LOGIN「分かった、その作戦でいこう」祐介は頷いた。麻祐子はさっそく顔なじみの奥様方に声をかけた。準備が整うと、兄妹は連れだって智美のいるオフィスビルへと向かった。あの拉致事件以来、ボディガードたちは教室の入り口を固めていた。だが、子ども連れの一行を見て客だと判断し、咎めることなく通した。祐介はあっさりと中へ入ることができた。一方、智美は月次の業績レポートに目を通していた。そこへアシスタントが近づいてきた。「社長、奥様方が何人かいらして、直接お話ししたいとおっしゃっています」通常であれば、客の対応はレッスン担当の講師が行う。智美は不思議に思いながら顔を上げた。アシスタントがそっと付け加えた。「……お知り合いとのことです」智美は首を傾けた。羽弥市に来てまだ日が浅く、親しい奥様方などほとんどいない。いったい誰だろう。「じゃあ、通して」しばらくして、誰かがドアをノックした。「どうぞ」ドアが静かに開き、見覚えのある人影が現れた。祐介だった。今日彼が着ているスーツは、智美と入籍したあの日に着ていたのと同じものだった。もちろん、意図的なものだった。彼は智美に、過去を思い出させようとしている。祐介には確信があった。智美がかつて自分と結婚したのは、金だけが目当てではない。彼女も自分に惹かれていた――そう信じていた。祐介は幼い頃から何不自由なく育ち、数え切れないほどの女性に追いかけられてきた。自分の魅力に疑いを持ったことなど、一度もなかった。智美は静かに彼を見つめていた。記憶の中では、自分はずっと祐介を愛し続けていたはずだった。それなのに、どうして彼を目の前にすると、こんなにも強い拒絶感と嫌悪感が込み上げてくるのだろう。悠人に対しては、本能が安心を告げ、信頼が自然と湧き出てくるのに。沈黙が続くのに耐えかね、祐介が口を開いた。「……智美、会いたかった」そう言って、抱きしめようと歩み寄った。智美はさっと身を引いた。まるで見知らぬ相手を見るような目で、静かに彼を見つめた。祐介は面食らった。催眠は成功したと、医師は言っていた。智美は今、自分を愛しているはずなのに。彼は探るように言葉を続けた。「智美、忘れたのか?ずっと一緒にいるって、約束したじゃないか。ちょっとした誤解で別れ
梨沙子が智美の見舞いに訪れた。ベッドの上で呆然としている智美を見て、梨沙子は思わず表情を曇らせた。「智美、本当に心臓が止まるかと思ったわ。岡田さんがすぐに動いてくれたから良かったものの……」智美は彼女をじっと見つめ、唐突に尋ねた。「梨沙子、離婚してから、前の人とよりを戻したいと思ったことはある?」「絶対にないわ」迷いのない即答だった。智美は眉間に指を当て、ゆっくりともみほぐした。「そうよね。離婚まで至ったなら、もう全部壊れてしまったということだもの。意地を張るためだけに、そんな選択はできないわ」記憶の中にいるあの自分が、どうしても本当の自分とは思えなかった。「なんでそんなこと聞くの?もしかして、拉致された件に……前の旦那さんが?」智美には分からなかった。ただ、あの男が自分を攫ったのは、金のためでも恨みのためでもない。ならば、何のために?検査のための入院が一週間続いた後、智美は退院を申し出た。悠人が心配そうに言った。「まだ検査結果が揃っていない。もう少し様子を見よう」智美は頑として譲らなかった。「仕事があるから。その後は定期的に来て診てもらうわ」今すぐ診断が下りるわけでも、治療が始まるわけでもない。このまま病院に閉じこもっていても時間を無駄にするだけで、余計なことまで考え込んでしまう。仕事に没頭して、余計なことを考えないようにしたかった。悠人も折れるしかなかった。「ボディガードを四人増やした。外出するときは必ず付き添わせる」「分かった」智美は断る気にはならなかった。一晩自宅でゆっくり休み、翌日から仕事に戻った。心配性の悠人は、自ら毎日の送り迎えを買って出た。智美は不思議な記憶の断片に悩まされながらも、自分の気持ちに素直になって、悠人の気遣いを受け入れることにした。そうして穏やかな日々が一週間続いた頃、ついに祐介の堪忍袋の緒が切れた。彼は催眠術師に電話を入れた。「催眠は成功したと言ったはずだ。なら今ごろ、智美が俺を一番愛しているはずだろ。俺が羽弥市に来たことはニュースで知っているはずなのに、なぜ会いに来ない?」医師は困惑を隠しきれない声で答えた。「それは……催眠自体は確実に成功しております。最も熟練した精神科医が診たとしても、異常を指摘することは不可能だと断言できます
