LOGIN夫の村田圭佑(むらた けいすけ)に304回も頭を下げて、ようやく一度だけ時間をもらえた。父を海へ連れて行き、最期のひとときを過ごすための時間を。 海辺で父に寄り添いながら、車椅子に座った父のぬくもりが静かに消えかけていくのを感じていた。 なのに、圭佑は一向に姿を現さなかった。 圭佑の胸に居続ける初恋の人・中島加奈子(なかじま かなこ)のインスタには、彼と一緒に森の中で雲を眺めている写真が投稿されていた。 【都会の喧騒から離れ、二人で過ごす幸せ】 手元を滑らせた私は、その投稿に「いいね」をしてしまった。すぐに圭佑からメッセージが届く。 【もう何度も言ってるだろ?佳奈子に迷惑をかけるなって。これ以上騒ぐなら離婚だからな】 圭佑が「離婚」という言葉を盾に私を脅してきたのは、これで何度目だろうか。 もう、聞き飽きた。 【分かった。離婚しよう】
View More竜也は首を横に振る。「後輩たちの分は別で注文してありますから、まだ届いてないんです」そう言われてしまえば、それ以上断る理由もなかった。私と竜也は研究室の廊下にしゃがみこみ、唐揚げを頬張る。なんだか、学生時代に戻ったような気分だった。研究室は飲食禁止だったのだが、空腹に耐えかねては、こうやって廊下に出て、こっそり色々食べていたものだ。毎回、潤に見つかって怒られていたのだけれど。竜也にも同じような経験があったらしく、大学院生時代の思い出分かち合うことで、妙な一体感が生まれた。私たちは顔を見合わせて笑い、それから次々と懐かしい思い出話を続けた。そんな穏やかな時間を打ち壊したのは、目の前に現れた圭佑の革靴だった。圭佑は保温ジャーを手に持ち、そっと私のほうへ差し出す。「夕食、全然食べてなかっただろ?空腹じゃ、胃が痛むぞ」圭佑はまだ覚えていてくれたようだ。昔は実験が忙しく、食事もまともに取れないことが多かったせいで胃を壊していた時期があった。だから、圭佑と付き合っていた頃は、彼がよくお腹をさすってくれていたのだった。「もう食べたから。それは持って帰って」圭佑が焦ったように言う。「なんでそう俺を突き放すんだよ?やり直すチャンスを、もう一度だけくれないか?」私はただ首を横に振った。竜也が立ち上がり、じろじろと圭佑を見下ろす。「お互い男同士ですし、見栄を張るのはもうやめましょう。都合のいいことを言ってやり直そうとする方は、これまで何人も見てきました。『もう一度チャンスを』とおっしゃいますが、楓さんはこれまでに、もう何度あなたにチャンスを与えてきたんじゃないですか?さっさとここから消えてください。でないと警察を呼びますよ?それに研究室に許可なく入ってくるなんて、データ漏洩でもしたら責任を取れるんですか?」竜也はそう言い、圭佑を牽制した。圭佑なら力ずくで踏み込むこともできただろうけれど、竜也もまた負ける気はないらしい。このまま二人で言い争いを続ければ、どれだけの騒ぎになるか分からない。圭佑は心残りがあるような表情で私を見たが、結局は諦めて立ち去っていった。竜也は両手を広げ、笑いながら言う。「大丈夫。先輩の俺がついていますから。誰にも君を傷つけさせたりなんかしませんよ」それから、私の
「女に化学なんて分かるはずがない!」「この人が学会に発表した論文の数なんて、君が締結した契約の数より多いんだよ」圭佑はそう言いながら背後からやってきて、私の肩に手を置いた。「彼女に分からないことが、君には分かるのか?」投資家は圭佑を見るなり、態度を一変させる。「村田社長……この方は村田社長のお知り合いでしたか」「俺の妻だ」圭佑はそう言い切ると、得意げな表情で私を見てきた。「違います」私がそう答えると、圭佑の笑みが顔に張り付いたまま動かなくなった。圭佑はさらに何か言おうとしたようだったが、彼の手が私の肩から無理やり外される。そこには知らない男がいた。しかし、私に柔らかな笑みを向けている。「君が景山先生の助手ですか?噂は聞いていますよ。はじめまして、宮城竜也(みやぎ たつや)です。君の……先輩にあたるのかな」潤から、今回のこのプロジェクトには、海外の研究所で働いる竜也が加わると聞いていた。「君の実験結果は以前見たことがあって、ずっと会ってみたいなって思っていたんですよ。君がいれば、このプロジェクトは完璧ですね」私は軽く会釈だけすると、圭佑から距離を取り、竜也の隣に立った。「楓、機嫌を直せって。大勢の人が見てるんだぞ」圭佑が私に手を伸ばしてきたが、私はそれを避ける。「やめて。中島さんだって見てるよ?私たち、まだ離婚の手続きが終わっていないとはいえ、こういう振る舞いをするのは違うと思うから。見栄を張るのも大概にして」私が言い終わるや否や、竜也がいきなり拍手をしたので驚いてしまった。「楓さんの言う通りです。もう離婚が決まっているんですよね?じゃあ、男なら潔く静かにしていないと」竜也は海外でも名を馳せる人物で、この場にいる誰もが彼の参加を望んでいる。だから、竜也に対して誰も文句など言えない。一方、圭佑はその場に呆然と立ち尽くしたままだった。加奈子が圭佑を引っ張っても、微動だにしない。その後の食事は、味がしなかった。だが、話し合うべきことは全て話し終えた。皆がそれぞれ帰路に着く頃、圭佑は加奈子を放り出して、私の方へ駆け寄ってきた。しかし、普段の口達者な姿はどこへやら、私の前でずっとうだうだとしている。「これから研究室に戻るのか?送っていくよ」私が首を振ると、すかさず竜也
