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第4話

Author: 霧島柳乃
結婚後、志保子の勧めで、梨央は理玖の住むこの邸宅に移り住んだ。

けれど、彼が梨央の部屋に足を踏み入れたことは、一度もない。

彼女が買ったものには見向きもせず、使うなどもちろんありえなかった。

食器ですら、彼のものと一緒に置くことは許されなかった。

同じ家で三年を過ごしても、梨央はずっと、目に見えない境界線のこちら側に閉じ込められたままだ。

彼の心に踏み込むことなど、ついに一度もできなかった。

その一方で、悠月は三年前にこの家を去ったあとも、変わらず彼の心のいちばん大切な場所にいた。

梨央は無意識のうちに手首の傷を触っていた。

指先が血で滲んでいることに気づいて、ようやく我に返り、逃げるように自分の部屋へ戻る。

ドアに鍵をかけると、そのまま扉にもたれ、力なく床に座り込んで、スマホを開いた。

待ち受けは、三年前に理玖と一緒に撮った写真のままだった。

あの頃は、まだ嫌われていなかった。

肩を並べて写真に収まった彼の目には、たしかにやわらかな笑みが浮かんでいた。

梨央は震える手を伸ばし、画面の中の理玖の顔にそっと指先当てた。

十六で恋を知り、二十六になった今まで。

この十年で、彼女は恋の甘さも苦さも、ひととおり味わい尽くしてきた。

ぽたり、と涙が画面に落ちる。

梨央は声を震わせながら、かすかにつぶやいた。

「理玖……もう、あなたを好きでいるのはやめるわ」

震える指で待ち受けを変え、スマホの中に大切に残していた彼の写真も、ひとつ残らず削除していく。

長く胸の奥に抱え込んできた想いを、無理やり引き剥がすようにして、少しずつ捨てていった。

昼間に雨に打たれたうえに、気持ちも張りつめていたせいで、その夜、梨央は熱を出した。

意識はぼんやりとかすみ、布団にくるまったまま、無意識に「理玖」と呼んでいた。

熱と脱水症状で喉はからからに渇き、身体にも力が入らない。

それでもどうにか起き上がり、解熱剤を飲もうと階下へ向かった。

部屋を出たところで、隣で悠月が使っている部屋から明かりが漏れているのが見えた。

悠月は理玖の首に腕を巻きつけ、しなやかな身体を彼の胸に預けていた。

甘くやわらかな声が、夜気に溶ける。

「理玖、この三年、毎日あなたのことを考えてたわ。

三年前のことがあなたのせいじゃないって、ちゃんとわかってる。

あのとき意地を張って出ていかなければ、私たち、こんなふうに三年も遠回りしなくて済んだよね。

家の中、何もかも、私が出ていったときのまま。

……つまり、あなたも私の帰りを待っていてくれたってこと?

理玖、もう二度と離れないから。

私たち、もう一度やり直さない?」

理玖は黙ったまま、答えなかった。

けれど、胸にもたれかかる悠月を振りほどこうともしない。

悠月は彼を見上げると、不意に背伸びをして、唇を重ねようとした。

梨央はもう見ていられず、弾かれたように顔を背け、その場を離れた。

解熱剤を雑に飲み下し、ぬるま湯を半分以上飲むと、手すりを頼りに階段を上って部屋へ戻ろうとする。

そのとき、途中で理玖の姿が現れた。

「何をしている」

声はひややかだった。

梨央はうつむいたまま立ち止まる。

痩せた身体はいっそう弱々しく見えた。

彼の視線を避けながら、小さく答える。

「喉が渇いて……水を飲みに」

理玖は、かすかに掠れたその声と、頬に差した不自然な赤みに気づいた。

無意識に一歩近づき、彼女の額に触れようと手を伸ばす。

けれど梨央は、弾かれたように半歩身を引き、その手を避けた。

理玖の目つきが、一瞬で沈んだ。

梨央はかすれた声で呟いた。

「……だめ。

手、洗わなきゃいけなくなるから」

理玖は手を下ろし、黙ったまま指先を強く握りしめた。

梨央は低い声で言った。

「もう、二人の邪魔はしないわ」

そう言い残し、足早に部屋へ戻っていく。

その背中を、理玖がずっと見つめていたことに、彼女は気づかなかった。

熱が下がるまで、丸二日かかった。

身体はひどくだるく、階下へ降りる力さえ出ない。

閉ざした扉一枚隔てた向こうからは、階下で悠月と理玖が話したり笑い合ったりする声が、かすかに聞こえてきた。

もともと人気のなかった家に、ようやく温もりが戻ったようだった。

そこに、梨央がいるかいないかなど、誰も気にしない。

彼女は二日続けて部屋を一歩も出なかった。

食事は使用人に頼み、部屋の前まで運んでもらっていた。

熱が下がると、梨央はクローゼットから大きなスーツケースを引き出し、自分の荷物をまとめ始めた。

海外に持っていくものは多くない。

支度はあっという間に終わった。

最後に、クローゼットの奥にしまってあった収納箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開ける。

中に入っていたのは、昔、理玖にもらったプレゼント。

こっそり書いたまま、一度も渡せなかった手紙。

それから――

彼の下着やシャツまで、ひそかにしまってあった。

この数年、人肌が恋しくても理玖に触れてもらえない梨央は、自分を傷つける以外に、彼の私物を盗むように持ち出して、気持ちを落ち着かせるしかなかった。

もちろん、そんなことを彼に知られるわけにはいかなかった。

異常だと思われるのが怖かったからだ。

梨央は深く息を吸い込むと、その箱の中身を全部抱え、階下へ降りていった。

だが下まで来て初めて、その日、理玖が会社へ行っていないことに気づく。

彼はソファに腰かけ、悠月と並んで映画を見ていた。

足音に気づき、悠月が振り返る。

その視線が、梨央の腕に抱えた箱へと止まった。
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