体は、悠人の温もりを少しも拒んでいなかった。頭のなかの「記憶」では、浮気をしたこの人を激しく拒絶している。完全に矛盾している、と智美は冷静な頭の片隅で思った。ただ、自分の体のことは自分が一番よくわかっている。本能が無防備に彼を受け入れているなら、それはきっと、心の底から深く愛しているという絶対的な証拠だ。沈黙の中で葛藤する智美を、悠人は深い瞳でじっと見つめていた。遠回しな探り合いなど、彼の性には合わない。「智美。今、君の頭のなかで何を考えているか、隠さずに話してくれないか」記憶は、目の前の悠人を疑えと警鐘を鳴らしている。でも、本能はまったく違うことを訴えかけていた。智美は最後に、自分の直感を信じることに賭けた。まっすぐに悠人を見据えて口を開く。「悠人。あなた……浮気したこと、ある?」その唐突な問いに、悠人は一瞬目を丸くした。それから、一切の迷いなくはっきりと首を振った。「ない。誓ってない」「じゃあ、事件に遭う前の私なら、あなたにこんな馬鹿な質問は絶対にしないはずよね?」悠人が真剣な顔でうなずく。「ああ。絶対にしない」その答えを聞いて、智美のなかですべての合点がいった。「……私の記憶、誰かに書き換えられているんだわ」ふとした恐ろしい考えが頭をよぎったのだ。――記憶は、人為的に操作されることがある。今の状況なら、あり得なくはない。悠人は智美を力強く抱き寄せた。腹の底から込み上げてくる犯人への殺意と、彼女を失いかけた不安を無理やり押し殺し、ひどく落ち着いた声で耳元に囁いた。「必ず、腕のいい医者に何とかさせる。俺に任せろ」「うん」智美の体は、悠人の逞しい腕の中に素直にすっぽりと収まった。ほんの少しの戸惑いもなく、まるでそこが自分の本来の居場所であるかのように自然に。やはり、間違っているのは自分の「記憶」のほうなのだ。……「今は岡田家が血眼になって犯人を捜してる。祐介、絶対に軽率に智美の前に姿を現すなよ。事態が落ち着けば、向こうから勝手にお前に会いに来る手はずになってるんだから。催眠の専門家が、彼女の記憶を完璧に書き換えた。今の智美の頭のなかでは、お前たちは深く愛し合っていたのに、ほんのちょっとした意地の張り合いですれ違い、離れ離れになってしまった――そういうドラマチックな筋書
彼らは全員、岡田家が緊急で派遣した精鋭の警備チームだった。「智美様、私の顔に見覚えはございませんか。安井虎雄(やすい とらお)と申します」先頭に立った警備チームの隊長が、安堵の表情で覗き込むように言った。見覚えがあるような気がした。しかし、彼に関わる記憶の糸を引き出そうとすると、頭の芯がずきずきと激しく痛んだ。智美が苦痛に顔をゆがめるのを見て、虎雄は慌てて制止した。「頭を強く打たれているのかもしれません。どうか、今は無理に思い出そうとなさらないでください。もう間もなく悠人様がいらっしゃいます。合流し次第、すぐに病院へ参りましょう」智美は痛む眉間を指で押さえた。脳裏に断片的な映像がフラッシュバックしかけるが、ノイズが走るようにすぐに消え去ってしまう。何も確かなものが掴めない。しばらくして、血相を変えた悠人が部屋へ飛び込んできた。ソファにもたれかかり、青白い顔で苦しそうにしている智美を見つけるなり、彼は一直線に駆け寄り、その細い体をきつく抱きしめた。懐かしく、ひどく安心できる匂いがした。智美の張り詰めていた心が、ふっと解ける。しかし次の瞬間、おぞましいほど不快な記憶の断片が、泥水が湧き上がるように脳裏へ蘇ってきた。――悠人と結婚してまだ一年も経たないうちに、彼が無情にも浮気をした。そんな生々しい記憶だ。目の前で自分を抱きしめているこの男は、こんなにも必死に自分だけを見つめている。