研究の遅れを取り戻すため、私は必死で勉強し直した。だが幸い、一度学んだことは覚えているもので、勉強はそれほど苦ではなかった。助手としての仕事もそう忙しくはない。講義は潤が担当するので、私は彼と企業の間でやり取りされる雑務をこなすのが主な役目だった。私は村田グループに勤めてはいなかったが、圭佑が家で仕事の電話をしている姿をよく目にしていた。だからか、実際にやってみると、意外とできるもので、自然とこなせるようになっていた。投資家との食事会だって、今さら緊張することもなかった。しかし、まさかこんな場所で圭佑と再会するなんて思いもしていなかった。……圭佑の元を去って、もう2週間になる。裁判までまだ時間があったので、私から圭佑に連絡することも、向こうから連絡が来ることも無かった。圭佑なら私がどこにいるかを調べることくらい簡単だった。だから、彼は今ごろ、加奈子と甘いひとときでも過ごしているのだろうと、私は勝手に思っていた。店に入った時、隣の客の噂話が聞こえてきた。どうやら、彼らの社長が離婚で揉めていて、もう2週間も仕事が手に付かず、外見もかなりやつれているという。「中島さんでさえ慰められなかったらしいよ。それどころか、あの日、彼女を追い出したって」「え?本当に?前は、あんな仲が良かったのに……」「本当だよ。今回の海市への出張も、社長は来る必要なんてなかったのに、どうしてもって言って同行してきたんだから」この時はまだ、その噂話が圭佑のことだとは思いもしなかった。なぜなら、私がいなくなったことで、圭佑が食欲を失い、加奈子まで捨てるなんてありえないことだったから。もし本当だったとしても、おとぎ話より信じられない話だ。中に入ると、席に加奈子が座っていて私は驚いた。椅子に寄りかかっている加奈子は、少し顎を上げて近寄りがたい雰囲気を漂わせている。傍らにいる名前も知らない投資家が、加奈子に媚びへつらいながらお茶を差し出していた。私が部屋に入ってきたのに気づいた加奈子は、その投資家に視線で合図を送る。すると、かなりふくよかな腹部をした投資家は私の横に座り込み、値踏みするように私をじろじろと見てきた。「女が交渉現場に来るなんて……あなたみたいな方が、化学をお分かりに?私たちの要求が何か知っています
「家を出たのか?」まさか圭佑が気づくなんて。予想外のことだった。唯一持ち出したものと言えば、父がくれた結婚祝いだけだったのに。それは木彫りの置物で、いつも玄関に飾っていた。帰宅すると圭佑はいつも、そこに帽子やマフラーを無造作に掛けていた。だから、圭佑の目にはもう、ただの置物としか映っていないと思っていたのだが。「うん」私は淡々と答えた。しかし、電話の向こうからは返事がなかった。それからも、無言のまま随分と時間が経ったので、圭佑が電話を切ってしまったのかと思った時、少し掠れた声が聞こえてきた。「戻ってきたらどうだ?あの時はつい感情的になってしまって……」圭佑には珍しいほど穏やかな、縋るような声だった。数時間前まで、私を自分には釣り合わないと言っていた人間が、こんなことになるとは。「離婚を切り出したのはあなただったよね?じゃあ、望み通りでしょ?それなのに、何を今更躊躇うことがあるの?」「いや……俺と加奈子は、お前が考えているような関係じゃないんだ」圭佑は慌てて言い訳を始めたが、同じ言葉を繰り返すばかりで、何も理由になっていなかった。「圭佑。あなたが何を言いたいのかは、分かってるから。私のことが嫌でも、中島さんと一緒になるのは怖いんでしょ?だって、また裏切られるのは不安だもんね?だからあなたは、ずっと『妻』という名で、私をあなたの元に縛り付けていた。それも、私があなたを無条件で愛していたから。でも圭佑……私はだって人間なの。誰かさんの代わりってわけでもない。もう、愛だのなんだのって都合よく言い訳して、この結婚を守ろうとするのはやめて。仲良し夫婦を装うなんて、そんな茶番に付き合う気はさらさらないから。それに、仮に私が受け入れたとして、中島さんが本当に理解してくれると思う?家にある監視カメラの映像、見返してみるといいわ。中島さんがどれだけ必死か、分かるはずだから。彼女をがっかりさせないであげてね」そう言って、私は圭佑の返事も聞かず、電話を切った。スマホのSIMを抜き、画面を叩き割ってから、ゴミ箱に投げ捨てる。後のことは、あの二人で勝手にやればいい。私とはもう関係のないことなのだから。……スマホも、暮らす街も新しくした。決して、圭佑から逃げたかったわけではない。実は、