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第4話

Author: 朱音
仏間はしんと冷え切っていた。

和葉は畳の上で長時間正座させられ、膝から下はとうに痺れて感覚がなくなっている。

仏壇の灯明がかすかに揺れ、その奥に並ぶ先祖の位牌が、まるで無言のまま自分を責めているように見えた。

「毒なんて、入れてないのに……」

和葉はうわごとのように呟いた。こぼれた涙が床に落ちる。

過去の記憶が、次々と脳裏によみがえってきた。

大学時代、急性胃腸炎で入院したときは、暁人が3日間も授業をさぼってつきっきりで看病してくれた。

結婚してからは、生理痛がひどい日には、いつも温かい飲み物を用意してくれた。

包丁で指先をほんの少し切っただけでも、ひどく取り乱したものだった……

それなのに今、自分が暗闇と寒さを何より怖がると知りながら、暁人はこんな場所で一晩じゅう正座させておくのだ。

夜が明けるころ、ついに限界に達した。和葉は仏間の冷たい床に崩れ落ち、そのまま意識を手放した。

次に目を覚ますと、寝室のベッドに寝かされていて、額には冷たいタオルが載せられていた。

傍らに座っていた暁人は、和葉が目を開けたのに気づくと、すぐに身を乗り出した。

「和葉、気がついたか?まだ痛む?」

和葉は顔を背け、かすれた声で言った。

「私、あなたの子どもを殺そうとしたことになってるんでしょ。だったら、今さら何しに来たの?」

暁人の表情がこわばり、弁解するように答えた。

「それは……調べたらわかったんだ。舞来が自分で、傷んだ魚介類を食べてたらしい……」

和葉は鼻で笑った。

「はっ。私の作った雑炊しか口にしてないって、言ってたんじゃなかった?」

「あいつはわざとじゃないんだ」

暁人は眉を寄せて言った。

「妊婦は記憶が曖昧になることもあるらしくて……」

和葉は目を閉じた。これ以上聞きたくなかった。

舞来のやり口なら嫌というほどわかっている。稚拙だが、なぜか暁人にはてきめんに効くのだ。

けれど、嘘を暴く気にもなれなかった。どうせ暁人は信じないのだから。

黙り込んだ和葉を見て、暁人はますます罪悪感を募らせたらしい。それからの日々、彼はあの手この手で和葉の機嫌を取ろうとした。

限定モデルのバッグ、ハイジュエリー、オーダーメイドのドレス……ウォークインクローゼットは贈り物で埋め尽くされた。

そしてついには、気晴らしに豪華客船で開催されるオークションへ行こうと言い出した。

ところが和葉が車のドアを開けると、後部座席には舞来が座っていて、にっこりと甘い笑みを向けてきた。

「妊婦にも息抜きは必要だって医者が言うから、連れてきたんだ」

暁人が言い訳するように続けた。

和葉は何も言わず、黙って車に乗り込んだ。

客船内は、まばゆい光に包まれていた。

舞来が暁人の腕に手を絡めて姿を現した瞬間、会場中の視線がふたりに集まった。

「あれが星山社長の新しい愛人?もともとは苦学生だったって話よ……」

「玉の輿じゃない。子どもさえできれば、もう怖いものなしね」

「奥様のほうはお気の毒に。学生時代からずっと付き合って結婚して、星山社長、あんなに溺愛してたのに」

「しょーがないよ。子どもを産めないんだもの。それが何よりの罪ってことよ」

周囲からの陰口は、見えない刃のように和葉へ突き刺さった。それでも顔色ひとつ変えず、人垣の間をすり抜けていった。

オークションが始まると、暁人は和葉の機嫌を取るために来たことなど、すっかり忘れてしまったようだった。

出品物が現れるたびに、舞来が目を輝かせて暁人の袖を引くからだ。

「星山社長、これすごく綺麗……」

「星山社長、この花瓶、すっごく好きです!」

「星山社長、このモネの『睡蓮』、素敵ですね」

舞来が目をつけた宝石や骨董品を、暁人はひとつ残らず、金に糸目をつけず競り落としていった。しまいには、どこまで値が吊り上がろうと絶対に競り落とすと豪語してみせた。

それはオークションの場で示せる、最上級の寵愛だった。

オークションが終わり、暁人は支払いに向かった。

周囲の好奇の目にこれ以上さらされていたくなくて、和葉はひとりデッキへ出た。

海風がひんやりと肌を撫でる。足を止めたとたん、背後から舞来の甘ったるい声がした。