それなのに、なぜあの浮気の場面があれほど鮮明に記憶に焼き付いているのか、智美にはまったく理解できなかった。「すぐ病院へ行こう、智美」悠人がかすれた声で心配そうに囁いた。智美は彼とどう向き合えばいいのかわからず、複雑な表情を浮かべたまま、差し出された手を、無意識に拒んでいた。「大丈夫……自分で歩けるから」悠人は、差し出した手を宙に浮かせたまま、微かに固まった。何かがおかしい。直感的にそう感じ取ったのだ。少し遅れて駆けつけた明日香と和也は、智美が無事でいるのを見て、心底ほっとして胸を撫で下ろした。明日香が急いで近づき、智美の冷たい手を取った。「どれほど心配したか……本当によかったわ。すぐに病院でしっかり診てもらいましょうね。お腹の赤ちゃんのことも確認しなきゃ」智美の記憶の中で、明日香はいつも変わらず優しく接してくれていた。だから
羽弥市の上流階級において、拉致事件は決して珍しい話ではない。岡田家の次男の妻であり、おまけに新しい命を宿している智美は、あまりにも狙われやすい、絶好のターゲットだった。悠人は、見えないハンマーで頭を力任せに殴りつけられたような、強烈な目眩と痛みを覚えた。深く息を吸い込んで震えを抑え、羽弥市警の署長に直接電話をかけ、今日あのビル周辺から走り去った不審車両の照会を即座に依頼した。署長も事の重大さを察し、すぐに全力を挙げると応じた。智美の無事が確認できるまで、悠人は家に帰る気になど、到底なれなかった。梨沙子と空也も帰ろうとはせず、その場に残って一緒に知らせを待った。悠人は祈るような気持ちで何度も智美のスマホに電話をかけたが、そのたびに無機質な電源切れのアナウンスが返ってくるだけだった。頭が割れそうに痛かった。智美をこの羽弥市に連れてきたことが、こんな命の危険に直結するとは想像もしていなかった。彼女の身元を大々的に公にした自分の不用意さを、今さらながら骨身に染みて後悔した。やがて、知らせを受けた和也と明日香が血相を変えて駆けつけてきた。廊下の冷たい床にへたり込み、力なくうなだれている悠人の姿を見て、二人とも息を呑み、胸を痛めた。普段は冷徹なまでに冷静沈着で、感情をほとんど表に出さない悠人が、ここまで無惨に打ちのめされている――家族でさえ、見たことのない姿だった。明日香は足早に歩み寄り、震える息子の肩をそっと抱きしめた。「必ず見つかるわ。絶対に大丈夫よ」和也も弟の背中を力強く叩いて励ました。「しっかりしろ。昔、俺が行方不明になったとき、お前は冷静に探し出してくれたじゃないか。今度だって絶対に見つけ出せる」悠人はスマホを強く握りしめたまま、廊下の光の中で顔に深い陰を落とした。「……あいつは、密閉された暗い空間がひどく怖いんだ。もし、どこか狭い場所に閉じ込められていたら……」犯人に直接手を下される前に、智美は閉所恐怖症の発作だけでもひどく苦しんでいるかもしれない。悠人は誰よりも智美の脆さをわかっているからこそ、誰よりも胸がえぐられるように痛んだ。「悠人……」明日香の目から、たまらず涙がこぼれ落ちた。「必ず無事で見つかるわ。信じましょう」……そのころ、羽弥市郊外にひっそりと建つ一軒の古い洋館で。
空也も別ルートで手分けして探したが、結果は同じだった。二人は、青ざめた顔を見合わせた。明らかにおかしい。後を追ってビルに踏み込んできたボディーガードたちも、智美が忽然と姿を消した事実を突きつけられ、一瞬にして頭が真っ白になった。彼らにとって、こんな大ごとになってしまった以上、主人の逆鱗に触れるのは恐ろしかったが、一刻も早く悠人に報告するしかなかった。そのころ悠人は、市内の高級料亭で、重要な取引先の社長たちと会食の席についていた。本来の責任者である和也は面倒な接待をひどく嫌がり、「別にこの案件が流れても、うちが傾くわけじゃないだろう」などと豪語して逃げたのだ。結局、悠人が自らお鉢が回ってきたのだ。アジア太平洋地区を牛耳る数人の経営者たちと和やかに杯を交わしながら、商談は悠人の思惑通り、きわめて順調に進んでいた。