る人物がいることに、彼女は気付いていないだろう。時正は、彼女の傍を去っていなかった。彼は麗蘭の部屋を出た後、下で待機し、彼女の邪魔にならないよう、影のように後を追っていたのだ。麗蘭が足を引きずりながら、川辺に向かい、独りぼっちで階段に座り、ぼんやりと川辺を眺める姿を見て、時正の心は押しつぶされるように痛んだ。彼は少し離れた街灯の下から、川辺を眺める彼女をじっと見つめていた。彼女に近づくことはできない。邪魔をしてはいけない。これ以上、彼女を困らせたくない。今、自分にできるのは、こうして離れた場所から見守ることだけなのだ。しかし、麗蘭はとっくに気付いていた。彼女にとって、彼の気配と視線はあまりにも馴染み深いものだった。時正だ。彼女は振り返らず、彼を呼び寄せもしなかった。二人は距離を保ちながら、静まり返った夜の川辺にいた。麗蘭はなぜか、時正の胸に渦巻くさまざまな気持ちがわかるような気がしていた。彼の心配、慈しみ、自責の念……そして、深い愛情。でも、彼はそれを口にしようとしない。決して、表に出そうとしない。感情を押し殺し、すべてを胸の内にしまい込み、彼女に誤解され、嫌われても、「好きだ」という言葉を口にしようとしない。麗蘭は、そっと目を閉じた。どれくらい経っただろう。辺りはすっかり暗くなり、風は一層冷たくなって、麗蘭はその寒さに、ついに身震いした。そろそろ、家に帰らなければ。麗蘭は階段に手をつき、ふらつきながら身体を起こした。手すりにもたれて、少し休んでから、麗蘭はゆっくりと帰路についた。後ろから、影のように時正がついてくる。麗蘭は、気付かないふりをした。部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、全身の力が一気に抜けていった。するとすぐに、めまいがして喉が痛み、身体の火照りを感じた。どうやら、風邪を引いてしまったようだ。元々弱っていたところに、冷たい風に当たっていたせいだろう。麗蘭は壁に手をつき、ゆっくりとリビングに移動し、お湯を沸かして風邪薬を探そうとしたが、足元がふらついて上手く歩けない。彼女はもがきながらソファまで這っていき、毛布を被ったが、寒気は収まらず、頭痛や身体の痛みに涙が込み上げてきた。次第に、意識がぼんやりとし始め、彼女は眠
「一人で……静かに暮らしたい」こんな乱れた気持ちでは、どこへ行っても同じだ。海外へ逃げても、何の解決にもならない。記憶だって、戻らないものは戻らないのだ。榮太郎と明美は、互いに顔を見合わせた。両親は、麗蘭の一度決めたら頑として譲らない性格をよく知っていた。「わかった」榮太郎は言った。「無理強いはしない」「しばらくの間、私たちは近くのホテルに滞在する。気が変わったり、私たちに会いたくなったら、いつでも連絡してくれ」明美が言った。「気が変わったら、いつでも言ってね」「私たちは、すぐに手配してやれる。最高の医師と治療で、必ず記憶を取り戻してやる」麗蘭は、「うん」とだけ返事をした。榮太郎と明美は、安全に気をつけること、食事を摂り、怪我の治療をすることを念を押し、名残惜しそうに去っていった。ドアが再び閉まった。やっと、一人になれた。口論も、詰問も、守る人も、嘘もない。残されたのは、彼女ただ一人だけ。麗蘭は、ぼんやりとソファに腰かけた。窓の外の空は次第に暗くなり、夜の闇がゆっくりと街を覆っていく。どれぐらい経っただろう。足に微かな痛みを感じ、麗蘭はようやく腰を上げた。辺りにまだ時正の気配が残っているようで、ここから早く離れたいと思った。ふと、散歩に出かけようと思った。麗蘭は片足を引きずりながら、上着を羽織り、携帯と鍵を持って、そっとドアを開け、外へ出た。川辺の方へ行ってみよう。すっかり真冬の寒気を帯びた冷たい夜風が、顔に当たると気持ちよかった。川辺を歩く人はまばらで、通行人が通り過ぎると、すぐに遠ざかっていった。麗蘭は風を避けられる階段を見つけて座り、ゆっくりと流れる川を、ぼんやりと見つめた。広い水面に、街灯の光がちらちらと反射して光っている。その様子を、麗蘭はただじっと見つめていた。頭の中は、まだ少し混乱していた。記憶を失った後の出来事が、次々と脳裏をよぎっていく。時正は寡黙で、強引で、何度も彼女の前に現れ、いつも彼女に寄り添ってくれていた。そして、琴美の挑発、交通事故の恐怖。波多野家からの脅し、そして突然現れた両親。そしてさっき、口にできなかった真実……すべてが、絡まった糸のようにもつれ合っていた。自分は、何のために生きているのだろう?か