「和葉さーん、ひとりで夜風に当たってるんですか?」

和葉は振り返らなかった。

舞来は隣に並び、得意げに言った。

「さっき星山社長が落札してくれたネックレス、和葉さんが結婚式でつけていたのとまったく同じなんですよ。

私がつけたほうが似合うって、社長が言ってくれたんですけどね」

和葉の指先に、わずかに力がこもった。

舞来はなおも挑発を続ける。

「本当はお礼を言わなきゃいけないんですよね。和葉さんが子どもを産めない体じゃなかったら……」

言い終わらないうちに、海の上を突風が吹き抜けた。

「きゃあっ!」

悲鳴を上げた瞬間、舞来はバランスを崩した。

とっさに和葉の手をつかんだ彼女は、そのまま和葉ごと海へ引きずり込んだ。

冷たい海水が、一瞬にして頭上まで呑み込んでくる。

泳げない和葉の鼻に海水がなだれ込み、息苦しさが全身を襲った。

朦朧とする意識の中で、救助隊員の切迫した声が聞こえた。

「今すぐ動かせるのは一人だけです!こちらの方は少し待てますが、もう一人は急がないと危険です!」

続いて、迷いのかけらもない暁人の声が響いた。

「じゃあ、舞来をお願いします!」

その瞬間、和葉の心は完全に凍りついた。もがくのをやめ、沈んでいく体に身を任せる。

耳の奥まで海水が流れ込んできても、心が砕ける音だけは、かき消せなかった。

……

救助隊がようやく和葉を引き上げたのは、明け方の5時だった。

「大丈夫ですか?聞こえますか!」

軽く頬を叩かれて目を開けると、東の空がうっすらと白み始めていた。

唇は紫色に変わり、体は勝手に震え続けている。それなのに、体の芯まで冷え切っていて、ぬくもりはひとかけらも感じられなかった。

「低体温症です。すぐに病院へ!このままだと、いつショック状態に陥ってもおかしくありません」

和葉はうなずくと、救急車の搬送によって星山傘下の病院へ向かった。

がらんとした廊下を、濡れそぼった体を引きずって歩いていく。すると角を曲がったところで、暁人の声が聞こえてきた。

「医師は全員、舞来の病室へ行ってくれ!今すぐだ!」

その声には、これまで聞いたこともないほどの焦りがにじんでいた。

和葉は壁にもたれ、医師たちが処置室へ駆け込んでいくのを見つめていた。

ほどなくして、担当医が出てきた。

「星山さん、菅沢舞来さんに今のところ命の危険はありません。ただ、高熱と脱水がかなりひどい状態です。妊娠中ですので、使える薬を慎重に選びながら、点滴と冷却で様子を見ています」

「……赤ちゃんは?」

暁人の声が張り詰める。

「現時点では大きな異常はありません。ただ、熱が続いていますので、もうしばらく注意して見ていく必要があります」

暁人が病室へ入ると、舞来は寒気に震えながら目を開けた。

「すみません……寒くて……」

看護師が毛布を掛け直したが、舞来の震えはなかなか収まらなかった。

やがて舞来は、暁人に向かって震える手を伸ばした。

「社長……少しだけ、抱きしめてもらえませんか?」

暁人が息を止める。

「体が冷たくて……あなたの肌に触れて、温めてもらいたいんです……」

舞来は涙を浮かべながら続けた。

「社長が愛してるのは和葉さんだって、わかってます……でも今、社長の子どもを身ごもってるのは私なんです。

和葉さんには知られません……今回だけです。私のためじゃなくてもいい。この子のために……お願いできますか?」

ドアの外に立ったまま、和葉は長い沈黙を聞いていた。

やがて、暁人がかすれた声で言った。

「……っ。全員、出てくれ」

医療スタッフが次々と部屋を出ていく。ドアはきちんと閉まらず、細い隙間が残された。

その隙間から、和葉は見た。ベッドの前に立った暁人が、長い指でシャツのボタンをひとつずつ外していくのを。

ためらいと戦うかのような、ひどくゆっくりとした手つきだった。

ベッドに横たわる舞来は頬を上気させ、目に涙を浮かべている。

シャツを脱ぎ、引き締まった上半身をあらわにした暁人は、ベッドのそばへ歩み寄ると、震える手で舞来の入院着のボタンを外し始めた。

ひとつ、ふたつ……

やがて素肌と素肌が重なり、ふたりの体はきつく抱き合った。

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