このままの勢いで一気に契約を取り付けてしまおうと目論んでいた矢先――内ポケットのスマホが、空気を読まずに震えた。画面を見ると、智美につけているボディーガードからの着信だった。悠人の直感が、警鐘を鳴らした。智美に何かあったのかもしれない。場の空気など構っている場合ではなかった。悠人は迷わず通話ボタンを押した。「……智美に何かあったか?」その低く抑えた声には、隠しきれない焦りが微かに滲んでいた。電話越しのボディーガードの声は、恐怖で震え上がっていた。「悠人様……申し訳ございません。智美様が……行方不明です」その報告を聞いた瞬間、悠人の整った顔から表情が凍りつき、みるみるうちに血の気が引いた。「……何だと?」無意識のうちにスマホを握りしめる手に恐ろしいほどの力が入り、手の甲に青い血管がくっきりと浮き上がった。ボディーガードが、震える声で事の経緯を説明する。それを聞き終えると、悠人は「失礼」とだけ短く同席の経営者たちに告げ、返事も待たずに足早に個室を飛び出した。残された経営者たちは、狐につままれたように顔を見合わせ、戸惑いを隠せなかった。あとは判を押して契約を交わすだけの段階だったというのに、あの冷徹さで知られる岡田社長は、一体どこへ消えたというのか。悠人は怒気をまとって料亭を出た。正面には、すでに察しのいい運転手が車を回して待機していた。後部座席に乗り込みながら、ネクタイを乱暴
智美は、悠人が自分に向けてきた気遣いを思い出した。やっぱり、彼は自分に特別な感情を抱いているんじゃないのか。そう思わないわけがなかった。けれど本人が口にしない以上、こちらから「私のこと好きなんですか」なんて聞くのは気が引ける。ましてや、離婚したばかりでそんな勇気はとても出ない。彼女は話題を変えて言った。「その立地でフロア一括貸しなんて、高くつくんじゃないですか?」大野法律事務所が入っているあのビルは、そう簡単に借りられる場所じゃない。立ち上げたばかりの芸術センターがまさかそこを借りられるなんて、ちょっと信じられなかった。祥衣は笑顔で答えた。「美羽が言うに
智美は頭の中でブンブンと音が響き、めまいが襲ってきた。額から温かい液体が流れ落ちた。手を伸ばして触ると、それは血だった。意識がだんだん遠のき、そのまま気を失ってしまった。祐介は殴ったあとようやく我に返った。智美を見つめる顔は真っ青で、両手が小刻みに震えていた。千尋はようやく解放された。顔は殴られて腫れ上がり、もはや元の面影はなかった。腕の肉もほとんど噛み千切られ、さっき地面に押し付けられていたせいで、腰もひどく痛んだ。祐介がそばに立っているのに、助け起こそうとしないのを見て、千尋は自力で祐介のもとに這い寄り、しがみついてすすり泣いた。その泣き声で祐介はよ
祐介は、智美の冷たい態度に少し胸を痛めた。まさか悠がここまで卑劣な手を使うとは思ってもみなかった。「一番腕のいい医者を呼ぶ。きっとすぐによくなるから」智美は背中だけを見せたまま短く言い放った。「出ていって」それでも祐介は動かず、立ち上がって水を注いだ。「俺がここに残って面倒を見る。もう拗ねるのはやめろ」智美は何も返さなかった。病室の外では千尋が険しい顔で二人の様子を見ていた。彼女はさきほど悠に協力して、蓮の携帯を盗んた。智美を徹底的に潰してくれるはずだった。しかしあの役立たずは失敗した。腹立ちまぎれに悠を挑発したところ、逆上した悠が今度は彼女に牙
和也は彼に尋ねた。「本当に智美さんには言わないのか?」悠人は横目で一瞥し、警告するように言った。「余計なことはするな」和也は少し残念そうに肩をすくめ、ふと思い出したように口を開いた。「そうだ、昨夜美穂とビデオ通話したんだけど、森下千夏(もりした ちなつ)が帰国したって言ってたぞ。君が大桐市にいることも知ってるらしい、絶対会いに来るぞ。あの子、君のことが昔から好きなんだから、気をつけろよ」千夏の名を聞き、悠人は眉をひそめた。千夏の母親と彼の母親は昔からの親友で、両家の付き合いは長い。千夏は幼い頃から何かと彼にまとわりついてきた。しかし悠人はわがままな千夏が好き