リビングは、凍り付いたような重苦しい空気が漂ったままだった。榮太郎の言葉に、皆は息を詰まらせていた。時正はその場に立ち尽くし、身体の横に垂らした手を強く握りしめた。彼は麗蘭に、当時のやむを得ない事情を伝えたいと思った。しかし、彼女の瞳に渦巻く混乱や疲労を見ると、言葉が出てこなかった。彼女は記憶を失っている。彼女は何も覚えていない。彼女は今、これ以上の真実に耐えられない。麗蘭は、言いよどむ時正や、両親の険しい表情を見て、胸が苦しくなり、こめかみがズキズキと痛んだ。娘を託す、ボディガード、婚約者、偽装結婚、護衛、負い目……もううんざりだ。理解したくもない。これ以上、誰かに何かを押し付けられて生きるのは嫌だ。突然、苛立ちと悔しさが込み上げ、麗蘭は顔を上げると、鋭い目で時正を見つめて言った。「出てって――あなたたちの話なんかもう聞きたくない!一人にして!みんな出てって!」突然の事態に、榮太郎と明美は驚いた。麗蘭は赤い目をして、必死で涙をこらえていた。彼女は今一人になりたかった。誰も信じられず、真実や過去、感情や負い目の有無も、何も考えたくなかった。時正の身体がこわばった。麗蘭の言った、「出てって」という言葉に、彼は胸を痛めた。彼は、「俺は出て行かない」と伝えたかったが、そのことで彼女を追い詰めるのではないかと思うと怖くなった。時正は、麗蘭をこれ以上刺激したくなかった。感情が高ぶり、体調や足の傷に障るといけない。明美は時正に目配せして言った。「とにかく今は帰って。この子は今、気持ちが不安定だから。落ち着いたら、また連絡するわ」時正は喉を動かした。彼は、その場に立ち尽くし、もう一度、麗蘭をじっと見つめた。結局、時正は頷き、かすれた声で言った。「……わかりました」「失礼します」彼は背を向け、扉の方へ歩いていった。ドアが二人の間を隔てるように、静かに閉まった。時正の姿がドアの外に消えると、麗蘭は力が抜けたようにソファにもたれ、長い息を吐くと、涙が込み上げてきた。榮太郎はその様子を見て、胸が痛み、ため息をついた。「麗蘭、無理強いするつもりはないんだ。ただ私は――」「わかってる」麗蘭は言った。「パパとママが私のためを思ってくれているのはわかってる」明美は彼女の
麗蘭は驚いた。両親は、時正を知っていたのだ。両親が、彼に自分を託していたなんて。その時――ピンポーン。インターホンが再び鳴った。榮太郎は冷ややかに言った。「あいつを呼んでおいた。あいつの口から、説明させる」麗蘭は呆然とした。時正は、帰ったわけではなかったのだ。彼は両親に呼び出されていた。ドアがそっと押し開けられた。見慣れた人影が、再び入り口に現れた。時正は青白い顔をして、入り口に立っていた。彼は背筋を伸ばし、麗蘭の両親を見ると、複雑な表情をした。彼は静かに、一歩ずつ部屋に入ってきた。時正は視線を麗蘭に向け、彼女の無事を確認すると、ゆっくりと榮太郎の方を向いた。たちまち、空気が張り詰めていった。榮太郎は立ち上がり、鋭い目で時正を見て言った。「時正。娘の護衛を頼んだはずだが、これは一体どういうことだ?」部屋に、重い空気が漂った。時正はリビングの中央に背筋を伸ばして立っていた。榮太郎の言葉に、時正は胸の内の想いや感情を覆い隠すようにうつむき、微かに目を伏せていた。いつかこの日が訪れると、彼は予測していた。時正は、麗蘭の両親が海外へ発つ際、自分を訪ね、「命をかけて麗蘭を守ってくれ」と言った言葉を、ずっと胸に刻んできた。しかし、麗蘭が記憶を失い、追われ、事故にあって足を負傷した今も、彼は騒動を起こし、彼女を独りで恐怖と向き合わせている。もはや、弁解の余地などない。時正はかすれた声で言った。「すべて私の不徳の致すところです。彼女を守り切れませんでした。いかなる処分もお受けします」時正は、まるで自分とは無関係なことを話すかのように平静に語ったが、わずかにこわばった肩や握りしめた拳から、彼の悔しさや自責の念が滲み出ていた。麗蘭は身体を硬直させたまま、ソファに座っていた。彼女はぼんやりと、両親の前で頭を下げる時正を見つめた。心が、この上なく混乱していた。つまり……そういうこと?彼の親切も、彼が彼女を守り、彼女のためにあれほど狂い、焦っていたのも、病院で一晩中付き添ってくれていたのも全部……全て、感情とは無関係だった。心動かされたわけでも、気にかけていたわけでも、未練があったからでもない。彼は、両親の命令に従っていただけ。約束と、責任のため
両親?麗蘭は呆然とした。記憶を失ってから、彼女の前に家族が現れたことはなかった。医者、アシスタント、友人とは会ったが……両親とは会ったことがなかった。彼女は自分が孤児か、或いは家族はとっくにいなくなったのだと思い込んでいた。「覚えていません」麗蘭は警戒心を滲ませて言った。「記憶を失って、何も覚えていないんです」川上明美(かわかみ あけみ)は、慌てて一枚の古い写真を取り出した。「これを見て。あなたが小さい頃、一緒に撮った写真なの」写真は古く、少し黄ばんでいた。小さな麗蘭は男女に抱かれ、満面の笑みを浮かべていた。その若い男女の面影は、目の前にいる夫婦によく似ていた。写真の裏には、麗蘭が子供の頃に書いた英文が残されていた。麗蘭の指先が微かに震えた。偽物ではない。彼らは本当に自分の両親なのだ。心の中で張り詰めていた糸が、ふっと解けた。自分には家族がいた。独りぼっちではなかったのだ。あまりに長く会っていなかったために、記憶を失ってしまっていたのだ。明美は和らいだ麗蘭の表情を見て、ついに涙を流し、彼女の手をそっと握った。「辛かったでしょう……事故に遭って、怪我を負って、記憶まで失うなんて。何も知らず、すぐに来てあげられなくて、ごめんなさいね」麗蘭は何も言えなかった。心の中が、複雑な思いでいっぱいだった。あまりにも突然で、彼女はどうしていいのかわからなかった。榮太郎は、麗蘭の足を見つめて言った。「私たちは、お前を連れ戻しに来たんだよ」麗蘭は顔を上げた。「どこへ?」「海外さ」榮太郎は言った。「私たちのところへ戻って来なさい」お前は研究が好きだっただろう?医学をもっと学びたいと言っていただろう?海外の実験室は、ここより条件もいいし安全だ。安心して好きなことに打ち込めるぞ。明美も同調した。「ええ、向こうで一緒に暮らしましょう。ここは危険だわ。事故や事件に巻き込まれて。あなた一人にしておくのは心配なの。一緒に、ここを離れましょう」彼らは、心から麗蘭の身を案じてくれている。しかし、麗蘭はそっと首を振った。「私は行かない」榮太郎と明美は呆然とした。「どうして?海外が嫌いなの?私たちが最高の環境を用意してあげるわ――」「好き嫌いの問題じゃないの」麗蘭は顔を上げて言った。「私の研究
時正の胸が、締め付けられるように痛んだ。彼は沈黙した。麗蘭は落ち着いた声で言った。「あなたは、私の身体が目的で、弱みに付け込んで私と関係を持ったのよね。あなたにとっては、私の無事なんて、本当は取るに足らないことなんでしょう」麗蘭は時正を見つめて言った。「ねえ、誰に私の無事を守ってほしい?誰か……紹介してくれない?堂々と恋人でいてくれて、弱みにつけ込んだり、中途半端に思い出を残したりせず、正当な理由で私を守ってくれる人を。ねえ、どうかしら?」一つ一つの言葉が、まるでナイフのように時正の心を深く突き刺した。時正の顔は次第に青ざめ、彼はその場に立ち尽くした。彼は目の前にいる、記憶を失ってもなお、彼の急所を的確に突く麗蘭を見つめた。時正は入り口に立ったまま、力いっぱいドアノブを握りしめた。麗蘭の言葉は、彼の偽りの仮面を一枚一枚剥いでいくようだった――彼の自制心や、彼女を守ろうとする気持ちは、その言葉の前で効力を失い、色褪せていった。「私と……堂々と付き合ってくれる人を紹介してくれない?」彼女の落ち着いた表情と、淡々と発した言葉が、彼を息苦しく感じさせた。時正はしばらく沈黙した後、声を絞り出すように言った。「……自分で探してくれ」その言葉は、とても重く響いた。時正はそう言うと、立ち去った。室内は再び静けさに包まれた。麗蘭はゆっくりとソファにもたれ、感情を押し殺すように静かに目を閉じた。しばらくして、彼女は自分にしか聞こえないほどの小さな声で、ふっと笑った。行っちゃった。結局、逃げるんだ。麗蘭は、心にぽっかりと穴が空いてしまったような気持ちになった。彼女は自分に言い聞かせた、これでよかったのだ。線引きをし、互いに干渉せず、貸し借りのない関係。だけど、なぜ胸がこんなに苦しいのだろう。それから間もなく。ピンポーン――突然、インターホンの音が響いた。麗蘭は少し驚いた。もう戻ってきたの?再び胸が高鳴ったが、それが期待なのか苛立ちなのか、自分でもわからなかった。彼女は怪我をしていることを思い出して言った。「どうぞ、ドアに鍵はかかっていないから」足音が聞こえた。麗蘭は顔を上げ、訪ねて来た者たちを見て、言葉を詰まらせた。ドアの入り口に、中年夫婦が立っ
「高瀬社長は優秀な人間です。お嬢さんが彼と結婚できるなんて、さぞお喜びでしょう。ただ、彼に他の目的がないとは言い切れませんよね?」武彦はグラスを持つ手を一瞬止め、無表情で尋ねた。「山口社長、それはどういう意味ですか?私には意味がよくわかりませんが」「特に意味はありません。ただの戯言ですよ」宗一郎は微笑み、少し離れた場所でゲストと談笑する礼央を見た。「ご覧ください。彼は自分の息子さえ捨てられる人間です。あなたのお嬢さんに真心を持って接すると思いますか?」武彦は表情が微かに変わり、警戒した口調で言った。「山口社長、結局何がおっしゃりたいのです?」「特に深い意味はありません。
真衣は頭を切り換え、クライアントとの話に意識を集中させた。クライアントが席を立つと、真衣は笑顔で別れを告げて見送った。その後すぐ、真衣の顔から笑みが消えた。真衣は再び席に座り直したが、目の前のコーヒーはとっくに冷めてしまっていた。少し離れた席には、礼央と留美がまだ座っており、二人は何かを話し合っているようだった。真衣は、留美が時折手を振りながら熱心に話しいたり、礼央が落ち着いた態度で机を軽く叩き、時折頷いて返事をする様子を見つめていた。留美が礼央の腕を組んで、親密に寄り添う様子は、事情を知らない人が見れば、実際に結婚間近のカップルだと思うだろう。真衣は携帯を取り出し
留美は唇を噛みながら、小声で言った。「礼央、やめて。彼と争っちゃダメ。私が我慢すればいいから」安浩の家柄や経歴を知る留美は、一時的に屈服するしかなかった。礼央は店員に言った。「この料理は残しておいてくれ。それから彼女にレモン水をもう一杯持ってきてやってくれ」店員は慌てて頷きし、背を向けて退出した。個室は再び静まり返り、気まずい雰囲気が流れた。真衣はお箸を取り、豚の角煮を一口つまんでそっとかじると、口の中に懐かしい味が広がった。心は不思議と穏やかなままだった――先ほどのやり取りを通して、真衣ははっきりと悟った。自分と礼央との関係は、本当に過去のものになったのだと。安浩
真衣が振り返ると、翔太が宗一郎の腕の中に飛び込み、甘えているのが見えた。宗一郎は翔太の頭を撫で、珍しく柔らかな表情を浮かべていた。真衣は胸に複雑な感情が渦巻き、表情をこわばらせた。真衣は宗一郎が翔太を引き取ることは知っていたが、まさか翔太が彼を「パパ」と呼ぶとは思ってもいなかった。翔太は真衣の視線を感じたかのように、振り向いて彼女の姿を見ると目を輝かせたが、すぐにまた暗く曇らせた。翔太は宗一郎の腕から抜け出すと、真衣の傍にやって来て、小さな顔を上げ、目尻を赤くして言った。「ママ……」真衣は翔太を見ると一気に胸が苦しくなった。彼女は翔太を見ずに、宗一郎に向かって冷たい口調







